レポートReport

2013年体制 4大原則解説-1

2015/12/16

2040

 
 
‘2013年体制’ 論文プロジェクト
4大原則解説
 
 
 
はじめに
知らないことは犯罪だ
読み書き討論を第一優先順位に
責任と権限
美しい競争
 終わりに
 
 
 
2014年  9月  30日 李 濟 旭
★. はじめに
 
原則は一貫されて守らなければならない規則である。[4大原則]は、[2013年体制]で一貫され守るべき4つの規則である。[2013年体制]は、変化発展のプログラムを装着する、予測可能なシステムである。つまり、[4大原則]は、変化発展のプログラムを装着するための規則である。
[変化発展プログラム]は、[自立]するために大前提としてあるべきものである。[変化発展プログラム]なくして、[自立]へと向かうことはできない。ならば、[変化発展プログラム]とは、何なのか?
変化とは、事物の性質、姿形の状態が変わり、違う様になること。変化とは、量的な変化と、質的な変化として分けられる。量的な変化が成されると、事物の固有の限度を超え、新しい質へと変化が成される。発展は、変化のひとつの形であるが、単純なことから複雑なことへ、低い段階から、高い段階へと動いていく変化を言う。つまり、変化とは動くことであり、発展は前に進むことである。
動き、前に進むことはそんなに重要な問題なのか?
[自立]とは、他者へ隷属したり、頼ったりせず、自ら立つことを言う。[自立]していないということは、言葉では他者へ隷属し、頼っているということである。これは、自身の力で動けずに、方向を決定できないということを意味する。[変化発プログラム]というのは、他者へ隷属したり、頼らずに、自身の力で動き前へ進んでいくための意思であり、方法である。
ライフスタジオが[自立]へと、方向を設定した理由は、[自分自身に対する無気力]から始まった。1年に1、2度訪れる、原因不明の憂鬱さではなく、いつでも自身の肩に重くのしかかっている宿命ともいえるような状態である。[日常的な倦怠]という、自分の色眼鏡で世の中を見つめる世界は、受動的であるしかない。[自分自身に対する無気力]は、自身の今の状態を、固定されたことで把握し、変化に対する抵抗が、主な関心事項である。予約を受け、撮影をし、商品を渡すくらいの仕事は、[自分自身に対する無気力]が大きな障害物になりはしない。マニュアルで指示したとおりに繰り返し、熟練してくると、写真館の職員として働くことにおいては、問題がない。しかし、[人間は何を食べ生きているのか?]という質問に対しては、答えることができない。また、[ライフスタジオは、私たちの人生において、どんな意味があるのか?]という主題は、自身が自ら答えを探していかなければならない。[私達の人生の主題が何であり、どのように生きていくべきなのか?]に対する質問に答えられなくなった原因と結果は間違いなく[自分自身に対する無気力]が占めている。
ライフスタジオで[自立]や、[変化発展プログラム]が話されるようになったのも、[自分自身に対する無気力]から脱出しようとしたときに出てくる言葉なのだ。つまり、[4大原則]は[自分自身に対する無気力]から抜け、自尊感を確保するためである。自身を取り巻いている環境を受け入れ、それが何なのか、どうすればよいのかわからない状態で、涙を流す。その涙を拭える力が[4大原則]に入っている。
[知らないことは犯罪だ]とは、[自分自身に対する無気力]の原因を探し出す作業である。知らないから知る、知るから知らないという[知るの過程]は、自分の人生の価値を知る過程である。しかし、知らないという洞窟にだけこもっていると、入り口から入ってくる光に敏感になり、後に完全に入り口を封鎖するようになる。知らないということを、当たり前のこととして受け入れ、自身の中にあるたいして知ってもいないことに頼るようになる。知らないから[自分自身に対する無気力]が起き、このような無気力が知るということ事態の接近を遮断するようになる。知るという過程で、離脱された私たちは、知らないわからないという暗い洞窟を、さ迷いながら、白馬に乗った王子様がくるのを待つ。弁明と偏見の泥沼から抜け出せず、生産されるものは涙だけである。[知らないことは犯罪だ]では、知るという過程、情報、哲学を通し[自分自身に対する無気力]の原因を探し[読み書き討論を第一優先順位とする]という原則を使用する根拠を確保する。
[読み書き討論を第一優先順位とする]とは、[2013年体制]で変化発展プログラムを装着するための、具体的な方法を提示している。[読み書き討論]は、弁証法的な変化発展の原理を実現する具体的な方法である。読むということを通し、客観の世界へ入り、書くことを通して確認し、頼り、実践の根拠を整える。このように作られた私は、公正な規則で進まれる討論を通し、世の中と出会う。[自身の中に入り、整理され、出会う]という単純な過程の繰り返しが、まさに知るという過程である。客観と理性を中心とし、何かを知っていくということは、[自分自身に対する無気力]を自ら制御でき、それと同時に自尊感を高められる一番確実な方法であると信じている。
[責任と権限]とは、事がなされる原理に関する話である。事がなされる原理を通し、私たちが生きていく人生を自ら追求できるようになる。事がなされていく原理を知らないため、仕事と自分の分離が起きるようになり、決められた仕事だけを遂行する人として残る。仕事とは、価値を作り出し、共有するということを目的とする。仕事を通して、[変化発展プログラム]を構築し、これを実行するにおいて、[責任と権限]の原理が作動しなければならない。私たちは、与えられた仕事を受動的に遂行する。価値を創り出すことが責任であり、その価値を共有することが権限という小さな心理は事が成される原理を貫通している。
[美しい競争]とは、動機付与と効率に関する原則である。自身の洞窟で、いくら一生懸命作ったとしても、それが洞窟の外の世界で検証されたときに、本当に自分のものになる。[美しい競争]は、自分自身との競争であり、相手は[刺激と激励]の主体である。相対は、また違う私であり、競争相手として考えることも相対ではない、また違う私でないといけない。欲求と欠乏で成された動機付与の高い段階が[美しい競争]であり、その遊び場が[フェスティバル]である。
[4大原則]とは、自ら自分自身に付与する約束である。[4大原則]を守らなかったからといって、警察がきて手錠をはめられたりはしない。しかし、私たちが目標としている[自立]と[変化発展プログラム]を成すための基準である。知らないから、知るへと進む過程があり、行動として[読み書き討論]をやろうということなのだ。これは、私たちの人生の変化を引っ張っていくことができる。そして、仕事に対する原理を知るようになる。価値を創り出す責任と、作られた価値を共有するという権限は、私たちの方向と発展に関する話である。そのための動機付与の高い段階として[美しい競争]をやろうということなのだ。効率を高めながら[2013年体制]が組織として変化発展の輪の中に入らなければならない。
[4大原則]
どうせやるなら、うまくちゃんとやるのはどうだろう?一度本当に真剣にやってみて、違うとなるならそのときに自身の基準を作ろう。欲望は警戒するが、伝説を作りたいという気持ちは未だに残っている。
いざ!一緒に伝説を作ってみよう。
 
★. 知らないことは犯罪だ
1. 知るという過程(知っていくという過程)
 
私たちは自分自身に対して知り、記憶することは、人々が考えているほど
私たちの人生の幸福において決定的なことではない。いつかは他の人たちが
私たちに対して知っていること(または、知っていると思っていること)が
私たちを覆うであろう。そしたら私たちはこれがより強力な力を
持っているということを悟るようになる。
 
