Monthly photogenic
写真に対する想い・工夫・情熱を言葉にした“Photogenic“の中から
月間の“Monthly photogenic”を選出しています。
私たちがお客様と一緒に作り上げていく写真についての話は続いていきます・・・

 
2017年3月のフォトジェニックコメント:0hit:50
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「写真で人々を幸せに」

Photo by Soo

ライフスタジオ大宮店では、「ぽぽぽ」「あいあい」というCSR活動をしています。

既存のお客様も大切だが、なかなか写真館に足を運ぶことができずにいる人達も含め、私たちは写真で人々を幸せにしたい…と考え、まずは障がいを持つ子供達(ぽぽぽ)と児童養護施設にいる子供達(あいあい)を対象に、写真でできることをしている。

 

今月「あいあい」にて高校三年生の彼女たち二人に出会った。私の担当したNさん。

メイクが大好きで、メイクルームの鏡台の前で二人でメイクし合う姿は、男である私にとっては、まじまじと見てはいけないもののように感じてしまい、覗くのは気もそぞろ。
びくびくしながら覗いてみると、真剣なまなざしで友だちのメイクをしてあげていた。
そこにいる彼女はまるでメイクアップアーティストのような出立ち。


こっこれは…美しさとの遭遇!!
 

キラキラと輝く彼女の真剣な顔は、美しさそのもの。
この今の瞬間を写真に残してあげることが私の使命となった。
慌ててカメラを取りにいき、そっと1枚だけシャッターを鳴らして消えた。

ああ、きっと彼女は自分を知っている人なんだと思った。

ボブヘアー専門のサロンでカットしてもらったという芸術的なヘアスタイル
丹念になぞられたアイラインとカールカールしたまつ毛
一目惚れして買ったというお出掛け着のブラックドレス
楽しそうにヘアスタイルや衣装の話をする彼女は、ファッションへの興味を超えた熱のようなものを感じてやまなかった。

「自分の素敵なところ」「自分の魅力」そこに自分の意識を向けている人って、自然と輝いてみえてくる。
そういう人を見ると羨ましく思うし、感動すら覚える。

撮影中、メイクルームの鏡台を前に、メイク道具を代わる代わる持ち替えながら、鼻歌まじりで写真を撮られる姿は魅力的で、女優のような、いたって自然な振る舞いをする。
撮影者としてその魅力を写真の力で、目に見える形にしていく、

この写真が 
”彼女のこれからの未来を支える支柱の一本になれば” と思いながら。。。

私が写真を通してできることは、美しい今の瞬間を写真に残してあげること。
多くのことはできないけど、大きな力にはなれるかもしれない。
彼女には、社会に出て数多くの壁にぶち当たっても、一番身近な存在である自分だけは自分の見方であるように、自己を突き動かす原動力の一部になればと心を込めて、ただただ素敵な写真を残してあげたいと強く思う。

それは ”写真で人々を幸せに” という、
私達の使命のようなものだ。

 

来月4月からは渋谷のアパレルショップ店員になり、社会人としてスタートを切るというNさん。
ここで撮影した写真や思い出が、あなたの
「存在の意味を証明するもの」になっていくことを願っております。

2017年2月のフォトジェニックコメント:0hit:42
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楓季と馮煕

Soka Photo
Photo by Suzuki


そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。
 

顧客カードを書いているママの手元を見ていると、姉の名前を「楓季」と書き、そして弟の名前は「孔明」と書いた。珍しい名前だったので、私が「この名前は特別な意味があるんですか?」とママに尋ねてみたところ、三国志に登場してくる人物の名前だということを教えてくれた。弟の「孔明」は「諸葛孔明」から付けてものだった。

理由は「頭を使ってなにかを成し遂げて欲しいからです」というようなニュアンスで答えてくれた。諸葛孔明は、知恵を使っていろいろな戦い方を考え、少人数でたくさんの軍勢に勝利するなど、三国志に関するさまざまな作品でその活躍が描かれている。

姉の「楓季」は、「馮煕(ふうき)」から付けたものだった。その時はどのような人物がわからなかったが、孔明のように三国志という舞台で活躍していたのだろうと感じた。後日、「馮煕」を調べてみると、外交官として国に尽くした忠義にあふれた人物のようだった。

 

子供の名前には、親が願う子供の生き方が深い意味が込められている。

両親は多くの人生の時間を過ごし、子供がこれから経験する学生から社会へと自分の人生を生きていくことを知っている。その時間のなかで、声を上げるぐらいの歓喜も待っているかもしれないし、声も失うぐらいの悲劇も待っているかもしれない。ということも知っている。

我が子にはこれからの人生の旅を三国志の武将のように、現実を突破しながらまっすぐに生きていくことの願いが込められている。

それは両親が人生で重要だと思っている「生き方の美しさ」である。だから「楓季」と「孔明」という子供の名前に私は美しさを感じた。

 

私は、この名前を頭の片隅に置いたまま撮影していたが、ガラスケースから少女を覗き込んだ時に、そこには楓季と馮煕が写り込んでいた。それは私の中で少女の真理である。

真理とは、他者と私の観念の一致である。

簡単に言うと、目の前の人が泣いているとしたら、「悲しんでいる」という観念を持つだろう。だが、本当は嬉しくて涙を流していたら、それは真理にはならない。

しかし、すべてのことを間違わずに真理だと認識することはできない。

私たちができるのは、客観に制限されながらも、真理はこうだ!と決定することで、私の目の前

の霧を晴れさせることはできる。

「楓季」という名前の少女は、ただ少女であるが、少女という範囲ではなく、「楓季」は「馮煕」から生まれたただ一人の少女なのである。

馮煕という一人の少女の真理と出会うように、ファインダーを覗いて、焦点距離のリングを回し、カメラを傾ける。その行為自体が私の客観だ。

そして、ピントのピピッという音と同時に、私の客観と真理が瞬間的に出会いシャッターを切るのだ。

 

そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。

 

この1枚の写真のポイントを整理するとこうだ。

ガラスケースに写り込んだもう一人の少女は、楓季と馮煕を表現している。

それを強調するためにポイントが3つある。

 

1、光に向かう視線

少女の目線は光量が一番大きいところを指している。

写真において最初に目がいくところはハイライトの部分であり、そこに視線を持っていくことで、少女が優先的な存在として配置されている。

露出もハイライトに設定されているため、他の部分との露出比があり、より暗くなりコントラストを生むような結果になっている。

 

2、フレーミングのフレーミング

写真の四角の中に四角を作るという表現方法である。

この効果は、被写体を簡単に注目させるという効果を持っている。

また、四角というバランスがとりやすい構成であるため、同時に安定感を確保している。

 

3、反射したもう一人の少女

シンメトリーのようにガラスに写り込んだ少女は、シンメトリーという効果を持っている。

これも一種のバランスである。また、写りこみは視覚的に写真のおもしろさも同時に与えてくれている。

 

写真にはこのようなポイントがあり、それは私から生まれた客観でもあるし、少女の真理が与えてくれたものである。だから、写真は私の1枚ではなく、私たちの1枚なのではないだろうか。


 
2017年1月のフォトジェニックコメント:0hit:45
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1/140000000000000

Photo by yatsu  cordi by Lisa     [ iris 002 ]

