フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

サヨナラ、またね、忘れない

投稿日:2010/12/27

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私はただこの瞳だけを映したかったのだと思います。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけです。だから顔の半分以上が隠れていても、手や腕の一部分がフレームの外にはみ出していても構わないと思いました。結果として、自分の残したい核心部分がしっかり残っていればいいんじゃないかと思ったのです。 インテリアもコーディネートもろくに映っていない写真が、果たしてライフスタジオの写真として人に共感されるのかわかりませんが、ただ力強く、輪の外の世界を見つめる瞳を、私も真正面から受け止めようと思い、彼の正面に対峙しました。 彼のとったその行動に、どんな意味があるのかわかりませんでしたが、私は彼と同じ目線の高さに自分を置きました。そして、彼が放つのと同じような力で、輪の向こう側の彼を覗き込んだつもりです。 彼の放ったこの行動の本質は、私にはわかりませんし、きっとそれはいくら考えてみても、私には永遠にわからないのかもしれません。もしかしたら彼自身もわからないかもしれません。こういう行動をしたことすら、彼はもはや覚えていないかもしれません。 彼が何を考え、そこに輪を作り、外の世界を見ようとしたのか、何度も言うようにわかりません。わからりませんがそのときの私はそこに意味があるように思えたのです。もしかしたらただ私が、彼の行動に自分なりの意味を持たせようとしているだけのかもしれないのですが、私は何を見ているのかわからない彼の行動の本質を考えました。 人の行う行動に、どれだけの意味があって、どれほどの価値があるかはわかりません。わからない思いを文章にすることで、何度も「わからない」という言葉が出てきてしまうのですが、人が人の心に深く入るという事は、わからないことの連続だなと思うのです。 自分の心理状態も、行動の意味も、自分自身ですら深く知り得ない私たちが、相手に深く入り、相手の気持ちを汲み取り、毎日多くの人に真剣に真摯な姿勢で向き合うというのは本当に難しいことの連続です。 知ったようなふりをしたり、わかったような口を利いたり、経験からくる傲慢な自信が、自分の考えを鈍らせることもあると思うのです。 人と向き合う方法に、絶対的な正解はありません。これだけの価値観が溢れているこの世界の中で、一つの考え方や発言や行動が絶対的に正しいとか間違っているという事は絶対にあり得ません。 そのどれにも意味があり、そのどれにも無数の正解や間違えや答えがあるのだと思います。だから私たちはいつだって初心を忘れずに、自分に、人に真摯な気持ちで向き合っていかなければいけないですし、考え、悩み続けなければいけないと思うのです。 私も彼のように、たとえ瞳の前に他人には理解できない、目にすることのできないフィルターをかけたとしても、こうして物事をまっすぐを見つめようとしたり、まっすぐ向き合っていこうとする姿勢だけは、忘れないようにしたいと思うのです。

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