人々は評判よりも良心を簡単に投げ捨てる。
ニーチェ [喜ばしき知識]から
 
私たちは、1日1日新しいことを知っていく。知ると同時に、知らないということも同時に起きる。知っていても知らないことの間に私たちの人生がある。経験として知ることになるが、経験だけではわからない世の中と出会うようになる。わからないということにとどまるようになり、つかの間の間休みもするが、時に長期戦を準備しなければならない場合が起きる。この世の中が進歩するという信頼は、知ると知らないの境界線で簡単に壊れたりもする。数多くの弁明と敵をつくりだし、一瞬感じる存在の確認として、いつくるかもわからないその大きな喜びを思い残す。
私たちは[自分自身に対する無気力]という病気を持っている。社会と大人たちが創り出した枠の中で、やれといわれたことはすべてやったのに[自分自身に対する無気力]だけが生まれた。決められた日に学校に行き、先生の話をよく効いて、大きな事故も起こさず、社会に出たら私に押し寄せるたくさんの現象と情報の中で方向感覚を失った。自分の中で解析ができない。[知らないわからない]からくる無気力が、自分を身動き取れなくする。詩人が能動的に動けない構造の中では[変化発展プログラム]を作ることはできない。[知らないわからない]から充当的になり、外部の接近から自身を守る筋肉だけが強化される。自身を拡張させる前に、自身を守らざるを得ない構造は[自分自身に対する無気力]を作り出す。
私たちは通常、知らないという所から始まる辛さから[知る]を探し出す。知らないということから来る漠然とした思いは、知らなければいけないということへの切迫さを呼び起こし、あちこちに現れだす。自身の基準を下げると、痛みが少し緩和され、[知る]という主題は、寿命を果たすようになる。だから、私たちは知らないという悪循環に陥っているのかもしれない。生ゴミは捨てる日が決まっている。捨てなければ、各種のにおいと虫を量産させる。だから、できるだけすぐに捨てようとする。お酒は熟成させればさせるほど良くなるが、ゴミは反対の属性を持っている。知るということと、知らないということも、においと虫の攻撃に反応する時だけ主題になるので、私たちの知るというのは深くない。知るということは、突然現れるのではなく、私たちのそばで合図をまっている。知るということの過程を知っていれば知っているほど、知るということと知らないといことから自由になる。
たくさん読み、経験すると本当に知るようになるのか?
知ったら知らないということからくる苦痛がなくなるのか?
ならばどうやって知るようになるのか?
知っていく過程という主題を、ウンヨンのストーリーで話し始めてみようと思う。
ウンヨンは、写真館の息子として生まれた。ソウルで最も辺境の地域に属している南の郊外、町に一つくらいはありそうな写真館で幼い時期を過ごした。市場のど真ん中にあったため、彼の遊び場は、写真館と市場であった​​。身長が低くいつも前の席に座っていたその子は、適度に不安を感じ、適度にふざけ、適度に妥協しながら学生時代を過ごした。特別得意なこともなく育ってきた普通のその色黒の少年はやっぱり頭もよくなかった。私も頭はよくないが、ウンヨンは私よりも良くなかったようだ。負けず嫌いだったが、負けることに慣れていて、自分の生存戦略として、ニッチマーケットを狙う習慣ができた。目立ちはしないが、中から沸き起こる情熱はどんな形でも発散した。レースをすることになったこと、異性との出会い、集りの中で可愛がられることがニッチマーケットを狙った結果物であった。
難なく、地方にある写真専門大学に入学し、軍隊を除隊してから、写真館ではじめての社会生活を自然にスタートすることになった。ウンヨンには、人生においての特別な目標や計画がなかった。当時の社会で広範囲に流布された論理を充実に移行する典型的な消費者の姿を見せていた。車が好きで、酒を拒まず、「金持ち父さん」烈風に便乗した。写真館での経歴が5~6年もすると、自分の店舗を持たなければならないという論理についても、何の疑問もなくそのまま受け入れた。自分の物に対する執着心は、驚くほどまでとはいかなくとも、少なくはなかった。人を対象化することはなかったが、人を目的として受け入れることもしない、そんな曖昧な位置を探すことは結局状況の論理による決定が勝機をつかむのだ。写真館の社長になるというのは、より高い購買力を持つ消費者になるための唯一の道だといわんばかりに思えたのだろう。自分の店舗を作ること自体にそんなに価値はない。ただやるのであり、それ以外は考えられず、そう考えている人との出会いしかなかったからである。当時、勤務していたサガナムは、加盟店事業を推進していた。加盟契約の話があちこちで話されていた。ソウルをはじめとする首都圏に良い物件が減ってきているという不安はあるも、自分もその加盟隊列に飛び込んでいく準備をするようになる。写真館で働いている人ならば、特に男性であれば、必ず経なければならない関門だと認識していたオープンが目前に来た時期に、日本でもライフスタジオがある程度定着し、成功の可能性が高まっていた。サガナムを選ぶか、日本を選ぶかという選択肢の岐路に立たされ、ウンヨンは長く悩まず日本に来ることを選択した。日本を選んだ理由は、サガナムを考慮した時と大きく変わらない。刀を抜いた以上、何かをする必要があり、日本からの申し入れもあり、それを受け入れた。
ついにウンヨンがひとつの会社のオーナーになったのだ。それと同時に社長であり、経営者になった。写真館の息子として生まれ、大学では写真を専攻し、40万ウォンの給与をもらい、スタートしたスタッフ生活。8年越しに、ひとつの会社の代表になったのだ。自身の漠然とした夢が現実になり、これからはひとつの組織のリーダーとして実力を発揮する出番になったのだ。
浦安店がオープンし、一定期間店舗で寝泊りをしながら撮影も行い、日本語も勉強しながら、夢に描いていたようなオーナーであり社長という名の生活を始めた。時間が経つにつれ、スタッフだった時とあまり違いがないということを知るようになった。最初は、主人意識と言える自分の自発性によって、さまざまことを行ってみるものの周りとの摩擦は増えていった。1年の間に、最も多く聞いた言葉は、[権威主義]であった​​。生まれて初めて聞く言葉にウンヨンは困惑していた。
[ウンヨンは権威主義に囲まれすぎている!!]
権威主義が正確に何を意味するのか分からずに、抵抗してみるも問題は大きくなっていった。
[自分の店舗だと思って、仕事をしてください。私も皆さんと同じようにスタッフの心で一生懸命がんばります。]
オーナーが認識していても認識していなくても、それでも本心ではこう思っている。
[この店舗は、自分の物だから私の物だと思っています。皆さんも自分の店舗だと思って仕事をしてくれたらありがたいです。]
時間がだんだんとたつにつれ、スタッフの言葉と行動が理解できなくなる。[いくら自分の物ではないからといって、どうしてあんなふうに話し行動するのか!!]と。。。こんな状況が繰り返されながらだんだんと壁が作られ、典型的な社長とスタッフの関係が維持される。非難と弁明を言う時期が過ぎると、自ら質問をする。
[何なんだ?!自分があれほどなりたくないと思っていた前の社長達の姿と今の自分は同じ状況じゃないか…今まで生きてきて他人から指を指される人生を送ってこなかったのに、今自分は悪い社長になっている…何をどうしたらいいんだ!!わからない……]
その時に、どこからか聞こえる声に注目するようになる。
[どこから間違ったのかわからない。たぶんお前は「明日からうまくやっていこう」と、何回も決意しただろう。それでも悪循環が繰り返され、辛い状況におかれるようになった。でも、何がどこから間違ったのかを知るためには新しい条件でもう一度始めようじゃないか?根本的な問題認識に入る旅に出るべきじゃないか?]
ここで葛藤が始まる。旅にでるためには、自分が持っている既得権を手放さないといけない気もするし、既得権を手放すにもそれなりの確実な理由がなかった。旅にでるべき、確実な理由はわからないけれど、現実は苦しい。そしてウンヨンは旅にでた。妥協で一貫し、誰も何も言わない死角の場所でニッチマーケットを占めていた彼が、堂々と自分自身を取り囲んでいる固定観念と権威主義に向き合おうとしている。パチパチパチ……拍手10分間……
代々木公園で野外撮影をした数ヶ月、インテリア工事参加半年、デザイン室での1年、士官学校を3ヶ月、そして再びインテリアをしながらウンヨンは変化し始めた。現実と少し離れて物事を見る時間もあり、水平的な関係において目標を達成するために自分自身を投げ入れようともした。周りからは、彼に拍車をかけもし、これに動揺しているウンヨンの姿は自然であった。その度に[浦安を失い、ライフスタジオを得た]という言葉が効果を発揮した。これが口先だけなのか、実際にはわからないが、少しずつ自分の中で説得力を得て行っていた。
ウンヨンは、偶然手に入れたお小遣いを、自分だけが知っている本にしおりを挟むようにして人に接近して入っていく。兄のように、先輩のように、時には友達のように人との関係形成をしていく姿は、ウンヨンの長所が発揮される瞬間である。まだ、人見知りで自分だけの議題設定をするにはぎこちない部分もあるが、自分の強みを活かしてどんどん人に認められながら、組織の中心部に移動した。
本社に適応してきた頃から、Bチームのオーナーの間で所有と経営の分離という話が成されウンヨンも少しずつ準備をし、重く背負っていた荷を降ろした。単純に自分の物を諦めるという狭い意味ではない。所有と経営に関する独自の論理による自信が、今はそのいつの時よりも平和な状態が保たれている。自分を押さえつけていた重い荷を降ろし平和を得たというべきだろうか?
知るということは何だろうか?
ウンヨンは5年間の日本での生活の中で何を知ったのか?
何を知ったなら、その過程でどんな法則のようなことがあったのか?
知っているということは、知らないということは表裏一体のように動く。私は知っていると言ったときに、そこまでを「知っている」というのであり、それと同時に「知らない」ということが始まる。つまり、「知る」と「知らない」の境界線で、私たちは「知る」、または「知らない」と言う。その境界線を基準に考え判断し行動する。ウンヨンがオープンに対して、オーナーに対して、経営について知るということは、今まで見て、経験して、一瞬一瞬を洞察した結果である。しかし、自身が知っているということが、現実で引き続き衝突が起きているということだ。衝突が起こるのは当然である。知ると知らないという境界線で「知る」を基準に話し行動すると、当然「知らない」は同時に起こる。
知らないが生まれると、自分独自の方法で考え、実践もし、「知った」と変え、
それと同時に、新しい知らないということがでてくる。
このような一連の過程として[知った]ということは拡大され、
より高い段階の「知らない」を要求する。
今までいろんな社長の言葉と行動を見て、「自分はあんなふうになったらだめだ」と決意したが、なぜか似たように行動している自分自身を発見する。ウンヨンがスタッフだった時は、スタッフという条件と環境により、オーナーと社長を受け入れる。低い給与と毎日繰り返される労働、何にもやる事がなく、自身の利益を極大化させようとしているように見える社長は、そんな条件と環境の結果物であった。そんな中、自分が社長になったら、たくさんの給与と楽しい会社生活、スタッフと一緒に利益を共有すると決意する。自身が社長になった時は、以前自分が受けてきた不平等と差別をなくす為に[良い社長の気ぐるみ]を着て動き始める。普通、社長になると条件と環境は大きく変わる。まず、全体的に見るようになる。全体を見るからといって全てが見えるわけではない。ただ、全体を見るという事だ。これは、一種の機能である。あなたは撮影をし、私は全体を見る。というような役割の分担である。全体を見ているからといって誰でも成人になれるわけではない。全体をうまく見ないといけない。ここで錯視現象が起きる。全体を見ているからすべてのことを知っているという錯覚をするようになり、これに対する曲がった論理を強化する。ここが本当に疲れるところである。全体を見るようになると、一部分だけを見ていたときより、いろいろな部分を知るようになる。ここで知るようになるというのは、低い水準の知識に該当する。収益と支出がどうなっていて、構成員達が共通して感じる不便さ、本社でやろうとしていることと、自店舗での状況等に対して、自分がスタッフだったときよりも知るようになるが、その知ること自体には価値がない。ただ、知るようになるだけだ。真の「知る」へと近づく材料が少し増えた状態である。全体を見て、少し知るようになると、各部分を機械的に配置する。収益がいくらで支出がいくらだから、スタッフの給与はこうだ。という風に自身の中で正当性を立てるようになる。自分の中で正当性を持つようになると、その瞬間にすべてのことが停止する。さまざまな方法を説明し、同意を得る、または他の方法はないのか考えない。[責任と権限]でいう、給与というのは、さまざまな機能と意味を持っている。構成員達は単純にたくさんの給与だけを望んでいるわけではない。会社の運営の主体になることを望んでいてその過程で自己実現をしたいと望んでいる。給与はこれを実現するためにある一つの構成要素である。それなのに、会社の運営の主体になれず、自己実現よりは、この社会を生きていくための経済的な手段として会社を見つめるしかないため、給与が重要になってくるのだ。この部分でひびが入る。給与が持っている本当の意味と現在スタッフが給与に対して持っている観念、社長が収益と支出の間で設定する給与という3つの塊が各自別々に重なっている。社長は様々な理由から給与を設定し、設定した明確な理由をもっている。自分が裏金をもらっているわけでもなく、家賃の支払いをしないわけにもいかないため、給与として設定できる金額は限られている。だから、勤続年数や年齢、経歴などを考慮し給与を設定するため、自分が請け負った役割を忠実に行ったと考える。ここにプラスし、それまで自分自身が見て経験してきた社長たちよりもスタッフに多くの利益を与えている良い社長だと自ら満足する。しかし、意味という側面から見たときに、30万円と35万円は差ほど重要な問題ではない。このように3つは別々の問題のように思われるが、決定的な繋がりの中で、互いが有機的に作動するこの問題の解決策はなんなのだろうか?
他の写真館よりも給料をたくさんあげているが、スタッフ達の特別な変化を見る事ができない。給料を上げた分の効果がないと判断すると、給料を上げた理由がなくなる。ウンヨンがスタッフだった時、このように考えていただろう。「給料が少ない。給料が店長くらいの金額になったら、一生懸命働くと思うんだけどな...」この考えを基本とし、給料を上げ、何か変わることを期待したが、変わらなかったということだ。ウンヨンが知っていたのは、給料を上げたら仕事をうまくやっていくだろうということ、知らなかったことは、給料を上げたのに特別な変化がないという理由であった。おそらく、スタッフとしていた時、店長くらい給料が上がっていたとしてもウンヨンの働き方の水準は大きく変わらなかっただろう。
給料について長く書いてしまったが、なにも給料だけに限ったことではない。目標に向かっていく構成員達の情熱と実践、お客様に対する、より創意的なアプローチ、人間関係を対象化せずに半歩前に進んでいく自信等。現場での組織の内部文化と人間らしく生きるための要素は、あまりにも多くある。ウンヨンが知っている要素は、自分が知っている概念から出発する。自分が知っていることを適用し、満足のいく結果物と共に、期待したものとは異なる面倒なことが起きる。満足のいくものは維持しなければならず、面倒なことはどのようにしても処理をしなければならない。しかし、ほとんどがそこまでである。ウンヨンが浦安をオープンして約2年間の時がまさにその時だった。この時、宝くじのような偶然は起こらない。期待していなかった面倒なものから腐敗しだし、悪臭をかもし出す。分類して直すと、新しいエネルギーに転換されるものが放置されながら、組織全体を危険にさらす。終盤に至ってウンヨンは植物人間のように変わっていた。
どこから間違ったのか?
周りに相談もし、スタッフに聞いてみても帰ってくる答えはない。なぜなら、彼らも知らないからである。自分に与えられた脅威だけを覚えているだけだ。ウンヨンも[自分自身に対する無気力]に陥った。自分が知っている通りに社長としての役割を果たしたのだが、正反対の結果が出た。権威を認められる社長になりたかったのに、自分に戻ってくるのは[権限主義に囲まれている社長]という指摘だけであった。だからウンヨンは、条件の変更を試みた。[知らない]ということを認めて[知らない]をもたらした条件で、冷静で熾烈に自分自身を振り返るための条件を作った。もちろんこれは簡単な決定ではない。自身が重要だとしているその紐をつかむ為にここまできたのに、その紐を手放さなければならない。自分が所有していたものを手放さなければならないという痛みもあるが、この文章の始めにも書いたように[人は評判よりも良心を簡単に投げ捨てる]、のように周りから何かが足りない人なんだと認識されることは本当に辛いことである。
知らないことを知るためには、事実確認からはじめなければならない。自分が行ってきた言葉と行動、そして現状をみてきた観点を、一つ一つ表さなければならない。約2年間の本社活動の中で、記憶に残っている事件が2つあった。両極端な2つの事例を通して、どのように問題の核心を認識し深く入っていくのかを見てみよう。
まずは、[清子の最後通牒(通告)事件]
オープン前のインテリアで体についた木屑を少しづつ叩きながら、デザイン室で働くことに決まった。デザイン室を一言で言うと、[天使の合唱]である。自分の人生において、他人に嫌味を一言も言ったことのないような人々で構成されていた。羽は生えていないものの、いつも笑顔でお互いを配慮する心で固まっている天使たちの組織であった。しかし、それがあまりにも度が過ぎており、特別な変化がないということが、大きな短所として指摘されるくらいであった。ウンヨンがデザイン室を選択した理由も、人との関係において受けた傷を治療しながら人間と組織という主題をもう一度スタートするために、デザイン室は何よりも良い条件だった。初めは、順風に帆をあげたようにうまく進んでいった。まず、自分の役割がなんなのか悩み、人々の言葉を先に聞こうと努力した。自分ができること、一つ二つを行いながら、デザイン室に適用していく姿は微笑ましかった。そして半年が経った頃、青天の霹靂のような音が聞こえたのだ。天使の中でも天使といわれた清子が、ウンヨンを呼び出し、「これ以上はもう我慢できません。あなたが変わらないなら一緒に働けません。」と最後通牒を行ったのだ。清子のことを知っている人はわかるだろう。これは、「私本当は男なんです」と、言っているのと同じくらい驚くべき出来事なのだ。ウンヨンはその時期を起点として、方向を変え始めた。何かに対して悟ったというよりは強烈な事実確認をした瞬間であった。
浦安店でのオーナーとスタッフの関係から起きた不協和音は、ウンヨン自身を不自由にさせた。問題の根本原因や相手が持っている辛さが基準になるというよりは、自身の不自由さが自分の判断と行動の基準になっていたのだ。だからデザイン室に初めて行ったときの変化は外面だけを少し変えたくらいだった。自分が少し親切に接したら多分人との問題は起きないだろうというように思ったのかもしれない。盲腸になったのに、ただ絆創膏を張ってあげるような方法だった。だが、清子の最後通牒は、現実の問題を直視するきっかけになった。これは、墜落している飛行機が水平にバランスを保とうとするように、自身の判断と行動がどんな結果を作り出しているのか正確に認識した時に、問題の根源へと入っていく出発ラインにたつようにしてくれた。
ウンヨンが持っている権威意識は、すべての人間がもっている。ウンヨンがオーナー、責任者、経歴者というタイトルを持っていたとき、この権威意識は凶器となり、私たちの前に現れた。デザイン室の構成員に見せた姿は、自分を優先視し、他人を対象化する恐ろしい凶器であった。権威意識は人に対することや、仕事をする方法において、すごく硬直した思考を基盤としている。上から押さえつけ、下から受動的に受け入れる人生を生きてきたウンヨンは、自分も知らない間にそんな硬直した論理を受け入れ、それがすぐさま現実に適用された。これは、表情と言葉、そして仕事をする過程でそのまま現れ、人々は自然と背を向けるようになった。共に進んでいこうという看板の中に隠れている権力と暴力に対する指向は隠すことができない。差別は反対し、差異は努力しなければならないが、差別を楽しみ、差異は暴力を行使する姿を私たちは権威主義と呼ぶ。人間と人間の関係から出てくる肯定の力を外部で囲い、権力と暴力に基盤する権威意識を内部に武装しているため、問題が起こらないわけがないではないか。
私たちは現象に執着する傾向がある。これは、良いことでもなく、悪いことでもない。現象は他の言葉でいうと、現実であり、その現実を基盤とし生きていく。起きる現象にいちいち答えていくのも本当に疲れることだ。適度に避けながら適度に直していきながら生きていかなければならない。
しかし、ある瞬間、その本質と向き合わなければならなくなった。
根本問題により、同じ現象が繰り返され、私の人生のバランスが崩れるのなら、
[果たしてそれが何なのか?]という気持ちに堂々と宣戦布告しなければならない。
[清子最後通牒事件]は、ウンヨンを問題の本質に引き出す必然的な時間になった。権威意識が持つ本質を正確に確認したということだけで、多くのことは大体成功である。ウンヨンは薬局の館長のような役割を担っている。一緒にいると楽しく、自分がやるべきことは、自分で頑張る。でも、権力を掴むと話は変わってくる。ウンヨンだけでなく、多くの人びとがそうである。自分でも認識できない深いところで権力を使用しようとする熱望がある。デザイン室で仕事をしたとき、自身の表面的な変化に満足したこと、本質は自身の表面的な変化ではなく、相手に認識された自身の姿である。自身が持っている権力に対する意思が表面的な変化として偽造することもでき、相手は騙されてそのままなわけではない。目の前に見える月を手で隠すことはできても、月はなんの変化もなく空に浮かんでいる。目の前にある月は見えなくなるが、相手には月はそのまま目の前にある。
現象が少し変わったり、自分の表情を少し温和にしたからといって、本質が変わるわけではない。特に、その当時のウンヨンの状況はより際立っていた。問題の本質を確認しなければならず、その前に堂々と立たなければならない。本質の前にたったからといって問題が解決されるわけではないが、全てにおいて優先して自分が置かれている問題を正面から見つめないといけない。
[清子最後通牒事件]の前と後とで、区分した基準は
問題の本質を知っているのか知らないのかにある。
[清子最後通牒事件]は、問題の本質を確認したということである。
すべての人間は、問題の本質を確認したいと望んでいる。ライフスタジオで[読み書き討論]を行う理由もここにある。なのになんというか?[適当に]やっているという気持ちが消えない。みんながそうだということではないが、全体的な雰囲気はそうだ。[論文プロジェクト]は、[適当に]やっていたことを[確実に]やるための苦肉の策であった。私たちの人生が終わるその日まで、一生を[確実に]やり続けることはできないが、今は[確実に]やらなければならない。[確実に]やらないとライフスタジオの存続自体に危機が訪れる。今はその時なのだ。そのことについては、[読み書き討論を第一優先順位として]という原則でより具体的に明記しよう。
  2番目のストーリーは[ウンヨン告白事件]
2012年の冬。草加店のインテリアを行っていた頃、韓国人ヒーリングキャンプが始まった。朴泰赫を中心に学習と教育の型が作られてきたころ、ウンヨンが素朴な告白をしたのだが、ウンヨンの変化発展の象徴とも言えるように鮮明に記憶している事件である。
[哲学エッセイ]の討論中、参加者たちが自身の考えを発表する時間があった。ウンヨンの発表は意外にも説得力があり聞き手を感動させたと言う。その後流行った言葉が[説得させられた]という言葉だった。人の感情に歩み寄り、一瞬うるっとさせるその日の発表以来、ウンヨンが話し出すとみんなが説得させられるというような、大げさな表現ではあるが、[ウンヨンの時代]が始まったというのは確実に言える。その事件があり、数日後フォーラムがあった。韓国人ヒーリングキャンプに対する報告の時間にウンヨンの変化していく姿に対する話が話題にあがり、その感動的な発表をもう一度行った。発表の始まりに突然[ウンヨン告白事件]が発生した。
朴泰赫 :「では、今からウンヨンによる感動的な発表が始まります。拍手…。」
ウンヨン:「正直私が発表をうまくしたというよりは、最後の繋がり部分はうまく探せなかったんですけど。。。大体で言ったんですけど……。」
朴泰赫 :「何言ってんだ!みんな感動したのに、あの時あの場にいた人たちは涙も流したのに。」
ウンヨン:「ジョンアが私のことを……。」
朴泰赫: 「好きなのか?」
ウンヨン:「違います。そういうのじゃなくて。私と一緒に働きたいって言ったんです。」
参席者みんな:10秒間拍手喝采
朴泰赫: 「愛の告白なのか!なんなんだ!」
ウンヨン:「違いますよ。帰りの車の中で私に関するいろんな話をしていて、ジョンアが「今あなたの周りには人がいないけれど、一緒に動ける人を探しているように見えます。一緒に働きたいです。」と言ってくれたんです。」
録音されたものがあり、何度聞いても、なぜいきなりジョンアの話をしたのかは分からないが、この10年間で一番記憶に残る瞬間の内の一場面であった。なぜこの瞬間が記憶に残っているのかを説明してみよう。
上でもすでに書いたが、ウンヨンはあまり目立つ人ではないが、目立ちたいという欲は持っている。低い姿勢でいるが、時には主人公になりたがっていた。社長になり、浦安店で多くの傷(スタッフはその100倍大きな傷)を受け、条件変化を試みた。そして、[清子最後通牒事件]をきっかけに自身の根本的な問題に近づいていく。この時から変化が始まった。その間に蓄積された経験と思考体系を土台とし、それまで絡まっていた糸を一本づつ解いていっている時に、一緒に働きたいという言葉を初めて聞いたのだ。誰も聞いてないのに、ウンヨンがそんな告白をしたのは、彼にとってとても大きな事件だったからだろう。
ここで[存在]という単語が登場する。
客観的に存在しているものがあるとする。その客観に出会うのは私の主観である。魚が海へ向かって泳ぐ姿を見る人は、各自自分自身の主観でその客観と出会う。水泳選手は魚の動きに似ようとし、寿司を作る人は魚を解剖することを考える。子供はその魚に話かけ、釣り人は餌を決める。私が持っている主観が客観と同一視されたとき、私たちは「分かった」と、よく話す。その人にとってはそれが真理である。それなのに、方向を少し変えてみると、主観と客観の差は開いていき、自分の主観により新しい客観として誕生する。客観を新しく自分の主観として規定すると、新しく知ることができるのであり、規定できなければそれは知らないということになる。多くの場合、知らないということになり、傍観したり悩むようになる。なのに、自分の主観は客観とは関係なく動く特徴を持っている。自分の主観が客観をあれこれと見ていき観察しながら自分の主観が少しづつ変わってくるが、客観は常にその場にいる。つまり、客観は主観と独立して存在しているからである。客観とは関係なく主観はあれこれと姿を変えていきながら話を作っていく。悲劇が起きもし、劇的な感動の瞬間も訪れる。
自分が自分として存在するということを知ることは、決して簡単なことではない。誰かが私の名前を読んでくれたとき、自分の存在を認識するようになる。オーナーになり経験した2年の試練は現実を認識する材料になり、本社での2年の過程は、現実の中に隠れている本質を確認する時間であり、ジョンアから言われた「あなたと一緒に働きたい」というのは、自分の存在を確認させてくれた特定した出来事であった。その当時から始まった存在の確認作業は、本質に入り、真のことを知っていく瞬間である。一緒に働きたいという言葉を聴いた瞬間自身の存在に対する肯定の力が作用する。
自分が自分だということを認識するということは、苦痛でありながら神秘的な体験である。自分が自分であるということを、当たり前なこととして考えているため、自分という存在を認識するということ自体を知らない人も多い。お酒を飲めるようになることと、18禁が見れるようになることだけが、大人になるという資格ではない。自分を客観的に見つめ自分自身の存在を凝視する人が成人といえる。ウンヨンの失態は、社長は社長だと認識していたという点である。2つ目に、ウンヨン社長である。社長の役割と義務、権利と権限は、法的に慣習的に設定されている。この部分も本当に考えないといけない対象である。社長と規定できる要素は数万以上だからである。自分が今まで聞いて、見て、経験した内容の統合を社長だと規定し、それを基準として社長という素振りを行った。しかし、失敗した。お金の流れを把握し、リストを管理し、人を採用するなどの仕事は、社長が持っている一部分にしか該当しない。社長とはなんなのか?という絶え間ない問いを結局最初にある社長という存在と繋がっている。表面上で知っている社長の義務と役割は飾り物でしかない。掘って掘ってまた掘って知らないという存在と認識の関係を究明する一連の作業が社長の本当にやるべきことである。
ウンヨンの5年間の歩みを見ていくと、常に階段を上っているという感覚がある。階段という意味は、上に登っていくというよりも何かを絶えず実践しているということだ。自分の前にある現実と意思のバランスの中で適切な位置探しをおこなっている。絶えず次の位置を探せる理由は実践を行っているからである。もちろんこれも、スタッフは簡単にはできない、オーナーが持っている特権である。しかし、特権を乱用せずに自分の前に置かれている、または開拓すべき道を黙々と実践していることひとつだけで「知る」過程という往復列車に乗っているということを証明している。
ライフスタジオと共に、約5年間の年月の中で、ウンヨンは何を知るようになったのか整理してみよう。
ウンヨンは、ライフスタジオと共にした瞬間から社長という名前の中に投げ出された。社長経験をしたこともなく、間接的にいろんな社長の姿を見て聞いて感じたことを基準に仕事を始めた。しかし、現実で問題を発生させた。自分が知っていることを使おうとすればするほど、未知の結果だけが見え始めるということが繰り返された。一つの組織を運営する経営において、人間関係で無気力な姿を見せ、浦安店というリングから降りてきた。条件の変化を通して、何が問題であり、どこから道を見失ったのかを確認する旅に出る。条件の変化は、まず良い効果を発揮した。少し呼吸もできるようになり、再び組織と人間という実戦に投入されたのがデザイン室だった。デザイン室でも長続きはせず、「清子の最後通牒事件」を迎えることになる。現象を少し変えたからといって、問題の本質は変わらないということがわかった。自分の根本的な問題を正確に認識し、その前に堂々と立つことからが、「知る」ということの始まりである。「確実に」問題の本質に堂々と向き合った結果、「ウンヨン告白事件」が起きたのだ。自分を客観的に見つめたときに出会えるのが私という存在である。
実に簡単でありながら単純な話を、あまりにも長く書いてしまった。
 
このような「知る」への過程を題材にした小説や映画はこの世にあふれている。すぐ思い浮かぶ映画は、[リトル・ダンサー]である。この映画は、サッカーとボクシング​​に象徴される男らしさにあふれているイギリスの炭鉱村を背景とする。炭鉱村に構造調整が行われ、これに反対するストライキにより、死ぬか生きるかを争っていたその時期に、ビリーは女性だけがするバレエに興味を持つようになる。このようなところでバレエを学びたいと言うと、当然笑いものになったり、ゲイなのかと疑われるようになる。現実世界で衝突が起き、あちこち行き来していたビリーは、果敢に今まであった偏見の目を破って果敢にバレリーナに挑戦する。踊っているとき、どんな気持ちなのかと尋ねられたときビリーはこう言った。
「僕の体の中全部が変わり、まるで自分の体の中に炎が燃えたぎり、そこで飛んでいくんです。
鳥みたいに。まるで、電流が走りその流れに乗っているみたいです。
電流に乗って飛んでいるみたいです。」 
ビリーは現実をそのまま受け入れた。しかし、とても不自由であった。大人は喧嘩ばかりして、いつもボクシング​​を習いなさいといってくる。しかし、偶然目にしたバレエ教室で、自分の中にある何かがうごめいているのを感じる。人の目を避けて練習をしながら、その胸のうごめきの実態と出会うことになる。自分が知っている、既存の概念と自分の中に存在するその何かの衝突の中で苦しみ、結局は自分の道を選択して前に進む。ビリーとウンヨンの展開されていく過程において、幾つかの共通点がある。これは、二人だけがもっているわけでもない。すべての人間が持っている普遍的なものである。
[知る]というのは、「2020年に東京オリンピックが開催される」という事実を知っているということを超えるその何かのようだ。事実に対する断片的な確認は、そこで終わるが、知ることは一種の過程である。投げて受ける過程で、知ることは拡張され、再び次を準備する。東京オリンピックが2020年に開催されるということを知っているということに、特別な意味はない。ただの断片的な知識である。知識は[知る]という材料となるものであり、知る過程の中で役割を担うことができる。知る過程は終わりがなく、その過程を認識し、継続して過程を遂行することそのものである。ウンヨンを通して見てきた、知るという過程ででてきた重要な単語は、条件の変化、本質、存在、実践などである。知る過程は何もこれだけではない。図書館で読んでくれる主人を待っている数万冊の本の内容全てが知るの過程である。
ところが、重要なのは知るという過程自体があるということに対する認識である。
知れば見えてきて、見えてきたら突破できる。
知るという過程の機械が自分の中で24時間稼動するならば、
どんな困難なことにぶちあたっても突破することができる。
[人間には耐えられることだけが与えられる]。私のブログの最初の画面にある言葉だ。耐えられることというのも、自分の知るという過程の中で作動するため、耐えられるのだ。自分が知らないことについては、知らないということさえ分からないからである。知る過程にいると、自分が知らないことは知らないと区分する。知る、知らないを規定し、知っている範囲で物事を成していき耐えていきながら生きていく。知るという過程がなくなると、知らないことで、自分を耐えさせている力さえ奪う。何もできない状況に引っ張られ、自分が知っている世界から出てこようとしなくなる。
多くを知る事が重要なのではなく、知るという過程を自分の中に装着しているのかが重要なのだ。
知らなければ知らないと言い、知っているならば知っていると言い、
知らないと言うことは、知ると言う過程を通して知るようになると信じる中で、
私たちは今日も力強く生きていくことができる。
 