私は写真作家に憧れていました。
初めて観たフランスの写真家は、ロベール・ドアノー。
彼のパリ市庁舎前のキスを見て、
写真の持つドキュメンタリー性に思春期ながら心を奪われたわけです。
キャパやブレッソン。森山大道や東松照明、名前を挙げればきりがありませんが、
写真の対象は違えど、
今私もれっきとしたカメラマンであると自覚したとき、
烏滸がましいですが、彼らと同じ門をくぐったのだ思い込むことにしています。


「写真はどこまでも真実を守るもので、絵画の抽象化とは違った道を進むものである。
単なる写実ではなく、対象をどのように感じ、どのように強く受け入れるかということだ。
そこに何か本当に作者が闘っている姿がなければならない。」

これは、私が愛してやまない木村伊兵衛の言葉です。


「写真はどこまでも真実を守るものだ」という言葉の通り、
写真とは被写体・インテリア・衣装・小物・カメラマンの想像・関係性、
その存在すべてを映し出す鏡のようなものです。
長い時間をかけて作成する絵画とは違い、その判断を瞬時にしなくてはなりません。
写実ではなく、写真であることが、LifeStudioに求められているのだと思います。

では、写実ではなく、写真であることはどういうことなのでしょうか。

ありのままを写すのが写真であることに変わりはありません。しかし、明確に写実と写真は違うのです。
私はそれが「矛盾」という混沌だと思うのです。


不協和音という言葉があります。
2つ以上の音が同時に出されたとき、全体が調和しないで不安定な印象を与える和音のことです。
しかし、この不協和音は使い方次第で非常に美しく響く可能性を持っています。
君の名はで大ヒットしたRADWIMPSのスパークルという曲は、本来コードとして存在しない和音が含まれています。それがまた曲の存在感を際立たせているのです。

本来重ならないはずの音同士が重なることで起こる不協和音が美しい。
そこには大きな矛盾が生じているわけです。

写真も同様です。単に美しいものを写実するだけなら、
私たちカメラマンとは存在理由を見つけることが非常に困難だと思います。
美しくあるものは、逆立ちしても美しいのです。

写真とは、写実から自由になろうとして生まれたのかもしれません。


物事には始まりと終わりがあるように、私たちの世界も始まりと終わりが存在します。
私が思うに、
夫婦とは、ひとりの人間の、ひとつの世界の始まりを作ることが許された、自然界で最もシンプルな形式だと思っています。
約75億の人の中から出逢い、約1/140000000000000(1400兆分の1)の確率を乗り越えて育まれる命というものは、
希望・期待・夢といったポジティブな面だけではなく、不安・恐怖・というネガティブな面も抱えています。


母になること。
父になること。
目の前にある命をすべて受け止めていくこと。


撮影の際、ご夫婦がふたりぼっちになることを決めました。
私はカーテンの向こうに隠れて、ただ、ふたりぼっちになる。
初めての出産、撮影という緊張の中で、1番傍らにいて欲しい人が目の前にいる。
その人のお腹には、新しい命があって。
ひとりからふたりに。ふたりからさんにんに。
緊張の中にある安堵。
現実と幻想の境目になるように、レースのカーテンの隙間から、
そんなふたりぼっちの世界を覗くように撮影しました。

被写体が受ける光は全て自然光を使いました。
草加店特有の逆光です。
被写体が受ける100%の逆光は、想像以上に草加店のテーマである「神秘的」 にふさわしい表現をしてくれます。
前ボケに使ったこのレースのカーテンは、幻想的な空間と現実的な空間を分離するためにあえて順光を当てています。順光が出す光線と被写体とには距離があるため、被写体が受ける順光の影響は最小限にしています。
また、縦写真は安定感をもたらしやすい一方で、横写真は安定感を得ることが難しいのが特徴的です。
しかし、不協和音と同様に、横写真は使い方によって縦以上に安定感をもたらすことができる写真になります。

ー 美しさという想像を、創造する。 ー

ライフスタジオがいつまでもそういう空間であってほしいと願います。



生まれてくるお腹の子へ。生まれを待つ父と母へ。

HAPPINESS TO YOU.
2016年12月のフォトジェニックコメント:0hit:82
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『始まるのはいつだって人の意志から。』

Tokorozawa Photo
Photo by Satsuki Kudo
Coordinate by Lisa Arai
 

私は時々、写真を撮っていると思うことがあります。
人が心を動かされる写真とは何なのかを。
人は何を見て、何を感じ、心が動くのかと。
 
それは形の美しさや趣向の凝り方なのか。
それとも、それら物理的・技術的なものの一切を超えた感覚的に訴えかけることができる目に見えない何かなのか。
 
結論から言うと、それはその全てであると言えると思います。
形が美しくなければ、人は共通した美しさを感じることができませんし、
撮りたいものを表現をするためには、趣向を凝らす必要があるかもしれません。
そして、何よりもその写真に感覚的に訴えかける力がなければ、その写真に惹かれるものがないからです。
 

写真を撮ってお客様へ提供するという仕事を6年間も続けていると、
経験的に「ああ、これは良い写真だな。」と思う写真に何回か出会うことがあります。
その「良い写真」とは何かとは、様々な要素があります。
撮っている人が皆違う人なので、その写真によって要素のバランスが異なりますし、
毎回違う被写体の美しさを表現するためには、決して形だけでは測れないものがあります。
 
それは何なのかと漠然と考えていた4年前のこと、私はある文章を読む機会がありました。
かつて、Mr.Leeが書いたカメラマン教育の文章で『2012年撮影者変化発展プログラム』というものがありました。
ライフスタジオの写真とは何か、ライフスタジオの撮影者とは何なのかを知りたかった私は、この文章を読んですっきりとした答えを持つことができました。
 
その中にこんな文があります。
 
"一般人を対象にするスタジオでは撮影者を上手な人と下手な人、
または、有能な人と普通の人程度の2つの段階で区分している。
ならば、それ自体を決定する基準は何なのか?いろいろな基準があるだろうが、
「自分が自ら条件を作ること」と「あるがままの条件から探すこと」では、勝負が分かれると考える。
 
[自分が新しい条件を作ること]は
自分の意志が積極的に介入されているということから価値が発生する。
ある条件だけで探すことは、ほとんどがコピーと同じであるが、
[自分が新しい条件を作ること]は創造であり、無限の可能性を含んでいる。

私達は人を対象にしている。
人は、自分がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持っているのか書かれた本を持って歩いているわけではない。
短い時間の中でその人に対する情報取得と共に分析が同時になされなければならない。
そして、同意を得る過程がなければならない。
あたかも精神科治療のために催眠療法を使用し、その人の内面にあるものを表に出していくことと同じだ。
より多くの情報と正確な判断をすればするほど、私達が写真で表現できる可能性は高くなるようになっている。
人間は普遍性と特殊性とを同時に持っている。人間が持っている普遍的価値は誰にでもあるが、一人一人違う。
このような普遍性と特殊性の結合が、その人が存在している美しさであり、私達はそれを表現する義務がある。
被写体が持っているものを捕らえ、外に表現することが条件を作ることであり、散らばった状況に魂を与えることは、
発する言葉やポーズのような撮影者の技術である。
人に集中するということは、実践を基盤にしている。
これは、単純に撮影過程で起きている人間関係に限ったことではない。
私達が息をし生きているすべての部分に、いつでも同じ基準と行動が適用されなければならず、撮影過程ではより真正性が含まれた実践を必要とする。

