Monthly photogenic
写真に対する想い・工夫・情熱を言葉にした“Photogenic“の中から
月間の“Monthly photogenic”を選出しています。
私たちがお客様と一緒に作り上げていく写真についての話は続いていきます・・・

 
2017年6月のフォトジェニックコメント:1hit:150
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Jiyugaoka Photo

Photo by Ren
Coordi by Toda
 
Title : 『やわらかさとは』

自分の中で「やわらかい」と言うと、
白っぽい、暖かい光、リラックスした空間。
この3つが浮かび上がる。

これは自分が直感的に思った事であって、この言葉についてもっと深く考える為に辞書的な意味も調べる必要があると思った。
しかし、その時フッと気になったことがある。
“逆にやわらかくないって何だろう“と思い始めたのだ。


やわらか・い〔やはらかい〕【柔らかい/軟らかい】

1.ふっくらとして堅くない。また、しなやかである。⇔かたい
2.おだやかである。柔和である。
3.堅苦しくない。融通がきく。⇔かたい

かた・い【堅い/硬い/固い】

1.いかめしかったり、こわばったりしていて、すなおに人の気持ちに入ってこない。
2.緊張から、気持ちにゆとりがなくなる。
などを意味する。


まず、「やわらかい」の条件を満たすにはリラックスした空間づくり。
その場を通して被写体と自分が共感する事が一番大事だと思った。
リラックスした空間づくりの為には、被写体とカメラマンだけではなくコーディネート、ご両親。
その場にいる全員が一つになり共感できる関係性づくりも必要である。
そういった場づくりができていないと、
自分が作りあげた空間でせっかくリラックスし素直になれた被写体、
そして自分が持っているイメージが一致しなくなる。
それは自分が目指した「やわらかい」の意味とは遠ざかってしまう。


この日出会った彼女は、7才の七五三撮影で遊びに来てくれた女の子。
最初は着物と日本髪姿でお淑やかなお姉さんになりきっていたが、
着物を脱いだ途端、リラックスした顔でお喋りを始める。
まさに、「かたい」から「やわらかい」になる瞬間だった。
そしてドレスをまとった彼女の姿は、まさに「やわらかい」雰囲気で溢れていた。
そんな彼女を見て微笑むお母さんの顔も見えた。

リラックスしてくれた彼女とお母さんの笑顔。
その風景を見ていると自分も安心したと言うか、同じく暖かい気持ちになれた気がした。
そしてその時に思った。
この場の雰囲気、自分が感じているこの気持ち、彼女の表情が
全て自分の「やわらかい」と一致していると感じた。

撮影にだいぶなれてきてくれた彼女を窓に向かわせ後向きに立たせた。
そして名前を呼んでみた。



”自分のイメージを十分に再現するには技術も大事だと思うが、一瞬のヒラメキや偶然が入る事も可能だと思う。
リラックスした空間で自然に出てくる被写体の表情、仕草、雰囲気。
それはその人だけのモノであり、成長でもある。”



 
2017年5月のフォトジェニックコメント:0hit:119
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Tokorozawa Photo
Photo: Satsuki Kudo
Coordinate: Yoko Moriya

 
Title : Index
20歳×過去と未来をつなぐ想起
 
先は未知。
しかし前へと道は続く。
その路を自分の足で踏みしめて歩き、背中を見せる。
その背中を見ていると、いつかの私の記憶を呼び起こさせるようで。
その記憶を辿ると、見えてくる今の私の根幹。
あぁ、そうか。私という人間は、あのときこんな風に人生という旅を見ていたのか。
晴れやかで、凛としたあなたの姿は、忘れていた記憶を、心もとない気持ちを、
それでも明るく前に進むあのときの私を、思い起こさせるもの。
 
 
赤いドアを開けて、家族と一緒にこのスタジオの中へ入ってきたあなた。見るからに晴れやかな振袖。
紺地に、古典だけどモダンな柄を着ているあたり、今どきのセンスを感じる。
凛として、堂々と、少しの違和感も感じずにそこにいる。その『自然』な佇まいを見ていると、思い起こされるのは私の20歳の頃。
少なくとも私が20歳の頃は、写真を撮られるということ自体に緊張をしてしまって、今見ると恥ずかしい思いを想起されるものしか写真が残っていないような気がする。
 
見事に中学生から25歳くらいまでの写真が残っていない。いや、そもそも撮っていないのか。写真に撮られることに興味がないのではなく、写真として見る自分の姿が嫌いだった。
もちろん、思春期特有のコンプレックスだったのだと今では思う。写真に写った自分の姿は、うねりが強いくせ毛に腫れぼったい一重の小さい目、そして丸い顔。
どうしようもない物理的な造形にコンプレックスを抱いていた十代の頃は、プリクラだろうと自分の姿を残すのが嫌だった。
20歳になって髪を染めた。明るめの茶髪に、少しメイクも覚えた。
それでも自分に何が合うのかわからないまま、成人式の写真を撮りに行った。自分に何が合うのかわからないので、着物は着付け師さんに選んでもらった。
ピンク地に黄色い花柄。染めたての茶髪には、白い花の飾り。鏡で自分の姿を見た私はその似合わなさに絶望し、写真に残ったときの引きつった表情に、その日二度目の絶望を覚えた。後日、写真が届いたが一度も見ることもなく実家の倉庫に封印している。
そんな苦く切なく恥ずかしい十代から20歳までの記憶が蘇るからか、本当に若いころの写真が少ない。もし今、その写真が残っていたとしても見返す勇気が出るのは40代を過ぎてからになると思う。
そのくらい、思い出したくないほどのコンプレックスの塊だったのだなと30代の自分が自覚する。
 
そのくらい、写真は過去の記憶を思い起こさせるものであると、落ち着いて考えられるようになったのはライフスタジオに来てからかもしれない。
 
「写真をツールとして人と繋がる」この仕事で出会う人たちは、何のために写真を撮るのだろうと考えれば、流れゆく記憶をまるで宝箱に宝石を入れるように留めておきたいからである。
多くは子どもの撮影のため、その欲求を持っているのは、大人の方だ。過ぎゆく時間と日々は、本当にとめどなくて、いつの間にか10年経っていることなんてざらである。その時のとめどなさを知っている大人たちは、我が子の過ぎて流れゆく「今」を写真という形に残しておきたい。それはただ、「今の姿」を残しておきたいというよりも、何年後、何十年後か、「今」がはるかに過ぎ去ったときに、「今」を思い起こさせるインデックスにしたいから。「今」が美しいということを、流れていく「過去」が温かく感じられることを、噛みしめるときが訪れるということを知っているから。
 