2. 情報
 
知れば見えてきて、見えてくると行動するようになう。
知って、見えてきて、行動する過程で知識が蓄積されながら、自分の免疫体系はより強くなる。
だから、ある意味知識とは、
苦痛から抜け出したい欲望から出発したのかもしれない。
 
人と飲みの席であれこれ面白い話をしていると、海外旅行の話題が頻繁にでてくる。国の名前を言い首都の名前を答えるゲームもしたりするが、知らないとはいえあまりにも知らない人が必ずいる。待っていましたとばかりに、その人をターゲットにしてみんなで笑顔になることができる。中国は上海、アメリカはLAという人もいて、韓国の首都が平壌だと言う人の前では、足の力が抜けた。
世の中の出来事にあまりにも無関心な人に対して新聞を見たらよいと勧める。だからといって、実際に新聞を読んでいる人はいない。それでも数回新聞を広げて見た人は、だいたい二つの答えをする。「分からない」、「面白くない」。知らないから面白くもなく、面白くもないからずっと知らないままになる。新聞を読む理由は幾つかある。世界を広く見ることができるとか、有益な情報を知ることができるとか、または、論理と分析を生活化することができる。など…。ある日、なぜ新聞を読むのかと質問を受けたとき、こう答えた気がする。
[健康になるために運動するなら、ウォーキングや走るのが一番良いと言うだろう。何でいいと思う?走っている瞬間は、自分の体のすべての部分を使っているんだ。腕と足は言うまでもなく動いているし、心臓などの臓器もすべて動くんだ。血の巡りも早くなり汗も出てくる。体全体を継続して動かしていく過程で悪い物は外に出て、内部は丈夫になるだろう。
新聞は、これと同じような役割ができるんじゃないか?
私たちは常に世の中と共に呼吸している。家にじっと座っていても電気は回っており、家賃の支払いもあり、走る車の排気ガスが自分の肺に強制的に挨拶をしにくる。知っていても知らなかったとしても、自分を取り囲んでいる多くのものは、一緒に関係を結び、生きているじゃないか。停電すると、冷蔵庫の中にある材料が腐り、自分に直接関係があるとわかるが、ちゃんと電気がついているときは、あまり関心がない。つまり、自分を取り巻いているものは、直接自分に関係しているものの、それを認識しているのかいないのかの違いで状況は克明に分かれる。ならば、自分以外のものが自分と直接関係があると認識するようにする装置が、自分の中にあるのかということを考えてみよう。おそらくあまりないだろう。だいたいが、受動的に受け入れながら、当たり前だと思われるだろう。電気が通らないと、悩みの種となる冷蔵庫のように直接自分に痛みを与えたり、不自由にさせることだけに、自分たちは反応している。
これは、他の言葉で言うと自分の運命を外部からくる刺激にのみ頼っているということではないだろうか?
お腹が痛くて病院に行ったら、癌という診断と共に残り6ヶ月しか...という話を聞かないために、定期検診を受けるんじゃないのか?自分の体は自分が守るという意志は、面倒だが、定期的に病院に行かせる力になるだろう。だからといって新聞を読めば、すべてのことを知っているのだろうか?そうではない。その代わりに、この世の中を積極的に受け入れる意志は生まれる。刺激が起きる前に、先に刺激になるような要素を自分の中に入れ、予測もし、先制攻撃をすることもできる。このようなものがずっと蓄積されると、繋がりと分析は自然に行われる。ランニングについて述べたように、外部から来るものは自分の中で適切に消化させて、自分は本当に生きているようにする一種の内燃機関のような役割をするという話だ。自分を取り巻く条件を積極的に受け入れる作業として新聞が効果的だというんだ。もし君の内燃機関があるなら、それを維持し、ないのであれば新聞を読んでみなさい。]
?  !  .
新聞は世の中のすべての出来事を記事の形で整理し編集という魔法を介して私たちの前に置かれる。各新聞社の論調と政治的利害関係、広告などで客観性を失うという側面もあるが、ほとんど多くは、事実に基づいて書かれている。その事実が自分の感覚器官を通し、自分の頭に配信されて、その中で今までに磨きあげた分類法によって、自分の体のどこかに保存されている一連の過程は、[?!。法則]によって動作する。[何?ああそうなのか!そうだ。]のように、疑問を持ち確認し、信じる過程を経験してみると、ある程度、自分のDNAが刻まれた状態で保存される原理が作動する。
ここで、[情報]という言葉が登場する。情報の定義を整理してみよう。
まず、辞書には、観察や測定を通して収集したデータを実際の問題に役立つように整理した、知識、またはその材料のこと、といっている。
ウィキペディアでは、情報の概念をこのように説明している。
最近では、コンピュータの情報処理をベースとした情報(データ)が多く台頭している。情報の元の意味にそってみると、情報や資料(データ)を区別し、情報を「意味を持つ資料」と考える意見もあるが、このような分野では、全体的に情報の意味を持ち、問題にする事は、ほとんどなく、特別に情報と資料は区別しない。区分するならば、データを集めたものが資料だとすると、資料を特定の目的のための意思決定のために加工した形態を情報とすることができる。したがって、優れた情報は、目的適合性と信頼性、適時性を維持する必要がある。適時性がとても重要な情報を諜報として別に分類し、加工し、比較的長期間利用可能な情報を知識として定義することもある。
情報は常に変化しており、その速度がさらに速く進んでいく。個人が一つの情報を選択すると、変化によって不確実性が大きくなり、情報の価値が少なくなることがあるという理由のために、選択された情報よりも選択されていない情報が、より価値があると不安感を持つようになる。ナックダウ(A.M.NcDough)は「情報とは事実ないし資料に知的な処理を加えて得られた知識である。」と定義している。情報は、資料に対して特定の意味が与えられたものであって、直接行動に影響を及ぼすようになる。全ての情報は資料や、全ての情報とはいえない。フォレスター(J.W.Forrester)は、「経営は情報を行動に繋げる過程である。」とした。これは、経営上の意思決定に情報が中心になるということだ。
大体、多くの人は、すべての資料が情報になると考えている。しかし、相対的であるため、全ての資料が、情報の役割を果たすのは難しい。情報は価値志向的であり、興味がある人の意思決定に影響を与え、決定するときに影響を与え、ある程度の利益を提供することができる資料であってこそ、情報としての役割を果たすことができる。
結局、情報とは、一定の意図を元にまとめた資料の集まりであり、情報になるためには、利用者、すなわち、ある目的を持つ人がいなければならず、資料が処理されなければならない。そして、情報は利用者のために一定の規則に沿って再配列、要約、削除する過程を経なければならない。
21世紀の政治学大辞典には、情報をこのように定義している。
辞書的な意味は、「生活の主体と外部の客体との間の事情や状況の報告」をいう。「情報」は、抽象的なレベルで、多様に定義することができるが、広い範囲での定義として、情報は「物質-エネルギーの時間的、空間的、定性的、定量的なパターン(吉田、1990)として存在し、現象が起こる可能性に対して、選択的な指定をすることにより、確率的にシステムの不確実性を減少させるものである。これらの情報理論の観点から見ると、「情報とは、複数の可能性を含んだ味定理状態の中で、1つまたは少数の可能性を指定すること(村上、1997)と定義している。また、サイバネティック理論の観点から見ると、情報は、主体が環境との間で交換される要素の一部として、直裁的には「情報とは、環境からの刺激である。(加藤場合(加藤)、1972)」と定義している。これとは異なり、情報(information)とは、データを特定の目的や問題解決に役立つように編集したもので、この情報にさらに高度な編集をして普遍化したのは「知識(knowledge)」や知恵(wisdom)とすることができる。
難しい言葉の連続で[だから情報とは何なのか?]という言葉が自然と出てきそうだ。上記の定義において重要な部分を選び出してみると[実際に役立つように]、[特定の目的の意思決定のために]、[選択的指定]が目立つ。自分なりに情報について説明するとこうなる。スーパーに行くと、たくさんのものであふれている。一番よく売れている材料を選別し、最適な状態で数万個の商品を陳列している。おそらく、この状態が資料や事実、または事実を加工した状態ではないだろうか。数万種類の資料から、自分が必要とする幾つかのものを入れ、会計をして家に持って帰る。買ってきた物を、冷凍庫、冷蔵庫、収納、その他の適切な場所に保管し、必要なときに取り出して使用する。このように、数万の材料から、自分が必要とするものを集めて、適切な場所に配置をした状態が情報ではないかと思う。私にとってパスタは、ただ通り過ぎるコーナーの内の一つであった。10年前にしても、パスタは私にとってマフィアが食べるものだと認識していた。マフィアが何の気兼ねなく何人も土に埋めたあと、トマトスパゲッティの麺を食べている姿は、何か異常な気がした。しかし、いろいろな経験と資料が私の中に入ってくることにより「私も食べてみようかな?」と発展すると、スーパーに行って材料を買い、インターネットでレシピを検索し、ぎこちなくも作って食べるという過程がある。情報を利用して何かの行為と価値が発生する現象を情報化という。
整理してみると、情報とは、特定の目的のために、羅列された知識であり、
この情報を何かの価値があったり意味のあるものに向かう過程が
情報化ということができる。
ならば、情報はそんなに重要なことなのだろうか?
世の中が回っている出来事について、必ず知らないといけないことなのか?
楽しいことだけをして生きていても足りないこの短い人生の中で、あえて、情報を取得しなければいけないのか?
この文章の中で、21世紀の情報化時代に必要な情報の役割を伝えようとしているわけではない。私の関心分野は人間である。狭く言うならば、共同体の運営と維持という側面での人間、人間関係の中での人間、自分が自分として存在する人間である。まず、自分が自分であるためには、自分を守りながら変化しなければならない。しかし、自分が自分である前に入ってくるさまざまな情報に無防備な状態で露出され、自分が自分でいれず、あなたとして存在している私、私たちは集団の中で名前のない私として浮いている人があまりにもたくさんいる。この問題を解くために、知るということと知らないということについて書いているのであり、その知るということと、知らないということの間で情報の役割を説明しようとする。
人々を観察し、話をしていると、自分が持っている大したことのない材料だけで料理を作っているため、いつでも同じものだけを食べるようになり、人生がそれくらい索漠としている光景をよく目撃する。士官学校を初めて作ったときに書いた報告書を引用してみる。
ライフサークルのリーダーシップで主に話す内容は、情報に関する事だった。冷蔵庫に材料がないという表現を使ってきて、梯子の理論も出しながら情報の取得と分析、政策生産に対する重要性を強調してきた。
昨日、チョンアと話しながら[人の心を引き付ける魅力]の話をした。リーダーが必ず持っている必要があるものは何なのか?企画力?推進力?カリスマ?未来予測?。。。全て重要なことだが、[人の心を引き付ける魅力]が最も重要であり、それが始まりであり、終わりだと主張した。では、何を持ってして人の心を引きつけなければならないのか?ドヒョンのようにハンサムな顔?人間に対する無限の愛情?目的としたものは必ず守る不屈の意志?これらは全て本当に重要であるが、これらが効果的に役割を果たすためには、何が必要なのか?先に時事に関する内容を書いたが、自分自身を継続して投げかけていかないといけないと言った。
私と私、私と対象の間には何があるのか?
つまり、私と私、私と対象の間で伝達されることを[情報]というのではないか?
梯子理論で説明してみると、私たちは何かをしたときに限界に直面する。1から5まで知ったとしても6がなければ絶対に7を知ることはできない。ところが、私たちの目標は、常に100である。6を知ると7を知ることができ、7を知ると8を知ることができる。たまに5まで知っているのに10を知っていると勘違いしている場合もある。このような時、私たちは多くの間違いを犯すが、その間違いを修正する過程で6を知ることができ、7をきちんと知ることになるのだ。そうすると、10は自然に以前と違った姿で私たちの前に現れる。梯子を登る時のように一歩一歩登るしかない。その6を知ることができるのは何だろうか?その神秘の物質とは、まさに情報の取得と共有という作業である。冷蔵庫に何かが入っていなければ何も作ることができない。冷蔵庫に何もない場合は、各自の観念だけで料理を創ることができる。そのような食べ物は、束の間の喜びを与える事が出来ても、いざ空腹時に食べることができない。むしろお腹がすいたら自分のおしっこをためて食べる方が正しい道だ。冷蔵庫に入ってくるのが情報であり、その情報を分析して判断し、私が作る料理を決めて実行に移す。
この世の争いは、大体が情報がないか、それでもあると言われている情報も、固定観念の支配を受けている腐った材料である。この文章を見た人々が持っている、李濟旭という人に対する判断は、各自ばらばらだろう。同じ人を違うように判断するという事は、どこかで間違いを犯しているという話になる。そして、その間違いが無条件悪い事だけではない。鍛冶屋の職人が、刃が真っ黒になるまでカナヅチで叩くように、情報が継続的に入ってきて、それが共有される過程で、より一層客観性を持つようになり、その中で知の世界に、さらには信念に発展することができる。
リーダーシップで重要であるという洞察力、推進力、自信、情熱、将来予測、人間に対する礼儀、目標設定能力などの基本的な単位は、情報取得と共有することができる。情報取得は、世の中に存在する全てのものを対象とし、共有とはレーダーの電波のようにすぐに飛んでいって正確に戻ってこなければならない。
ところが、通常の情報取得と共有を補助的な手段として考える傾向がある。
しかし、士官学校では情報取得と共有そのものを主題とする。人に深く入って共感する事、目に見える現象に留まらず、本質を探して説明すること。自分の前にあることを超えて全体を対象とするもの、ただ入ってきた情報の解釈で留まるものではなく、目的意識を持って情報を探し、自分の言葉で作ること、自分の言葉を他の人の言葉で再解釈する技術と真正性…。このようなことが変化発展プログラムではないのか?
上記で、知るという過程を述べてきた。知るということから知らないということへ、再び知らないから知るへの過程がある。その過程で、状況の変化、本質、存在、実践という言葉が登場した。この過程は、瞬間移動を通して現れるのではなく、私たちの目には見えないが、非常に細かく編まれた生地のように段階を踏む結果である。一つ二つ、編まれて積み重なった過程を経験すると、ある段階に達するようになる。
細かく編んでいく過程を構成する最小の基本単位を何というか?
生地は糸が、服は生地で基本単位が構成されるならば、知るという基本的な単位は何だろうか?
知るということを構成する基本単位が[情報]だとすると、あまりにも堅いだろうか。
情報取得と分析が成されると、これを土台として規定するようになる。この規定を根拠として行動するようになる。条件の変化、本質、実践という言葉は、その過程を大きく分けるための観念の世界である。このような観念の世界は客観的に存在することから出発する。香が漂うと、その香が漂っている場所に顔を向けるようになり「これは何の香りだろう?」と考える。
目で確認して、過去の経験を思い出しながら、その香りを規定する。それは美しいバラだと鑑賞したり、バラを摘んで愛する人に与えたりもする。しかし、それが犬の排泄物であれば、顔を背け避けて通ろうとする。情報を得るためには、実際から作りだされた加工品の世界からでなければならない。スーパーに行くからこそもやしも卵も買うことができる。情報の核心は、収集と分析にある。新しい事実や資料を得ることができる空間も必要だが、既存に入ってくる事実と資料を情報にすることも収集に値する。情報を探すために、歌舞伎町の夜の街をブラブラ歩くことよりも、むしろ、既存に入っているものの整理と加工がより重要であることもできる。E-mailを最初に作成した時のことを思い出す。昔はネイバーのメイン画面を開くために、10分以上待たなければならなかった。インターネットが日常化される前までは、事実とその加工品を得るためには本や新聞、口コミから聞く経験談がほとんどであった。今は1分が遠いとメールが入ってくる。大体はSNSを行っていて、溢れ返る情報の洪水の嵐の中でもがいている。
あまりにも多くの事が入ってくるが、だからといってその全てのことを情報として作り出しているだろうか?
車の窓に意味もなく映っているものと変わらないのではないか?
たくさんある事物と加工品のなかでなぜ私たちは疎外されているのか?
ライフスタジオで作られる事実と真実、歪曲と屈折の内容がさまざまな経路を通して入ってくる。哲学サークルや各種集まりでの出会いと話をボードやホームページ、各店舗のフェイスブックとチャターからたくさんの情報の微粒子が溢れかえっている。
それなのに、その多くの情報の材料を受けているにも関わらず、私たちはいつも分からず、
何が何なのか分からないというようにだけ、言っている
情報は特定した目的のために、羅列した知識だと定義した。特定した目的/羅列/知識の3つの構成要素を持っている。自分に戻ってくる多くのものが自分の中で蓄積されず、常に分からないと話す理由をこの3つの構成要素で説明してみる。
特定した目的
[爪の下に棘が刺さっているのは知っていても、心臓の下にウジがたかっていることは知らない(些細な事や利益には明るいけれども大きな事や損害に対しては疎いということの例え)]ということわざがある。目の前に見える事はうまくやり、目には見えずすぐには起きない大きな損害について気づかないということ。少しひねって考えてみると、相手の大きな苦しみよりも、自分の爪に刺さった小さな棘がより重要だということである。人の前でどれほど礼儀正しい人でも、自分の利益の前では、非常に冷静になる人がいる。いるというよりは、ほとんどの人がそうである。憂鬱で切ない話だが、日常的な事である。日常で起きているが、自分がやられると憂鬱になる。共にする楽しみを話していながら、自分の爪に小さな棘が刺さった瞬間、相手はただの対象となる。人を対象化してはいけないと言っている。しかし、自分の奥深くに入ってくる相手を事物と認識する場合が多い。球場のネットを越えて飛んできたボールを投げ捨てるように、相手を自分の外に押し出す。自分の中に入らずに、自分の目に見える所にいればよいと。何かが自分の中に入ってくると不愉快で疲労感も覚え、時には傷を負わせる。だからといって、入ってこなくなるとそれはそれで寂しくなる。寂しさを超え、落ち込んでくる。相手が入ってきても入ってこなくても、落ち込むのに変わらない。お互いを見ている視線を無視することはできない、それを超えた何かが必要である。自由な魂がお互いを向き合わせ、不思議にも思い、時にはぎこちなく生きていくしかない。より良い世界、より進歩した世界に向け、自分を投げだす方法以外に方法はない。
相手にどうやってうまく投げ、うまくよけるのかが問題であって、投げるのか投げないのかというのは、問題の核心からかなり逸れている。しかし、私たちは入ることもせず、遠くに行くこともしない、適度な距離を維持することに慣れている。相手が一歩近づいてくると一歩後退することが自動的に行われる。人間を対象として見ているということである。自分の机の前にあるコップは自分にとっては対象物である。水を飲もうと思ったときだけ自分の中に入ってきて、それ以外ではガラスに水を入れることができる空間を持っているという対象である。しかし、人にそんなことはできない。人を追い詰め格子に閉じ込め、自分の性的欲求や自分の体の一部としての肉の塊として見ている映画を考えてみてほしい。人を目的ではなく、対象として置いた時の破壊する姿を見ることができる。このように、相手を対象に置いたときに、私たちは憂鬱になり辛くなる。もし、相手を対象として置いたときに、その相手に入ってくる情報は何だろうか?簡単である。
