デミアン:自我

center:Lee
2010-03-01 23:08:54 VIEW:81

デミアンとの出会いは3度目だった。
高校1年生、憂鬱な日々の連続だったあの頃。晴れの日も多かったけれど、雨の降る日も多かった。風と雪も多かったあの時・・・・。
姉達が買っていた本を1冊、2冊読んでいきながら、その憂鬱な正体を探している中デミアンと出会った。何かデミアンのような人になりたいという期待と、エヴァ婦人のような人に出会わなければという、少年の純粋な心を持った程度だと記憶している。多分本の内容の深さよりも登場人物の魅力に集中していたのではないかと思う。

軍隊から帰ってきて、大学に復学し、勉強よりも図書館へ行き本だけを何ヶ月も読んだ。他の友達は卒業後の就職の為、英語やパソコンの勉強に意欲を出していたが、そんな技術よりも社会に出る前にまず自分の世界観とは何か正確に確立することが重要だと思った。今考えてみると、世間をあまりにも知らなすぎていた。それでもあの当時の読書が、ある程度考えを整理する役割をしてくれた。成長に対する基本的な作動原理があり、それがこの社会を動かす力だと考えていた気がする。人を変化させ発展させることをしなければいけないという決心のようなものをしたその時期とかみ合いながら影響力は更に大きかった。

3度目は、2010年教育プログラムを計画しながら2~3月の主題を成長と自己実現の関係と設定し、すぐ思い浮かんだのがデミアンだった。
本を買い読み始めた瞬間2~3月の主題がデミアンの為に設定されたものなのではないかと思うくらい、あっていると感じた。

シンクレールとデミアンは私たちがよく話す自分自身と自我の関係だ。
自分自身はある時は小さく、ある時は大きくなり、ある時は馬鹿だと思いながらもある時は天才になっている。そのように変化する自分自身に対する考えが私有の過程を経ながら真正な自我を探し当てていくのであり、自我の可能性に対する実験を計画することが私達が生きていると感じるその瞬間になる。

シンクレールがデミアンと神に対する話をしながら最初のピンがくる。


だが、彼のことばは、私の少年時代を貫く難問に関係していた。それは、私が一刻も離れたことなく、しかもだれにも一言も話したことのない難問だった。デミアンがさっき神と悪魔、公認された神の世界と黙殺された悪魔の世界とについて言ったことは、まったく私自身の考え、私自身の神話、すなわち-明暗、二つの世界、あるいは二つの半球の考えそのままだった。自分の問題はすべての人間の問題であり、すべての生活と思索の問題だという悟りが、神聖な影のように突然私の上をかすめ過ぎた。まったく自分独特の個人的な生活と思考とがどんなに深く偉大な思想の永遠の流れに関係していたかを知り、また突然そう感得したとき、私は不安と畏怖に襲われた。その悟りは、なにか確証と幸福感を与えるようであったが、楽しいものではなかった。
…..
「“私の中からあふれ出てくるもの、まさにそれを私は買おうとした。なぜそれがそんなに難しかったのか?」と、デミアンは始める。自分に溢れ出てくるものが何かを始めて自覚する瞬間だ。
私達がよくいう固定概念や習慣、経験の一般化を通した日常の生活の中でも、自分の中でその何かは溢れ出てくるがそれをぎこちなく感じる。それをそのまま受け止められず、自分が作った頑丈な壁の中でびくともしない人々は周りにたくさんいる。

いったい自身と、世の中を取り巻いている主題は何であろう?
なぜ生きなければならず、どのように生きていくのか?

シンクレールが経験する二つの世界とクローマー、家族に対する疑問が積み重なり起きる現象に対し、即刻的で感情的な反応だけを見せていたが、この瞬間感じるようになる。
自分に溢れ出てくる主題が、まさにすべての人間の問題、すべての人生と考えの問題だという見通しをするようになる。人間がそれを運命だと受けとめ、考えから私有の過程に入るシンクレールを発見することができる。そして、自身の自我を客観的に見ることにより、決定的な単語を使用する。
….
かつて彼が言ったように、「しゃべるためだけの」話なんてものは、彼には断じて許すことができなかった。それに反し、私には、ほんとの興味とならんで、遊戯、気のきいたおしゃべりに対する喜び、といったようなものがあまり多すぎる、手っ取り早く言えば、完全な真剣さが欠けているということを、彼は感づいていた。
….