人間を顧客として対象化しないこと。
慣れないために常に自分を新しい条件に追いやること。
人間と社会に対する勉強を面倒くさいと思わないこと。
原則と目的を失わないこと。"

 

一般的な商業写真という括りに苦しめられてきた私にとって、この文章は衝撃的でした。
それと同時にとても気持ちが楽になったのを覚えています。
 
私が知っている商業写真とは、自分の意志とは別に
「wedding写真では、この場所で、このポーズで、この光で、キスシーンと指輪のシーンは必須で撮らなければならない。」、
「baby写真とは、おむつ写真がなければ、笑顔のクローズアップ写真がなければいけない」と言ったような、
weddingとはこういうものだ、babyとはこういう存在だというような固定概念を押し付けられているようでした。
 
それがこの文章では、ライフスタジオの写真に重要なのは、「人」であり、
その「人」を見て、接し、深く入り込み、その中で撮影者自身の「意志」を以て、
写真を撮ることでその写真に価値が発生するとあります。
その「意志」があるから、写したいものをその人の「意志」を以て表現する。
その「意志」があるから、インテリアやライトボックスや他者に制限されず、
自らの「意志」を以て外にあるものの条件を変化させることができる。
他者も同じ人だから、自分の「意志」に自然に不快な思いをさせず同意を得てもらうために、「人」に深く入り、
その唯一無二の関係性を以てさらなる自由を得ること。
それがライフスタジオの原則と目的であること。
それがライフスタジオの写真の価値であること。
 
原則と目的のもと、自ら「意志」を持つということは矛盾しているように見えるし、
文面から見ると不自由そうに見えるかもしれません。
しかし、私たちは自ら始まる「意志」を尊重すると同時に、
他者の「意志」を尊重せずに本当の意味で「自由」になることができません。
全ての存在を排除せず、否定せず、自らを変化させ、
外側を変化させる能力を持つ人が本当に「自由」な人であると思います。
そうすることで自分の「意志」を無理やりではなく自然に人生に、写真に反映することができるのではないかと思うのです。
 
そう。
「良い写真」とは、撮影者の意志が無理やりではなくごくごく自然に反映されていることが基準の一つではないかと私は考えました。
volvoさんが以前、「良い写真とはそつのないこと」だと定義しました。
また「その一枚専用に写真が作られていること」だとも言いました。
「そつがない」とは「不自然さがないこと」、「その一枚専用に作る」とは「自らの意志で条件を変化させていること」を意味します。
 
そのためには、技術的な部分の練習も必要だし、深く考え自ら結論を出す感性的な部分の学習も必要です。
自分の意志を表現するには、技術的な手数と知識、そして自分の意志が何かを知るための哲学がなによりも重要です。

そうして人の「意志」のもと、人の「手」、人の「考え」が入り創られたものには魂が宿ります。
それが人が自らの「意志」から写真という形から創り出した価値であり、
そこから滲む人の「意志」が形を超えた価値になるのではないかと思います。
意志とは形を作る原動力であり、そこから作られた形から人は作り手の意志を感じる。
そうやって人と人は、目に見えるものを超えて、価値を認め合い繋がっていくのかもしれません。

この原則と目的のもと、ライフスタジオの骨組みから教育までがすべて写真につながり、人生につながります。
 

この写真を撮るときに、考えていたのは「特徴的であろう」ということでした。
それは私自身の「意志」でもありましたが、被写体自身の存在感の「特殊性」を強く感じました。
この子は8歳で写真を撮られるのが好きな、いわゆる上手な子です。
しかし、それだけではなく話すだけではわからない、眼差しや表情、醸し出す雰囲気に
この8歳の男の子から人としての深さを感じました。
この子の存在をただ認識するだけでは、きっと私の最大限の得意分野で撮っていたことでしょう。
しかし、ライフスタジオの原則と目的は「被写体の美しさ」や「被写体の唯一性」を、
自らの意志を以て最大限表現するということです。
よって、私はここで表現するのはこの被写体の特に際立った存在感であると考え、
いつもは使わない洗面所の1mほどしかない隙間の、誰も注目されていなかった美しい光で撮ろうと思いました。
 
狭く、光も美しいとはいえシビアな場所は非常に「特殊的」であり「特徴的」です。
この光で撮るということは、いつもと違う撮り方になるのでいつもと違う美しさの写真を撮るということです。
それゆえ、私がこれまで撮ってきた得意のふんわり明るい写真ではなく、
敢えて顔に影を作り光と表情を強調するという表現をしました。
光を当てる範囲に気を付け、鼻筋まで光がいかないよう、
かつこの被写体を際立たせるために睫毛にはきれいに光が当たるように、
後ろ斜めから入る自然光の角度に気を付け、さらに光と影を強調するための前ぼかしをいれました。
そして被写体の立ち位置を設定し、声をかけます。
 
光と画角、ポージング、そして表情がすべてマッチしたその時に、その子の深さに触れたような瞬間でした。
1シーンを撮っていく中で、笑顔も節目がちな表情もお手の物の彼ですが、
くるくると表情を変えていく中でまっすぐにこちらを見る目にハッとさせられたのが、
この被写体の特殊的な雰囲気だったと感じました。
この表情をこの子らしく特徴的に撮るために、こちらもその被写体らしさを撮りたい意志を持ち、
敢えていつもとは違う特徴的な撮影の仕方を執ること。
それを毎日繰り返し行うことが、写真だけではなく、人との接し方、
広く見れば人生を生きる姿勢につながるのだと、写真を撮っていると感じます。
 

日々何か価値を生むということは、面倒くさいし、疲れるし、簡単なことではありません。
しかし、価値とはそれにも勝る楽しさや喜び、嬉しさがあるのだと感じます。
それはいつも、誰かから刺激を与えてもらったときだけ変化するのではなく、いつだって自らの意志から始まるものです。
 
哲学エッセイを勉強していると、矛盾の話が出てきます。
物事や事物における矛盾とは、変化するか変化しないか両方の面を持っており、
変化するにはそのもののなかに変化に向かう要素が必要なのだとあります。
人に置き換えるとその要素とは「意志」なのではないかと思います。
「意志」がなければ、いくら外側から知識や技術を教えても、話をしてもその人のアンテナが作動せず、
外的要因は内へは入りません。
だから、変化をさせるのは外側の要因ではなく、自分自身が「意志」を持ち、
その「意志」にまっすぐに自由に生きているかどうかになります。
 
写真を撮るということは、自分の内面に正直であることです。
いつだったか、ミンさんにどうすれば自分の写真を撮れるようになるのかお話を聞いたことがあります。
それはいたってシンプルな答えでした。
「簡単ですよ。
自分が撮りたいと思った瞬間に、自分が心惹かれた瞬間に、ただシャッターを切ればいいんです。」
その言葉には、シンプルですがライフスタジオの原則が力強く滲んでいました。
そのシンプルな言葉を実践するには、日々自らの条件を変え、常に強い意志を持つことが必要となります。
だけどそのことを楽しめれば人はいつだって自由になれる。
 