あの人は、自分にとって徳となるのか、害となるのか?
または、あの人は自分と合うのか合わないのか?
少し悪く言うと、あの人は利用する価値があるのか、ないのか?
今、情報において、特定の目的を述べている。人、相手に対する基本的な認識と態度によって、自分から作られる情報は非常に変わってくる。奴隷の主が、奴隷を見ている特定の目的は、仕事がちゃんとできるかの能力である。体つきと歯を見る理由はそこにある。自分の体を自ら鎖で縛り付け、自分の中に入ってくる人に、極度の警戒心を放つ人には、脅威の強さが特定の目的になる。例えがあまりにもおおげさに聞こえるだろうか?ところが…。全体会議や哲学サークルのような集まりでの、各自が他者に対する自分の立場はどうなのかを一度じっくり考えてほしい。
何か違うところはあるのか?
違うのであれば、どこがどれくらい違うだろうか?
フェスティバルや哲学という外皮で包み、空洞になっている自分の悲しい魂を撫でてくれる人を、自分にしか見えない小さな穴から探しているのではないか?人に入らない状態で、外面だけを観察し、人を判断し評価して、自分の中であれこれ持て遊び、ゴミ箱に捨てているのではないか?私たちは、何か話すたびに、愛だの幸せだのという話を吐き出している。しかし、愛の技術を、幸福の技術を持っている人を見たことがあるだろうか。
人間関係において、人間を対象ではなく、目的としてみようとする特定した目的を持っているならば、その分、真の人間を見つめるしかない。自分が他者を見る視線は、再び自分の中に入ってきて、整理と分類の過程を経て、実践を要求するようになる。その時、他者に手を差し伸べながら入っていくようになる。そうすると、予期せぬことが起きるかもしれず、生まれて初めて目にするパーティーが開かれるかもしれない。白馬に乗った王子に会うかもしれないし、クルーズミサイルを受ける可能性もある。その過程で、再度自分を整備し、再度隅に追いやられながら新たに知ることになる。
必ず追い込まれないといけないのですか?という疑問が浮かぶかもしれない。全知全能の神でない限り、他に方法があるだろうか?追い込みもせず、知ることができる人であるならば、その人は神ではないのか?
旅行に行ったとしよう。1時間単位で自分のスケジュールを決める人がいる。インターネットに書いている体験談を見ながらこう言う人がいる。「午後​​2時に海に出て泳がなきゃ。だったら、浮き輪も持って行ってその上で本でも読もうかな?この写真見てみてよ。私もこうやって足をかけてゆっくり本でも読まないと。じゃあ、この広い海の浮き輪の上で読む本は何にしようか?」。このように旅行に行く人の特定の目的は、準備段階の喜びと準備したことをすべて行った時の喜び2つである。美しい海の上に浮き輪で浮き、その上で本を読むという満足度に留まっている。本の内容とは関係がない。逆に、正反対の人もいる。何も情報もなく、飛行機のチケットだけを購入し、その国に行く。知っている情報がないので、そのまま起きる出来事にのまれていく。タクシー、ホテル、各種客引きの餌食になるには十分である。その人の特定の目的は、日常の破壊である。その過程で、入ってくる情報は、自分の日常を試験するリトマス紙になることである。これは、旅行の本質に近い。
このように、特定の目的によって、情報の量や質は変わってくる。冷蔵庫に材料がないというのは、特定の目的がない可能性が高いということを意味する。忙しく生きていきながら、ある日ふと自分を振り返ったときに、惨めな自分を見つけるときがある。習慣的に朝目覚め、出勤しコンビニでおにぎりを食べている自分を発見する。なぜライフスタジオの構成員になり、一日中立っては座りを繰り返すのか?その特定した目的が失われたときに入ってくる事実は、情報にはならない。ただ通り過ぎるテレビのCMと同じようなものにすぎない。
ライフスタジオで、なぜ働いているのか?2013年体制で、なぜ論文を書いているのか?
他の人がやるから、私もやらなければ。または、やらないと何か自分に害が及ぶかもしれないから。やるならその人に入ってくる情報と、このような流れで現れる行動を想像してみよう。
羅列
士官学校の確信テーマは「私たちはどこで道を見失ったのか?」であった。道を探すための作業として、概念と論理という二匹のウサギを捕まえようとしていた。朴泰赫の書いた白書を中心とした労働・組織・教育などの概念を講義する形で進行し、李濟旭は、1つの主題に対して論理的に話すことを中心としながら進行していった。
1+5=6。ならば、3×23は…5秒程計算をしてみると69と答えがでてくる。しかし、231×74は…320×4のあとにそれを5で割ると…分からない。暗算では計算できないため、紙に書きながら計算する。道を見失う可能性があるため、地図もあり道行く人に道を尋ねたりしながらどこかに電話してみたりする。それでも道を見失うと、私たちはその場で固まってしまう。
ある役割を与えられ、その役職を遂行する。進めていくうちに人々はよく崩れてくる。ガスが発生し、周りと問題を起こしながら、自分が請負った役割と役職を下ろすことになる。ほとんどの人が似たような部分で放棄し、自分を責める時間を持つ。人間関係もそうだ。1人の人と親しくなるために努力し、ある程度慣れてきた頃、その関係をテストする危機が訪れる。お互いに衝突したり、逆に倦怠期に入りながら、当たり障りのない生ぬるい関係で留まるようになる。どこかで道を見失ったということである。道を見失いながら、呼吸は速くなり、日が沈みそうになる不安に苛まれ、逆により山奥へと入っていく。道を見つけられなくなり、冒険すらしないようになる。計画と挑戦をしなければ、危険性は少なくなるが、人生は退屈になってくる。その退屈そのものが道を見失っている過程なのかもしれない。
士官学校を行った理由はここにある。ライフスタジオに入社し、適応期間が過ぎると、自分の望みを語り始める。ライフスタジオが変化発展を掲げている組織だからこそ、その望みは、干ばつに降るにわか雨のようだ。周りではあおり、組織全体の支援を浴びせる。登っていく人は登っていき、休みながら進む人は、少し低い場所へ降りて行って充電すればよい。しかし、ほとんどが降りてくる。いや、全員が降りてくる。そのため、山の入口にある休憩所は人であふれている。高地征服するためのベースキャンプは複数あるが、多くの人が少し登って、再び下山していきながら山の入口の人口密度は高くなる。束の間の峠を越えることができず、そのまま下山する形が繰り返されながら、組織はだんだんと、低い水準で標準化されていく。道に迷ったときに、ちゃんとした道を見つけられずに下山する理由について疑問が浮かぶ。
なぜ人々は突破していかないのだろう?
道に迷ったなら新しい道を作るなり、来た道を戻りながら道を見失った地点を探さないといけないのに、なぜその場で固まってしまうのか?
道に迷った時に必要なのは、道を探しだそうとする意志である。道を見失ったというのは、知らないということを前提とする。知らないから知るへと進む過程を支える力は、道を探すという意志である。百科事典では、哲学的意志についてこのように定義している。
意志は知性と感情の複合体であり、常に目標を指向しているため目標に対する認識を前提とする。意志は行為を通して実現され、人間の社会的、自然環境による抵抗を克服したときに実現される。意志による行為は、通常、意図の形成と決心、心の中に抱いた決意の実行という2段階で成される。哲学の歴史の中で、意志とは何かという問いに対して、思惟、認識など、知性と意志の関係の問題に密接に結びついている。
道を見失った時に道を見つけるためには意志が必要であり、その意志が発揮されるためには、目標に対する認識を前提にしなければならない。この点で合目的性という概念を使用しなければならない。合目的性とは、目的に合わせ方向を設定することをいう。ある思想が、目的を指向しているものと手段が目的に適しているという意味もあり、ある部分が全体に、全体の各部分が互いに適した場合に使用される。法の観点から見ると、国家と社会がどのような価値と理念を追求することが理想的なのかを予想し、それに合わせて方向を設定すること、すなわち、「目的に合わせて方向を設定すること」を意味する。簡単に例をあげると、戦争での戦闘中に敵軍を殺すことと、自分の隣にいる同僚が、自分の買ったパンをこっそり食べたから殺すことは、同じように人を殺しているのだが、刑務所に入るのは、パン事件の主人公である。戦争での敵軍の命も大切なものだが、刑務所には入らない。国を守るためということが目的であり、そのために軍人が作られ、戦争が起こった際の彼らの役割は、敵軍の戦闘力を失わせることである。戦闘は、その過程の一部分である。もちろん、この問題も、国家の維持と人間の尊厳の両方面から比較すると合目的性が違ってくる。人間の意志を呼び起こすためには、このように合目的性を自分自身に与えなければならない。道に迷った時、その道を進むべき合目的性が生じた時に道を見つける意志が生まれる。ならば、この合目的性はどのようにして生まれるのか?
車道を横切っている子供を見たら、自分の中で「危ない」というセンサーが作動する。周りを見て車が来ているかどうかを確認する。速度の速い車が来ていると、私の足は自動的に子供に向かいながら、まずは、車に止まるようアイズを送る。車が私のアイズに気づかないようなら子供を抱き上げ、安全な場所に移動する。このような一連の過程は、自然に繋がっている。このように、子供の安全という目的は、危険性を認知し、周りを確認した後、自分のやるべきことを定め、具体的な行動に移すという一連の過程を踏むことになる。もし1分1秒を争うこの状況で、自分も危険にさらされると躊躇したり、子供に聞こえもしない声で叫ぶだけ叫んだり、自分とは関係ないことだと通り過ぎ、自分を責めるのであれば、道に迷ったときに不安と葛藤が始まる。子供を救うという目的を達成するための過程がまさに論理である。[論理]は、思考の位置を意味する。私たちの思考が作用する過程である。真の認識を得るために、思考が経なければならない道を案内する。子供を救わなければならないという目的は、誰もが持っているものだが、それが合目的性を持つためには、論理を備えなければならない。子供を見たときにできる行動は、数千にもなるだろう。しかし、このすべてのことが合目的性を持っているわけではない。子供を救わなければならないという意志は、目的を達成するための過程が羅列された合目的性を前提にしたときに出てくる。道を見失ったというのは、目的を達成する過程で失態が起きたということだ。失態が起きるため、合目的性が弱くなり、意志が消えるようになる。
事実や資料は個別にある。今雨が降っているというのは意味のない事実である。しかし、屋外イベントを開催するという特定の目的を持っていると、雨が降るということは意味のある事実になる。屋外イベントがあるのに、今雨が降っていると、イベントを構成している全ての要素のチェックと、雨が降ってもイベントを行えるようにする一連の過程が必要である。
このような過程るということであり、これは、イベントの目的合致する
合目的性必要とし、このような合目的性確保するためには、にかなった論理必要だ。
えば、にかなった論理合目的性確保され、これにより意志発生
特定目的達成することになる。
数学の問題を正確に解くということは、論理的な過程を終えたということである。道を見失うと答えが出てくる確率は0に近い。特定の目的のために羅列するということは、理にかなった論理が適用されるということを意味する。自分が知っていることを無分別に羅列することは意味がない。これは知らないということと同じ意味の違う言葉である。
知っている事を特定した目的に合わせて論理的に羅列する行為が
まさに、知らないから、知るということへ進む過程である。 
知識
知識の辞書的な意味はこうだ。広い範囲としては、事物に関する個々の断片的な事実、経験的認識を意味し、厳密な意味としては、原理的、統一的に組織され、客観的な妥当性を要求できる判断の体系をいう。
知識を写真で説明してみよう。写真を始めて撮る人にとって、カメラの様々な機能や、被写体の動きは[あ、い、う、え、お]のように、特定の意味を持たない。生命力なく各自が互いに分離されている状態である。写真に関する基本的な書籍やインターネットなどで情報を見たり、人形を使い撮影練習をしながら、カメラ、レンズ、背景、色、光などがどのような関係を形成しているかについて、関心分野を集中させていく。望遠レンズで下から撮影したり、被写体の視線が上にある場合はフレーミングに調整を加えるように、複数の構成要素を接続するために努力をする。この頃は、まだ、光の処理と露出がどのように作用するかわからないため、各々分離されたまま調整される。撮影者になり、その場所に慣れてきた頃、写真の構成要素の相互関係が目に入ってくるようになり、1つ、2つと自分だけの技術が生まれてくる。[いと、くが出会い、いく]という単語が出てくる。写真の様々な構成要素を組み合わせて見えてくることを、さらに見やすく作成する段階に達すると、一つの独立した状態の完成品が作られる。広い意味で、知識を規定したとき、事物に関する個々の断片的な事実、経験的認識がこの期間に形成されていく。料理で言うと、一目見たときに食べたくなる料理と表現できるだろう。料理は食べるためにあるのであり、食べた時にその感動を伝えることを最終目標としている。写真も同じだ。「きれい」「かっこいい」を越え、何かに対する渇望がある。レンズに入ってくる光を目で確認する。その光を判断し決定する主体は私である。シャッターを押した瞬間、誰も自分の代わりにはなれない。だから撮影された結果物は[別の私]なのである。逆に、光の形で入ってきた対象は、その対象のまた別の姿である。その対象もまた、誰も代わりにはなれない。[私の中のあなた]を作るのも、シャッターを押した瞬間に作られる。このように[また別の私]と[私の中のあなた]という矛盾の中で、その何かが作られる。ならば、私は誰であり、あなたは誰なのかという質問を絶えずするしかない。だから事実、経験的認識の段階を越えて、原理的、統一的に組織され、客観的妥当性を要求できる判断の体系が必要になる。このように、写真が知識へ発展するためには、[果たして何なのか?]という、自分の努力と省察が必要である。
私たちがよく話す、常識や知識の違いの中で、知識が知ることにおいて、どのような役割をしているのか見てみよう。常識は、専門的な知識ではない、人々が通常知っているか知らなければならない知識、理解力、判断力、物事の道筋である。知識は、ある対象に対して学んだり、実践を通して知り得た明確な認識や理解であり、客観的妥当性を要求できる判断の体系をいう。写真館で一定の金額を支払い撮影を要求する顧客にとっての常識とは、自分の子供を自分が認識している美しさで再現し、さらには、親も知らなかった子供のもう一つの美しさに対する期待である。顧客は、どのようにして美しさが作られるのかについての知識を要求しない。写真館の撮影者は、顧客の常識と共に、その子供の状態を把握し、写真館が保有している条件を総動員して、その子を美しく表現できなければならない。その表現を可能にする技術の総体が知識である。
相手に対して礼儀を守ることは常識に属する。しかし、相手は自分にとって本当の意味で何なのかということは分からない。本も読んで様々な経験を通し、人間、または、あなたという概念が成立された時に、本当に何なのかという質問に答えることができる。そして、知識の世界で連結と洞察が可能となる。
私たちは、常識という枠の中で生きていく。常識がないと無秩序の混乱により、この社会を構成できなくなる。人類が進化していく過程で、人の得となり、検証済みの知識が多くの人々に適用された状態が常識という名の秩序である。しかし、ある具体的な出来事が起きると、常識だけでは知ることができない状況が起こる。ある日、腰が痛くなった時に分かるのは、「何か腰に問題が起きたのかな。」程度である。そして、専門的な知識が集まっている病院に行き、医師の診察と各種レントゲンなどを行い、問題の原因を探し解決策を決める。普通の人は、人間の身体の構造と細胞分裂やがんの発病の流れを知らない。知らなければ、知っている所に行くように社会は組織されている。しかし、知らないことが、自分を苦しめる時、これを解決できないことが頻繁に起きている。自分だけでその問題を解決するしかない。
「幸せな人生をおくるために何をしたらよいのだろう?」
「何で気分が良かったのに、いきなり落ち込んでしまうのだろう?」
「彼氏って絶対必要なのかな?」
「幸せになるための薬でもあるのかな?」
「感情の変化を抑えられる監視者っているのかな?」
「これを代わりにやってくれる所ないかな?」
大体、平坦な人生を生きて行きながらも、ある瞬間奇妙な変化が訪れる。最初は「何だろう?」と疑問を持ち、時間が少し経つと自分の体と心に影響を与えながら、その変化との全面戦争を繰り広げなければならない時が来る。知らないやつらが入ってきた。やつらは子を産み、ごきぶりのように繁殖し増える。知らないということが支配する世界になる。知らないことを知るようにすること以外は、この変化を解決することができなくなる。
知れば見えてきて、見えてくると行動するようになる。
知り、見え、行動する過程で知識が蓄積されながら、自分の免疫体系はより強くなる。
だからある意味、知識は苦痛から抜け出したい欲望から始まるのかもしれない。
今まで、特定の目的のために羅列された知識という情報の定義について説明した。特定の目的がなく、論理的に羅列せずに、自分が直接探さないといけない知識がないため、私たちは知らないという世界でもがいている。
情報というのは、知らないということから、知るへ、
知るから知らないへと繋がる基本単位だとするならば、
情報がなければ知らないというのは当然の事である。
だから、私たちの周りを通り過ぎる情報の粒を
拾い集めなければいけない理由と技術が必要なのだ。
 [知らない事は犯罪だ]という原則の下、この文章を書いている。犯罪とは、有害または危険なことを言う。知らないからといって、ここに警察が来て手錠をかけることはないが、知らないということは、有害であり危険である。[2013年体制]は、変化発展プログラムの装着が予測可能なシステムである。これは、他の言葉でいうと[自立]への近道である。[自立]するためには、自分がどの土地にいるのか、自ら立ち上がるためには何を作動させなければならないのか、自ら行くべき道を探す、全ての行為は、知るという土台の上に作られる。逆に言えば、まだ自立していないというのは、知らないという所から始まっている。つまり、[自立]の観点から見たときに、知らないということは、有害で危険なものであり、これは、他の言葉で言うと、犯罪に値する。自分が自分に犯す犯罪に値する。犯罪を犯さないために、まずやるべきことは、[情報]の定義の部分にそのまま記載されている。個別の事実を知っていくのも重要だが、特定の目的のために羅列された知識が、知るということの基本であることを知るべきである。知というのは、単に知るを超えた、その何かである。今まですれ違った人が数万人いて、人との会話も数千時間行っているにも関わらず、私たちは、人間に対する基本的な知識さえ持っていない。自分の経験、知識に基づいた知るは、説明できない多くの場合に使い物にならない。だから[哲学で突破する]が出てきた。知るにおいて、最も基本的な対象となる、哲学という特別な目的を自分独自の論理で羅列し、それが自分を構成する知識として定着していくこと。これが[哲学で突破する]である。今から[2013年体制]で[哲学で突破する]が、出てきた背景と意味について述べていく。
 