完全な真剣さを真正と連結させるという無理数をおきたくはない。完全な真剣さというのは、自分の自我を見る瞬間をいうのであり、自我の可能性と発展の方向を見つめることだ。この瞬間のために私たちは何をしなければいけないのか?
ライフスタジオでスタッフにいつも話すことは、いつも同じでなければいけないということだ。仲のよい友達と何の壁もなく会話するように、お客様と同僚に対してもそのようにしなければならない。お客様がどんな商品を選択したとしても、同じ心を持たねばならないし、経済的な面だけをみて会社に通うのではなく、自分の人生を価値あるものにするための場所としてライフスタジオを作っていこう…。

完全な真剣さを埋めようと多くの時間を放浪と混乱の中で過ごしながら、再びターンを準備していたシンクレールの前にベアトリーチェが現れる。
現れたというよりは、シンクレールが発見し作り出したというのが正確だろう。
….
いまは私は、愛するもの、崇拝するものを持ち、ふたたび理想を得た。生活はふたたび予感と多彩な神秘的な薄命に満ちていた。・・・
私はふたたび、心からの努力をもって、崩壊した一時期の残骸の中から「明るい世界」を築こうと試みた。私はふたたび、自分の中の暗いものと悪いものをかたづけて、安全に明るいものの中にとどまろうという、ただ一つの願いにひたり、神々の前にぬかずいて暮らした。
…..
発展するための典型的な有形でありながら、周りに問題が起こり始めることを知らせている。
“本気で私は彼女を愛していたのか?”と質問するならば、“本気で私を愛したからあなたを愛していると言った”と答えなければいけない。人間は偶像を作り崩し、ふたたび偶像を作りながらもある瞬間敵として規定する。変化発展の原理でありながら、葛藤の始まりであり、解決するための過程を遂行する。シンクレールはその年に見合わない、それを自分自身の中でひたすらつくり続け、壊しながら自身の自我に近づいていく。

ベアトリーチェ時代のあの幾週、幾月かのあいだ続いたしんみりしたおちつきはとっくにうせていた。あのころ私は一つの島に達し、平和を見いだしたように思ったのだったが、いつものことで-一つの状態が好ましくなり、一つの夢が快く思われると、たちまちもうそれは衰え曇ってしまうのだった。
….
そして、ピストーリウスと出会う。彼から自分が悩んでいることに対する、一定の回答を得ながら、彼の言葉を信頼するようになり、存在と自己実現に対する糸口を探す。

「ぼくたちは自分の人格の限界をいつもあまり狭く限りすぎる。個人的に区別され異なっていると認めるものだけを、ぼくたちは常に自分の個人的存在の勘定に入れる。ところが、ぼくたちは、ぼくたちのだれもが、世界に存続するすべてのものから成り立っている。ぼくたちのからだが、魚まで、否、もっとさかのぼった所まで、の発展の系図を内に蔵しているように、ぼくたちは魂の中に、かつて人間の魂の中に生きたことのあるいっさいのものを持っているのだ。かつて存在したことのあるいっさいの神々と悪魔は、ギリシャ人や中国人のものであろうと、あるいはズールカッファー族のものであろうと、すべてぼくたちの中にある。・・・ 
彼らのすべての中に、人間になる可能性が存在しているが、それを察知し、そのうえその一部を意識的にすることを学んだときはじめて、この可能性は彼のものになるのだ。」
….
「きみを飛ばせる飛躍は、誰でもが持っているわれわれ人類の大きな財産なのだ。それはあらゆる力の根とつながっている気持ちなのだが、いざとなると皆不安になるのだ。ひどく危険だからね!そこでたいていのものはいっそ飛ぶことを断念して、法規に従い歩道を歩くことにするのさ。だが、きみは別だ。きみは有為な青年にふさわしく飛び続けている。するとみたまえ、きみは不思議なことを発見する。つまりきみはしだいにそれを制御するようになり、きみを引きさらって行く大きな普遍の力に、微妙な小さな独特な力、一つの器官、一つのかじが働くということを発見するにいたる。」

しかし、このような信頼もピストーリウスの私有の限界を察知したシンクレールの欲望が大きくなるにつれ、有名な古い本の論争が始まる。
彼の武器庫からとった矢で彼にあてたと感じたときまでは小さな失態だと思ったが、ピストーリウスの反応と考えが整理されながら存在と自我、そして自己実現に対する人間の欲求に対する省察がくる。順番通りうつすと、 
…..
「あなたが夜にみたほんとの夢の話をしてください。あなたが話していることはひどく古本くさくていけませんよ!」
「 きみの言うとおりだ。シンクレール、きみは利口な男だ。古本くさいことできみを悩まさないようにしよう」
「およそひとりの人間がほかのものに対して正しくありうるかぎりで」
ピストーリウスは、彼の生意気な恩知らずの弟子なる私からの打撃を、静かに甘受することによって、黙々と私の正しさを認めることによって、私の無思慮を千倍も大きくした。

自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。
各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。
肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。
….