それを始めるのはいつだって人の意志から。
2016年11月のフォトジェニックコメント:0hit:132
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「a beautiful woman」

photo by Soo

出産予定日も間近、
わが妻のマタニティフォトを撮影したのです。

これまでマトモに妻を撮影することがなく、今回はじめて今の妻の姿を美しく残そうと、真剣にカメラを向けました。

今にも裂けて飛び出してきそうなくらいに、真っ直ぐ、突き出たお腹。

その中に生命が宿っているというのは不思議でならない。

広瀬香美の「promise」が好きなようで、曲をかけるとノリノリに手足をばたつかせたり、

ときどきするシャックリを手のひらに感じるときには、本当にこのお腹の中に赤ちゃんがいるんだ…といまだに思う日々なのです。

 


まもなく母になる彼女もこれまでの10ヶ月間をさまざまな気持ちで過ごしてきました。

ずっと憧れていた母になること。

胎動を感じる喜びや、赤ちゃんを向かい入れる準備のあれこれ。
幸せを感じる瞬間がたくさんありました。

しかし時には、ふとした拍子に悲しくなってしまう気持ちが出てきたり、不思議な感覚を感じていたようです。
父親になる私にできることは、心配をすることくらい。
それさえマトモにできず、鈍感で妻の気持ちの変化に気づいてあげられない私に幾度も苛立ちと悲しみの感情を行き来したかと思います。

スタジオにいらっしゃるお客様は、ほとんどが妊娠と出産を体験した方々です。
心強い先輩のお話をお伺いさせていただく度に、夫のサポートが大切だということと、そのサポート次第でその後の夫婦関係に大きく関わることを学びました。

だから、これまでの感謝の気持ちをこの撮影に込めた。。笑

シャッターを切りながら、まるで妻を撮っているとは思えない感覚におそわれ、ただただ彼女の美しさに惹きこまれるばかり。

そこには妻としてでも、母としてでもない、ひとりの美しき女性が目の前に立っていたのでした。

そのとき気付かされたのです。
マタニティフォトは産まれてくる子どものために残すのではなく、ここまで自分の身体の大きな変化を目の前にしながら、お腹の子を育ててくれた妻のために残すのだということに気づいたのです。


あともうひとつ、
生命を宿した女性というのは
"美しい"ということ。
 
2016年10月のフォトジェニックコメント:0hit:69
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『Look at...』
 

life studio KOSHIGAYA

 

photo by volvo

codi by takako

 

写真の構成要素で一番大事にしている事を考えるとき、どうしても写真に「統一感」があるかどうかという点から
私の考えは逃れることができません。
毎度同じことを書いているかもしれませんが私にとって統一感というのはそれくらい大事で
むしろ統一感が成されていればそれだけでいいとも思うくらいに重要視しています。


統一感を出すにあたりこの一枚が何か特別なことをしたわけではなく
75枚全てに統一感が出るよう意識して撮影はしていますが
特に集中して表現がされた写真というのはこのように紹介したくなるもののようです。


テーマは「今の彼女の最も美しい部分に集中する」というものです。当たり前の言葉ですが笑。
カメラマンは写真を撮るにあたりシャッター越しに見る被写体を見て、どのように写すかを
規定をしなければならないと思っています。
彼女を撮影するにあたり私の中で規定したことは二つです。

1:「被写体の美しさは何なのか」
2:「それを写真として表現する手段は何が適切か」
 

彼女は16歳。
書いてみてびっくりしたが今の私のちょうど半分の年齢です。
まあいつもは年齢の30分の1くらいの子供たちを撮っているのがほとんどなのですが・・・。

彼女は中学生から高校生へと階段を上がり始めたばかりです。
人生の変化が最も大きいこの時期に撮影にきてくれたという事の意味は理解せずとも感じるものがあり
小学6年の妹と2人姉妹を持つおおらかなお母さんからの要望もまさに
「中学から高校へ進級した」という変化の記憶を残したいというものでした。

春まで着ていた中学校の制服は膝を余裕で覆うほどの長さのスカートと明るめの紺色のブレザー。
その姿は中学校に入学したばかりかと思わせるほど幼く見えるものでした。

対して高校の制服は急にスカートの丈が20センチくらい短くなり
どう見ても「女子高生」といった風貌へと変化をとげていました。

いでたちは大きく変わり、写真として変化を残すには正直十分な材料が揃っていました。

しかし私の中ではただ衣装だけが変化した彼女を撮ることに何だか物足りなさを感じる
部分があり、話をしてみたり、色んなポーズや表情、輪郭を確認してより観察をするようになりました。

その中で私は彼女を規定する核心的な部分は制服ではなく、彼女の「目」なのではないかと思い始めました。
思い返せば気になっていたのは「こんにちは」と声をかけた瞬間に私と顔を合わせすぐにそらした目。

その目は「照れ」と「素直さ」が混ざったようなとても綺麗な瞳でした。

 

望みである「変化の記憶」をただ制服の変化を残すだけでは現象に過ぎず
特徴のある「目」が訴えてくる様々な感情にフォーカスを当てたいと私の中で決定するようになり
そんな時、何か表現のきっかけがないかと探していたところお母さんが考えてきてくれた提案は
「化粧をする」事でした。
 

化粧しながら変わっていくその目には、高校生へと進級し大人へと進んでいく変化と
彼女が本来持っている「素直さ」を秘めた変わらない瞳が混ざり合っていくような感覚を覚えました。

化粧が終わった後のその「目」を見た瞬間規定し
目だけにフォーカスを当てられる方法を考え
統一感を持って女性らしく表現する事を選択しました。
 

繰り返し説明するようですが、統一感とは写っている全ての構成要素が
「その一枚専用」になっている事を意味しています。
「その一枚専用」にするためにはフォーカスを当てている「目」
女性として美しく表現する「ポーズ」、そして光とインテリアとの調和が必要です。

それらを具体的にあげてみるならば
 

「目」にフォーカスを当てるという事において集中したことは

1:窓の反射によって「目」意外がぼやかされ、彼女のまつげが化粧によって巻かれている感じを強調している点

2:「目とまつげ」の両方が強調される視線の角度を斜め上と規定すること

 

女性らしく表現するという事において集中したことは

1:彼女の左手が顔に少しかかって目以外の部分の気をそらす作用をしている事

2:窓の反射が強めに出ている事で右肩や後頭部の部分が見えにくくなっている事

 

インテリアとの調和という事において集中しているのは

1:右端に配置されている窓の格子が重心の均等化と引き締め効果を担っている事

2:真ん中の格子は彼女を物陰に隠れさせ、まるでクリスマスに相手を待つ彼女をショーウインドウ越しに目にしたようなイメージを持たせる事

 

重要なのは「光」と「右端の窓の格子」です。

「光」は撮影をするにあたり一番最初に見なければいけない構成要素のひとつです。
一般的に「光」といえば<被写体に対して>という前置詞が付くことが多いですが
光とは写真の全ての構成要素に関係があり被写体にあたるいわゆるメインライトだけではなく
色んな副次的な関連がされています。

例えば窓の反射をこの写真のように彼女の目だけにフォーカスが当たるよう
表現するためには、そうなる為の「光」の調節が必要です。
背中の部分が反射でほとんど見えなくなるようにすることも同様です。

もちろん彼女自身にも光が当たるように左を向いてもらいメインライトも確保しつつ
ちょうどいい場所を探し出します。
これを3秒くらいで判断します。やってはいけないのは時間を掛けすぎることです。
主役は光ではなく彼女であることを忘れてはいけません。