3.  哲学
 
ペルソナ(自己の外的側面)を破り、素顔が見えるようにする必要がある。唯一その時のみ、
私たちは、自分の人生を演技ではなく、人生として生きていくことができるからである。
人文科学が、私たちがペルソナを脱ぎ、素顔で自分と世界に直面することができる
力を与えようとしているのもこうした理由からである。
一方、偽りの人文科学は、みなさんに、より厚く豪華なペルソナを与えると約束するだろう。
偽りの人文科学は、鎮痛剤を与えて満足するが、真の文学的精神とは、
私たちの人生にメスを入れ、私たちの傷を治療しようとする。
                                                                     カン シンジュ
 
哲学とは何なのか?
果たして、哲学で何を知ろうとしているのか?
今哲学に集中しなければならない理由は何なのか?
哲学が何なのかについてはわからない。教科書には、「知恵に対する愛」と説明しているが、身近に感じることはできない。ライフスタジオで哲学をしなければならないと言ってはいるものの、そのたびに手足が縮む感じを消すことができない。哲学が何かも知らない人が、哲学で突破しようと説得をしているので裸の王様になったような気分である。自分だけ知らないで、これをやろうとしているだけではないかという恐怖心もある。
ライフスタジオが何故学習と教育、そして自立の方向設定を行うようになったのか?
その出発を一言で言うと、[自分自身に対する無気力]である。
写真館を行っている理由は特別なことはない。楽しく一日一日を過ごし、束の間でも人生の意味や価値を感じられるくらいならいい。[飛び出せ。繰り返される見飽きた毎日から]。本当に格好いい言葉である。楽しくなければ、そこから飛び出ていくべきであり、人生の価値がないと感じる一瞬一瞬でも飛びださないといけない。誰でも飛び出す権利があり、また戻ってきて空いている空間を満たせば十分である。飛び出していつでも戻れるような、そんな自由な空間を作りたい。それがつまり、[自立]ではないだろうか?しかし、人々は傷だらけのまま、自分が座っている席から一歩たりとも動こうとしない。よくよく見てみると、予想以上に多くの傷により、自分の魂まで脅威を受けていた。あまりに大袈裟に見ているのではないかとも思ったが、ただ通り過ぎても[自分の無気力]により、何もできない人をたくさん見る。自分の中に入ってくる不純物をろ過できず、体内にそのまま沈殿され、石の塊になっている。当然、体のあちこちが痛くなる。心と体が通常に動いていないことを、それが運命だと内在化させている。人間というよりは、事物に執着する傾向を見せたり、自分と他人の境界線を区別する技術は日々発展するようになる。このような状態で、何かをしようというのは、マニュアルを作るということだけを意味する。自分と自分、自分とあなた、自分と私たちの境界線をより明確にするということがマニュアルの欠点である。機械の無言の約束のように、正確に動作するマニュアルは、それだけ、人間の基本的な属性とかけ離れていく。
[自分自身に対する無気力]から脱出しければ、をやったとしても、
上に城くようなものだ。
ライフスタジオで写真や顧客感動の言及がない理由もそれである。
各自持っている根源的で本質的問題優先的解決しない限り、
をすることもできないという判断であった。
だからてきたのが、学習教育であり、現在哲学
集中しなければならないという論理説得力ている。
ならば、哲学を行うと[自分自身の無気力]から抜け出すことができるのか?
数年前、韓国に発つ日の朝。多くの人は、出発日の前日に持っていくものを準備するというが、私はそうではない。なぜなら、荷物がないからである。本当は、カバンも持って行きたくない。ある時、手ぶらで空港に行き税関で引っかかったことがあった。何も荷物を持っていない私を見て不審に思ったのだ。その日以来、特に必要もないカバンを持って行くようになった。荷物がないため、家から空港に出発する瞬間にパスポートやチケットを確認する。ところが、その日は、いくら探してもパスポートがなかった。心臓がバクバク鳴り始め時計を見る。今家を出発しても、飛行機の出発時間1時間前到着なのに、パスポートが見当たらない。体に冷や汗が出始め、飛行機に乗り遅れたら何が起きるのか想像する。面倒なことがたくさん頭によぎりながら、口からは悪口が、体から冷や汗がさらに出てくる。部屋の中を30分程探し、部屋にある全てのものをだし、足の踏み場もなくなった。さらには、キッチンのお皿までもがでてきた。探しつくしたのではないか。ほぼギリギリのところでパスポートを見つけた。そして空港に行き、無事飛行機に乗ることができた。パスポートが見つからなかったため、多くのことが起きた。家の中にあるもの全てが床に陳列され、心臓がバクバクしながら、だんだんと分泌されてくる冷や汗により、特有の臭いがするようだった。まだ起きもしていない、多くの面倒なことが私の精神的健康を害していた。パスポートだけ見つかれば、この全てのことは1つのハプニングとして終わる。パスポートを見つけることはそれほど難しくはない。たとえ無くしたとしても再発行してもらえばよい。面倒なことを行う必要はあるが、解決方法を知っているため、大きな問題にはならない。ところが、[自分自身に対する無気力]に陥った人は、その原因を見つけることが、それほど容易ではない。まず、自分ということを知るべきである。しかし、よくよく考えてみると無気力の原因となっているあなた、つまり他者がいる。他者との関係の中で、私が規定されることが、頻繁に起きるため、他者について学ばなければならず、考えなければならない。自分と他者の共通点が人間だから、人間についても学ばなければならず、考えなければならない。このように、無限に続く疑問と答えの中で、無気力の原因を見つける作業を停止することになる。後からは、始める事さえしなくなる。そしてそれを運命として受け入れる。
人生はそんなに簡単ではない。写真もうまく撮らないといけない、遅刻もしてはいけない、彼氏も作らなくてはいけない。誰かの誕生日にはプレゼントも買わなければいけない、家賃も決められた日に振り込まなければいけない、韓国に行く前日にはパスポートを準備しておかなければいけない。この全てのことをやれば[自分自身に対する無気力]が解決できればよいのだが、現実はそうではない。呼吸をしているからといって、誰もが羨む腹筋が割れるわけではない。
[自分自身に対する無気力]を治せる特別な方法が必要である。
[自分自身に対する無気力]は、[知らない]から始まる。
知らないから、萎縮し受動的になり、ますます無気力を伴うことになる。
ここで[知らない]から抜け出す魔法の杖が登場する。
それが[哲学]である。
哲学は、人間らしく生きるための、もがきの一種である。アフリカの草原で王と呼ばれるライオンは、日本のうどんを食べたいとは思わない。うどんのことを知る事もなく関心もない。ところが、人間は目に見える地平線の彼方に何があるかという疑問を持っている。その疑問が大きくなると、そこに行き、確認しないと気が晴れない。自分の中に入る疑問が解けなければ不自由になる。この不自由さを解消するために、温泉にも行き濃いコーヒーで胃をなだめることもある。時には大金をはたき、フランスの街を歩くこともある。しかし、より根源的で本質的な問題は、ただでは解決されない。「私は一体誰なのか?」「永遠に続く価値はそもそもあるのだろうか?」のような、巨大な質問もあれば、「昨日彼女が私に向けた視線が少し気まずい。常に気後れしている私は、彼女に何かの弱みを握られたのか?」「昨日は楽しかったのに、今日は本当に微妙だ。上がり下がりのある私の感情状態は正常なのか?」のような、生命形の疑問もある。コンビニに行き、数十種類のおにぎりの中から何を買うか迷い1つを手にする。食べておいしいこともあり、あまりおいしくないものもある。自分の口に合わない場合は、次は他のおにぎりを買えばいい。そのような選択の失対を元に、自分を責めることはしない。ところが、一緒に働く同僚に話しかけることは、おにぎりとは全く別の種類の冒険である。相手がどのように反応するかも分からず、何をどうすべきか全く見当もつかない。数回の失敗と傷を受け、苦しみを経験すると、問題が生じない内容だけを選び質問し、答える。歩み寄り方の問題もあるが、お互いに共有する内容も特にないのだ。士官学校で、本心を話せる人がいないという、話が出てきた。だから彼に尋ねた。「本心とは何ですか?もしかしてあなたには、韓国ドラマによく出てくる出生の秘密でもあるのですか?でなければ、アメリカのCIAのスパイとしてライフスタジオに偽装潜入し、会社の秘密を得ようとでもしているのですか?」彼の言った本心という内容は、「お~~」というような特別な話ではない。自分の中に入ってくる未知のもの、知っていそうな多くの事を話したいと思うこと、つまりコミュニケーションをしたいということである。特別な本心というよりは、人間関係を結びながら、授け受けながら、捨てるものは捨て、大事にするものは大事にしたいという一般的な現象である。しかし、特定の誰かとだけ本心が通じると思いながら、心が通じる人と出会いたいと口癖のように言うのである。言い換えると、自分が何を言っても、自分に傷を与えず、ただ聞いてくれる人を望んでいるのかもしれない。世の中にそんな人がいるだろうか?自分の前にマネキンを持ってきて、会話をすれば可能かもしれない。
世の中には、多くの人がいて、人は皆違いながらも同じである。その人だけが持っている特別なものがあると同時に、人という普遍性を持っている。うどんが好きな人がいて、そばを好きな人がいるが、麺を好きなことに変わりはない。違いながらも同じだという矛盾は、人間関係を可能にする力である。全て同じだったら話たくないし、全て違うと話をすることができない。異なり、同じという中で、苦痛と喜びが常に共存するのである。苦痛はあるが存在を確認し、その中で価値を発見しようと茨の道を行く動物が人間である。人間はそのように組織されている。
哲学は、そのような真理の茨の道を歩くことだという。見える現象を超えた本質を
探すために、疑問、質問、思惟を繰り返す。存在すること、その存在していることを
どのように知ることができ、知ったことがどのような価値があるのかについて
疑問、質問、思惟を繰り返しているのが哲学だと思う。
哲学をするにあたり、一番の関心事項は、「私」である。自分が存在していることを認識し、その存在の様態がどのように現れ、色とりどりに自分の目の前に現れるあなたの姿をどのように認識し、知ることになるのかについて、絶えず疑問と質問と思惟を繰り返すことになる。そうして、何に価値があり、何が大した事の無い事なのかが少しずつ見え始めてくる。人によりこのような過程が興味深くもあり、大変なときもある。でも、どうする?知っている方法がこれしかないのだから…。もっと楽しい方法を常に探していくしかない。
では、哲学の主題、特に自分に対する疑問、質問、思惟を繰り返すようになると、自分にどんな変化が起こるのだろう?
姜尚中さんの[悩む力]にこんな文章がある。
先日ワーキングプアに関するNHKのテレビ番組を見ていたら、30代半ばのホームレスの男性のことが紹介されていて、いろいろ教えられるところがありました。その男性は公園に寝泊まりし、ゴミ箱から週刊誌などを拾って売り、命をつないできたのですが、運よく市役所から、1ヶ月のうちの幾日か、道路の清掃をする仕事をもらうことができたのです。番組は彼の姿を追っていろいろ話を聞くのですが、その彼が最後に目頭を押さえて泣くシーンが映し出されました。
彼によると、1年前だったら、何があっても涙が出ることはなかったそうです。ところが彼は、働いているときに、人から声をかけられたのです。何と言う言葉をかけられたのかわかりませんが、たぶん、「ご苦労さま」に類するような言葉だったのではないでしょうか。「以前は、生まれてこなければよかったと言ってましたが?」という取材の問いに、「今も、そう思う」と答えた彼は、ちゃんと社会復帰すれば、生まれてきてよかったとなるんじゃないか、と言って言葉をつまらせます。そして、前だったら泣かなかった、普通の人間としての感情が戻ったのかもしれない、と言うのです。…
社会の中での人間同士のつながりは、深い友情関係や恋人関係、家族関係などとは違った面があります。もちろん、社会の中でのつながりも「相互承認」の関係には違いないのですが、この場合は、私は「アテンション(ねぎらいのまなざしをむけること)」というような表現が一番近いのではないかと思います。清掃をしていた彼がもらった言葉は、まさにアテンションだったのではないでしょうか。
ですから、私は「人はなぜ働かなければならないのか」という問いの答えは、「他者からのアテンション」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。
ライススタジオで哲学をするべき理由を説明しようと前書きが長くなった。本論に入り自分なりに規定してみる。[私は「人はなぜ働かなければならないのか」という問いに対する答えとして「他者からの配慮(アテンション)」と「他者への配慮(アテンション)」だと言いたいと思います。]という内容が出てくる。ここで姜尚中さんに著作権がある[アテンション(配慮)]という言葉を怖れ多くも借りてみると、
ライフスタジオで哲学を勉強する理由は、
「自我へのアテンション(配慮)」、言い換えると「自我へ送る信頼」
自我は、自分自身に対する意識や観念である。自我は、自分がこうだと思っている自我、他人である自分を考える自我、そして実際に存在する自我がある。この3つの異なる形の自我が相互関係の中で、自分の自我を形成していく。自我というのは、自分と区別されている他者との関係の中で成立される。同一視されている状態で、自分と他者を区別する瞬間、自分の自我を認識することになる。自分が投げかけると、あなたというクッションを受け、再び私の中に戻ってくる。投げたものと戻ってくるものは、同じこともあり、異なることもある。同じものは確認であり、異なるものなら綿密な検討が必要になる。検討した結果、捨てるものは捨て、変更するものは変更すればよい。ところが、検討をしない。他のものが入ってくると、大体は二つに規定する。[あなたは私とは違うから]、[あなたがなんでそういうのか分からない]。異なる事と、知らないということが、互いに交差しながら、自己防衛をしている間に、自分の自我はますます硬くなる。他者から受ける視線を無視することが、自我を守ることだと思っているようだが、結局は自我を小さくし、排他的になる。排他性は他人を拒否し突き放すという性質をいう。寂しく自分のみすぼらしい島を守っていたり、その島を出たいのに方法を知らないため悩んでいる可能性が高い。一人で暮らしているのではない。私たちは共に暮らしていくしかないため、自分の縮こまった自我を隠すために偽善的なペルソナを強化するしかない。ペルソナは「仮面」を表す言葉として「外的人格」、または「仮面をかぶった人格」を意味する。自分の自我に入ってこれないように口実を与えようとしない、弱々しい努力はさまざまな形の仮面を作るようになる。境界線を越えないようにする努力は何の意味もない。
私とあなたとの境界線を超えなければ、果たして何が起こるか?
マニュアルの境界線を超えず、決められた事を実行することに何の意味があるのか​​?
戻ってくるものはある。人との境界線を超えなければ、問題を起こさない人になれる。マニュアルの境界線を超えなければ、決められた給料をもらうことができる。そして[自分自身に対する無気力]という勲章を受けることになる。
このように、私たちは[自分自身に対する無気力]に向けて疾走する過程で生きている。私があなたに投げて受け取る過程でバグが起き、その原因を探し変化の動力を探すというよりも、さまざまな形の仮面を通してバグが起きるのを最小限に抑えることを願っている。バグは減るかもしれないが[自分自身に対する無気力]は、だんだんと大きくなる。この悪循環の流れを絶つ方法として哲学がある。哲学をすると[自我に対する配慮、自我に送る信頼]が生じるからである。そして[自分の自我に対する配慮、自分が自分の自我に送る信頼]が生じるほど[自分自身に対する無気力]は減る。
何かを知っているということは、知る主体があり、対象がある。ここでの主体は知る内容を持つ当事者をいう。知ることによる行為をするようになり、行為に関連する責任を負う私がいる。また、他者は私を意味のある存在として見ている。つまり、私が考えている私と他者が考えている私が、同時に存在することになる。私が私を自ら見つめることができるならば、私が他者を見つめるように、他者にとっても意味化された私は存在している。これは、私は私だと自ら定義を下すことができなくなる。多くの他者に対する解釈の中での、全体の中にある小さな部分を成しているのが「私」である。
認識の主体は「私」であり、「私の自我」である。外部から入ってくるさまざまな刺激と経験は、誰も代わることができない。誰かが私を殴ったら痛みを認識し、反撃をするのか逃げるのかを決定する主体は私である。周りから体に良い食べ物や生活に役立つ言葉をいくら聞いても、私がそれを受け入れなければ何の意味もない。私から変化しなければならない。私を受け入れてくれる他者を探し、夜道をブラブラ歩くのを止め、私の中にある癌の塊を除去する必要がある。[自分の自我に対する配慮]、[自分が自分の自我に送る信頼]が、[自分自身に対する無気力]に勝てる特効薬である。
自分に対して絶えず疑問質問し思惟するようになると、自分自身しずつるようになる。
しずつ知るようになるということは、しずつ自分自身客観化しているという意味になる。
しずつ自分自身客観化しているという言葉は、 しずつ自分を配慮し信頼することを意味する。
しずつ配慮し、信頼することになるという言葉は、しずつ[自分自身に対する無気力]から抜け出しているという言葉である。
[自分自我への配慮]と[自分が自分送る信頼]起きるということは、言葉で言うと
自分の[自尊感]くなるという言葉である。
自尊感を説明するために、自尊心と多く比較するが、あるブログに良い文があったので引用してみる。
多くの人が自尊感と自尊心を混同します。二つは似ているようにみえますが、実際には全く異なります。このように話してみましょう。ここに一本の木があります。これが私たちの姿です。土の上には木の体が見え、華やかに伸びている枝や木の葉が見えます。それが私たちの自尊心です。他人が見る私たちの姿。一方、土の中には、木の根があります。それは目に見えないですね。しかし、根なくして木は死んでしまいます。それが木の魂であり、生命の源です。それが私たちの自尊感なのです。根だけ生きていたら木の体や枝が倒れ、落ちても木はすぐに生き帰ります。もしかしたら以前よりも大きく、立派に育つかもしれません。しかし、根が腐ったり死んだ場合、いくら大きな木でも、立派で美しかった木も死ぬしかありません。自尊心とは、ただの外形です。自尊感に比べると、それは全く重要ではありません。それは、あると思ったらなく、ないと思ってもまた生まれます。そして、木の幹が太く、枝が華やかなほど、人からの称賛は受けますが、その分、風雨に多く露出されており、傷もたくさん受けます。大きな自尊心はそれを維持する精神的な費用がたくさんかかります。時にはそれが人生の大きな苦しみの原因になったりもします。自尊心を大きく持とうとするのは決して賢明な姿ではありません。木に重要なのは根であり、私たちにとって重要なのは自尊感なのです。(lectio)
他人が自分を認めてくれることで自信を得る場合、これは自尊心であり、他人が自分を認めても認めなくても構わず、自信があるならば、これは自尊感である。自尊感は、本人自らが自分を尊重し、愛する心で、自分の内面に存在する自我の尊厳性である。そのため、自尊感が高いとある状況で、自分が無意識的に判断した否定的な感情の要素が、自分自身を刺激したとしても、それに対して自分自身を守ることができる。
韓国の教育番組で、小学校2年生10人を対象に実験を行った。100分間本を読みなさいと伝えた後、一冊を読み終える度にご褒美シールを配ってくれた。子供は100分間本を読み、ご褒美シールをもらうために努力した。本棚にある300冊の本の中に、小学校2年生レベルの本150冊と幼稚園レベルの本150冊が混じっていた。子供達が読んだ本の合計192冊のうち、小学校2年生レベルの本は22冊だけであった。読書の楽しさよりは、ご褒美シールという補償が優先視された結果が出た。しかし、10人の子供のうち、特に目立つ二人の子供がいた。この二人は兄弟だが、他の子供たちは、ご褒美シールをもらうために急いで移動していたのに対し、この兄弟は他人が決めたご褒美シールのことは気にもせず、本当に自分が読みたい本を読んだ。内実のない自尊心と自尊感の違いを知ることができる。(ヨハネ)
このように書いてみると、[自分自身に対する無気力]の反対語は[自尊感]という気がする。
釣りをしてみると釣り糸が絡むことがある。少し絡まっているぐらいなら、忍耐し解こうとするが、時間がかかると釣ざおを置いて席につき、難易度の高い解体作業をする。解こうと決めれば、解けるようになっている。しかし、あまりにも絡まっていて解けなかったり、魚も釣れないし天気も熱く、お腹がすいたという感情が激しさを増すと、迷うことなく釣り糸を切る。自分が生まれて育ってきながら、たくさんのものが自分の中に入ってくる。特に問題の無いものは自分の中に入り定着していくが、ある瞬間、解析不可能なことが起こる。その時に、釣り糸を切るようにただ通り過ぎる。しかし、その絡まった糸の残骸は、そのまま私の中に留まり、釣り糸が絡まった理由はわからなくなる。自分だけの方法で絡まった糸を解けないため、再び釣り糸が絡まると切るという事を繰り返す。自分に与えられた事はうまくやりたいのに、いろんな障害物に遭遇すると無気力になる。だんだんと自分はナツメのようにしわしわになりながら特別存在感のない人になってしまう。
割れた窓ガラスの法則がある。窓ガラス一つが割れていると、その周りが荒廃するという理論である。つまり、1つがうまくいかなくなるとだんだんと、全体がうまくいかなくなるという話である。このように自分に入ってくるものに対して、それが何であり、どのように処理するかについての問いをせずに、そのまま受け入れてしまうと、ある瞬間、分からないと言いながら、釣り糸を切るようになる。釣り糸をずっと切っていくと、残るのは二つ。絡まることのない簡単な事だけをやるか、最初から絡まる心配もないように、釣り自体をしなくなるか。つまり、[自分自身に対する無力感]の渦に入るようになる。哲学は、存在に対しての絶え間ない問いである。自分について知っていく過程である。自分が持っている弱さ、痛み、傷までも客観化することができる。客観化するというのは、自分が自分の人生の基準を作るスタートラインに立っていることを意味する。これは自分の自我に対する配慮と信頼をもとに、自分の自尊感を高めていくことにつながる。
[自分自身に対する無力感]を克服し、自分の自尊感を高めていく方法として、難しいといわれる哲学をするしかないのだろうか?こう答えるしかない。
 [これしか分からない。やろう。やるならちゃんとやろう。]
知らないから知るに行くために、私たちが選択した種目が哲学である。[自分自身に対する無気力]は、知らないからくる最終的な結果物である。知らないが固定化され、自分と他者、自分と私たちの分離が成された。分離されると、自分が作った壁の中に自らはまり、孤立しながら出てくる結果物はまさに[自分自身に対する無気力]である。
私たちが哲学を行おうとする理由は、自分の中で[自分自身に対する配慮と信頼]を作るためである。
[自分自身に対する配慮と信頼]が作られると、自尊感が高まり、高まった自尊感は、[自分自身に対する無気力]を無力化させることができる。
ライフスタジオは、[自立]を目標としている。自分の人生の主人になり、自分が設定した道を黙々と進みたいのに、初めから足首を掴まれるということが発生し、[自分自身に対する無気力]を解決しない限り、何をすることもできないということがわかった。5年という時間の中で、あれこれと試行錯誤してきた結果、哲学が最も効果的であると判断することになった。ライススタジオにおいて哲学は、教養ではない。知らないことが固定化されて発生した[自分自身に対する無気力]という病気を治療しようとする患者の意志である。
最後に、[哲学で突破する]ということについて述べよう。哲学をしようと言うと難しいという。今まではこのように言っていた。[難しく分からないかもしれないけど、少し耐えてやってみよう。いつか良くなるだろうから]と。これからはこう言いたい。[これよりも簡単なことがあるなら言って欲しい。写真が面白いのか?なぜなら写真はそんなに難しくないだろ?今から写真を哲学よりももっと難しく感じるようにしてあげようか?]。ライフスタジオでは、写真に関する話をあまりしていない。私たちの目標は決まっていて、写真を通してその目標を達成することもできるが、あまり効果的な方法ではないと判断した。
入社してある程度の時間が経過すると撮影者になる。ほとんどの撮影者は撮影と写真を好んでいる。しかし、自分の写真を他の段階に入れるために、どれくらいの苦痛が伴うだろうか?[哲学で突破する]と同じくらいか、または、もっと難しいかもしれない。このように哲学が難しいのではなく、一つに対する洞察を得ようとする事自体が難しいのである。哲学が難しいとぶつぶつ言う人にはもうこれ以上寛容はしない。[哲学で突破する]は、[2013年体制]の、唯一の攻撃用武器として選定された。選定理由としては、[4大原則の解説]の文章の隅々に記載されている。よく探してみるとよい。
4. フォーラム
 