二つの世界に対し、知ることのできない悩みをしていたシンクレールが、デミアンに出会いながら、人生の主題に対し知るようになり、自分の奥深い所にはまりながらも、ベアトリーチェという一つの偶像を作る。
その偶像を参拝しているときのつかの間の喜びがなくなりながら、それが自分が作り出した偶像に過ぎないと、また悩みだす。
そしてピストーリウスに出会い、一定の回答をもち安定する。それもつかの間、古本の匂いをかぎつけ、けんかをしかけたが、ピストーリウスは自分の存在に対する認識と行くべき道を正確に知っているプロの選手であった。
いよいよ名誉の頂点にいるエヴァ婦人がシンクレールを待ち受けている。エヴァ婦人に対する感情が何か、容量をつかめない瞬間、エヴァ婦人はベテラン選手の雰囲気をかもし出しながら、愛情学概論を説破する。

「要求してもなりません。愛は自分の中で確信に達する力を持たねばなりません。そうなれば、愛はもはや引っ張られず、引きつけます。シンクレール、あなたの愛は私に引っ張られています。それがいつか私を引きつけたら、私は行きます。私は贈り物をあげません。私は獲得されたいのです」

張り裂けそうな心を一つの場所に集中してみることにより、このような結論に到達したシンクレール

自分の本性が引きつけられて目ざす対象としているのは、彼女その人ではなくて、彼女は私の内心の象徴であるにすぎず、私をひたすらより深く私自身の内部に導こうとしているのだ、ということははっきり感じるように思うことがよくあった。
….
彼女を得、彼女のために戦い、彼女を永久に奪取するかわりに、自分は夢を見、快い気分に自分をだましてきたのだ。ほんとの愛について彼女の言ったことのすべてが、私の胸に浮かんだ-それを自分はどうものにしたか。なに一つ、なに一つ、ものになっていない!….

私は立ったまま、指や足の方から冷たくなるまで、心を緊張させた。力が抜けていくのが感ぜられた。数瞬のあいだ、なにかあるもの、なにか明るく冷たいものが心の中で緊密に凝縮した。一瞬のあいだ、自分は一つの結晶を胸の中にいだいているのだという感じがした。それが自分の我だということを私は知った。冷気は胸までのぼってきた。

自身の自我を確信し、この小説が終わるように見えたが、デミアンは期待を裏切ることなくもう一度現れ、新しい世界にシンクレールを案内する。
….
「いやきみ、感傷的にとっちゃいけない。そりゃ、生きている人間に向かって射撃を命令するのは、実際ぼくにとっておもしろいことじゃないだろう。だが、そりゃ枝葉なことだろう。いまはだれもが大きな車輪にまきこまれるだろう。きみもだ。きみもきっと兵隊にとられるよ」

いま私は、多くの、否、すべての人間が、理想のために死にうるのを見た。ただそれは個人的な自由な選ばれた理想であってはならず、共通な引き受けられた理想でなければならなかった。

結局自我を過ぎると出てくる他者と社会が見えるようになる。この部分は短く言及されているが、人生の理由と目的と連結されている。自我と他社、社会の関係はお互いに影響を与えながら発展する 同格の私たちの人生の根本主題になる。

いろいろな店舗で討論をしながら成長と自己実現においてデミアンという存在の意味に対する多くの人々の考えを聞くことになった。大部分デミアンという人物に対しピントを置いているので、自分の周りにいる価値観が確立されていて、何か力のある人程度に認識していた。
もちろんデミアンという人物が私たちの人生の方向を提示してくれ、手助けしてくれる重要な部分であるということには同意する。
しかし、そのような人物の説明をするために本の題名が「デミアン」になったのではないと思う。
シンクレールが自身の自我を探していく過程で、多くの苦痛と悩みをするようになる。そして適切に人々が登場しながら変化発展の過程を説明していく。その状況と登場人物の周りでシンクレールがどのように変化発展していくのかを、少し堅苦しく言論的に説いていっている。
結局自我を探していく過程が成長であり、成長の結果は自己実現になる。
このような成長と自己実現を発生させる、根本原理としてデミアンを設定したのであろう。その根本原理が変化発展の原理である。

mutsumi katoh

人が何か変化を求め、行動を起こすために必要なことは疑問を感じること。
今の自分の現状、置かれている環境、築き上げられた文化の中で誰もが息苦しさを感じながらも、
そこに解決の糸口を探すための疑問を明確に認識することができず苦しんでいる。
そこにデミアンが現れ、変化の可能性を示し、自己実現の過程を歩み始める。
これがこの本に対しての僕の解釈です。
これは小説であるが故に、適切なタイミングで適切な存在がシンクレールの前に現れますが、僕らの住む現実世界でデミアンやピストーリウス、エヴァ婦人のような存在に出会うためには何が必要なのでしょうか。
自分の感じた疑問に対し、真正に向かい合い、自我を追求し続ける自分であることが周りに溢れている多くの出会いの中から導き手の存在を見出す視力を養うことになる。
そうでないとするならば、ただ単に運命の出会いを運任せでただ待っているだけのように感じてしまいます。
エヴァ婦人の言葉にある「引き付ける」為の力を得るための方法が自己と真正に向き合うことなのか、それ以上の何かが必要なのか、僕はまだわかりません。

2010 年 3 月 1 日 EDIT  DELETE

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