次に「右端の窓の格子」ですが、これは「重心のバランス」を取る役割をしています。
写真の重心とは写っているものの質量のバランスの事を言います。
写真の左側にばかりものが写っていれば重心は左に寄っているということになりますが
この写真では被写体が左にいることから重心が左に寄りがちなところを右端に格子を入れる事で
左右の均等を図っています。

もしも右端の格子が無かったら、私はこの写真を選択しなかったかもしれません。

 

被写体の美しさを表現するということと、写真に写る全ての構成要素が連結し全てが意味のある状態になる事が「その一枚専用」になる事

であり、それが私たちがスタジオで「人を撮る」という事の核心ではないかと考えています。

 

撮影後、隣の中学に0−8で負けるようなサッカー部に入っていたくせに自分はプロよりうまいと思っていた自分の16歳のころを思い出し「自分はあの頃何も考えていなかったな」と撮影に来てくれた彼女のしっかりした言葉使い聞きながら考えてしまいました。

家に帰り、自分が高校生の頃の写真を探してみましたが、友達とふざけているプリクラしか出てきませんでした。

写真を撮るというのは重要な事ですね。

2016年9月のフォトジェニックコメント:0hit:81
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生きていることを見つめる眼差し。

Tokorozawa Photo
Photographer: Kudo
Coordinater: HIRO

Tomorrow is Another Day. 

この日はとても暑く日差しの強い日。
インターフォンの音を聞いて玄関を開けたら、両親に手をつながれて夏の名残のある日に焼けた女の子が、
その年齢にしては少し大人びた落ち着いた笑顔で入ってきた。
最初は3歳かと思ったら、2歳だった。
そのくらい大人びた表情のその子は、接してみるとやはり2歳らしい自我の芽生えと好奇心。
お洋服には好みがあり、帽子を被るときと被らない時が気まぐれである。
そして私たち大人の行動がとても気になるようで、その綺麗な瞳はよく私たちを見つめていた。
しかし醸し出されるどこか落ち着いた雰囲気は、きっとその子が他者を見つめる眼差しにあるのだろう。
その眼差しは、とても優しく、人が好きであるという愛に満ちていた。
きっとご両親がその子に向けている眼差しが、その子に表れ、その家族の愛情の温かさを感じ、その愛情の中で世界を知っていくという過程であることが伺える。
日々広がっていく世界の中で、生きているということを驚きと喜びで満たしていっている。
そんな感じがした。

「生きている」ということは、私たちには当たり前のことであるけれど、それはとても「特別」なことです。
なぜなら、「人」の人生には同じものがただひとつもないからだし、
同じ人生を生きることができないということは、とても「特殊的」だから、その人が「生きている」ということ自体が「特別」であるからです。

2歳のその子が教えてくれることは、その「生きているということを見つめる眼差し」だったと感じます。
日常を通り過ぎていく日々の積み重ねが「人生」であるから、その日、その時、その瞬間が特別であるということが「生きていること」自体に向けた眼差し。
繰り返されるよう見える日々を繰り返すように生きていることが、「生きている」と言えるのかということ。
物事はすべて変化をし、その瞬間の中に芽吹く何かがあり、その中で私たちは生きているということ。
生きているということをそのように見つめるという眼差しに、力強い生命力を感じます。

早いもので、私がスタジオで撮影するようになって4年が過ぎて、あと少しで5年経とうとしています。
その年数が長いか短いかでいえば、世間的にはきっとまだまだ短くのでしょうが、
毎日のように撮影をさせていただいているライフスタジオにおいては、5年も撮影をしていればもう立派なベテランです。
撮影が日常的になった今の生活になって、撮影がルーティーン化するのが当然のように思えますが、今なお飽きもせず撮影のたびに新鮮な気持ちで入らせていただけているのは、
このスタジオにある「人」という存在へ向けた思いのようなもののおかげなのでしょう。
ライフスタジオでは、「人」という言葉がよく出てきます。
ひとえに「人」といっても、当たり前のことなので、そんなに大きな感動を覚えるほどのものではないのかもしれません。
しかし、撮影に慣れてくればくるほど、撮影が日常化すればするほど、仕事自体がルーティーン化してしまいがちで、撮影がパターン化してしまいます。
「人」をパターンにはめるということは、目の前のその「人」自身を知ることをやめ、ひとりひとり違うその「人」を見ても同じように見えてきてしまいます。
それは「人」を見ているとは私には思えません。

私がフォトジェニックで何回もしつこいくらい書いているように、
「人」という存在は唯一無二であり、誰一人として同じ「人」がいないから、「自」と「他」があり、だからこそ私もあなたも同じように「生きている」ということを知ることができます。
この「独自性」と「同一性」という矛盾しているように思える概念が表裏一体のように存在しているのが「人」であり、
目の前にいる「被写体」を見つめる眼差しも、この2つの概念があるからその被写体だけのたった一つの写真を生むことができ、かつ共通する人間的な感覚で感動を引き起こすことができます。

そういった「人」の概念を以て、私が写真を撮るときに見つめていることは、その被写体が「生きている」ということです。
いつも私が写真を撮るときに考えるのは、被写体のどの瞬間に「生」が宿り、どう写したら「生きている」ということを表現できるのかということです。

今回、私がこの写真を撮るにあたって実践した方法は2つです。

まず一つ目は、被写体をよく「観察」することです。
「観察」すると言っても、ただ何もせずにじっと被写体を見ることではありません。
話しかけて、投げかけて、その被写体が何にどのような反応を見せるのか。
単純なものだと、何が好きで何が嫌いかもそうかもしれませんし、
何を見たら目を輝かせて、何を聞いたら動くのか。
そのときの癖や特徴は何か。
その子を表す外的な特徴は、どんな動きでどんな仕草か。
撮影が始まるわずかな時間でできるだけ観察し、情報を集めます。
それは撮影が始まっても同じです。
撮影中に、投げかけたものへどのような化学反応が起こるかどうかは始まってみないとわからないこともあります。
その時も「観察」するというアンテナがあれば、その瞬間を捉える眼差しを持つことができます。

二つ目は、生きているその瞬間を作り出すことです。
その生きている瞬間が出る状況を、どの撮影でも作り出すことがプロとして私たちに求められていることです。
観察をしている中で、気まぐれで帽子を外したり、シャボン玉への興奮した反応があったり、小悪魔的な笑顔があったり。
その子らしさを引き出し、そこを捉えるポイントを把握すること。
そのことで、突発的ではなく意図的にその瞬間を作りかつ写真のフレーミングや光を落ち着いて作ることができます。
つまり、意図的に「生きている」瞬間を作り出すことができます。

その二つの方法を実践して撮影したこの写真では、この被写体の生命力を表現したいと思いました。
この被写体の最大の特徴は表情です。
特に眼の表情が豊かで、興味のあるものがあると眼がきらきらと輝きます。
この瞬間は、シャボン玉を吹いたと同時に帽子を取りました。
きらきらした表情と、帽子を取ったときに乱れたさらさらの髪の毛がこの写真に動きと風を吹かせてくれました。