フォーラムの持つ長所は情報の蓄積を通した実践の根拠が作られる事である。
これは、他の言葉で言うと未来に対する、予測可能性が高まりながら、
論理、合目的性、意志、実践が繋がる構造が作られる。
 
知らないから知るへ、知るから知らないへと進む過程がある。情報は、特定の目的のために羅列した知識であり、知るを構成する基本単位である。知る過程を通して、[変化発展プログラム]を装着しようとあれこれやってみても以前のようにはいかない。その理由を調べてみたところ、ライフスタジオの構成員は、[自分自身に対する無気力]という集団の病理現象を起こしていた。これは、知らないというウイルスによって引き起こされる病気であり、治療薬として[哲学]を選択した。哲学という治療薬は、[自分自身に対する配慮と信頼]という物質を分泌し、自尊感という抗体を生成させ、知らないというウイルスを退治することができる。
[変化発展プログラム]の中に、理論と実践という名のカップルがいる。理論と実践は、互いに安定と危機を受け与えながら変化させて成長させる。針の進む道に糸がついていくように、互いが同時にいてこそ正常に機能する。理論は現実を構造的に把握し、体系的な実践を可能にさせる。実践は理論を検証し、より良い理論の糸口を提供する。現実に排除された理論は空虚で、普遍性を追求する理論がない実践は、主観主義に陥りやすい。
 [知らないことは犯罪だ]において、理論は哲学が担当する。ならば、実践は何で?
まず、2012年の評価にあったフォーラムについて書いた文章を見てみる。
 
韓国人フォーラムは、いくつかの特徴を持っている。
 
まず、議論と会議が自然につながるという点だ。一つのテーマを数ヶ月に渡って討論をしながら試行錯誤を減らし、よいアイデアが生産される。そして必要に応じて決定はすぐに行われる。重要なことだが、急がなければいけないことは急ぎ、重要ではない事項についても適切な手配がされるということは効率性が高いことを意味する。その結果、参加者がライフスタジオを全体的に見ていける暗黙の了解と原則を逃さない技術が生まれる。
 
もう一つの特徴は、情報の量が多いながらも、同時に高い質を維持する。フォーラムは、ライフスタジオを構成しているすべての部分を話している。各自が知っている情報を共有しながら、現在のライフスタジオを一目で把握することができる。そして提供された情報を持って分析をするため、質は自然と高まる。
毎月2回開催されるフォーラムで持続的な情報の共有に状況の変化を予測し、以前の状況との比較の中で判断の根拠を提示する。
 
そして自発的な責任感が発生する。多くの情報と継続的な議論、そして迅速な意思決定の過程が繰り返されるにつれて、ますますライフスタジオの深くに入ることになる。重要なことを見分けて、意思決定構造に参加することになりながら、一種の使命意識が生じることになる。自発性に基づいて、自分がしなければならない事を自然に受け入れるようになる現象が発生するようになった。
 
何よりもフォーラムの活性化は、自身とライフスタジオを一致させようとする人々が
集まり始めたということだ。
 
越谷店を運営しながら、水平的リーダーシップの話をした。引っ張っていく人と引っ張られて行く人の区別がない状態が、水平的リーダーシップの主な内容である。変化発展プログラムを装着していくということは、自立することを意味し、そのような人々が集まった経済共同体をライフスタジオの目標としている。
これは、ライフスタジオの運営主体が即ちライフスタジオの構成員自身たちであり、自ら自身の問題を自分で提起して条件を変化させることを言う。変化発展プログラムというのは、私を構成する要素と、外部の条件を自分で変えていく能力だとしたとき、お互いを有機的に結び、変化発展プログラムを導いていく原動力を水平的リーダーシップだと考える。
 
最初は有給活動をしているリーダーたちの集まりだった。その中で情報が共有される過程で、新しい情報が生成され、それが政策につながり、ライフスタジオを運営する実質的な主体となった。各店舗で働く人たちは有給活動リーダー会議と多くの関係で結ばれている。自分の利害と要求、生活の条件がここで決定されるためであり、その過程に参加することは自然ながらも、自身の条件を自身で変えていこうとする積極的な行動である。
自身とライフスタジオを一致させようとの意志を持っている人が一人、二人と結合をしながら、現在のフォーラムに発展することになった。
ところが、韓国語で進行する韓国人フォーラムはどうしても韓国語が話せる人々が参加をし、そこから生成された情報と政策は、参加者の周りに知らされるようになり偏りが生じる。だからこそ日本人フォーラムもその必要性が提起され、12月から集まりを持っている。
 
フォーラムは単純に意見交換をする場ではない。疎通の構造として、そしてそれに基づいて政策を生産し執行する単位としての役割をしている。リーダー会議と店長会議が有名無実になった状況であり、執行単位として分離されている状況で、日本、韓国フォーラムはライフスタジオの実質的な運営主体としての役割を果たすしかない。しかし、責任としてではなく、権利としての参加と活動だからこそ効果的な運営を確保することができる。
 
ヒーリングキャンプを構想しながら、ライフスタジオの全体の責任を負うべき単位の必要性を述べた。 2012年が始まった時は、ライフスタジオの戦略と戦術を話し推進することができる人や勢力があまりにも微弱だった。ヒーリングキャンプで6ヶ月の活動を共にした同志たちが排出されれば、彼らがライフスタジオの未来の責任を負うグループに成長することができるという考えをしていた。ところが、フォーラムがその役割を遂行することになった。
フォーラムの持つ意味はだからこそ格別なのである。
フォーラムが持つ意味は、ライフスタジオでは格別である。ライフスタジオだけの情報共有と意思決定構造としてフォーラムは、多くの可能性を持っている。水平的リーダーシップという大前提の中で情報という粒が入ってきながら、各々を連結する。持続的に変化する状況の中でも流れの脈絡を掴むことができ、未来予測もできる。仕事の配当ではなく、自発性に基づく責任も自然に成すことができる。
[知らない事は犯罪だ]において、フォーラムが持っている長所は、
情報の蓄積を通した実践の根拠が作られる事である。
これは、他の言葉で言うと未来に対する、予測可能性が高まりながら、
論理、合目的性、意志、実践が繋がる構造が作られる。
知る過程の中央に、フォーラムが位置しなければならない。ただ単純に店舗で起きた事実を知ると言う事を超え、実践の根拠として作用しなければならない。私たちが歴史を学ぶ理由は、過去、現在、未来をつないでくれるからである。各個人のアイデンティティの確立、自己実現はもちろんのこと、組織の政策樹立と実行においてのフォーラムは、中央に位置するしかない。
10人の友達を家に招待し、おしゃべりしながら食べ、遊んできた人は知っている。家が完全にぐちゃぐちゃになるということを。友達が帰ると大掃除を行い、家具は元置いてあった場所に戻す。もし整理しなければどうなるだろうか?友達を家に呼びたくないと思うようになり、自分の人生はもつれてくる。フォーラムは、1ヶ月間食べて騒いで楽しく遊んだ結果についての報告である。整理し評価し、未来の話をする空間である。フォーラムが持続されると方向、傾向、繰り返される失敗、意志、特徴を知ることになる。単純な事実ではなく、繰り返される事実から情報が作られ、その情報に基づき、明日を生きれる力を得ることになる。 
韓国フォーラムに続き、日本フォーラムが作られ、日本フォーラムが今後のライフスタジオを導いて行くことができる単位になるよう希望した。しかし、日本フォーラムに対する私の評価は辛口である。何かをしているという自己満足以外に、何の効果もない。日本フォーラムを進行する人や、参加者から抗議の声があがるかもしれないが、実際にそうなのである。日本フォーラムで何かが議論され、政策に繋がったことがあっただろうか?個人と各店舗の情報が収集され、流れを読み、未来予測が可能になったのか?フォーラムに参加し、自分たちが直接ライフスタジオを運営するという気持になっただろうか?
結果的に、フォーラムは同窓会に集まる親睦会から、それ以上へと超えることができなかった。
フォーラムの形はライフスタジオが共同体として目指すべき組織文化の核心である。フォーラムが持つ意味は、まだ有効である。ならばどのようにして?
これから行っていく、フェスティバルで朝9時から12時までをフォーラムを行う。この3時間の間に、ライフスタジオ独自の情報の共有と意思決定構造の枠組みを作る。フェスティバルに参加する人数が約30人程度と予想されるため、4つのチームで構成する。チーム運営は、少なくとも6ヶ月にし、各自、自分の店舗を代表して、フォーラムに参加する。つまり、全ての構成員は、自分が属している店舗を代表して発表し案件についての議論に参加する。6ヶ月間、同じ司会者と構成員で情報共有と意思決定の枠組みを作る。ここで真の意味でのフォーラムの形が作られれば、日本フォーラムを自然に変化させることができる。
しかし、今まで日本フォーラムでできなかったことが、[2013年体制]の中でできるのか?
この部分については、[美しい競争]で述べている。
 
 
知らないから知るへ、知るから再び知らないへと進む過程がある。知らないが知るへと変わると、
再び知らないを要求する。現実で起きていることが自分の中に入り、整理と分類の過程を経て
判断をする。判断した結果、規定するようになり、その規定は、実践のための意志を提供する。
このような一連の過程で、私たちは、根源的で本質的なものと出会うことになる。
知らないことを少しずつ知っていきながら、人生を維持していくのが、人間という動物である。
知らないから知るへと進むための方法として、2つのことを提示した。
知る過程を構成する基本単位が情報であり、知らないから知るへの突破を哲学でしようと言った。
知らないことは、犯罪なのだろうか?
犯罪は有害で危険なものである。
知らないことが持続し、でてきたのが[自分自身に対する無気力]である。
したがって、知らない事は犯罪である。
 
  私たちは[自立]に集中している。[自立]を妨害する、有害で危険なものがある。
それは、知らないということである。知らないことから起きる[自分自身に対する無気力]である。
だから[自立]という目標を達成するために、知らないことは犯罪となる。
よって、[2013年体制]で[知らないことは犯罪だ]と規定した。
 
もし、自分の人生が平安だったなら、[自立]という言葉は出てこなかっただろう。
何か自分の人生が行き違いになっているという感覚は、社会にでてから具体的に症状を表す。
社会で要求している規則を守り、人間関係を結んでいく過程で問題が発生する。
数回傷を受け、自分の心の扉を固く閉ざす。
原因を探し出し、解決しようとせず、現実を現実として受け入れる。
たくさんの先輩と、教育期間の間、その原因についての話を聞いたことがなかった。
社会に自分を合わせろと言われ、自分が世の中を創造していこうとしない。
社会はそんな場所であり、自分は弱い存在だという圧迫を受けると誰でも小さくなる。
 
ライフスタジオ[2013年体制]は、これを拒否する動きである。
私から変化し、私たちから発展していこうとする宣言である。
[4大原則]は、このような運動と宣言を支える実践的な理論である。
 
 
[知らないことは犯罪だ]は、私たちが[自立]できない原因に対する話である。
知らないから、黙っており、黙っているから無気力になった。
無気力だから止めどなく涙があふれ、自分を慰労してくれる何かを探すようになる。
それを見つけられたらよいが、そんなものはない。
 
もう原因はわかったので、無気力に勝てる具体的な方法として
[読み・書き・討論を第一優先順位として]を見てみよう。
 
 
 
★.読み、書き、討論を
第一優先順位土として
 
1. 読み
[読み]を通じて客観との出会いを持続していると主観は健康的に変わることができる。 これは、主観を構成する感情と理性のバランスを通して
【2013年システム]が夢見る世界に行くことができるということだ。
 
