フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
静謐の白
投稿日:2011/12/30
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写真にはいろんな種類がある。
躍動感を感じる動きのある写真。
カラフルで見ているだけで楽しくなれる写真。
その人の人生そのものが写っている写真。
様々な種類があり、それを得意とするカメラマンもそれぞれである。
僕にはどの雰囲気が得意かと言えるほどのものはまだ持ち合わせていない。
ただ好きという基準で言えば、静かな写真が好きだと思うことが多いように感じる。
何故、静かな写真が好きなのか。
何かを伝えるときに要点は何なのかが分からなければ伝わらない。
その為に必要なものとそうでないものを区別し、前者を選び、後者を排除する。
そうしていくと僕が選ぶものが「静」を感じるものが多いということが写真という結果に現れてくる。
これではまだ答えになっていない。
静かなものに何を見出しているか?
誰しも、表現をされたものと向き合ったときに、喜びを感じなさいとか、悲しみを理解しなさいなど、受ける感情を支持される訳ではない。
その作品から何を受け取るかは自由である。
でもその自由には「度合い」が存在するように思う。
つまり、作り手やキュレーター、メディアによってある程度操作が出来てしまうということである。
それは排除不可能なものであり、もし排除してしまうと下手をすると作り手の自己満足に留まり、他者との共有ができなくなってしまう。
その「度合い」をできるだけ鑑賞者の自由を阻害しないことを考えて調整すると、僕の場合は静かな写真となるわけである。
この写真に写っている女の子の親御さんやご親族の方々は、こんな大人の雰囲気を感じさせるような仕草が出来るようになった事への驚きと喜びとともに、成長の一過程としての記録としての意味をこの写真に持たせることだろう。
では、不特定多数の他者がこの写真を目にしたときはどうだろう。
そこには記憶も記録も存在しない。
ただ純粋に美しいか否かの感想が生まれてくることだろう。
この子に対する情報やここに至るまでのバックグラウンドを全く持たない人にも美しいと感じてもらうためには何が必要か。
それを考えていくと答えがないのだが、まず思い浮かぶのが見る人の感想を邪魔されない自由ではないだろうか。
一枚の写真を目にしたときに広がる想像力を誰にも操作されることなく、何にも遮られないでどこまで大きくできるか。
それによってその写真を見ることによって得られる喜びは変わってくるのではないだろうか。
その為に僕は静かな写真を選んでいる。
さて、ここで一つ疑問が残っているはずである。
所謂、商業写真で不特定多数の他者の価値観に響く写真を撮る意味が何処に在るか、である。
それは一言で「共有」が目的である。
勿論、親類や友人の間だけで楽しむだけでも、商業写真の目的は果たされるだろう。
しかし、それが不特定多数の人々に賞賛されたら、そこに不愉快を感じる人はいるだろうか?
よく親御さんが写真を見ながら「親バカですいません。」とこぼすが、そうではなく、誰もが美しいと感じられる一枚の写真に自分の分身が内在しているとしたら、その喜びはどれ程のものだろう。
我が子を誇りに思う気持ちがさらに大きくなり、生まれてきたことへの感謝と、日々の子育ての苦労が報われるという救いが、心の中から溢れてくるのではないだろうか。
そして、見ず知らずの人の写真でも、うちの子も同じようにとって欲しいという気持ちから、繋がりが生まれることも何度が目にしている。
写真は繋がりを生むもの、そして繋がりを実感するもの。
人との繋がりを新たに生み、そしてそこに新しい喜びが在ることを発見する。
人の中にも自分の幸せが存在することを実感できる。
その為に美しさを共有することを僕は求めている。
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