ただ時間を記録するのは、ビデオでもいいかもしれない。なんていったって、被写体が生き生きとした姿で動いて喋っているわけだし。
でも写真を撮るということが意外と廃れないのは、写真独特の「味」になるのかもしれない。静止しているから、事実ではないからこそ、人の記憶を呼び起こさせることを働かせ、人の主観によって思い起こさせる感覚や感情の質が違う。
例えば、愛する人が亡くなったときにその人の写真を見ると、自分がその人とどんな時を過ごし、どんな想いがあり、どんな存在として認識していたかを写真は語る。動画だと、その精密な姿によって制限されてしまう人の認識能力を敏感に活動させ、事実ではなくその被写体の存在の真実を記憶に残すことができる。
また、自分の過去の姿を写真で見ることで、その時の経験が連想され心境や価値観が呼び起こされ、自分の根拠を確認することができる。
写真とはただの静止画ではなく、人の認識に大きく作用するものが本質ではないか、と個人的には思う。
 
さて、難しい話はこのくらいにして、今回の撮影の話に戻る。
20歳の頃の私よりは、美しく輝かしく見える彼女。着物を選ぶセンスもよく、家族に愛され、彼女の存在の根拠ははっきりと見える。紛れもなく、今の彼女の姿は煌びやかで美しい。
その「今」の美しさを、例えば彼女が30歳になったときにも伝えられたら、40歳の彼女にも、50歳になっても…なんて考えていた。横顔が美しく、抜き襟からのぞくうなじの細さは、日本人女性ならではの美しさで息をのむほどだった。
 
でも、なんかそれだけじゃない。
なんか見えているものが、感じているものが、うまく表現できない。そんな感覚を覚える。
彼女はそれだけじゃないんだけど、私の中の何かが邪魔をする。
それは、見るからに美しい彼女の見かけに規定されていたからか、着物とはこういう撮り方で、彼女の美しさとは横顔で…なんて固定概念的な理屈に縛られているからか。
原点に戻ろう。私は何を撮りたいのか。それは、その人にしかないものじゃないのか。
誰でもいい写真じゃなくて、その人と私じゃないと撮れない写真。
それには、いったん成人式の堅さを崩す柔らかさを。動きを出すことを。ポイントを決めることを、しよう。
 
成人写真は、慣れないとぎこちなく撮影が進む。ぎこちない撮影は、被写体の動きを堅くさせる。
だから、ある程度美しいものという基準がないと迷いが生じるし、迷いながら動かす箇所が多ければ多いほど違和感のあるポージングになりがちだ。
だから、被写体の特徴を見て、的確に迷いなくポージングの指示をし、ぴたっと決まる完成形を掴まなくてはならない。見る箇所も気にする個所も多い。
だから難しさを感じるという声も理解できる。
 
しかし、こどもでも大人でも、基本は同じだと私は考える。
目的の中で、ポイントを踏んで表現をすること。これが必要だ。
まずは撮影をしている時の目的は「被写体を美しく撮ること」と「その人らしさ・自然な姿を撮ること」だと考える。
そのためには、空間づくりや声掛けが非常に重要だ。成人ではなくbaby撮影だと自然にそれを行っているだろう。Babyに威圧感を与えないように目線を低くし、声もワントーン高めの声で話しかける。
彼女は成人なので、できるだけ撮影者との敷居を低くすることが重要で、話す話も私の等身大のスタンスで、でも最近の大学生事情を聞きながら撮影を進めていく。
言葉を交わせばかわすほど、その場にいた家族ともなじみ、私の声も彼女に届きやすくなってくる。こういったときに、ポイントを踏みやすくなっていく。

ポイントは、「動きのバランスを崩すこと」。きっちり美しい形を撮影している中に、そんなことを気にしないカットを作りはさむこと。
このときは、私は彼女を椅子に座らせて、少し力を抜いてもらった。
やや左側に傾く身体に合わせるように左手で髪を触ってもらう。着物の撮影だけど、力を抜く瞬間。そのバランスを崩した瞬間に、「その人らしい」動きが出る。
この瞬間のポイントは体の傾きと指先。
その意味は、ポーズをせず着飾らない等身大の彼女。それが彼女の自然な瞬間だと思った。その自然な瞬間、光にも意味づけをしておく。溢れんばかりの逆光は彼女が大人になって抱く希望のように。
下に入れた前ぼかしは、その強い光を強調するために。
 
私の苦い記憶のインデックスからか、kidsでも大人でも写真に残すからには「今の自分」を最大限愛せるように「その人ならではの美しさ」を表現するようにしている。
それは、一般的に決まっている美しさよりも、外的にはまらないことを優先している。一見、普通に見えても、被写体によって様々な要素を変化させて撮影することが重要だし、普通を美しく撮るには、人の特殊性を認識することが重要だとも思う。
 
よく、人には「特殊性」と「普遍性」があり、「特殊性」があるから人それぞれの美しさがあるし、
「普遍性」があるからその美しさを共有したり共感できると言う。
私が、彼女をこのように撮ると決めたのは「特殊性」を認識しているからだし、
その「美しさ」を共感できるのは「普遍性」があるから。
そして、彼女を見て自分の20歳の頃を想起するのは、経験的な「普遍性」があり、
自分の苦い記憶が蘇るのは「特殊性」からか…。
 
いずれにせよ、写真の本質というものはそういった想起をさせる。
その想起が美しいものであるように、その画角の中に存在するものに意味を付け、美しく写真を残し、形のあるものの様々な掛け合わせから、
その時にしか現れない言いも言われえぬその当人にしかわからない感情や感性を生むことが、できたらいいなと思って毎日シャッターを切っている。
2017年4月のフォトジェニックコメント:0hit:390
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Shimonoseki Photo
Photo by Kawano yoh

17歳。
あの頃、なにがそんなにおもしろかったのか訳が分からないくらいに、
毎日笑っていたような気がします。
小学生、中学生という段階を経て、思春期にもぶち当たりながら
だんだん自分という人間性が自分でもなんとなく受け入れられて分かってきたくらいの高校時代。
各地からバラバラと集ってきた高校には、やっぱりどこか似たもの同士のような仲間がいたり、
今まで全然関わってこなかったような仲間もできたり、不思議な空間でした。
男子がいない女だらけの環境というのもあったせいか、
体育祭はみんな男かってくらいに激しくて、
文化祭はわいのわいの拍車がかかって、
普段も普段で廊下で笑い転げている人もいれば、
休み時間もみんなよく喋りよく食べる(想像以上に!)という、
何をするにも勢いが有り余っている女子高生ばかりでした。
この7人も、かつてはそんな17歳。
高校3年生当時、わたしの隣のクラスにいたメンバーです。
ほとんどの人と同じクラスになったことはないけど、
毎日グランドを走っている姿だったり、
ユニフォーム姿で体育館にいる姿だったり、
ローファーを履いていたり、デカめのバッシュを履いていたり、
やたらと髪が短かったり、ダンスに打ち込んでいたり、そんなひとりひとりの姿と、
この7人で教室のどこかに集まって話をしているだろう笑い声と7人一緒の制服姿を今でも覚えています。
卒業後はそれぞれ進学をしたり、留学をしたりでバラバラになりましたが、
お互い疎遠になるどころか全くもって逆で、離れても環境が変わっても、
13年経った今でもあの頃の勢いそのまま、変わらない7人の姿がスタジオにありました。
 