韓国の学生は大変だ。小学校に入る前から塾をいくつも通わなければならないし、良い大学に行くための熾烈な競争も始めなければならない。ソウルの場合、学生1人当たりの教育費が30万ウォンを越えると、子供の教育費を用意するために仕事をする母親たちも少なくないという。人格教育が入る場所がなくなった教育現場では、試験をスムーズに行うシステムだけが残っている。学生が試験機械に転落して12年以上の入試地獄からの脱出したという意味で大学に行けば、思う存分遊ばなければという心理が働く。 (今はそれさえもなく、次は就職のための戦場になっている。)そのような心理状態の新入生に、お酒が何杯か入った先輩たちは非常に低い声で話す。 「大学ではな、必ず夢中になってみなきゃいけないものが3つあるんだ。女性、本、酒。そういうことで、ワンショット...。」ガールフレンドもなく、図書館にはよりつきもしない先輩だったが、なぜか格好よく見えた。私も先輩になると、同じようなことを述べた。 「大学ではな、必ず夢中になってみなきゃいけないものが3つあるんだ。女性、本、酒。そういうことで、ワンショット...。」
大学1年生の生活を少なくとも一ヶ月したとき、「夢精期」をともにしたソクという友人と、家で3つの約束をした。 「ソク!大学ではな、必ず夢中になってみなきゃいけないものが3つあるんだ。女、本、酒がそれだが、俺たちも一度それに狂ってみるか?酒は普段でもいっぱい飲んでるから、女、本、旅行とかはどうだ?ガールフレンドを作って大学路の有名なレストランで7月31日7時に会う、夏休みまで本100冊を読む、無銭旅行に行く、どうだ?」結果的に夢中になるほどではなかったが、大まかにはできたようだ。 7月29日頃にサークルの女性同期に付き合おうと言って同意を受けた。ソクに電話したところ、自分にはまだいないということで、彼女との愛はなかったことになった。本も100冊読み、2週間ほど無銭旅行のようなものをして、3時間のスペクタクルな話をつくった。
図書館に行くようになったのは偶然だった。誰かに会いに図書館に行くようになったのだが、その後も続けて行くようになった。図書館職員が出勤する前からドアの前で待っている学生になり、猛烈に本を読んでいた気がする。その時、私の胸の中には何か塊のようなものがあった。はっきりしないが、何か重たいものに感じられて私を困らせた。本を読みみながら、空いたお腹が満たされるような気を感じ、その塊の実体と会うこともした。日が落ち、図書館の空気が赤くなるその瞬間が忘れられない。本を読むのがどういうことなのか、少し分かった1989年の夏だった。
読むこと事の代表走者である読書が、私たちの生活でどのような役割をしているかどうかを見てみよう。
まず、経験の拡大を挙げることができる。時間と空間の制約を無限に広げることができる方法では、読書が一番である。数千年前に起こった歴史的事件から、月の国から地球を見るとどのような考えになるのか間接的に知ることができる。月を見ながら、そこには本当にウサギが住んでいることを想像する動物が人間である。好奇心と探求の意志は誰にでもある。直接調べてみる人と、ただすれ違う人に分かれるだけだ。直接経験して調べて書き残す人によって、次の世代は同じ経験を共有する。
二つめは、言語と関連している部分である。言語は音声言語と文字言語がある。音声言語が作成され、欠点を補完しながら文字言語が作られ、文字言語の欠点は音声言語が補完をしてくれる。自分が放った言葉や約束は、その瞬間なくなる。記憶が残るだけだ。また、細かい部分を蘇らせることは容易ではない。このような音声言語の弱点を文字言語が補完しながら、私たちの言語能力を上昇させる。言語能力が上昇するということは、単に言葉がちょっと上手く話せる以上のことを意味する。 「14歳の哲学」で言葉が現実としたが、それは言語がすぐに私たちの現実を規定するという意味である。言語能力の向上は、現実を向上させるとも言える。
三つめに情報取得の機能である。本が出て映画化されたり、映画が作られて本が出ることもある。文字と映像は別の情報取得の形をとる。読書は読みながら分析と想像を同時にする。映画は、限られた時間と空間で見られる映像を受け入れ感じる。同じ内容あっても、情報取得の形態が異なり、自分の頭の中に入力されえる形も変わってくる。具体的な知識と自分の分類方法による情報の取得は、読書が持つ利点である。毎日TVの前にいるのと、本を開いて読書をすることには差違がある。
四つめは、人生の価値が上がる。人生の価値が上がる方法は多い。みんなが眠っている時刻に近所を静かに周り、思索の時間を持つのも良し、好みの女性が働くコンビニを頻繁に利用するのも人生の価値と関係がある。電話帳が読書の対象とはならない。私達が読んだ本のほとんどは、生活に関するものである。生きながら発生することに対しての経験と理由の結果を、自分だけの文章で表現する。そう表現された本の中の文字を読みながら、私を投写し、比較して連結する。技術的、感情的、理性的、実用的に私を投写し、比較して連結するプロセスは、現在を解釈して未来を予測することができる。人生の価値は、方向性の問題である。方向を持って今を注視することは、人生に真剣に接することであり、価値の上昇を伴う。
5つめは、考える力が養われる。本を定義してみると、それは思いの結果物を文として精巧に配列して構造化したものである。良い本を読むことは、良い考えを読むことである。複数の人の本を読むことは、複数の考えを読むことであり、考えの世界に滞在している状態である。考える力の強さは、読む人によって違いはあるだろうが、在留するということ自体でも考える力が養われる。
この他にも読書が必要な理由は多い。読書が持つ意味を示してみると、万能薬になってしまった。それでも私たちは、読書をしない。タバコが体に有害だといくら話されても、それを辞めない私をはじめとした喫煙者のようだ。読書をしようとすると、猛烈な抵抗にぶつかる。ライフスタジオで一ヶ月ほどの体験をして、自分の写真館に戻り読書プログラムを稼動させた社長がいた。決意して起動した読書プログラムは、7人の従業員が辞職をする結果をもたらした。他の問題もあっただろうが読書への抵抗は少なくはない。ライフスタジオも同じだ。中央の[読み、書き、討論]の重要性を強調しながら、若干強制的な政策執行に約5年程度進行した。ところが今は、いくつかの店舗を除いては継続的にしていない。論文プロジェクトも自律的にしているが、退路を遮断した側面もある。
5-6年のような話を継続的にしながら政策を推進しているが、人の負担を加重させる[読み]に、なぜ固執しているのか?
ライフスタジオで[読み]をしようとする理由を、上に列挙した読書の利点だけで説明することができるだろうか?
今から約6年前に横浜がオープンする頃、本を読んで討論することが始まった。店舗が4つに拡大してメンバーが増え、ライフスタジオの存在性と方向設定を通じて全体を一つにする必要がある必要性が提起された。だからみんなが集まる全体会議が行われ、部門別会議と教育が同時に行われた。当時、本を読むということは、みんなの考えを一つに集めなければならないという意味だったので、主題を決めて討論し、結論を導き出すことが重要だった。結論が導き出される過程が、すぐに私たちをつなぐ媒介として作用した。新入社員が入ってきたり、店舗のメンバーが変われば、通常歓迎会や団欒会をする。ぎこちない関係をほぐすため、条件を変更してみんなを一つにしようという目的がある。ライフスタジオで初めて本を読んで討論したのもそのような側面があった。しかし何度かやる中で、[読み]がますますライフスタジオの重要事業としての地位を占めていき、教育チーム、ライフスクール、サークル、学習休暇、ヒーリングキャンプに続いて論文のプロジェクトまで続いている。なぜそうなったのか?
写真教育はしたりしなかったりを繰り返しているが、[読み]はなぜ継続的にしているか?
[感情に疲れたあなた、客観の世界で投げ受けてみよう]を中心にライフスタジオで、そして[2013年体制]の原則に据えた[読み]をする理由を究明してみよう。
人々が泣く話から始めなければならない。【2013年体制】のレポートにも人々の涙で始まったライフスタジオの方向設定に関する話がある。特別な事情があったり、喜びと悲しみなどの感情が突然押し寄せてくるときに出てくるのが涙だと思った。ところが、全く予想していない点で人々が涙を見せる。内容を聞いてみると、特別なことがあってではなく、昔から自分にかかっている影に関してのことだった。天気が寒くなったら膝が冷えるたり、暑ければ汗がでるのと同じように、自分を隠している被り物がはだければ自然に涙が流される。 「知らないことは犯罪だ]に出てくる[自分に対する無気力]が無条件反射で涙を誘発する。この問題を解決しなければ、何をもすることができなかった。
さて、この問題を解決するために、自己実現するための瞑想をすることもあるし、ヨガ学院の受講証を配ることもできるが、なぜあえて[読み]をしたのか?まず私は瞑想とヨガを知らない。[読み]は本当に少しだが知っているので、[読み]に方向をとった。その後、[読み]のどの要素が人の涙を止めることができるだろうか?
泣くということは感情が作用した結果である。感情とはある事や現象、物事に対して感じ、表れる心情や気分である。感情は私が私に送る信号である。友人に会うために外に出ると、雨が降りそうな雰囲気を感知した場合、不安という感情が私の体の中に広がることになる。その不安は、再び家に戻って傘を持ってこようか、それとも友人に電話をかけて違う日に会おうかを決定するようにさせる。日本で見たことはないが、韓国では2〜3年に一度くらいは猛犬が私に向かって走ってくる。その恐怖は計り知れない。恐怖は、すぐにテコンドーの動作をとらせるか、後退するかをさせる。人間は環境に影響を受けて進化を遂げた。予測不可能な状況が私に来たときに何かを感じさせるまもなく、それに合った対処を自分の中に注文する。憤怒、憂鬱、不安、愛、憎悪、悲しみ、満足、同情、憐憫、孤独などの感情は、人間の奥深くに定着し、不確実性が支配する世の中からいつでも飛び出す準備をしている。憤怒が来れば愛が癒してくれ、愛が来れば不安がバランスを取ってくれるのが感情の動作する原理である。私たちが下す決定のほとんどは、感情の支配を受ける。服を買うときに理性だけが作用すると、おそらく一ヶ月はかかることだろう。タバコを吸うことが悪いことは分かるが、タバコを吸う。もし喫煙が理性的判断で行われる行為であるためには、タバコが体に無害ということを自ら証明しなければならない。撮影も同じだ。瞬間に繰り広げられることは理性ではなく、感情の影響を受ける。繰り広げられたことに対する理性的な論理は、感情で決定したことを補助する場合が多い。だから、女性が服を選ぶときは多くの時間がかかるのだ。このように、感情は感情によって広範な役割がある。
感情労働が最近大きな問題となっている。感情労働とは、憂鬱な時も笑わなけなければならない、何でもない時にも笑わなければならない、怒っても笑わなければならないような労働のことをいう。自分の感情に関係なく、特定の感情を維持しなければならない。感情は私に送る信号とした。感情労働が問題の理由は、自分の感情を抑圧し、信号とは違う感情の誘発を人為的に調節する必要があるからだ。自分の感情を抑圧することが続けば、日常生活の中で自分に来る脅威を感じることがだんだん困難になり、自分の存在性を疑うようになる。多くの感情労働者が自殺衝動を感じたり、抑圧された感情を爆発させるために過剰なこだわりと異常行動を示すこともある。[感情労働の真実]の著者は、今日、私たちの社会はひたすらお金と成功、そして利益のみを追求する社会、成果とお金のためには人格さえも踏みつけられる社会になったとし、そのような次元で感情労働を再定義する必要があるとしながら、他の人の気持ちを良くしようと自分の感情を促したり抑制させるのではなく、「顧客満足のために自分の魂や感情を資本に隷属させる行為」を感情労働と定義している。
自分の体の調子が良くなくても、お客様には明るい表情を見せなければいけないのは仕方がないことだとしよう。本当に難しければ、早退や休憩の時間を使って体を回復することをしなければならず、組織の内部文化がこれを保証する必要がある。しかし、一緒に働く同僚にも自分の感情を隠さなければならないとしたらどうなるか?自分を取り囲んでいる人たちと関係が、ほとんど感情労働のような環境であれば、その人は果たしてどこで休むことができるだろうか?特別な人間関係を結ばずに、特定の人や対象にだけ自分の感情を率直に見せるのは望ましいことであろうか?
社会で感情を制御できないのは、何かが少し不足していて直さなければいけないことと認識する。また、人は感情的に行動したことに罪悪感を感じる。感情をコントロールすることが社会を生きる人の美徳として受け入れられているが、本当の問題は感情をあまりに調整し、残りの感情が持つ純機能さえなくなり、自己破壊的な状況になるということだ。喧嘩が嫌だから声のない存在の姿に自分を位置させる。感動も楽しさもない無味乾燥な人になり、私たちの若い日々は流れていく。
では、感情なしで生きることはできるのか?
感情をギュウギュウ押しこんだとして、感情がなくなるだろうか?
風船効果により、押された感情はどこかで発散される。人があまりに泣くとするのも、その結果のもう一つの姿である。ジキル博士の抑圧された感情は、ハイドというモンスターを創造したように、押さえた感情はどこかで解消しなければならない。すぐに排泄するか、または腐って悪臭を発生させて周囲を辛くさせながら[自分に対する無気力]という方法で排泄するかだけが残ることになる。
私たちは、人に感情を調節するようにする。感情が発生すると、個人的に解消するようにする。店長との問題が原因で憤怒が生じたら、自分だけの快適な空間で憤怒しろとする。または不安が加重されると、その分、より快適さを追求するようにする。私たちの社会は、感情が発生した場所と感情を排出する場所を別に作っておいた。感情の排出も国家経済のために使用料を支払うようだ。スターバックスの片隅で、キャバクラのお姉さんが送る甘い笑顔で感情を排出するようにさせる。結局感情が発生する原因とは関係ないところで感情を排出させるのに、私たちにそのような感情を排出するだけの場所があるだろうか?自分の前に立っている店長を見ると、なぜ不安になるのかその原因を見つけなければならない。その不安を我慢していればいつかは良くなるということは、その店長を人として見ず、ただ自分の前にある壁、回り込めばいい障害物として見ている事と同じだ。ほとんどの人は店長との問題が発生した場合、会社を辞めて自分自身を撫でてくれる人を探して去る。自分の感情をそのまま受け入れてくれる天使を探したり、そうでなければ感情が発生しないよう自分だけの孤立した島を夢見る。しかし、感情が発生して自分の人生との絡む原因を見つけることは、容易ではない。良くても嫌になり、嫌でも見たくなる感情の実体と会う前に、現実の厚い壁に行き詰って自責し、丸まりながら最後に残った自分の中身を守るための陣地を構築する。
どうすれば感情が感情を呼ぶ悪循環を止めることはできるのか?
2008年韓国では、李明博という人が大統領になった。韓半島に運河を作るべきだと主張したが、あまりにも反対が多いため、選挙期間に絶対しないと約束をして大統領になった。しかし、韓半島大運河事業が4大河川復活と名前だけ軽く変更されて、22兆という税金が使用され韓国のすべての川でダムを作った。川水は腐って魚が大量死するなど、大災害が目前に来ている感じである。なんといおうか?トイレやお皿を洗ったり、シャワーに使用された水は、下水道を介して外に排出する必要があるが、自分が使った水を自分の部屋に数ヶ月をそのままにした状態とでもしようか?最近大きな問題になっているのが、大きな苔虫の蔓延である。 4大河川事業をする前にはいなかった大きなコケ虫が、お、今では川を掌握している。水が暖かく流れなければ植物性プランクトンが多くなり、一瞬のうちに大きな苔虫の世界になる。こうなると、川ではなく、大きな苔虫を入れた巨大なドブになる。確かに胸が痛むことだ。
人間の健康を話すとき、代謝が円滑でなければならないとする。新陳代謝は生存と成長のために必要とする栄養素を摂取し、新しい物質に転換してエネルギーを生産するための一連のプロセスをいう。私に入るのは、適切な分析と判断による蓄積と放出でなければならない。水は流れなければならないのに、閉じ込め配置されるとすぐ痛み始めように、一貫性のあるシステムで動作する必要のあるシステムが止まってしまうと、私たちの中で大きなコケ虫が蔓延る環境が造成される。感情も自分の中で適切な浄化作用を介して位置を作らなければならない。しかし、感情が感情を呼び、誤解と偏見の過程を経ると、大きな苔虫のようなモンスターが作られることになる。川をコンクリートでふさぐと、私の魂はますます活力を失うことになる。
川は自ら浄化作用をする。川の流れは、水草、水中生物、砂、堆積物の移動などを介して自らを管理し、制御し、持続可能なシステムを構築する。
人間の感情も自分で浄化作用をすることができる。感情が感情を呼ぶ瞬間に
神秘の妙薬が一滴落ち、感情が[ああ!そうだったんだな]に変わることになる。
その神秘の妙薬とはまさに[客観]である。
客観は主観と対立する概念である。主観は世の中を眺める私の思考や感情の枠組みであり、客観は私とは関係なく存在するとされるものである。しかし、客観と私が全く関係しないというのは少し疑問の余地がある。客観とされるものも、私の主観が介入したときに出てくる概念である。主観が登場してこそ客観が生じる。客観的に見なければならないということも、私の主観が普遍妥当性を持っていなければならないという意味だ。私の主観で客観を見るのであって、客観が主観を見ることはできない。私は考える客観とは結局、私の主観下にある客観であるからだ。私の主観が他の人に指摘され、客観の材料が増えてくるとしても、その需要余分は私の主観が決定する。しかし、主観は客観を通じてのみみが主観の状態を点検することができる。自分が感じて判断する主観は、本質的に検証されずエラーを内包している。私の主観が普遍的妥当性を持つためには客観という装置を通過する必要がある。
問題は、感情が発生して感情で対応しながら始まる。小学校の時、横の席の友達と机を半分に引いて、ここからは私の机だから越えて来ないでという。感情が上限を感情的にひく、かわいい例である。子供はいつの間にか再び笑ってまた騷ぎ始めるが、大人になると感情が感情を生む構造が強化される。誰かに指摘をされて気分を害したとき、心の底で一言いう。 「そう、だったらあなたはどれだけかちゃんとやってるか見てみましょう。」と指摘をした人を観察しながら、きちんとするのは当然のことであり、できていない部分は自分の記憶の中に刻み戦闘の準備する。この戦闘は終わりがない。勝てば自慢につながり、負ければ[自分に対するの無気力]の世界に侵入する。攻撃的な人が一人であれば、その攻撃的な人に影響を受ける人は十人である。攻撃的な人はもっと攻撃的になり周辺から人が徐々に消えるようになる。攻撃を受けるほとんどの人は、戦闘で受けた傷のため、ますます受動的な態度が強化される。
感情が感情を呼ぶ形態は消耗的である。ハッピーウイルスは人に良い感情を誘発するが、自分の統制下にない感情は戦いの原因を提供する。誰かに指摘を受けた瞬間に感情が発生したとき、その人が指している私を見なければならないのに、指摘する人の口調のアクセント、表情、使用された言葉、状況等に執着する。これは、人間としてどうしようもない面でもあるが、主観を主観的にのみ受け入れることで生じる感情の過飲である。思いやりと愛の感情は多ければ多いほど良いが、このような感情の過飲はどこにも使いようがない。
私たちは普通の人である。可能性を持っているが、周辺の視線に自由になれない。感情が出てれば黙々と積み重ねて無気力に発展する。感情をコントロールし、大人のように行動しろとする社会の通念を拒否することもできず、感情のコントロールではなく、感情そのものを外に出すことをしない。感情は感情で治めることはできない。他の何かが必要である。
感情は理性的に、理性はまた感情につながる善循環の構造を作らなければならない。
解決策は、[主観の強化のために客観を活用しよう]である。
動く標的に合わせるのは難しい。感情は動く標的と同じで捕まえにくい。感情が感情を呼ぶことは予測できない災害、事故と同じである。同時に、見ることができる固定標的を狙った場合であれば、全てに平等を確保することができ、判断をすることができる。私の中で繰り広げられる主観の作動は見ることができがない。主観が主観する多くのことは、だから秘密めいている。一つの対象を複数の人が見ることができ、それぞれの主観が動作すれば判断が可能となる。主観が作動するのは自由だが、各自の主観が評価されるところは公開された広場である。誰もが同じ対象について話すので見ることができるのだ。つまり正方形のリングで誰もが同意した規則によって、客観に対するそれぞれの主観を論ずることができる。私と関係なく存在している客観に大勢の主観が介入すると、その分、さまざまな主観が出るようになって、真理が論議される場が作られるようになる。
客観を中心に主観が動くようになると、感情より理性が働かなければならない。感情は即興的だが、理性は体系的である。理性とは体系的で概念化して、何が正しくて正しくないかを判別する能力である。感情と理性は対立する概念というよりは、お互いを補完してくれる。また、他の作動原理たちを持っている。私たちが下すほとんどの決定は感情であり、理性は決定をするための分析作業を主な業務としている。理性が動作して、それを反復して熟達すると感情が豊かになる。子供たちが感情調節をうまくできない理由は、理性を通じた修練がされてない状態の、原始的な感情を持っているからだ。多くの経験と思索を通じて体系的かつ概念的な理性を持てば、自分の感情が豊かになって、自分のアイデンティティが生じるようになる。
しかし、問題は自分の理性を訓練させたことがないということである。
詰め込み教育に慣れている私たちは、体系的かつ概念的に思考するよりは、当たり前のことを当たり前に受け入れる。ただ受け入れるということは体系的かつ概念的ではないので、原始的な感情に対応するようになり、感情が感情を呼ぶ構造が持続する。感情と理性のそれぞれの役割がある。感情と理性がバランスを成立するとき、私たちの生活は豊かになる。しかし、理性が相対的に不足している。理性が何なのか知らない状態で感情に囲まれて生きてきた。理性が相対的に不足しているため、体系的で概念的になれず、結果的に感情に頼ることになる。客観の領域を拡張するということは、それだけ理性が動作することができる環境を提供するということだ。
客観というリングの上で各自の主観を上げ、理性という競技をしようということである。
[読み、書き、討論を1番に]という原則は主観の強化のために客観を活用しようというものである。
その最初が[読み]である。
サムライ映画の最後のシーンを想像してみよう。波が容赦なく叩きつける崖を背景に、二人のサムライは運命の闘いをする。悲壮な気持ちで自分の家族と主君の復讐のために刀を握った手に力を一杯にこめた瞬間、相手が咳をして、その時を狙って首を断ち切る。風邪薬の広告の一場面である。読ということもこれと同じだ。主観と客観の真正な一勝負が繰り広げられる。普段は主観という国の感情という兵士たちが、時には集まって攻撃を受けて[自分に対する無気力]に陥るのに、今からは主観と客観、二人だけの勝負を繰り広げるのだ。主観の攻撃を客観が各種資料を押しながら防御をして、主観がエラーを統計までだして客観に攻撃をすると、主観は反省と意志で突破をする。
客観を作り出す材料がまさに[読み]だ。
客観の材料が私の中に入ってくるようにすること。
ぴったりと固まっている私の主観に優しくマッサージをしてくれるのが[読み]だ。
客観の材料が私の中に入ってきて料理をするようになり、ゲストを呼ぶようになる。だんだん私の関心は感情より理性に移動し始めながら、過去の間違いをちらほら概念化させる。感情に疲れた心身を客観という温泉で解放しましょう​​ということだ。暖かい布団、清潔な食べ物、体をほぐし、心の安定をもたらす良い水がまさに[読み]となる。本に出てくる数多くの物語や知識たちは、私の主観とは別に存在するものであり、私の主観で入ってきて浄化作用を起こして、私の心身に温かいぬくもりを伝える。この暖かい温もりは自分の感情を豊かにする基盤を提供する。そうやって感情と理性の善循環のための作業は、[読み]しかない。
私の主観の強化のために客観を活用する作業は[読み]から開始される。
ライフスタジオで100冊を読むプロジェクトを進行した人が何人かいる。その人たちが、この記事を読んで、あまりにも論理が誇張されたものと抗議することもできる。言葉を作っているので大きく入った側面はある。言いたいことはこれだ。私たちは感情の過飲により萎縮して、だんだん[自分に対する無気力]にむかっている。感情はいいものだが、理性の不足のためにやむを得ず感情の過剰状態を作っている。では、理性を強化する必要があるが、客観の世界で遊んでみると、自然に主観にバランスが生じて、[自分に対する無気力]から脱出することができる。客観の世界で遊ぶには、いくつかの方法がある。その中でライフスタジオは[2013年体制]で[読み]を選択した。
 [読み]を使用して客観との出会いを持続すると主観は健康的に変わることができる。
主観を構成する感情と理性のバランスを通じて、[2013年体制]が夢見る世界に行くことができる。
[論文プロジェクト]を通して、多くの人が[読み]の新しい経験をした。自分が選んだ一つのテーマを知るために多くの本を読んだ。テーマという明確な目的を持っているので、私の主観が緊張した状態で客観の材料を採集するので、通常では使わない筋肉が動いた。客観の材料が私の主観を通過して論文が書かれているという、一風変わった経験があったはずだ。この過程で、[読み]が持っている特別な効能を少しは知ったことだろう。
【2013年体制】での[読み]は、読む事の色々な機能の中から一つに注目する。自分の中に特に何かがないから、外部の刺激に対応することは無関心の感情がほとんどだった。感情と理性の不均衡を解消しようと客観という神秘の妙薬を使おうというものである。客観の活用で主観を強化する必要がある。この客観の材料が作られている工場がまさに[読み]である。私達が[読み]をする理由は、教養を高めようというのではない。 [変化発展プログラム]を可動することが私たちの目的である。
これからは変化発展プログラムの可動のための[]開始する。
くの試行錯誤結果、[]
自分直面している現実改善のためのもの、哲学というつのテマで、[]圧縮された。
 