その決定的な生きていることが滲み出している瞬間を、どのように切り取るかが写真において一番重要です。
この写真は、目線の先の上部半分の空間を空け、外を抜ける緑をぼかし光るように写すことによって、吹き抜けるような空間を作ろうと思いました。
その結果、まるで外で風を受けているような写真になりました。
また、左端の本棚を写したのは空間に少しフレーム的な要素を加えることにより、写真を収まりを良くするためです。
その左端があるかないかで、ぼやけた雰囲気を引き締めることができます。

光は、外から入る残暑の強い自然光。
コントラストをやや強め、かつ柔らかい印象を残すことで、髪の毛が透ける様子とこの子の持つ力強く優しい生命力を表したいと思いました。

このような要素を組み合わせることで、このとき、ここにいた、この被写体自身が「生きている」ということを表現した写真を撮ることができました。
この子が持つ独自の生命力と、それを写真に表現するために整えるべき条件。
それを撮影の中で毎回行うには、撮影をルーティン化し、パターンにはめることができないのだと私は思います。
なぜならば、私たちが写そうとするものは、その被写体の「人生」の一部であり、それを写そうとするには被写体が「生きているということを見つめる眼差し」が必要だからです。
そのことは毎回変化することを求められ、人へ向けても写真に対しても向上していくことが求められるからです。

上機嫌で撮影を終え、モニターで昼寝をし、帰り際に少し不機嫌な彼女を見ていると、
あれだけ観察し写真に捉えた彼女のことをまだまだ全部知らないような気がして、私はまた彼女に会いたくなるのです。。。
2016年8月のフォトジェニックコメント:0hit:136
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Photo by suzuki(鈴木裕之)

HPにこのような文章があります。

Life Studio はなによりも関係を大事に考えます。
スタジオを作り出すたくさんの要素の中でも最も大事なものを選べといわれたら “被写体を動かす力” だと考えます。

 

被写体を動かす力とはなんだろうか?
 

とても抽象的な言葉のため、単純に「被写体に自然なポーズ」を指示することが「被写体を動かす力」ということができるでしょう。
そのように思う理由は、ライフスタジオは「自然・自由」というイメージを与える写真が特徴的だからです。
このようなイメージは日本の写真館にはありませんでした。
写真館の写真は歴史が説明してくれます。

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写真館の写真を辿っていくと、自分の姿を絵で再現する肖像画がモデルになっています。

カメラが登場すると肖像画が肖像写真に移行していき、リアリティであることが大きく異なっているだけで、肖像画と肖像写真の構成要素は大きく差がありませんでした。

その理由は、カメラの技術的な制限に要因があります。

カメラの技術がまだまだ発展途上だったため、被写体が10秒間動いてはいけない制限があったからです。被写体が動かないように頭を固定する器具も必要だったようです。

そして、撮影するまでにたくさんの機材とたくさんの光が必要でした。

現在のように、数えるだけの準備で簡単に写真は撮れる時代ではなかったのです。

写真館は技術者の実験室のような空間になってしまい、撮影者は「ただ撮るもの」として存在しており、被写体は「ただ撮られるもの」として存在しているだけの、ただ要求を出すものと受けるものの関係になっていました。

だから、被写体に特別な表情や動きがなく被写体が単なる物として、真ん中に写っていることが多いのです。

こうして写真館の写真はカメラの技術が発展したことに関係なく「不自然・不自由」というイメージを与える写真が特徴になっていきました。

そのイメージを壊したのがライフスタジオだと言えます。

被写体の体を自然に自由に動かすため、制限を最小限された工夫がされています。

 

①ストロボではなく蛍光灯と自然光を光源にすること。

②どこでも撮影可能なスタジオ空間にすること。

 

この2点により、被写体は既存の写真館から自由になったといえるでしょう。

だから、私たちカメラマンは可能な限り空間を自由にする条件を作り出し、その中で最大限に被写体の美しさを引き出していかなければならないのです。

しかし、ただ「被写体の体が自然に自由に動くこと」だけが「被写体を動かすこと」ではありません。

私たちの写真で被写体の心も動かすことーも含まれているのです。

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被写体の心がどのように動いたら本当に動いたと言えるのでしょうか?

私はこう思います。

承認欲求という言葉があります。

人は誰しも他人に認められたいという欲求を持っています。

それを承認欲求と言います。

アドラー心理学は、その承認欲求に基づいた行動を否定しています。

なぜ、アドラーが承認欲求を否定するのでしょうか?

承認欲求とは、

「人に認めてもらうために良い行いをする」

という考えに基づいているからです。

しかし、この考えでは

「褒めてくれる人がいなければ適切な行動をとらない」

という危険性もはらんでいるのです。

人は本来、他人の期待を満たすためだけに生きているわけではありません。

他人の承認ばかりを優先するような行動は、結果的に自分が本来やるべきこと

に没頭できなる可能性があります。

承認欲求を持つことは悪いことではありません。

人として認められるということは、本当に素晴らしくかけがえないことです。

ですが、まずは自分が自分を認めること、自分が自分を必要とすることーの方向に心が動くことが重要なのだ私は思います。

1枚の写真で「知らなかった私」を発見して心が被写体自身に動いた時が、被写体を動かすことだと言えるのだと思います。

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この1枚の写真は、まるで被写体が映画の主人公のようになるように構成されています。

被写体の日常的な瞬間を切り取った【自然な姿】という特徴の写真というより、被写体が映画の主人公のように演出された【非日常的な姿】という特徴を持っています

そのような意図があったため、構成美という技術で「知らなかった私」を表現することを考えていました。

構成美とは【比率・線と点・材質・色彩・光】という数理的・心理的に美しいとされるイメージをスタジオの空間を利用して被写体と構成することです。

 

【比率】

左右対称と1/3構図という数理的にバランスが良いとされる比率で、写真全体を視覚的に安定させている。

 

【線と点】

写真の中に複雑に線が混じっているが、基準となっているのは縦となる線があるため四角の中にバランスを確保している。左からトタンの線、中心の柱の線、天井からぶら下がっているライトの線が基準となっている。

 

【材質】

インテリアは、古さや懐かしさを感じさせるようなアンティークではなく、近代的を感じさせるようなトタンやライトといったような人工的な材質がほとんどである。そのことにより、都会的な新しさのイメージを作り上げている。

 

【色彩】

モノクロ写真であるため、白と黒の色彩で構成されている。モノクロ写真の特徴は、2つある。一つ目は、複雑な色彩を人為的に単純化できるため、視覚的にシンプルな写真にできることである。シンプルというのは美しさの条件である。二つ目は、光のグラデーションが視覚的にわかりやすく表現されることである。単純に白と黒というわけではなく、階段のように白から黒にかけてのさまざまな色があり、それが光のグラデーションとして認識されるため、美しく見える効果がある。

 

【光】

メインライトは被写体の左に仕込んであるボックスライトである。コントラストをできるだけ被写体の輪郭に当てるようにしており、被写体との距離も近い。バックライトとして被写体の後方にも光源があるため立体的な効果をもたらしている。また、右側にある天井からぶら下がっているライトの光の量が異なっているため、写真が平面的にならずに、遠近感のある空間として演出されている。

 

できれば写真で人の心を動かしたいという渇望はあります。
それは顧客から「かわいいですね」を超えて、1枚の写真で顧客が顧客自身を認められて、その人の人生が動くような写真をいつかは撮ってみたいものです。それが、関係を大事にするということなのかもしれません。

 

2016年7月のフォトジェニックコメント:0hit:215
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「So naturally...」

