店舗フォトジェニック集Photogenic

Touch

2019/5/20

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Tokorozawa Photo

Photographer: Satsuki Kudo / Coordinator: Yoko Moriya

 

いつも私は考えます。

ライフスタジオの写真とは何かということを。

一時期、フォトジェニックの場から身を引いていました。

それは、フォトジェニックという場所が、私が信じていたものと違っていたように勝手に感じたからかもしれません。

フォトジェニックについて、話すことが無くなってしまったと勘違いしていたのかもしれません。

だけど、少し距離を置いて分かったことは、フォトジェニックというものはやはり私にとっては「ライフスタジオ」を表すもので、「ライフスタジオ」とは何かということを、ライフスタジオにいる人たちが絶えず投げかけなくてはいけないものであるということでした。

 

人と人との間にこそ、私たちは存在する。

だから、ライフスタジオの写真も同じように存在する。

なぜならば、私たちのすべての基準は「人」であるべきだからです。

 

私が知っているライフスタジオの写真は、データ上の数値のことではなく、構図や光のことではありません。それらは写真を構成するための要素であり、撮影者自身が自由にコントロールするべきものであり、写真を表現するにあたってその数値や何か物質的なものがどうであったかということが重要なのではありません。

 

重要なのは、「何に心を動かされ」、「何を撮ろうとして」、「どう表現するのか」ということです。

そしてそのために、撮影者が撮影という場で「何を見て」、「何をどう投げかけ」、「どのように空間をどう創る」のかということです。

それはすなわち、表現の根源とされる「何か」を得るには、(撮影者自身の内面の準備もありますが)、撮影者自身がコーディネーターやその場にいるご家族・被写体自身とどのような関係性を結び、どのようなことに心を動かされ、どのような空間を創るのかに依ります。

その表現の根源とされるのは、些細な動きの中にあったり、ふと話した内容の中にあったり、表情の機微の中にあったり、その日の撮影者の心の持ちようの中にあったりします。

それは意識しないと見えないものもあります。むしろそれを意識しないで見える人の方が少ないかもしれません。だからこそ、ライフスタジオのカメラマン教育の第一歩は、「観察」から始まるのです。

 

「観察」とは、被写体を観察することでもありますし、そのご家族を観察することでもあります。また、撮影場所の精細な観察も必要でしょう。じっと見ていることが観察でもありません。投げかけどのような反応が出てくるのかも表現の根源になります。「今日ライフスタジオで写真を撮るということ」に、そのご家族にどんな意味があるのかということも、私にとっては表現の根源になります。もちろん、直感的なインスピレーションも。観察して、ヒントを得るために話して、意表を付いて少し驚かせたりして。とにかく私は写真を撮るのにいろんな情報を必要とします。

 

感覚的にせよ、論理的にせよ、表現の根源のための情報収集は、ただ写真のためにやっていることではありません。いえ、厳密にいうと写真とは自分のためだけではなく、被写体のため、その家族のためが大きな割合を占めるので、写真のためは、目の前の人たちのためと思って撮影をしています。

 

ご家族の期待を超える良い表現を、体験したことのない深い感覚を、写真に宿したいと考えています。

考えている、思っているだけでは、写真にそういったものは宿りません。

 

先程述べた観察から、表現の根源を明確にし、75カットの過程の中で撮影者である私と被写体・そしてご家族の関係性が原本になります。その原本の中で、「私が心を動かされた」瞬間が、写真となって現れます。

 

今回、この写真をフォトジェニックに上げようと思ったのは、その過程と瞬間が現れた写真だと思ったからです。そして、その過程と瞬間こそがライフスタジオが創出しようとしている空間の中にあり、そこで生まれた意図と意志を適切に反映された写真がライフスタジオの写真であると思ったからです。

 

この時の撮影の話をします。

彼女は、3年前に私が所沢店へ配属になったときに知り合い、以来ずっと私が撮影を担当していました。無邪気な末っ子という印象は当時から何も変わらず、時折見せる不思議な雰囲気が魅力的な人です。

この不思議な雰囲気というものは、ただ大人っぽいとか、モデルが上手いとかそういった類のものではなく本当に不思議なもので、感じるだけで言葉に言い表せないまま3年も過ぎてしまっていました。

