フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

存在、そのもの

投稿日:2013/3/19

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新しい場所で撮影を行う時は幾分の緊張と発見があります。私たちがはじめにやらなければいけないのが、環境の特性を理解することであって、その環境だからこそ写せる写真を撮る前に知らなければいけません。

それを探すことなく撮影を始めると、写真が良い悪いというよりも、その環境での最大限特徴ある写真を見ることができないと思っています。

 

カメラをはじめて何年か経つと、ある程度の技術のパターンを自然と習得していくことになります。

100くらいの量の光が横からあたっていればこういうイメージになり、200mmくらいのレンズで撮影すればこういうイメージになり、75°くらいのアングルで撮影すればこういうイメージになり、フレームの中で被写体の移りこむ配分が1/5くらいになればこういうイメージになり…。

光や構図やバランスのパターンの組み合わせは無限にあるものの、ただそれはある程度決まっているものです。結局その無限にあるパターンをどう組み合わせていくのかが、私たちが求められる水準であり、日々の撮影で試行錯誤している内容だと思っています。

 

撮影において重要なことは、写真が成り立つ構成要素を適切に調和させ、表現したいものだけを明確化させることであると今も変わらず考えています。表現したいものと全てを一致させることが難しく、そこに如何に到達するかを常に私たちは模索します。だからこそ第一に表現したいものが最初になければ意味がなく、自分の中でイメージが重要なのだと思います。

 

写真を撮り始めて5年くらい経ちます。毎回毎回、フォトグラファーによって立ちはだかる壁は違って、その攻略方法は異なります。Lifestudioの環境は被写体が自由になる構造を持っていて、それが基本ベースで撮影が行われます。簡単に言えば自然な姿、生き生きした姿、躍動感が伝わってくる、そんな単語が適切でしょうか。。。

 

今の自分の写真のテーマを躍動感とするものの、それがどうやって表現されるべきか本当に試行錯誤を繰り返しています。躍動感を感じる為には写真に生命力みたいな力強いものがなくてはいけない、それだけを考えるものの、本当に表現することが難しいと思います。

 

ただ、最近少しだけ分かったことは、躍動感を伝える為には、被写体の持つあるがままのエネルギーを私たちが見落としてはいけないということと、あるがままのエネルギーを全て取り込むことだと考えています。言葉で言うと難しいのですが、説明するとこうなります。

 

結局、躍動感を感じることができるのはその被写体からでる生命力であり、それがなくては幾ら表現したいと思っていても、写真から伝わってくることはないと…。

 

 

忙しい撮影でした。忙しいという言葉に悪い意味は全く含まれません。全てが全力だったということです。

ご両親様を含め、撮影者、アシスタント全員がそう感じながら一時間を過ごしたと思います。

 

撮影が始まった瞬間から、少し照れを隠すかのように自由に動く彼を見ながら、これは忙しくなるなと。ワクワクしたような気分になると同時に、彼に負けないくらいの力が私たちは必要でした。何にも縛られようとすることなく、自由に動きたいと思う、今しかない彼の姿をどうやったら適切に表現できるのかだけを、暗黙の了解で撮影者とアシスタントが一致させ、試行錯誤を繰り返し、失敗してはまた挑戦し、失敗しては挑戦し、その繰り返しのようだったと思います。

 

被写体の意志を無くしてしまったら躍動感は生まれないと思います。はっきりとした意思表示は躍動感が伝わってくる兆候であり、だからこそ、それを私たちがどのように調整しながら撮影を行うか鍵になると思っています。

 

この写真を撮ったこの場所であれば彼のその力を思う存分表現できるのではないかと察知しました。あと少しの時間で沈んでしまう太陽を気にかけながら、おじさん二人は必至になって全ての調和にチャレンジました。

 

被写体を長い間じっくり観察をしていると、シャッターを切る決定的な瞬間が何度か訪れます。ファインダーからその被写体を観察し、その機会がくるのを緊張しながら待ち続けます。「瞬間」を自分が確認できるということは、自分の観念に自然と従っている状態であり、同時に絶対にその瞬間を逃してはいけないという妙な圧力が急に加わることになります。

 

 

写っているものは、暖かい色に変わった光と、彼の意志が伝わる動作だけ。

 

シンプルだからいい。

 

計算したわけではないですが、後で写真を見ながら、それだけで良かったと思いました。

 

彼の全てが明るく照らされているわけではないですが、存在を表現する為には充分だと思います。

 

取り入れる光は、存在そのものを美しく表現できるくらいでいい、今も変わらずそう思っています。

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