事の発端は、3月に行った写真展に訪れてくれた時に、展示していた成人式6人組の写真を見ながら
「いいねー、成人式でもみんなで撮りたかったよね。でもあの時はみんなでスタジオとか考えつかんかったよね。
でもさ。別に今でもいいよね。ね。ちょうど30歳やし!春にみんな揃うし!三十路写真!!!!!」
とそんな話が出て…それから1か月で撮影が実現しました!この行動力!!
「今日はこどもやなくて、わたしたちが主人公やけね!しっかり準備しよっ!」
っと、撮影前に鏡に向かう姿をとても嬉しく思いながらわたしも準備しました。
今日は、自分自身の写真。
自分が出会ってきた友達との写真。
30歳の自分。30歳のそれぞれの姿。
なんかいいなぁと、撮影前からしみじみ。
撮影前に色々と考えながら、それぞれの被写体をバラバラに配置して、
それぞれの雰囲気を出すようなものもイメージしたりもしましたが、
やっぱりいざ撮影になったら変わりました。
7人がこの7人でいるからこその写真。
ならどう撮ろう?
即決。あの頃のように、ただ、喋ってみてから撮り始めようと考えました。
最初は7人の雰囲気が見たかったので「適当に喋ってていいよー」って声をかけたのですが、
「「「「「「「………!!!!!あんさー、この前のあれが、どねーの、こねーの×7」」」」」」」
文字になりませんが、一瞬で会話がドッカーンです。
わたし、この勢いに笑いが出てカメラが震えてしばらく写真撮れませんでした。
アシストしてくれた手塚さんはすかさずiPhoneを取りに行って、
この様子を思わずムービーで収めていました。それくらいの記録的なドッカーンでした。
この瞬間に思いました。
成人式6人の撮影の時と、威力が全く違うぞ。。。。っと…。
20歳6人組は大学で出会ったから友達になって2年ですが、
この三十路7人組はもう10年を優に越してずっと繋がっている仲。
会話の途中にひとりが大切な報告をした時も、さらなるドッカーン。
7人に垣間見えるそれぞれの驚きと、把握しきれずに数秒後に驚くだろう顔と、喜び!!!
突然の瞬間でしたが、ここはブレちゃだめだ!!と気合いを入れて撮りました。
全力で話す。全力で驚く。全力で喜ぶ。
友達ってすごい。ただただ圧倒されました。
おめでとう、ありがとうの連鎖だけではおさまらないこの感じが、大切な人の喜びが、友達という存在が、
きっとそれぞれの心強さになるんだろうなぁと感じました。
大事なことを、改めて考えました。
自分として生きていく中で、信頼し合える仲を築くということ。
人間性を受け入れること。
 
ライフスタジオでは友達同士の撮影は小学生以上でお願いしています。
きっとそれは「友達」とお互いに意識しながら撮影が出来るのがそれくらいの年頃だからだと考えています。
生まれた時から一緒、幼馴染として普段一緒に遊んでいるというのもあるかと思いますが、
スタジオといういつもとは違う空間で撮影となるとその時々の機嫌や、
自分の思うように遊びたい気持ちが強くなったり、
集中力がなくなったりで撮影どころではなくなることが多くあるので、
小学生未満の友達同士の撮影はそれぞれの家族で1枠ずつ連続で予約を取っていただくなど
店舗ごとに取り組みがあるかと思うのですが、
そんな幼馴染の時代や、それぞれ幼稚園などを共に過ごした時間を経て、
小学生になってから、また中学生や高校生、大学生になってから、
そして大人になってからでも、「友達」との関係性を撮影することによって
「家族の中での自分」とはまた違った「自分」を発見できる機会になるように思います。
(友達同士の撮影は念のため予約前に各店舗にお問い合わせください。)
わたしは元々この場所がこども写真館だとは思ってもなければそう言ってもいません。
大切な人と過ごす場所のひとつとしてあればいい。
大切だと思う人と写真を撮るというきっかけを作る中で、自分の人生を振り返り感じながら、
写真を見てまた笑えれば、ちょっとでも救われるような気持ちになったら、と思います。
そしてまた、大切なものをより大切に。
 
 
しかしながら、本当にみんな変わらなすぎてこの写真たちを見るたびいろんな記憶が蘇ります。
でも間違いなく、あの頃よりもみんないい女だと確信してます。
まだまだこれから。
10年後も、20年後も、もっと先も。
変わらない勢いで。
 
2017年3月のフォトジェニックコメント:0hit:246
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「写真で人々を幸せに」

Photo by Soo

ライフスタジオ大宮店では、「ぽぽぽ」「あいあい」というCSR活動をしています。

既存のお客様も大切だが、なかなか写真館に足を運ぶことができずにいる人達も含め、私たちは写真で人々を幸せにしたい…と考え、まずは障がいを持つ子供達(ぽぽぽ)と児童養護施設にいる子供達(あいあい)を対象に、写真でできることをしている。

 

今月「あいあい」にて高校三年生の彼女たち二人に出会った。私の担当したNさん。

メイクが大好きで、メイクルームの鏡台の前で二人でメイクし合う姿は、男である私にとっては、まじまじと見てはいけないもののように感じてしまい、覗くのは気もそぞろ。
びくびくしながら覗いてみると、真剣なまなざしで友だちのメイクをしてあげていた。
そこにいる彼女はまるでメイクアップアーティストのような出立ち。


こっこれは…美しさとの遭遇!!
 

キラキラと輝く彼女の真剣な顔は、美しさそのもの。
この今の瞬間を写真に残してあげることが私の使命となった。
慌ててカメラを取りにいき、そっと1枚だけシャッターを鳴らして消えた。

ああ、きっと彼女は自分を知っている人なんだと思った。

ボブヘアー専門のサロンでカットしてもらったという芸術的なヘアスタイル
丹念になぞられたアイラインとカールカールしたまつ毛
一目惚れして買ったというお出掛け着のブラックドレス
楽しそうにヘアスタイルや衣装の話をする彼女は、ファッションへの興味を超えた熱のようなものを感じてやまなかった。

「自分の素敵なところ」「自分の魅力」そこに自分の意識を向けている人って、自然と輝いてみえてくる。
そういう人を見ると羨ましく思うし、感動すら覚える。

撮影中、メイクルームの鏡台を前に、メイク道具を代わる代わる持ち替えながら、鼻歌まじりで写真を撮られる姿は魅力的で、女優のような、いたって自然な振る舞いをする。
撮影者としてその魅力を写真の力で、目に見える形にしていく、

この写真が 
”彼女のこれからの未来を支える支柱の一本になれば” と思いながら。。。

私が写真を通してできることは、美しい今の瞬間を写真に残してあげること。
多くのことはできないけど、大きな力にはなれるかもしれない。
彼女には、社会に出て数多くの壁にぶち当たっても、一番身近な存在である自分だけは自分の見方であるように、自己を突き動かす原動力の一部になればと心を込めて、ただただ素敵な写真を残してあげたいと強く思う。