At Koshigaya No.5
Photo by Kudo / Coordinate by Takako
 
 
空には光。流れる雲と照らす太陽。夜に輝く星と月。
水は流れる。川から流れて海で波打つ。
地には雨と風と光。土は雨を吸い、命を蓄え、木は風を受けて揺れ水を受けて森となる。

 
自然とは、
何かの存在ひとつで自然なのではなく、その周りにあるものすべてが作用し作用され作り出されるもの。
空に太陽も雲も光もなければ不自然だし、水は流れなければ腐ってしまう。土には水分と有機物があるから生き物はそこに生きていけるし、木々は揺れも伸びもせずに止まっていたらまるで作り物みたいだ。
私たち「人」も自然のものだから、必ず周囲のものに作用し作用されながら生きている。
 
「人」は、「自分」と「他者」の「間」で生きている。
お互いがお互いを頼り、協力し、愛し愛されて生きている。
「人」は「人」に作用しながら生きているから、家族や友達、恋人を作るということは私たちにとってはとても自然に見える。
「人」は一人だけでは「孤独」を感じ不自然な状態であり、「一人」だけでは生まれることも生きていくこともできない。
だから、人が在るべき自然な姿とは「人」に作用し作用される姿であると私は考えます。
 
ライフスタジオではいわゆる「自然な写真」というものを撮るために日々撮影者は努力しています。
被写体へ何もせず、何も手も声も加えないで、被写体のそのままの姿を撮ることはどうしてか自然に見えません。
なぜならば、そのままでは「人」はその内面にあるものを何も出すことはできませんし、私たち撮影者という他者が存在しているのにも関わらず、何も作用しようとしないのは、被写体から見てみれば不自然な状況極まりないからです。
 
私はあまり写真館で写真を撮られた経験がなく、記憶に新しいのは20歳の時に成人式の前撮りで地元の昔からある写真館で写真を撮られたことです。
その写真館ではほぼ会話がなく、着付けとヘアメイクを済まされ、いざ撮影になるとカメラマンが煙草を吸いながら無表情な顔で「笑って」と一言言うだけの写真館でした。
当時の私は写真館という場所に行ったことのなかったので、写真館というものはこういうものかと思いましたが、今でも写真を見ると不自然な笑顔に違和感を覚えます。
 
その逆に自分が自然体でいられるときは、誰かに自分のことを話したり、誰かの話を聞いたりして、お互いにお互いの存在を認めリアクションをして、リアクションを見ている時なのだと思います。
それは、新しい職場に行くとよく経験をすることです。
初めは新しい職場の場所や空気感、同僚の雰囲気が新しく、まだお互いを知らない状態なので、自分を出せないと思いますが、その場所と同僚と仕事をしていくうちに慣れて打ち解けて、その場所の特性も同僚の人となりも知り、やがて自分も自然体でいることができると思います。
それは、一緒に仕事をして一緒の時を過ごすことによって、「人」と「人」とが作用し、作用される関係を築いていくから、「人」が自然な姿になることができるのです。
 
ここで私が言いたいことは以下です。
・「人」は内面を安心して出せる状況でないと、「自分」にも「他者」にも違和感を覚えること。
・「他者」が何者かわからないうちは「自分」を出すことができないこと。
・「人」は「人」と作用し作用されることで自然な姿になれること。
・つまり、「人」は「他者」を理解し、「他者」へ何らかのリアクションし、「他者」からリアクションを引き出した時に、お互いに自然な姿になれること。

 
撮影の場において、被写体にとっては、写真を撮るという行為自体が生活に結び付いていないためか違和感の塊であり、私たち初めて会う人は正体不明の不自然な存在に見えるに違いありません。
その認識能力は、年齢が低ければ低いほど敏感であり正直に表面に出て、年齢が高くなればなるほど他者への壁が厚くなり表面に出にくくなります。
ライフスタジオにおいてbaby写真がより自然に見えるというのはそのためです。
赤ちゃんは私たちへのリアクションが正直に出ます。
だから人見知りでなければ家にいる姿と同じであり、人見知りならば赤ちゃん特有の「泣く」というごく自然なリアクションをし、その姿も自然に見えます。
だから、baby写真は比較的こちらから特別な投げかけをしなくても、自然に見える写真は撮ることができます。
 
こちらがなにもせずに存在を消すことで自然な姿を撮ろうというにも限界があり、それは赤ちゃんといえど「人」であるため、撮影者が何もしない不自然な存在である以上はカメラに向ける眼差しには違和感がありますし、なにもしなければ、被写体は家族には自然な表情を出しても、撮影者へ向ける表情には堅さが残るままです。
だから私たちは、声で呼びかけることや何か動きを投げかけることを被写体が赤ちゃんでも止めることはありません。
そうしていくうちに被写体は、時とともに私たちにリアクションをし出し、自分を出していきます。
そうしていくことで被写体と撮影者の間に流れる空気に違和感はなくなり、お互いに自然な姿を出すことができます。
 
撮影の場所にいる誰もが自然な関係を築くための投げかけは、がむしゃらでもなく、パターンにはめるでもなく、しかし何か誰にでも適用可能な方法である必要があります。
私が日々、撮影で行っている方法はbabyでもkidsでも大人の撮影でもよく適用しています。
それは「何かをしてもらう」ということです。
もちろんその被写体によって何が好きか、どういう人となりか、どんな癖があるかは違うので人によって何をしてもらうかのバリエーションは変わりますが、例えば階段を昇ってもらう、高いところにあるものを取ってもらう、椅子を指示したところまで運んでもらう、靴を履いてもらう、髪をかき上げてもらう、など。
年齢やその被写体の人となりによって投げかけは様々ですが、何かを「やってもらう」ことが私からの投げかけとなり、そのことによって引き出された被写体からのリアクションを見ることができますし、被写体自身もリアクションをすることで自らを出すことができます。
 
この写真の被写体はbaby。
こちらの言っていることもなんとなくは察してくれますが、会話というにはまだ程遠いくらい。
よく動き自分の意思もよく表現します。
もちろんそのままでも彼女自身を撮ることはできますが、そのままでは自然な写真は撮れません。
コーディネートをし、場所を指定し、おもちゃを与える。
そういったいつものように簡単な投げかけから入り、どんどん彼女に入っていくうちに、いつものようにもっと彼女にしかない表情と動きを撮りたいと思いました。
もっと彼女自身を撮りたいと思いました。
 
彼女はお兄ちゃんが二人いて、遊ぶおもちゃは男の子が好きなもの。
中でも車がお気に入りで、その車で遊ぶ時が一番リラックスした彼女らしい表情が出ました。
だから車を離さないのは、彼女のアイデンティティの一部を現しています。
さらに彼女のbabyにしては少し落ち着いた雰囲気をどのようにしたら表現できるかを考えました。
それは、着ていた服を半分脱がすこと。
Babyでもkidsでも、なんらかのリアクションをするはずで、その動きに隙間に表れる彼女自身の姿を引き出したいと思い、私はそのように投げかけました。
 
服を半分脱がすと服を再び自分で着ようとし、babyにしては少し大人で成長の早い彼女ならではの姿を見せてくれました。
その姿は、今までのどんな姿よりも自然に見えました。
赤ちゃんらしくこちらでコーディネートして当てはめた姿よりも、私にはこの表情とこの姿がなによりもしっくりきて、とても自然に見えました。
 
