
写真を構成する要素の「光」
コーディネートやインテリアなど、様々ある構成要素の中でカメラマンのみにその選択権が与えられる要素である。
光を変えることで一見して分かるほど写真のイメージが変わる。
それ故に光を見ること、作り出すことに対して大きな責任を感じる。
被写体と背景にあたる光の量の差、角度、色のバランス。
様々な事柄を一瞬で読み取る難しさの中に、様々な光の要素が一点で交わったときの喜びと、それを求める楽しさがある。
光について考えるとき、いつも思い出すのが、日頃から人の顔をよく見て、どこから光が当たっているのか、どの光が美しく見えるのか、光を読むための訓練をしなさいと師に言われた言葉。
光を読むというと難しく感じるかもしれないが、純粋にその人のイメージとその場の雰囲気と表情を一番調和させる光を知ること。
その人の美しさを最大限に引き出す為にその人のことやその場の環境を知るということだと考えている。
被写体が子供の場合、存在が既に美しい強さを持っているが、それを引き立てる環境を作り出し、子供の自由な魅力と調和させることが重要だと思う。
カメラマンの視点としてきれいな光を作れたとしてもそこに無理やり子供を連れて行き、不快な思いを与えながら写真におさめたとしても全く意味がない。
この1枚を撮った時、この雰囲気を出すために望遠レンズを使いできるだけ離れた場所でカメラを構えていた。
当然この子と会話をするには難しい距離である。
そこでアシスタントの力に助けてもらいながら、思い描いた場所で望んだ仕草を待つ。
子供の場合、自由の中に存在しているので、こちらが望んだ場所で望んだ仕草を引き出すためのアシスタントの技術がとても重要である。
しかしそうやって引き出された表情や仕草も一瞬の出来事である。
位置関係としたら被写体から離れたところにカメラマンがいて、被写体の傍にアシスタントがいる。
この離れた状態でカメラマンとアシスタントとの意思疎通がなされないとこの状況は生まれなかった。
そしてアシスタントが必死で作り上げた一瞬の姿を逃さずにシャッターを押す。
カメラがフィルムからデジタルに変わり、1回のシャッターの持つ責任の重さが軽くなったといわれることがあるが、一瞬の仕草を捉えるにあたってその重さは変わらない。
子供に「もう一度」を求めることは既にその子の自然な姿から逸脱してしまう。
そうやって生み出された一枚の魅力をその子や親御さんに共有してもらえる喜びは本当に計り知れない。
自分の子供の成長の喜びと同時に、第三者が見ても美しいと感じてもらえる写真に自分の分身である子供が参加している喜びを伝えたい。
それが僕が写真を撮るに当たって抱いている思いである。
常に最大限でその場の魅力と調和したその子の姿を見せたくて、あえてここで紹介するに当たっての画像加工は、自分の撮ったという目印のロゴを付け加える以外全くしていない。