それは ”写真で人々を幸せに” という、
私達の使命のようなものだ。

 

来月4月からは渋谷のアパレルショップ店員になり、社会人としてスタートを切るというNさん。
ここで撮影した写真や思い出が、あなたの
「存在の意味を証明するもの」になっていくことを願っております。

2017年2月のフォトジェニックコメント:0hit:120
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楓季と馮煕

Soka Photo
Photo by Suzuki


そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。
 

顧客カードを書いているママの手元を見ていると、姉の名前を「楓季」と書き、そして弟の名前は「孔明」と書いた。珍しい名前だったので、私が「この名前は特別な意味があるんですか?」とママに尋ねてみたところ、三国志に登場してくる人物の名前だということを教えてくれた。弟の「孔明」は「諸葛孔明」から付けてものだった。

理由は「頭を使ってなにかを成し遂げて欲しいからです」というようなニュアンスで答えてくれた。諸葛孔明は、知恵を使っていろいろな戦い方を考え、少人数でたくさんの軍勢に勝利するなど、三国志に関するさまざまな作品でその活躍が描かれている。

姉の「楓季」は、「馮煕(ふうき)」から付けたものだった。その時はどのような人物がわからなかったが、孔明のように三国志という舞台で活躍していたのだろうと感じた。後日、「馮煕」を調べてみると、外交官として国に尽くした忠義にあふれた人物のようだった。

 

子供の名前には、親が願う子供の生き方が深い意味が込められている。

両親は多くの人生の時間を過ごし、子供がこれから経験する学生から社会へと自分の人生を生きていくことを知っている。その時間のなかで、声を上げるぐらいの歓喜も待っているかもしれないし、声も失うぐらいの悲劇も待っているかもしれない。ということも知っている。

我が子にはこれからの人生の旅を三国志の武将のように、現実を突破しながらまっすぐに生きていくことの願いが込められている。

それは両親が人生で重要だと思っている「生き方の美しさ」である。だから「楓季」と「孔明」という子供の名前に私は美しさを感じた。

 

私は、この名前を頭の片隅に置いたまま撮影していたが、ガラスケースから少女を覗き込んだ時に、そこには楓季と馮煕が写り込んでいた。それは私の中で少女の真理である。

真理とは、他者と私の観念の一致である。

簡単に言うと、目の前の人が泣いているとしたら、「悲しんでいる」という観念を持つだろう。だが、本当は嬉しくて涙を流していたら、それは真理にはならない。

しかし、すべてのことを間違わずに真理だと認識することはできない。

私たちができるのは、客観に制限されながらも、真理はこうだ!と決定することで、私の目の前

の霧を晴れさせることはできる。

「楓季」という名前の少女は、ただ少女であるが、少女という範囲ではなく、「楓季」は「馮煕」から生まれたただ一人の少女なのである。

馮煕という一人の少女の真理と出会うように、ファインダーを覗いて、焦点距離のリングを回し、カメラを傾ける。その行為自体が私の客観だ。

そして、ピントのピピッという音と同時に、私の客観と真理が瞬間的に出会いシャッターを切るのだ。

 

そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。

 

この1枚の写真のポイントを整理するとこうだ。

ガラスケースに写り込んだもう一人の少女は、楓季と馮煕を表現している。

それを強調するためにポイントが3つある。

 

1、光に向かう視線

少女の目線は光量が一番大きいところを指している。

写真において最初に目がいくところはハイライトの部分であり、そこに視線を持っていくことで、少女が優先的な存在として配置されている。

露出もハイライトに設定されているため、他の部分との露出比があり、より暗くなりコントラストを生むような結果になっている。

 

2、フレーミングのフレーミング

写真の四角の中に四角を作るという表現方法である。

この効果は、被写体を簡単に注目させるという効果を持っている。

また、四角というバランスがとりやすい構成であるため、同時に安定感を確保している。

 

3、反射したもう一人の少女

シンメトリーのようにガラスに写り込んだ少女は、シンメトリーという効果を持っている。

これも一種のバランスである。また、写りこみは視覚的に写真のおもしろさも同時に与えてくれている。

 

写真にはこのようなポイントがあり、それは私から生まれた客観でもあるし、少女の真理が与えてくれたものである。だから、写真は私の1枚ではなく、私たちの1枚なのではないだろうか。


 
2017年1月のフォトジェニックコメント:0hit:159
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Photo by yatsu  cordi by Lisa     [ iris 002 ]

私は写真作家に憧れていました。
初めて観たフランスの写真家は、ロベール・ドアノー。
彼のパリ市庁舎前のキスを見て、
写真の持つドキュメンタリー性に思春期ながら心を奪われたわけです。
キャパやブレッソン。森山大道や東松照明、名前を挙げればきりがありませんが、
写真の対象は違えど、
今私もれっきとしたカメラマンであると自覚したとき、
烏滸がましいですが、彼らと同じ門をくぐったのだ思い込むことにしています。


「写真はどこまでも真実を守るもので、絵画の抽象化とは違った道を進むものである。
単なる写実ではなく、対象をどのように感じ、どのように強く受け入れるかということだ。
そこに何か本当に作者が闘っている姿がなければならない。」

これは、私が愛してやまない木村伊兵衛の言葉です。


「写真はどこまでも真実を守るものだ」という言葉の通り、
写真とは被写体・インテリア・衣装・小物・カメラマンの想像・関係性、
その存在すべてを映し出す鏡のようなものです。
長い時間をかけて作成する絵画とは違い、その判断を瞬時にしなくてはなりません。
写実ではなく、写真であることが、LifeStudioに求められているのだと思います。

では、写実ではなく、写真であることはどういうことなのでしょうか。

ありのままを写すのが写真であることに変わりはありません。しかし、明確に写実と写真は違うのです。
私はそれが「矛盾」という混沌だと思うのです。


不協和音という言葉があります。
2つ以上の音が同時に出されたとき、全体が調和しないで不安定な印象を与える和音のことです。
しかし、この不協和音は使い方次第で非常に美しく響く可能性を持っています。
君の名はで大ヒットしたRADWIMPSのスパークルという曲は、本来コードとして存在しない和音が含まれています。それがまた曲の存在感を際立たせているのです。

本来重ならないはずの音同士が重なることで起こる不協和音が美しい。
そこには大きな矛盾が生じているわけです。

写真も同様です。単に美しいものを写実するだけなら、
私たちカメラマンとは存在理由を見つけることが非常に困難だと思います。
美しくあるものは、逆立ちしても美しいのです。

写真とは、写実から自由になろうとして生まれたのかもしれません。


物事には始まりと終わりがあるように、私たちの世界も始まりと終わりが存在します。
私が思うに、
夫婦とは、ひとりの人間の、ひとつの世界の始まりを作ることが許された、自然界で最もシンプルな形式だと思っています。
約75億の人の中から出逢い、約1/140000000000000(1400兆分の1)の確率を乗り越えて育まれる命というものは、
希望・期待・夢といったポジティブな面だけではなく、不安・恐怖・というネガティブな面も抱えています。