その自然さとは、私たちがライフスタジオの撮影空間で絶えず意図的に作り出すものです。
「人」における自然さとは、在るがままの姿のことでありますが、何よりも「人」と「人」とが作用しながら生み出すものであると思います。
風と水の関係性は海の波となり、水と地の関係性は川の流れになり、風と地の関係性は揺れる木々となります。
「人」と「人」との関係性も、お互いが作用することでお互いに自然になり、人は意図的にその自然さを生み出すことのできる生き物です。
その自然さは、原始的なことでありながら、今や忘れそうになっているものでもあるから、「人」としてぎく自然になれる空間が、とても特別で、とても大切だと思うのです。
 
ライフスタジオは、その「特別」で「自然」な「人」として在るべき姿を表せる空間を意図的に作ることが価値だとし、そのことにいつも一生懸命になります。
私たちの言う「自然な美しい写真」とは、自ら関係を作りに向かう姿によって生み出されるものだから、私たちは決して目の前の「人」から目を背けてはいけないといつも思うのです。
2016年6月のフォトジェニックコメント:0hit:141
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SOKA PHOTO

photo by volvo

codi   by Choi Eunpyo

 

 

 

この写真にはテーマがあります。

それは「作り上げていないような空間を作り上げる」です。

 

 

この言葉の意味は、ただ被写体から見て撮影者である私を認識されないようにするという意味ではなく、

私の存在を認めてもらった上であえて認識されないような状況を作る、言葉を変えると関係性という糸を

つなぐ努力をした後に、あえてその糸を切る作業をするという事になります。

 

私がこのいっけん意味の無いような禅問答のような取り組みにいつも集中しているのは「自然な写真」という

お客様からの要求に対して私たちはいつもどのように応えているかに対する結論を出すために行っています。

 

「自然な写真」という言葉は人によって考え方の異なりますが、抽象性の高いこの言葉は毎日のお客様からの要望として耳にします。

 

私たちはそういった要求に対応し、原本を作り上げていきますが、実際に撮影した写真を見ていくと大きく分けて2つのパターンしかない事に気づきます。

ひとつは、被写体である子供たちを自由に解き放ち、それを追いかけて撮影するパターン。

もうひとつは、被写体である子供たちに指示を出して撮影していくパターンです。

 

しかし、言葉だけを聞くと後者の場合「自然」という言葉が当てはまるのか疑問になる時があります。

なぜなら指示を出している写真には現場にいなくとも「この写真は指示を出している」というのがわかる事があるからです。

 

では、自然な写真を撮るためには前者である子供たちをただ自由奔放にさせる事が正しい考え方になるでしょうか。

私はそれも正解ではないと思っています。

 

もちろん撮影者を認識せず、スタジオを公園のように使ってくれる事はありのままを撮る事においては

いいかもしれませんが、それだけでは何かが足りません。理由は二つあります。

 

ひとつは写真に写っているのは「人」だけではないということです。

 

私たちが写真に写しているのは「人」です。

その、人の外面的要素、あるいは内面的な要素を写真という2次元の一枚の媒体に写す事が仕事です。

 

一方で、写真に写っているのは「人」だけではなく、その、人を取り巻く環境や

空間的要素も同時に映り込みます。

 

 

写真というのは静止画です、ありのままの姿を見せてくれる子供たちはたくさんの躍動感と元気を与えてくれますが

「美しい写真を残す」という事において必要なのはありのままの子供たちだけではなく光や構図、意図などいろんな要素が

高い次元で組み合わなくてはなりません。相手に合わせるだけの受動的なカメラマンではそれは叶う事ができません。

 

 

もうひとつの理由は、皆が同じようにありのままを見せてくれるわけでは無いということです。

元気に走り回る子供たちならば自然(すぎる)写真が撮れるかもしれませんが、もし被写体が動かないタイプだったら?

あるいは大人だったら?と考えてみると、自然な姿を写していることが他力本願になっている事に気づきます。

 

被写体の状態に頼る受動的なスタンスでは被写体の状態によって写真が変化します。

つまり、自然な写真を要求されたとしても撮れるかどうかは被写体次第になってしまうのです。

 

 

少しややこしくなってしまいましたが、私はこのどちらもが必要であり

最初に書いた「作り上げていないような空間を作り上げる」事が

常に自然な写真を作る条件だと考えています。

写真は意図的でなければならないと思っているのが私の基本スタンスだからです。

 

 

この写真における「作り上げていないような空間を作り上げる」事を表現する為に気をつけたポイントは3つあります。

 

1:ポーズはすべて伝える

2:ガラス窓を利用する

3:被写体が興味を持つ言葉を投げかけて視線を誘導し、彼の集中をカメラではなく窓の外へと導く

 

 

彼はライフスタジオに10回以上来てくれていたので、私たちとの撮影にも慣れていました。

しかし、慣れているが故に自然というよりは「撮りやすい」という感覚に近かったかもしれません。

そんな彼を深く考えずにただ指示を受け取ってくれるままに撮る事は簡単だったと思います。

しかし、10回以上来てくれている家族の「自然」という要求に応える為には被写体である彼が

出してくれる以上のものをこちらが提供しなくてはいけない。そう思いました。

 

ポーズについて私は「写真を撮る専用」のポーズをあまり指示しないようにしています。

これも「自然」に関する考えなのですが「写真を撮る専用」のポーズはその空間に写真を撮るという行為を

意識させてしまうからです。

この写真では「この場所にいて辛くない格好」を目指しました。

重心を格子に預け、反対側の手で柵を持つ事で、ただこの場所で外を見るならするであろう楽な姿勢を目指しました。

 

 

次にガラス窓です。

前ボケ自体に被写体と撮影者との距離感を作る性質がありますが、今回は窓を一枚隔てることによって

現場でも物理的に撮影者がいなくなり、より被写体である彼はカメラを意識しなくてもよい状況を作りました。

また、彼1人の空間を切り取るという事も窓を隔てている事が、「外からカフェでお茶を飲んでいる人を見ている」ような

感覚を目指しました。

 

最後の3番が個人的には一番重要なポイントだと思っています。

自然さを作る一番のポイントが私は「目」だと思っています。

 

視線を誘導する事は日常的にやる事だと思いますが、ただ目線を誘導することと、被写体に目線を移動する理由があるのとでは

目の力強さが変わってくると思っています。

 

例えば「窓の方見て」というのと「外の道路のマンホールが空いてるから見て」というのでは目の輝きに違いが出ます。

「窓の方見て」という言葉は写真を撮る為にそっちを向いてという意味を直接的に伝えている事になるので、

被写体も撮影をするための指示という認識を出る事ができません。

そうなると、言葉で説明するのは難しいですがたとえ窓の方を向いていてもどこか意識がカメラの方にある写真が生まれやすくなります。

ようは視線の先に目的があるかどうかが重要であり、それを意図的に創り上げる事が被写体の認識出来る範囲から

撮影者が消える事ができるきっかけとなっていくのだと考えます。

 

 

「作り上げていないような空間を作り上げる」というのは、人の理解からはじまり、何を撮りたいのかを明確にすること。

そして完成へのプロセスを自分なりに組み立てられることです。

 

そしてそれがうまくできた時、他力本願ではない本当の撮影が可能になるのだと思っています。

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