店舗フォトジェニック集
Photogenic
accumulation
投稿日:2025/5/16     更新日:2025/5/16
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photo:volvo
coordinator:kudo
STUDIO:kyoto-katsura
私たちカメラマンというのは時に「光を読める人」のように見られることがある。
けれど実際に私たちが見ている光は、空間によって“読めるようにされている”にすぎない。まるで「あなたはこのように撮りなさい」と空から語りかけてくれているように、自然光が隙間をぬって空間に降り注いでいるにすぎないと。
西日そのものは外を歩いていてもそこら中にあり、私たちは気に留めることもない。しかし室内で撮影をしていると窓という限られた枠の存在によって、何の変哲もない西日が何か特別なものであるかのうように存在感を放ち始める。
そして室内の壁にスッと差し込んでくるその一筋に、私たちは気づいてしまう。
それはスタジオという限られた空間の中で光が形を持ち始めるからだ。限定されたフレームの中に入ることで光が輪郭を持ち、質感を伴い、感情をうむ。光が見えるようになるのは、限られた空間の中に入ってきた瞬間からなのだ。
「光を学ぶには外で撮るのが一番」と言われる理由も、そこにあるのだろう。日中の屋外は、すべてがフラットに明るく、影も方向も曖昧だ。逆に、夜になればすべてが暗く、何かしらの灯りを足さなければ写真にならない。つまり、どちらにしても「どう光と向き合うか」を強制的に考えさせられる。撮影者が能動的にならざるを得ない環境。だからこそ、外で撮ることが学びになる。
けれど、この写真は違う。屋内の限られた空間に差し込んできた自然光。その存在は明確で、年齢のせいか明るいと目を閉じたくなる私にもわかる。逃げ場のない強さを持ちながら、やさしく、包み込むような温度がある。そしてその光に、被写体である彼がただ飛び込んでいる。それだけの写真。それ以上でもそれ以下でもない。でも、私はこの瞬間に「生」を感じた。現代的に言うと「エモ」だろうか。
カメラマンになりたての頃、まだ撮影という行為の意味さえつかめずにいた私に、ある先輩がこう言った。「あなたは強い光に戦いを挑んでる」と。先輩がどういう意味で言ったかはわからない。もしかしたらその言葉は優しい指摘だったのかもしれないけれど、私は嫌いじゃなかった。むしろ、そう言ってもらえたことが嬉しかった。どうやら私は、挑むように光と向き合う写真が好きらしい。そして、その傾向は13年経った今も、どうやら変わっていない。
この写真について、光の方向や質、細かい解説をしようと思えばできるのかもしれない。でも正直に言えば、語るべきことは何もない。ただ、そこに西日があり、その光の中に彼が飛び込んだ。シンプルで、美しくて、何かに抗わない潔さが感じてもらえたらありがたい。
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