母になること。
父になること。
目の前にある命をすべて受け止めていくこと。


撮影の際、ご夫婦がふたりぼっちになることを決めました。
私はカーテンの向こうに隠れて、ただ、ふたりぼっちになる。
初めての出産、撮影という緊張の中で、1番傍らにいて欲しい人が目の前にいる。
その人のお腹には、新しい命があって。
ひとりからふたりに。ふたりからさんにんに。
緊張の中にある安堵。
現実と幻想の境目になるように、レースのカーテンの隙間から、
そんなふたりぼっちの世界を覗くように撮影しました。

被写体が受ける光は全て自然光を使いました。
草加店特有の逆光です。
被写体が受ける100%の逆光は、想像以上に草加店のテーマである「神秘的」 にふさわしい表現をしてくれます。
前ボケに使ったこのレースのカーテンは、幻想的な空間と現実的な空間を分離するためにあえて順光を当てています。順光が出す光線と被写体とには距離があるため、被写体が受ける順光の影響は最小限にしています。
また、縦写真は安定感をもたらしやすい一方で、横写真は安定感を得ることが難しいのが特徴的です。
しかし、不協和音と同様に、横写真は使い方によって縦以上に安定感をもたらすことができる写真になります。

ー 美しさという想像を、創造する。 ー

ライフスタジオがいつまでもそういう空間であってほしいと願います。



生まれてくるお腹の子へ。生まれを待つ父と母へ。

HAPPINESS TO YOU.
2016年12月のフォトジェニックコメント:0hit:124
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『始まるのはいつだって人の意志から。』

Tokorozawa Photo
Photo by Satsuki Kudo
Coordinate by Lisa Arai
 

私は時々、写真を撮っていると思うことがあります。
人が心を動かされる写真とは何なのかを。
人は何を見て、何を感じ、心が動くのかと。
 
それは形の美しさや趣向の凝り方なのか。
それとも、それら物理的・技術的なものの一切を超えた感覚的に訴えかけることができる目に見えない何かなのか。
 
結論から言うと、それはその全てであると言えると思います。
形が美しくなければ、人は共通した美しさを感じることができませんし、
撮りたいものを表現をするためには、趣向を凝らす必要があるかもしれません。
そして、何よりもその写真に感覚的に訴えかける力がなければ、その写真に惹かれるものがないからです。
 

写真を撮ってお客様へ提供するという仕事を6年間も続けていると、
経験的に「ああ、これは良い写真だな。」と思う写真に何回か出会うことがあります。
その「良い写真」とは何かとは、様々な要素があります。
撮っている人が皆違う人なので、その写真によって要素のバランスが異なりますし、
毎回違う被写体の美しさを表現するためには、決して形だけでは測れないものがあります。
 
それは何なのかと漠然と考えていた4年前のこと、私はある文章を読む機会がありました。
かつて、Mr.Leeが書いたカメラマン教育の文章で『2012年撮影者変化発展プログラム』というものがありました。
ライフスタジオの写真とは何か、ライフスタジオの撮影者とは何なのかを知りたかった私は、この文章を読んですっきりとした答えを持つことができました。
 
その中にこんな文があります。
 
"一般人を対象にするスタジオでは撮影者を上手な人と下手な人、
または、有能な人と普通の人程度の2つの段階で区分している。
ならば、それ自体を決定する基準は何なのか?いろいろな基準があるだろうが、
「自分が自ら条件を作ること」と「あるがままの条件から探すこと」では、勝負が分かれると考える。
 
[自分が新しい条件を作ること]は
自分の意志が積極的に介入されているということから価値が発生する。
ある条件だけで探すことは、ほとんどがコピーと同じであるが、
[自分が新しい条件を作ること]は創造であり、無限の可能性を含んでいる。

私達は人を対象にしている。
人は、自分がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持っているのか書かれた本を持って歩いているわけではない。
短い時間の中でその人に対する情報取得と共に分析が同時になされなければならない。
そして、同意を得る過程がなければならない。
あたかも精神科治療のために催眠療法を使用し、その人の内面にあるものを表に出していくことと同じだ。
より多くの情報と正確な判断をすればするほど、私達が写真で表現できる可能性は高くなるようになっている。
人間は普遍性と特殊性とを同時に持っている。人間が持っている普遍的価値は誰にでもあるが、一人一人違う。
このような普遍性と特殊性の結合が、その人が存在している美しさであり、私達はそれを表現する義務がある。
被写体が持っているものを捕らえ、外に表現することが条件を作ることであり、散らばった状況に魂を与えることは、
発する言葉やポーズのような撮影者の技術である。
人に集中するということは、実践を基盤にしている。
これは、単純に撮影過程で起きている人間関係に限ったことではない。
私達が息をし生きているすべての部分に、いつでも同じ基準と行動が適用されなければならず、撮影過程ではより真正性が含まれた実践を必要とする。

人間を顧客として対象化しないこと。
慣れないために常に自分を新しい条件に追いやること。
人間と社会に対する勉強を面倒くさいと思わないこと。
原則と目的を失わないこと。"

 

一般的な商業写真という括りに苦しめられてきた私にとって、この文章は衝撃的でした。
それと同時にとても気持ちが楽になったのを覚えています。
 
私が知っている商業写真とは、自分の意志とは別に
「wedding写真では、この場所で、このポーズで、この光で、キスシーンと指輪のシーンは必須で撮らなければならない。」、
「baby写真とは、おむつ写真がなければ、笑顔のクローズアップ写真がなければいけない」と言ったような、
weddingとはこういうものだ、babyとはこういう存在だというような固定概念を押し付けられているようでした。
 
それがこの文章では、ライフスタジオの写真に重要なのは、「人」であり、
その「人」を見て、接し、深く入り込み、その中で撮影者自身の「意志」を以て、
写真を撮ることでその写真に価値が発生するとあります。
その「意志」があるから、写したいものをその人の「意志」を以て表現する。
その「意志」があるから、インテリアやライトボックスや他者に制限されず、
自らの「意志」を以て外にあるものの条件を変化させることができる。
他者も同じ人だから、自分の「意志」に自然に不快な思いをさせず同意を得てもらうために、「人」に深く入り、
その唯一無二の関係性を以てさらなる自由を得ること。
それがライフスタジオの原則と目的であること。
それがライフスタジオの写真の価値であること。
 
原則と目的のもと、自ら「意志」を持つということは矛盾しているように見えるし、
文面から見ると不自由そうに見えるかもしれません。
しかし、私たちは自ら始まる「意志」を尊重すると同時に、
他者の「意志」を尊重せずに本当の意味で「自由」になることができません。
全ての存在を排除せず、否定せず、自らを変化させ、
外側を変化させる能力を持つ人が本当に「自由」な人であると思います。
そうすることで自分の「意志」を無理やりではなく自然に人生に、写真に反映することができるのではないかと思うのです。
 
