
人に、写真に、自分自身にもっと深く入っていきたい・・・。
艶やかな着物をまとった彼女は私を夢中にさせてくれた。
被写体に求める表現方法について考えてみる。
自分の思いを伝えようとする前にいくつかのフィルターをかけるようになってきた。
それは、自分の価値観だけでなく他者も要求してくるだろう価値を想定しながら話しをしていきたい。
根本は同時に喜べるような気持ちでありたいからである。
私のブログの自己紹介文でも述べているように
「私にとって喜びとは、他者が喜んでこそ実感できるもの」
誰かの為に何にかをするというより、
共に何かを一緒にやっていきたい。
そんな気持ちで毎日を過ごしています。
この言葉を時々忘れてしまう時がある。
その時は自分自身に対して嫌悪感を抱き自分の前に大きな壁を作ろうとする。
しかし、その壁を壊してくれたのがこの一枚の写真に映る彼女との出会いだった。
75cut一枚一枚を眺めていると何とも言えない柔らかい気持ちになる。
前回の写真でタイミングについての話をしたが今以上に今後被写体を動かしていく力を養いながら、
いつ舞い降りてくるかもしれないタイミングを逃してはいけない。
写真を撮るということは目の前に見えることだけを入れようとする欲かもしれません。
しかし、写真で人の生き方を表現するということは目の前に見える被写体に
カメラマンの感情を移入して彼女が話そうと思う事を引き出そうとする情熱だと考えます。
写真をたくさん撮っていく過程で、その人の写真が発展すると考えるが感情を移入しようとする情熱と
練習がなければカメラ術はある瞬間止まることになるものです。
そのような理由でライフスタジオでは
‘決まっているレパートリー’の撮影方法を拒否するのです。
一般のスタジオでの反復される撮影はカメラマンの情熱と発展に否定的な要素として作用します。
ある本で感情労働という言葉と出会いました。私達はその言葉のような汗をもっとかかなくてはいけないと改めて感じました。