
かわいらしい少女だと彼女を一目見て思った。彼女はフランス人と日本人のハーフだという。
だけど、被写体がかわいらしいからといってかわいい写真を必ずしも残せるかと言ったら答えはYESではない。写真は結局、被写体とカメラマンとの間に生まれる鏡だ。そのときの声のかけ方や、周りの雰囲気や状況、被写体のコンディションや性格的なもの、それらの幾重にも重なる外的環境や内的環境を合致させなければ、レンズの中にいい風景は見えてこない。
彼女をこの場所に連れてきたのは、そのかわいさを違う角度から表現するためだ。かわいらしいから、敢えてかわいらしさとはかけ離れた場所に連れてきて、敢えて錆びついたトタン板の壁の前に座らせ、敢えて無気力さを出させるような座り方をさせる。明るさや笑顔を一旦排除し、気だるさと無機質さだけをそこに残す。そういう空間作りを演出するもの、カメラマンとアシスタントの重要な役割だと思う。
被写体を最初に見たときのイメージと対照的なイメージを僕は敢えて演出する。そのため、被写体には無表情を装ってもらう。
ひじを突いて座るのは、時として行儀が悪いと思われるかもしれない。見ようによっては「女の子がはしたない」と思われるかもしれない。伸ばした足にも同じ様なことが言える。だけど、行儀良さもここでは少しだけ、敢えて外してしまう。この無気力さが、この場面には適しているのではないかと僕は感じる。無気力さを演出させると同時に、だらしのない脱力感は出ないようにと、その線引きだけには細心の注意を払う。
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この写真を自分なりに解説すると右側の白い柱から徐々に暗さを増していく素材感の違う壁、謎の物体を入れた網の籠、黄金のゴミ箱にエッフェル塔の瓶、画面右側手前にわずかに見える植木鉢の黒い丸み・・・色々な要素が折り混ざっているのに、ここではその全てに均衡が取れたように感じる。
100%とは言わない。人によって見方や感じ方は違うし、完全なる正解などないのだからわからないが、でも、僕がファインダー越しに覗いた世界は、自分が頭の中で巡らせていた形と一致したように感じた。
直線や曲線、丸いもの、四角いもの、三角形のもの、色も形も違い、いろいろな要素が詰まっているにもかかわらず、ごちゃごちゃした印象を受けるよりも先に、その、彼女の無機質さに目が行く。つまらなさを装ってるだけなのに、本当につまらなそうな印象を受けるし、だけど、その無表情さが、やはり彼女の持つ魅力を引き出しているようにも感じる。
本当はとても明るく活発な彼女が見せる、このつまらなさ。フランスのファッション雑誌に掲載されているような、少し大人な、いい意味で気だるい彼女を表現できたのではないかと思う。