店舗フォトジェニック集
Photogenic
京都のミルクバス撮影
投稿日:2026/3/14
12 0
STUDIO:LifeStudio Kyoto-Katsura
Photo&Write volvo
coordinator kudo
スタジオ写真とは、被写体である子供たちの多様な個性をスタジオやカメラといった均一的な枠の中に閉じ込めることである。
子どもたちはみな個性があり、多様で同じ人はいない。しかし一方で、スタジオの内装は何度シャッターを押そうとも変わることはないし、衣装もいくつかの中から選ぶ。光さえも、カメラマンが選択をしているようで実はその時そこにある状態を受け取っているに過ぎない。
「その子らしさ」
この言葉が重要であるとどこに行っても聞こえてくるこのスタジオにおいて、本当にその子らしさが表現できているのか考えさせられてしまうのは、ただの考えすぎだろうか。
背景も光も衣装も、いくつかの選択肢の中から選んでいるに過ぎず、その選択肢の中から無理やり子供たちに合わせ、まるで「その子らしさ」を表現しているように見せているだけなのではないだろうか?
こうした「そもそも論」は写真の議論をするうえで嫌われる系の話ではあるが、たまにはこうして掘り返してみるのも我々の成すべきことを見直すいい機会ともなりえる。
実は私は、そもそも「その子らしさを表現する」という目的地自体が違っている可能性があると思っている。違っているというよりはそれだけじゃ足りないと言った方が正しいか。
スタジオで撮影する以上、たくさんの子供たちが来てくれたとしても撮影する背景や条件は同じであるからだ。
どんなに子供たちの個性が爆発していても、私たちが使うのはいつも四角い静止画を残す機械だ。
では、誰が写ってても同じ写真なのだろうか?
それもまた間違いだ。
ポートレート写真において被写体の個性を全く表現しないということは不可能だし、個性を表現することがポートレートカメラマンの責務でもある。
しかし同時に私たちは画一された武器をもって撮影にのぞむ。どんな子供たちが来たとしても私たちが使う武器は同じだ。だからこそやるべきは持っている武器を最大限に活用し「その子らしさ」を越えなければいけない。
私たちがやるべきこと。
それはその子らしさを残すだけではなく、子供たちに彩りを加えてあげることだ。
「いつものその子」と「普段見ないその子」。
この二つが交わるところに私たちが残すべき写真があると思っている。
この記事をシェアする
サイト内投稿の検索