そう。
「良い写真」とは、撮影者の意志が無理やりではなくごくごく自然に反映されていることが基準の一つではないかと私は考えました。
volvoさんが以前、「良い写真とはそつのないこと」だと定義しました。
また「その一枚専用に写真が作られていること」だとも言いました。
「そつがない」とは「不自然さがないこと」、「その一枚専用に作る」とは「自らの意志で条件を変化させていること」を意味します。
 
そのためには、技術的な部分の練習も必要だし、深く考え自ら結論を出す感性的な部分の学習も必要です。
自分の意志を表現するには、技術的な手数と知識、そして自分の意志が何かを知るための哲学がなによりも重要です。

そうして人の「意志」のもと、人の「手」、人の「考え」が入り創られたものには魂が宿ります。
それが人が自らの「意志」から写真という形から創り出した価値であり、
そこから滲む人の「意志」が形を超えた価値になるのではないかと思います。
意志とは形を作る原動力であり、そこから作られた形から人は作り手の意志を感じる。
そうやって人と人は、目に見えるものを超えて、価値を認め合い繋がっていくのかもしれません。

この原則と目的のもと、ライフスタジオの骨組みから教育までがすべて写真につながり、人生につながります。
 

この写真を撮るときに、考えていたのは「特徴的であろう」ということでした。
それは私自身の「意志」でもありましたが、被写体自身の存在感の「特殊性」を強く感じました。
この子は8歳で写真を撮られるのが好きな、いわゆる上手な子です。
しかし、それだけではなく話すだけではわからない、眼差しや表情、醸し出す雰囲気に
この8歳の男の子から人としての深さを感じました。
この子の存在をただ認識するだけでは、きっと私の最大限の得意分野で撮っていたことでしょう。
しかし、ライフスタジオの原則と目的は「被写体の美しさ」や「被写体の唯一性」を、
自らの意志を以て最大限表現するということです。
よって、私はここで表現するのはこの被写体の特に際立った存在感であると考え、
いつもは使わない洗面所の1mほどしかない隙間の、誰も注目されていなかった美しい光で撮ろうと思いました。
 
狭く、光も美しいとはいえシビアな場所は非常に「特殊的」であり「特徴的」です。
この光で撮るということは、いつもと違う撮り方になるのでいつもと違う美しさの写真を撮るということです。
それゆえ、私がこれまで撮ってきた得意のふんわり明るい写真ではなく、
敢えて顔に影を作り光と表情を強調するという表現をしました。
光を当てる範囲に気を付け、鼻筋まで光がいかないよう、
かつこの被写体を際立たせるために睫毛にはきれいに光が当たるように、
後ろ斜めから入る自然光の角度に気を付け、さらに光と影を強調するための前ぼかしをいれました。
そして被写体の立ち位置を設定し、声をかけます。
 
光と画角、ポージング、そして表情がすべてマッチしたその時に、その子の深さに触れたような瞬間でした。
1シーンを撮っていく中で、笑顔も節目がちな表情もお手の物の彼ですが、
くるくると表情を変えていく中でまっすぐにこちらを見る目にハッとさせられたのが、
この被写体の特殊的な雰囲気だったと感じました。
この表情をこの子らしく特徴的に撮るために、こちらもその被写体らしさを撮りたい意志を持ち、
敢えていつもとは違う特徴的な撮影の仕方を執ること。
それを毎日繰り返し行うことが、写真だけではなく、人との接し方、
広く見れば人生を生きる姿勢につながるのだと、写真を撮っていると感じます。
 

日々何か価値を生むということは、面倒くさいし、疲れるし、簡単なことではありません。
しかし、価値とはそれにも勝る楽しさや喜び、嬉しさがあるのだと感じます。
それはいつも、誰かから刺激を与えてもらったときだけ変化するのではなく、いつだって自らの意志から始まるものです。
 
哲学エッセイを勉強していると、矛盾の話が出てきます。
物事や事物における矛盾とは、変化するか変化しないか両方の面を持っており、
変化するにはそのもののなかに変化に向かう要素が必要なのだとあります。
人に置き換えるとその要素とは「意志」なのではないかと思います。
「意志」がなければ、いくら外側から知識や技術を教えても、話をしてもその人のアンテナが作動せず、
外的要因は内へは入りません。
だから、変化をさせるのは外側の要因ではなく、自分自身が「意志」を持ち、
その「意志」にまっすぐに自由に生きているかどうかになります。
 
写真を撮るということは、自分の内面に正直であることです。
いつだったか、ミンさんにどうすれば自分の写真を撮れるようになるのかお話を聞いたことがあります。
それはいたってシンプルな答えでした。
「簡単ですよ。
自分が撮りたいと思った瞬間に、自分が心惹かれた瞬間に、ただシャッターを切ればいいんです。」
その言葉には、シンプルですがライフスタジオの原則が力強く滲んでいました。
そのシンプルな言葉を実践するには、日々自らの条件を変え、常に強い意志を持つことが必要となります。
だけどそのことを楽しめれば人はいつだって自由になれる。
 
それを始めるのはいつだって人の意志から。
2016年11月のフォトジェニックコメント:0hit:238
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「a beautiful woman」

photo by Soo

出産予定日も間近、
わが妻のマタニティフォトを撮影したのです。

これまでマトモに妻を撮影することがなく、今回はじめて今の妻の姿を美しく残そうと、真剣にカメラを向けました。

今にも裂けて飛び出してきそうなくらいに、真っ直ぐ、突き出たお腹。

その中に生命が宿っているというのは不思議でならない。

広瀬香美の「promise」が好きなようで、曲をかけるとノリノリに手足をばたつかせたり、

ときどきするシャックリを手のひらに感じるときには、本当にこのお腹の中に赤ちゃんがいるんだ…といまだに思う日々なのです。

 


まもなく母になる彼女もこれまでの10ヶ月間をさまざまな気持ちで過ごしてきました。

ずっと憧れていた母になること。

胎動を感じる喜びや、赤ちゃんを向かい入れる準備のあれこれ。
幸せを感じる瞬間がたくさんありました。

しかし時には、ふとした拍子に悲しくなってしまう気持ちが出てきたり、不思議な感覚を感じていたようです。
父親になる私にできることは、心配をすることくらい。
それさえマトモにできず、鈍感で妻の気持ちの変化に気づいてあげられない私に幾度も苛立ちと悲しみの感情を行き来したかと思います。

スタジオにいらっしゃるお客様は、ほとんどが妊娠と出産を体験した方々です。
心強い先輩のお話をお伺いさせていただく度に、夫のサポートが大切だということと、そのサポート次第でその後の夫婦関係に大きく関わることを学びました。

だから、これまでの感謝の気持ちをこの撮影に込めた。。笑

シャッターを切りながら、まるで妻を撮っているとは思えない感覚におそわれ、ただただ彼女の美しさに惹きこまれるばかり。

そこには妻としてでも、母としてでもない、ひとりの美しき女性が目の前に立っていたのでした。

そのとき気付かされたのです。
マタニティフォトは産まれてくる子どものために残すのではなく、ここまで自分の身体の大きな変化を目の前にしながら、お腹の子を育ててくれた妻のために残すのだということに気づいたのです。


