フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

投稿日:2013/11/8

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ライフスタジオの写真を定義する時によく「自由」や「自然」という言葉が出てきます。

確かに私達はひとつの場所にとどめたり固定したりせずにある程度余裕のある中で撮影する方法をとる事が多いと思います。
それゆえに子供達のパワフルさに圧倒される事もしばしばありますが、この「自由」や「自然」というキーワードを実際私達の撮影に当てはめて考えてみると、私は未だにふたつの違和感を感じることがあります。
 
ひとつは本当に「自由(自然)」なのか?そしてもうひとつは、仮に本当に「自由(自然)」なのであればそれが正しいのか?です。
 
子供達が自然な状態なのはどんなときでしょうか?
私がこの質問をされたら「公園で好きな事をして遊んでいる時」と答えます。
何にも束縛されずただ何かに夢中になる姿。
 
仮にそれを自然と呼ぶのなら、私達が普段撮影している姿は自然なのでしょうか?
どこかに座らせ、こちらから何かを提供し反応してくれる姿は自然と言うよりはむしろ
コミュニケーションの賜物のようにも感じます。
 
もうひとつの問いである「自然が正しいのか?」
この問いを話す前に考えてみたいものがあります。
それは「大人の撮影と子供の撮影の決定的な違いはなんなのか」です。
 
子供というのは無邪気でパワフルで純粋で、こちらがあまり提供しなかったとしても、子供達はたくさんのチャンスをくれます。
例えば、私達撮影者が「椅子に座ってください」というお願いをした場合、子供達はただ座るだけではなくよじ上ったり
椅子の上に立ったり、逆向きに座ったりと様々な行動をしてくれます。
 
これを大人に置き換えてみると、大人にとって椅子に座るということは雑作も無いことですから、言われた通り座ってくれます。
つまり、こちらの「1」に対して大人は「1」しか帰ってきませんが、子供達はいくつもの事を返してくれます。
 
これらを踏まえてもう一度問いに戻ってみると、私達の撮影は「自由(自然)」なのではなく「自由(自然)らしく」
作るべきなのではないかという答えに行き着きます。
 
いくつか前の西さんの撮影した『内容』という作品にこう書いてあります。
「ゴールの決まっている写真は予測可能であり、反対に終着点の無い予測不可能なものは瞬間に訪れる。だから追いつかず技術面の低下が起きる可能性もある。だからこそ予測不可能なものを予測可能にする必要がある」と。
 
公園の話に戻ると、「自由(自然)」な子供達はきっと無邪気で笑顔で楽しさ一杯に遊んでいると思います。
しかし、それをただ追いかけて撮影していくことが私達の役割でしょうか?
その姿をスナップにならずに写真に残す自信は私にはありません。
 
重要なのは「自由(自然)」な生命力のある、四角の中から何かが訴えてくるような写真を撮る為には「自由(自然)らしく」
なる条件を自ら作り、何度も書いてますが予測可能なものへとしていく必要があるように私は思います。

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