
撮影者によって演出されたイメージの中で、私たちが指向する自然な写真はどんなのであろうか? これを表現するための方法論に対して自問してみる。
この写真は5~6ヶ月の赤ちゃんで、この時期の赤ちゃんは短時間なら両手を広げてうつ伏せができ、瞬間的に座わらせて写真を撮る方法しかない。
このような場合被写体は限られたことしか出来ないので、その赤ちゃんが見せている姿をうつ伏にしたり、瞬間的に座らせてみたりを繰り返して撮影をしていくことになる。
その為、フレームの中で発生した状況に対して若干の演出(コーディネート・小物etc…)が要求される。
こういう状況ではフレイムの中では私はちょっと
可愛い状況を想像する。
この写真には、2つの意図をこめた。
1:この時期の赤ちゃんは、腕を広げてる動きが出来ることと好奇心が旺盛になる為、目の前に何かを置いて手を顔の前に寄せて瞬間的に物体に集中させ、また指先を自分の意思どおりに動かす事が少しずつ出来るようになる時期なので、赤ちゃんが本のページを捲りながら読書をする姿という演出したイメージを作ることができる。
2:このような動きを土台に6ヶ月になった赤ちゃんが、大きな本のページを可愛い小さな手で捲っている姿は、お父さんお母さんの行動を真似しようとする好奇心旺盛な姿を連想させる。
この写真は、私のまた違う方向からの視覚的解釈で再現されたイメージだ。
被写体の情緒と形態の美しさに要素を吹き込み撮影者の視線によって、また再現される。
そして、その中での対象が持っている表している美しさに集中してシャッターを押した。
演出された写真と自然な写真の境界線上で、私が表現できる方法は何かと言う私の疑問について、私の尊敬する韓国の写真家『Byun-SoonChoel』が あるインタビューで答えていた。
“事物を眺める時,表面的美的関心よりは
対象との緊張した視線を維持するために努力する。
対象近くでFeelingが通じて,交感することよりは
状況だけをなげかけ、自分はその場から離れていようとする“