あともうひとつ、
生命を宿した女性というのは
"美しい"ということ。
 
2016年10月のフォトジェニックコメント:0hit:97
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『Look at...』
 

life studio KOSHIGAYA

 

photo by volvo

codi by takako

 

写真の構成要素で一番大事にしている事を考えるとき、どうしても写真に「統一感」があるかどうかという点から
私の考えは逃れることができません。
毎度同じことを書いているかもしれませんが私にとって統一感というのはそれくらい大事で
むしろ統一感が成されていればそれだけでいいとも思うくらいに重要視しています。


統一感を出すにあたりこの一枚が何か特別なことをしたわけではなく
75枚全てに統一感が出るよう意識して撮影はしていますが
特に集中して表現がされた写真というのはこのように紹介したくなるもののようです。


テーマは「今の彼女の最も美しい部分に集中する」というものです。当たり前の言葉ですが笑。
カメラマンは写真を撮るにあたりシャッター越しに見る被写体を見て、どのように写すかを
規定をしなければならないと思っています。
彼女を撮影するにあたり私の中で規定したことは二つです。

1:「被写体の美しさは何なのか」
2:「それを写真として表現する手段は何が適切か」
 

彼女は16歳。
書いてみてびっくりしたが今の私のちょうど半分の年齢です。
まあいつもは年齢の30分の1くらいの子供たちを撮っているのがほとんどなのですが・・・。

彼女は中学生から高校生へと階段を上がり始めたばかりです。
人生の変化が最も大きいこの時期に撮影にきてくれたという事の意味は理解せずとも感じるものがあり
小学6年の妹と2人姉妹を持つおおらかなお母さんからの要望もまさに
「中学から高校へ進級した」という変化の記憶を残したいというものでした。

春まで着ていた中学校の制服は膝を余裕で覆うほどの長さのスカートと明るめの紺色のブレザー。
その姿は中学校に入学したばかりかと思わせるほど幼く見えるものでした。

対して高校の制服は急にスカートの丈が20センチくらい短くなり
どう見ても「女子高生」といった風貌へと変化をとげていました。

いでたちは大きく変わり、写真として変化を残すには正直十分な材料が揃っていました。

しかし私の中ではただ衣装だけが変化した彼女を撮ることに何だか物足りなさを感じる
部分があり、話をしてみたり、色んなポーズや表情、輪郭を確認してより観察をするようになりました。

その中で私は彼女を規定する核心的な部分は制服ではなく、彼女の「目」なのではないかと思い始めました。
思い返せば気になっていたのは「こんにちは」と声をかけた瞬間に私と顔を合わせすぐにそらした目。

その目は「照れ」と「素直さ」が混ざったようなとても綺麗な瞳でした。

 

望みである「変化の記憶」をただ制服の変化を残すだけでは現象に過ぎず
特徴のある「目」が訴えてくる様々な感情にフォーカスを当てたいと私の中で決定するようになり
そんな時、何か表現のきっかけがないかと探していたところお母さんが考えてきてくれた提案は
「化粧をする」事でした。
 

化粧しながら変わっていくその目には、高校生へと進級し大人へと進んでいく変化と
彼女が本来持っている「素直さ」を秘めた変わらない瞳が混ざり合っていくような感覚を覚えました。

化粧が終わった後のその「目」を見た瞬間規定し
目だけにフォーカスを当てられる方法を考え
統一感を持って女性らしく表現する事を選択しました。
 

繰り返し説明するようですが、統一感とは写っている全ての構成要素が
「その一枚専用」になっている事を意味しています。
「その一枚専用」にするためにはフォーカスを当てている「目」
女性として美しく表現する「ポーズ」、そして光とインテリアとの調和が必要です。

それらを具体的にあげてみるならば
 

「目」にフォーカスを当てるという事において集中したことは

1:窓の反射によって「目」意外がぼやかされ、彼女のまつげが化粧によって巻かれている感じを強調している点

2:「目とまつげ」の両方が強調される視線の角度を斜め上と規定すること

 

女性らしく表現するという事において集中したことは

1:彼女の左手が顔に少しかかって目以外の部分の気をそらす作用をしている事

2:窓の反射が強めに出ている事で右肩や後頭部の部分が見えにくくなっている事

 

インテリアとの調和という事において集中しているのは

1:右端に配置されている窓の格子が重心の均等化と引き締め効果を担っている事

2:真ん中の格子は彼女を物陰に隠れさせ、まるでクリスマスに相手を待つ彼女をショーウインドウ越しに目にしたようなイメージを持たせる事

 

重要なのは「光」と「右端の窓の格子」です。

「光」は撮影をするにあたり一番最初に見なければいけない構成要素のひとつです。
一般的に「光」といえば<被写体に対して>という前置詞が付くことが多いですが
光とは写真の全ての構成要素に関係があり被写体にあたるいわゆるメインライトだけではなく
色んな副次的な関連がされています。

例えば窓の反射をこの写真のように彼女の目だけにフォーカスが当たるよう
表現するためには、そうなる為の「光」の調節が必要です。
背中の部分が反射でほとんど見えなくなるようにすることも同様です。

もちろん彼女自身にも光が当たるように左を向いてもらいメインライトも確保しつつ
ちょうどいい場所を探し出します。
これを3秒くらいで判断します。やってはいけないのは時間を掛けすぎることです。
主役は光ではなく彼女であることを忘れてはいけません。


次に「右端の窓の格子」ですが、これは「重心のバランス」を取る役割をしています。
写真の重心とは写っているものの質量のバランスの事を言います。
写真の左側にばかりものが写っていれば重心は左に寄っているということになりますが
この写真では被写体が左にいることから重心が左に寄りがちなところを右端に格子を入れる事で
左右の均等を図っています。

もしも右端の格子が無かったら、私はこの写真を選択しなかったかもしれません。

 

被写体の美しさを表現するということと、写真に写る全ての構成要素が連結し全てが意味のある状態になる事が「その一枚専用」になる事

であり、それが私たちがスタジオで「人を撮る」という事の核心ではないかと考えています。

 

撮影後、隣の中学に0−8で負けるようなサッカー部に入っていたくせに自分はプロよりうまいと思っていた自分の16歳のころを思い出し「自分はあの頃何も考えていなかったな」と撮影に来てくれた彼女のしっかりした言葉使い聞きながら考えてしまいました。

家に帰り、自分が高校生の頃の写真を探してみましたが、友達とふざけているプリクラしか出てきませんでした。

写真を撮るというのは重要な事ですね。

2016年9月のフォトジェニックコメント:0hit:142
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生きていることを見つめる眼差し。

Tokorozawa Photo
Photographer: Kudo
Coordinater: HIRO

Tomorrow is Another Day. 