彼女を撮影するのが3回目の今回は、コーディネーターがようちゃんでした。ようちゃんは人とのコミュニケーションに惑いがなく、赤ちゃんから大人まで自然に解放させる達人でもあります。そんなようちゃんとふざけ合いながら、今まで見たことのないくらい柔らかな表情と動きを見せてくれた彼女。その撮影の過程で、3回目にして私が今まで感じていた不思議な雰囲気の正体が徐々に明確になってきました。

 

彼女の眼差しは「鏡」のようでした。また、いつの間にかすっと私の心に鋭いメスのように入り込む刃物のように感じられました。あるいは、私自身の心へ向かって見えない手を伸ばされ触られたような感覚だと思いました。

ドキッとするような、いつの間にか傍にいたような、体温をすごく近くに感じるような、とにかく彼女の一挙手一投足に、感じる不思議な雰囲気は、自然と私の心に入り込み、いつの間にか触られているということでした。

そんな彼女の姿はライフスタジオへ来る前の彼女でもありましたし、私たちが創出した空間で現れた姿でもあります。そして、私が3年間撮影をし続けたからこそ気が付いた関係性によるものでもあると思います。

 

そんな彼女の雰囲気を写真で表そうと思った時に、光は人を浮かび上がらせるような光で、射貫かれるような眼を強調するようなポージングと画角にするべきだと直感的に思いつきました。

選んだ場所は、「ガレージ」。ここは少し暗いですが、光が分散されずに限定される場所。彼女の明確な姿を浮かび上がらせるために「ガレージ」ならそういったやや前からのサイド光が作れると思いました。

また、彼女の特徴的な視線を導き出すために、座らせたときにいろんな投げかけをしました。いきなりイメージ通りの誘導をできるわけではありません。シーンごと、動きごとに、撮影者は被写体と関係性の糸を結び直すように投げかけをする必要があります。この時は、「体育すわりをして、耳の後ろを掻いて」とか「顎を膝の上にのっけて、今日の夕ご飯は何がいいか考えてみて」とか、そんな感じの投げかけだったと思います。そして、「膝で口を隠してみて」と言った時に、その瞬間がきました。私の心に手を伸ばして触れてくるような、見透かされているような眼です。この時、ポージングは視線を強調したかったので膝で口を隠してもらってしました。金属のスタンドを前ぼかしに使ったのは、私と彼女との物理的距離と心の距離の矛盾を表すためです。レンズが85mmだったので、物理的距離はそれほど近ないにも関わらず、心に触れてくるような彼女の精神的距離感を適切に表現するためには、視覚的にこのような矛盾を生む必要がありました。

 

撮影中に絶えず投げかけるということが、彼女の動きを誘発し、その動きの中にこそ、彼女の存在が現れ、その存在を以て写真の生命力となります。そういった動きの繰り返しの中で、75カットという原本が作られ、そういった空間の中で私と被写体の間にある糸を何度も結んだり離したりしながら、関係性というものが作られます。その中で、コーディネーターにも、ご家族にも何度も助けられ、一緒に空間を創出していきます。その連続が、関係性の輪を広げていき、どんどん彼女やご家族へ向けた感覚が深くなっていくのを感じます。

そうしていく中で重要なのは、撮影者が独り善がりにならず、自分だけの枠に誰もはめず、だけど意志を発揮していく過程です。それはきっと、私と撮影ごとに出会ってくれた人たちから承認を得続けることなのかなぁとも思います。だから決して強引になれませんし、私の自由を皆の自由にする必要があります。

 

そうした過程で写真を撮るという行為で見えてくることは、私という存在も、ようちゃんという存在も、ご家族も、彼女という存在も唯一無二で、この時間も二度と来ないということ。その中で生まれた写真も、この空間だけのその人ならではの特別な生命力を帯びた写真になるのです。

私はその写真こそが、その人のこの時の姿を現しているのだと思います。

その姿を肯定し、美しく表現する。それがライフスタジオの写真になるといつも考えています。

 

今までもこれからもずっと、「人」と「人」との間に生まれる空間から生まれる価値を大切にしていきたいと変わらずに願っています。

 

私と一緒に撮影に入ったなら、一緒にそういった空間を体験しましょうね。

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