PhotogenicNagoya

Best of Fujita November.2017

2017/12/1

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名古屋店で渡しているデザインの文字。「be playing」という言葉。
ひそかに好きな言葉です。
遊ぶということは、ライフの撮影スタイルにしっくりくると思っています。

普段はカメラを向けられるとすっかり固くなってしまって笑わなかった子も、ライフに来ると笑ってくれるという言葉を頂けることがあります。それはライフの撮影スタイルが、制限を設けずに、被写体である子供に合わせながら撮っていくものだからだと考えます。
ですが、被写体に合わせるというのは、追いかけまわしてひたすら四角の画面におさめるだけということでもありません。
そこに、光や構図、絞り値や露出など、どのように決めてどのように切り取るのか?を決める作業があり、それがないと写真は綺麗にまとまらない上、やるとなかなか複雑です。
同じカメラ、同じレンズ、同じ光でも、何かひとつが違うことで写真は大きく変わってきます。
私がカメラマンになる前に思ったのは、なぜ同じカメラを使っているのに、先輩たちとこんなに差があるのだろう?ということでした。
そこから学んできてわかったのは、写真を1枚撮るのに多くのことを考え、決めていく作業があるということでした。その部分の決定権はカメラマンにあり、ここでこういう数値でこう撮る、というマニュアルはありませんので、たとえば極端にいえばロボットにはできない作業になります。
ライフスタジオの自由は、被写体となる子供だけなくカメラマン側にもあります。

数値も場所も制限をすれば質の安定したものとなりますが、それを良しとしないのは、ライフスタジオが人の持つ感性、感覚を尊重しているからだと考えます。
そして、その感性、感覚の自由度があるからこそ、無限に新しい写真は生み出されてゆき、提供する写真の質が変わっていきます。カメラマンの持つ自由は、変化・発展していく組織のために必要な土台です。
 
そして同時に私たちにはその感覚をつけていく必要が出てきます。
その感覚を持つためには、何が美しいのかを知るということが必要になってきます。
美しさというのは、数値などで定義されたものと、自分にしかないものの2つに分かれると考えます。
たとえば黄金比などは、定義されており、多くの人が美しいと思う比率を割り出したものです。
ですが、たとえば紅葉だったり、滝だったり、高い山からの景色だったりは、美しいと思う人と思わない人とがいます。自分が美しいと思うものを、美しくないと思う人もいる。
逆に考えると、何を美しいと思うのかが、自分を形成する要素のひとつとなります。
定義された美しさは、たとえば光の向きだったり、構図だったり、カメラの数値であらかた決めることができますが、自分が思う美しさは「その撮影で、どの場面をどのように切り取るのか」という瞬間で表現できます。
 
私の中で後姿も良いと思う瞬間です。ですが、後姿の写真は、魅せ方が重要です。
ただ後姿を撮るだけであれば簡単にできます。でも、その瞬間にインパクトを与えるために撮るとなると、もっと要素を足さなければなりませんし、なぜ撮るのかという理由も必要です。
私は顔の見えない写真も好きです。
好き嫌いがあるので、必ず撮るわけでもありませんが、まったくこちらを向いていなくても、絵になると思います。それは、私が「曖昧なものが好き」というのもあると思います。たとえば小説では名前が出てくるよりも「彼」「彼女」や「少年」「少女」のような、曖昧な表現が好きです。
少し前のブログにも書きましたが、ターナーの絵のような線の曖昧な表現も好きです。
だから後姿というのも好きで、たとえ顔が見えなくてもその子という存在を示してくれる姿だと思います。
 
彼は3歳の男の子で、小柄だけどエネルギーがあって、人見知りが全くなく、たくさん笑い、たくさん遊んでくれる子でした。ちょこちょことお部屋の中を走り、インテリアやおもちゃを触ったり、はっぱや布を両手でバサバサ!と揺らし、自分の履いているかぼちゃパンツをまくり上げたかと思うと、コーディネーターののんちゃんのズボンまでもなぜかまくり(ママ曰く生足が好きだそうです)、とにかく自分の興味のあるものに向かって動く、好奇心旺盛な子でした。
私はその彼の動きがとても面白く、愛くるしくもあって、どんどん自由に撮っていきました。
ちょうどお昼を過ぎたころで、太陽は傾き始めており、1階の大きなガラス窓からは西日とはいかなくとも強めの長い光が差し込んでいました。
その光はインテリアに当たり、男の子に当たり、カメラ側のガラスにもあたっていたので、ガラスを被写体とカメラの間に挟みこむことでちょうどよく綺麗なボケみをだすことができました。
ガラスを挟み込むと、物がはっきりとは映らず、まるで波のない静かな水面に映っているかのような滲みができます。そうした滲みのある景色を美しいと思う人は多いと思います。
そうした景色となった中では、被写体はあまりくっきりと映らず、背景と馴染んできます。
だからこそ、人だけに集中せず景色として切り取ることができるので、人の写真ではなくストーリーを感じさせるイメージ写真が作りやすいのです。
人中心ではなく景色となった画面の中では、被写体の動きが重要になります。私の見ていた画面の中で、彼が見せた何げない背中が、イメージを感じる切り取るべき瞬間でした。
楽しさはじけるちいさなからだでいっぱい遊びまわり、走り出す後姿を、魅力的に写すことができたのではないかなと思っています。
この場所では絶対に良い写真が撮れると信じてシャッターを切ったのを覚えています。

写真を撮るということは、自分にとってどのようなことなのだろうか?
昔聞かれたことがあります。
 
カメラマンとなって数年たちますが、私にとって写真は自分を支えてくれる心強い存在となっています。
もっと感性を磨いて、ちゃんと技術と知識をつけていく必要はまだまだ無限にありますが、ライフで写真を撮ることが自分を幸せにすることに繋がっています。

正直、写真という存在が自分の中でこんなに大きくなるとは、昔は思ってもみませんでした。

何者かになりたい、と思って過ごしていた時期がきっと誰にでもあると思います。
何になれるのか、なりたい姿になれる素質はあるのかを考えていた自分が、カメラマンとしていろんな人を見たり、いろんな写真を撮っていくうちに、前は無かった奥行きができていって、ちゃんとはっきりと形作られていくのを感じ、そのたびに写真を撮れることを誇らしく思っています。
もちろんまだまだ腕を磨くことは必要ですが。。

写真はカメラマンだけの作業ではなく、コーディネーターや、被写体となるご家族や子供と協力する共同作業なので、取り組むことに大きな価値があるのだと思います。もっと深く人のことを知り、良いものを撮っていくことで、人だけでなく自分自身も幸せになると考えます。
だからこそライフでの撮影は撮る側も撮られる側も自由に遊んでいる「be playing」な空間で、楽しさを生み出すことができるのだと思います。

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