この日はとても暑く日差しの強い日。
インターフォンの音を聞いて玄関を開けたら、両親に手をつながれて夏の名残のある日に焼けた女の子が、
その年齢にしては少し大人びた落ち着いた笑顔で入ってきた。
最初は3歳かと思ったら、2歳だった。
そのくらい大人びた表情のその子は、接してみるとやはり2歳らしい自我の芽生えと好奇心。
お洋服には好みがあり、帽子を被るときと被らない時が気まぐれである。
そして私たち大人の行動がとても気になるようで、その綺麗な瞳はよく私たちを見つめていた。
しかし醸し出されるどこか落ち着いた雰囲気は、きっとその子が他者を見つめる眼差しにあるのだろう。
その眼差しは、とても優しく、人が好きであるという愛に満ちていた。
きっとご両親がその子に向けている眼差しが、その子に表れ、その家族の愛情の温かさを感じ、その愛情の中で世界を知っていくという過程であることが伺える。
日々広がっていく世界の中で、生きているということを驚きと喜びで満たしていっている。
そんな感じがした。

「生きている」ということは、私たちには当たり前のことであるけれど、それはとても「特別」なことです。
なぜなら、「人」の人生には同じものがただひとつもないからだし、
同じ人生を生きることができないということは、とても「特殊的」だから、その人が「生きている」ということ自体が「特別」であるからです。

2歳のその子が教えてくれることは、その「生きているということを見つめる眼差し」だったと感じます。
日常を通り過ぎていく日々の積み重ねが「人生」であるから、その日、その時、その瞬間が特別であるということが「生きていること」自体に向けた眼差し。
繰り返されるよう見える日々を繰り返すように生きていることが、「生きている」と言えるのかということ。
物事はすべて変化をし、その瞬間の中に芽吹く何かがあり、その中で私たちは生きているということ。
生きているということをそのように見つめるという眼差しに、力強い生命力を感じます。

早いもので、私がスタジオで撮影するようになって4年が過ぎて、あと少しで5年経とうとしています。
その年数が長いか短いかでいえば、世間的にはきっとまだまだ短くのでしょうが、
毎日のように撮影をさせていただいているライフスタジオにおいては、5年も撮影をしていればもう立派なベテランです。
撮影が日常的になった今の生活になって、撮影がルーティーン化するのが当然のように思えますが、今なお飽きもせず撮影のたびに新鮮な気持ちで入らせていただけているのは、
このスタジオにある「人」という存在へ向けた思いのようなもののおかげなのでしょう。
ライフスタジオでは、「人」という言葉がよく出てきます。
ひとえに「人」といっても、当たり前のことなので、そんなに大きな感動を覚えるほどのものではないのかもしれません。
しかし、撮影に慣れてくればくるほど、撮影が日常化すればするほど、仕事自体がルーティーン化してしまいがちで、撮影がパターン化してしまいます。
「人」をパターンにはめるということは、目の前のその「人」自身を知ることをやめ、ひとりひとり違うその「人」を見ても同じように見えてきてしまいます。
それは「人」を見ているとは私には思えません。

私がフォトジェニックで何回もしつこいくらい書いているように、
「人」という存在は唯一無二であり、誰一人として同じ「人」がいないから、「自」と「他」があり、だからこそ私もあなたも同じように「生きている」ということを知ることができます。
この「独自性」と「同一性」という矛盾しているように思える概念が表裏一体のように存在しているのが「人」であり、
目の前にいる「被写体」を見つめる眼差しも、この2つの概念があるからその被写体だけのたった一つの写真を生むことができ、かつ共通する人間的な感覚で感動を引き起こすことができます。

そういった「人」の概念を以て、私が写真を撮るときに見つめていることは、その被写体が「生きている」ということです。
いつも私が写真を撮るときに考えるのは、被写体のどの瞬間に「生」が宿り、どう写したら「生きている」ということを表現できるのかということです。

今回、私がこの写真を撮るにあたって実践した方法は2つです。

まず一つ目は、被写体をよく「観察」することです。
「観察」すると言っても、ただ何もせずにじっと被写体を見ることではありません。
話しかけて、投げかけて、その被写体が何にどのような反応を見せるのか。
単純なものだと、何が好きで何が嫌いかもそうかもしれませんし、
何を見たら目を輝かせて、何を聞いたら動くのか。
そのときの癖や特徴は何か。
その子を表す外的な特徴は、どんな動きでどんな仕草か。
撮影が始まるわずかな時間でできるだけ観察し、情報を集めます。
それは撮影が始まっても同じです。
撮影中に、投げかけたものへどのような化学反応が起こるかどうかは始まってみないとわからないこともあります。
その時も「観察」するというアンテナがあれば、その瞬間を捉える眼差しを持つことができます。

二つ目は、生きているその瞬間を作り出すことです。
その生きている瞬間が出る状況を、どの撮影でも作り出すことがプロとして私たちに求められていることです。
観察をしている中で、気まぐれで帽子を外したり、シャボン玉への興奮した反応があったり、小悪魔的な笑顔があったり。
その子らしさを引き出し、そこを捉えるポイントを把握すること。
そのことで、突発的ではなく意図的にその瞬間を作りかつ写真のフレーミングや光を落ち着いて作ることができます。
つまり、意図的に「生きている」瞬間を作り出すことができます。

その二つの方法を実践して撮影したこの写真では、この被写体の生命力を表現したいと思いました。
この被写体の最大の特徴は表情です。
特に眼の表情が豊かで、興味のあるものがあると眼がきらきらと輝きます。
この瞬間は、シャボン玉を吹いたと同時に帽子を取りました。
きらきらした表情と、帽子を取ったときに乱れたさらさらの髪の毛がこの写真に動きと風を吹かせてくれました。

その決定的な生きていることが滲み出している瞬間を、どのように切り取るかが写真において一番重要です。
この写真は、目線の先の上部半分の空間を空け、外を抜ける緑をぼかし光るように写すことによって、吹き抜けるような空間を作ろうと思いました。
その結果、まるで外で風を受けているような写真になりました。
また、左端の本棚を写したのは空間に少しフレーム的な要素を加えることにより、写真を収まりを良くするためです。
その左端があるかないかで、ぼやけた雰囲気を引き締めることができます。

光は、外から入る残暑の強い自然光。
コントラストをやや強め、かつ柔らかい印象を残すことで、髪の毛が透ける様子とこの子の持つ力強く優しい生命力を表したいと思いました。

このような要素を組み合わせることで、このとき、ここにいた、この被写体自身が「生きている」ということを表現した写真を撮ることができました。
この子が持つ独自の生命力と、それを写真に表現するために整えるべき条件。
それを撮影の中で毎回行うには、撮影をルーティン化し、パターンにはめることができないのだと私は思います。
なぜならば、私たちが写そうとするものは、その被写体の「人生」の一部であり、それを写そうとするには被写体が「生きているということを見つめる眼差し」が必要だからです。
そのことは毎回変化することを求められ、人へ向けても写真に対しても向上していくことが求められるからです。

上機嫌で撮影を終え、モニターで昼寝をし、帰り際に少し不機嫌な彼女を見ていると、
あれだけ観察し写真に捉えた彼女のことをまだまだ全部知らないような気がして、私はまた彼女に会いたくなるのです。。。
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