2. 書き
 
 [2013年体制]は、変化発展プログラムを装着することを目標としており、
 [読み・書き・討論を第一優先順位とする]という原則も、
この目標に服務しなければならない。
実践的に文章を書くことは、だから必要なのだ。
確認、意志、実践の根拠は、実践的な文章を書くことの重要な材料である。
 
書けば見え、見えたらやるようになる。
 
書くこというのは辛いことである。読むよりも書く事で挫折していく人が多い。チョンアが毎日やっているダイエットのように書けば、地上の楽園となるのに挫折する。ダイエットは自分にとって優れた仮面の役割を担ってくれ、[書き]は、自分の素顔を美しくしてくれる。人は、[書き]の重要性は知っているものの、辛いため必要な時のみ書く。いつでも必要な条件を構築するために[2013年体制]の原則として[書き]を決めた。個人的な話から、[書き]を始めてみよう。
まず、[2013年体制]の報告書の[美しい競争]を説明する過程で、私の初めての[書き]に関する経験談を書いた部分がある。
大学生の頃、学生会副会長候補となった。それも候補の締め切り3時間前に提案を受けて1時間前に候補登録をするようになった。明日からすぐに選挙運動が始まるが、何も準備ができていない状況だった。そして私は生徒会出身でもなく選挙が何かも知らない非常に平凡な学生だった。 2年制大学だったので1学年末に候補となるのだが、大学生活6ヶ月の1年生が何を知っているだろうか。後で知ったことだが、学生会からの候補者を探していた時に人があまりにいなくて私の名前が少しだけ出されたことがあったという。そのようなサークルにいた先輩が、その当時の学生会総務部長だった。 "チェウクは話すのが下手でダメだ。。できないにもほどがあるくらいできないからダメだ "と言ったという。
そうだった。その当時は話を10秒以上言えなかった。候補の締め切り3時間を残し候補を集められずして焦った先輩たちと廊下で偶然会うことになった。そして学生会副会長候補になったのだ。私の人生のターニングポイントは、その廊下だった。
候補登録をした先輩が『演説文は君が自分で作成して明日それを見よう』と言って行った。公約も出てこないし、大衆の前で一度も話したことのない私に公約の説明をするスピーチを書いて来いという。
家に帰って寝ずに書いた。学校生活6ヶ月の経験と、私が考えている一般的な学生会の役割について整理して演説文を作った。そして選挙遊説が開始されて震える胸をつかんで授業が進行される教室に入って約20分余りの間、演説文を読み上げた。ところが..........................
大当たりが出た。オバマの演説を凌駕する..............................................
今一度再現をしてみればこうだ。生徒会が何なのかも、まったく分からなかった私は家に行ってスピーチ文を書いたのだ。初めて長文の文を書いたのだ。私の考えを整理して文章を書いて人々に発表した最初の事件だった。文を書いたことを力説する過程は私を違う世界に導いた。上記の美しい競争を説明しながら話した、確認と承認の瞬間だった。演説をした前と後では全く違う人生だった。私が理性に目覚めたのは本でもなく女性でもなかった。 1989年11月の人々の前で自分の演説文を発表したその瞬間だった。
書くということで、どのように自分の人生を転換出来るようになるのか?
文章というものを、初めて書いたのが演説文であった。今は論述式試験が普遍化されているが、当時はすべての試験が選択問題であり、単語で答えを書く記述式回答が導入された時期であった。小、中、高の間、自ら日記や作文を書かない限り文を書くことはなかった。誰も書きなさいとは教えてくれず、学校でも[書き]に関する教育も全くなかった。1年に1、2回作文大会のような書く場はあった。ほとんど数行だけ書き、歌の歌詞を書いて提出したりした。大学入試では[書き]は必要のない存在だったため、学校教育過程には全く入っていなかった。何かを書くということ自体、想像することができなかったため、演説文が私が初めて書く文章となった。私の人生で最初の文章が演説文であったが、魔法のようなことが起ったのだ。
私を構成している要素は、数え切れないほど多い。経験、考え、読書、会話、出来事などの名前により私は作られて変化する。見る面により、分類する方法も多様である。遊説文の構成要素は、人間、学校、生徒会の目的と役割、副会長の役割、私にできることと、やらなければならないこと、学生との約束などがある。このそれぞれの要素は、再び細かく各部分に分けられる。膨大な量のため、小宇宙を見ているようだ。数字で表してみると、5,400,000,000の構成要素を241にまとめなければならない。5,400,000,000を241にまとめるというのは、体系的に概念化させなければ不可能なことである。[読み]で、理性を体系的に概念化し、何が正しく何が正しくないかを判断するものとした。ならば、自分の人生において、最初に理性が大規模に作動したということなのか?
軍隊に行くと、両親に手紙を書く。手紙というものを、生まれて初めて書くという人も多く、両親に宛てての手紙はなおさらである。鉛筆を持って両親の顔を思い浮かべながら、気恥ずかしい段階を過ぎると、自分の中で少しずつ両親が鮮明になってくる。両親とあった多くの出来ごと、事故を思い出しながら心が落ち着いてくる。1枚の紙の中に両親に対する全てのことを書くのは簡単ではない。多くの感情が交差しながら、理性の助けを借り、ある程度整理された自分の考えを文として続けて書くようになる。手紙を送ると手紙が帰ってくる。両親の下手な字を見て泣きそうになる人もいる。その手紙の中で両親と本当に出会うことができる。
[書き]というのは、自分の中にあるものを外に取り出して、文章として表現する行為である。地球の上で呼吸をして生きている60億の人間の中から100余名が選ばれ、ライフスタジオを構成している。この100余名は、[また違う私]である。私の中にある60億の構成要素の中の、文章の主題に合わせ狭めていきながら完成される。この文章もまた、他の私の部分である。狭まっていく過程で、自分の思惟の限界と可能性を検査することができる。これはつまり、自分を確認する作業である。確認作業を手伝ってくれるボランティアの人がいるのが理性である。文章を書くことを通してちっぽけな私が、いきなりスーパーマンになるわけではないが、ちっぽけな私を正確に確認することはできる。広い太平洋の真ん中で、私がどこにいるか知らないのと、私が正確にどこにいるのか、西へ100km行くと水のある島があることを知っているということは天と地ほどの差である。
演説文は、自分の中にあるものを鮮明に認識するように作られた。
つまり、自分の存在を確認した、始めての瞬間であった。
文章を書くということが、私にくれた初めてのプレゼントは確認であった。
[知らないことは犯罪だ]の部分で、ウンヨンが確認した瞬間と、演説文での確認は同じである。響きのある誰かの言葉や、自分の内部の奥深くに隠れていたものが表現されている文章や、自分の存在を確認させるということでは同じである。知る過程の中で、言葉と文字は兄弟の仲である。自覚の過程は、言葉では感じること、文は解析を伴うようだ。何にしろ確認は良いやつだということは確実である。
文章を書くことが、私にくれた2つ目のプレゼントは2006年6月、日本に来て、青山店をオープンするまでの6ヶ月間で書いた報告書である。まず、2007年1月に完成した報告書の最初のページである。
 
              LifeStudioの
                概念と方向
                                                                        
 
                                                          2007. 01. 07
                                         Studio Memoir Mr. Lee
 
 → 目次
 
• 日本写真業界の特徴
 - 長い歴史と伝統を持つ写真館の存在
- 記念(753.成人式、結婚式.....)撮影中心の営業形態
- 着物着用を中心にシステムの形成
- 非競争体制で単純マーケティングが主流となった、オンラインマーケティングの不在
- 写真館への不信の拡散とイメージメーキングの弱体化
•お客様の理解と要求
- 雑誌をはじめとする映像メディアが一定の基準を提示
- 写真の需要と開発
- シンプルでナチュラルな写真、鮮明な画像の時代の要求
- 本当に信頼のある写真館がどのくらいあるだろうか? 

•何が核心なのか?
- "本当に写真の中へ......」
- "本当にお客様と一緒になれる喜び...... "
-  "面白くて、気軽に、そして頻繁に行く写真館"
 
•どのようにするか?
- 無料撮影10000
- 言論を友達にする
- インターネットの積極的活用
- 同砲的な協力会社との同時成長
 
•1号店(メモアスタジオ青山店)オープン報告と課題
- 支出の内訳
- 期間
- インテリアのコンセプト
   ‣雑誌の雰囲気をスタジオに移す。
   ‣専門的なスタジオ、そして快適 さ
   ‣感覚を食べて生きるスタジオ
   ‣最小のコストで、私たちを自由に
- 各部分のインテリア
- 名前、スローガン
- ホームページ企画案
 ‣何を込めるのか?
 ‣どのように込めるのか?
- 12月の売上高の分析
- メモアオープン総評
 
• Life studioの概念
 
• Life studioの内容
- オープン費用…………………………….総10.000.000
- 売上目標3,000.000
- マーケティング
- 人材管理
 
• Life studioの時間計画
- 東京の店舗3つの保証
- システム構築
- Life studioのブランド化
 
時々この報告書を見るたびに一人笑ったりする。単純な論理で、将来の礼賛を並べてはいるが、その報告書の形と方向は、現在も維持されている。日本に来るまで何かを書くということ自体がなかった。サグァナムを運営しながら、すべてのことが言葉で成され、私の頭の中は偶然吹いてくる風にも揺れるほどだった。即興的な決断と感情をベースにした組織運営は1、2店舗ほどから問題が潜んでいる状態を維持する。店舗が4つになり、各種事業が長期的な計画や原則なしで進行され、問題は水面上に上がってくるようになった。一定の失敗を経験して日本に来たときに私にできることは何もなかった。日本語はできなかったし、特別な計画があったわけでもなかった。退屈な時間にもうこれ以上耐えられなくなった時点でレポートを書き始めた。韓国で写真館運営を通して積んできた経験、失敗した理由、組織と人間の関係、新しい写真館の方向などが、私の前でひとつふたつと整理されていった。方向感覚が少しずつ戻ってくる中で東西南北の中のひとつの場所を設定することになった。このときの強烈な経験で、毎年評価と計画を報告書という形で作成することになり、現在の[4大原則の解説]に至る。
 [動物農場]、[1984]のジョージ·オーウェルは、[私はなぜ書くか]というエッセイの中で、人が文を書く理由を4つに整理をした。純粋に自分を際立たせたいという利己心、美しさそのものに集中する美学的な情熱、次世代の読者のために記録しようとする欲望、人を説得して、世界を変えていこうという政治的な目的の4つに分類し、自分は政治的な目的の文を書いた。
 
 
この4つの分類法によれば計画書や報告書は、政治的な目的を達成するための文だ。人と世界を変化させようという政治的目的性は向かうべき方向と到達すべき点がある。私の中にあるものを確認しながら、それと同時に前を見ることになる。過ぎ去った日々の経験と思考の結果、現在の姿と私が進むべき道に対する総合的な判断が、報告書という名前で作成された。過去、現在、未来が文として散ったり集ったりする過程を経てみると、[分からないことは犯罪だ]で言及した意志が呼び起こされた。意志による行為は、通常、意図の形成と決心、心の中に抱いた決意の実行という2段階で行われる。報告書という形式と内容は、意図の形成と決定という1段階を完成させる。現実という枠を果敢に破ることができる意志は、私を構成する要素が秩序ある隊列を整えた時出てくる。
 
ライフスタジオの最初の報告書[Life studioの念と方向]は、
何もなかった時の私に、[意志]を持たせてくれた大切な存在になった。
書くことが私にえてくれた第2の贈り物は[意志]だ。
 
[責任と権限]はやりたいことと、やらなければならないことについての話である。やらなければならないことをする力は意志から出発する。意図と決心は誰でもする。問題は、それを続けることができないということだ。太ったせいで、百貨店で買った高いズボンを履けないことに怒りながらダイエットの意志を燃やす。しかし、次の日の焼き肉パーティーで私の意志はそれを放棄する。
 
と決心を維持し、自分の中で合目的性を持たせる力は、[書くこと]と出った時に強化される。
瀬戸際の術を使うこともあるが[書くこと]は、私との力な約束として作用する。
瞬間的な感情による意と決心は長く持っても3日であり、私の中のすべてのものを
一貫性のある論理で武装した[書くこと]は意志に対する比較自体を許さない。
 
第3話目は、いくらか前にあったヒョンジョンとの対話である。
ライフスタジオのデザインや商品の生産は、「デザインボム」が担当する。ライフスタジオとデザインボムは同じ会社であり、韓国と日本という空間的な違いがあるだけである。デザインボムの代表がヒョンジョンだ。ヒョンジョンは人性も同じくらい有能である。ヒョンジョンの仕事の処理を見て[あ!仕事はこうやってやるんだな]ということを知ることになった。一緒に働いた10年余りの時間、従業員から代表へ、役割を変えながら成長し、今はリーダーとしてなかなかの心構えが出ている。
先日、ディスカッションと学習の悩みを話すことになった。デザインボムでも哲学を学習している。普段の会話や会議では自分の意見や主張が明確なのに、哲学や時事討論になると言葉が出なくなるという悩みである。組織のリーダーとして、もし議論がよくできていなければ、その時に道を示し、滑らかに進行をする必要があるのにそれがよく出来ていないという話だ。 [すべてのことをどうやって上手くやるのだ、できないこともあるだろ!]。しかし、当事者は辛い。自身が学習と教育の重要性を主張しながら、目障りなメンバーに目を向けていき、説得と脅迫をしても、いざ議論が進行されると蜂蜜を食べた黙秘者になっている自分を眺める自己恥辱感は大変辛いことである。デザインボムが学習と教育を開始して数年が過ぎたが、今まで精神的苦労がどれだけあっただろうかと思う。デザインボムの内部文化を学習と教育を通して作らなければならず、推進力の主体がリーダーであるため、この峠は必ず越えなければならない。もし学習と教育の部分を誰かに委任することができればいいのだが、まだデザインボムにはいない。したがって、現場に迫った危機でありチャンスである。
討論の過程で言葉を上手くできるようにしたいということではない。本の内容に対する理解と共に、堂々とした姿になりたいという願望である。自分が主張して推進した政策であるため、難しいからといって後ろに隠れていることはできないである。知らないなら知らない、知っているなら知っていると堂々と言いたいが、知らないと知っているの境界線が曖昧になり、議論の過程でさっさと出ることができなくなる。議論の過程だけでなく、学習と教育政策の推進力も少しずつ弱化する。この限界点をどのように克服するのか?この問題の解決のためにヒョンジョンとの会話中、[書く前に投げ出して、書きながら投げだして、書き終わっても投げ出す]というものが出てきた。
引越しをしたとしよう。日常的に使用するものは、すべてのものは箱の中にある。すべてのものが不慣れである。自分だけの方法で知っていくと、一ヶ月程度の時間を経て全体を把握することになる。様々なものは、所定の位置を見つけ、スーパーマーケットがどこにあるか、電車の終電はいつまでなのかも知る事になる。討論の主題や書籍の内容を自分のものにする作業は、引っ越しを行って、新しい環境に適応する過程と同じである。二つが必要である。
まず、知っていく過程である。一つのテーマについて話を始めて間もなく、あっけなく終わる場合を[やってもやらなくてもいい討論]と言う。主題の表面的な感想や、自分の経験を話すと、次に何を話せばいいのか分からなくなる。何十回に一回くらいなら、まあ我慢もできるが、議論の大抵がそのように進めば、やってもやらなくてもいいを超えてやらないほうががよりよい場合もある。ヒョンジョンも、この部分に対する話をした。何のインスピレーションもなく議論は終わり、何が問題なのかは分からないが、ずっと虚しい気持になるということだ。一つの主題出てきた力を尽くして掘り下げなければならない。議論は掘る下げるためにするので、無条件に掘り下げなければならない。掘り下げて見ると、ある瞬間に誰も行ったことのない幻の洞窟を発見する。この洞窟を見るために議論をするのである。家が建てられる過程を映像で見たことがある。底を固めコンクリートで土台を作り、柱を立てて作った骨組みに壁を付ける順序がある。底だけ固めて瓦を乗せることはできない。討論は家を建てるように一つ一つの過程を踏んで結論を導き出す遊びである。このプロセスを人々は知らないでいるのだ。
二つ目が全体を見る能力だ。部分だけを知っているため、すこし斜めに行っただけで道を失うことになる。少し離れて全体を見れば、ゾウだと分かるが、目を閉じてゾウの足から触ろうとするから分からない。触っては疲れ、疲れるから諦める。全体を把握するということは黄色い線の外から電車を待つことくらい重要だ。暗い山道をロウソクの光だけで行こうとすれば恐怖を抱く。光が当たるところだけが見えるので、すぐ横が絶壁なのか、虎が出るか分からないからだ。
知っていく過程を知るという事と全体を見るという事は、討論と学習をする理由であり、有用な道具だ。
この二つを自身に装備するために[書く前に投げ出して、書きながら投げ出して、書き終わっても投げ出す]、別名[三投戦法]を提案する。
 
私の目の前で繰り広げられる現象を観察する。何か私の体のセンサーが動作をして、その実体を知るために聞き込み捜査をする。質問してみたり、本やインターネットで調査をする。最初に投げると整っていない荒い塊が出来上がる。未完成の塊を書くことを通して滑らかにする作業をする。羅列と論理が入って、自身の主張を書くことが進行される過程に2度目の投げ出しする。投げ出すと何かが私に入ってきて、これは書くことの味を出す調味料としては十分である。書くことが終われば、世界に出て、書いたものの評価を進める。この部分は3度目の投げ出しだ。 3度目の投げ出しを通した修正作業をすると、最終的な文が完成される。シナリオが完成したので、これから撮影に入ればよい。簡単ではないだろうか。
知っていく過程の他の言葉が[書き込む前に投げだし、書きながら投げだし、書き終わって投げ出す]であり、このような一連の過程自体が全体を見る行為である。 [サムドン戦法]の過程を数回経験すると、自分だけの方法が生まれる。また、受ける側を自動的に参加させながら、総合芸術の性格も持っている。福利、利息は自分自身を複製し、魔法を振るう。利息が利息を生むため、時間が経つにつれて、雪だるま式に大きくなっていく。 [サムドン戦法]は、福利・利息のように、自分を自分で引き上げながら、今後うって出る力を生産する。
[書き込む前に投げだし、書きながら投げだし、書き終わって投げ出す]で[書くこと]は、実践の根拠を提供する。
組織でも日常生活でも使われることがなければ見逃す部分が多くなり不良となる。このより大きな問題は、どのような仕事をすべきなのかすら分からなくさせる。頭の中では何かよくないと分かっていて、何かをしなければならない気がするが、その実体が見えないから目の前に見えることだけをすることになる​​。お金を計画的に使用して節約するために家計簿を作成する。家計簿を作成すると、意外にも支出に多くの影響を与えるといわれる。単に支出を減らすのではなく、合理的な消費に私を導いてくれる。つまり実践の根拠を提示するため、実践するようにさせる機材として機能する。ましてや、自分が行くべき道や組織を運営する人が計画を立てないこと、またそれを使わないことは、ある一種の皮肉だ。
経済的災難に備えたり、将来の支出のために銀行に貯金をする。文を書くことは貯金ににたようなところがある。貯金は私の記憶の中ではなかなか消えず、使用のために待機状態をとっている。 [書くこと]も漂っている材料を体系的に概念化させて保存しておくものである。瞬間の言葉や記憶より貯蔵能力に優れ、いつでも私の人生に飛び込む準備をしている。
おそらく書くことのほとんどは飛びむために書くものである。
自身に動機付することができる力な力が書くことにはある。
実践のための名分と、やらなければならないという信念を同時に付する。
個人的な話を通して、確認、意志、実践の根拠は書くことを通して取得することができると説明した。文を書いてみると確認、意志、実践の根拠が時間順に配置された。私がどのように存在しているのかを確認をした結果、北東方向に設定する。方向設定というのは、その方向に行かなければならないという動機と意志を発生させる。これは、実践のための根拠を提供しながら、私は前に進む。確認、意志、実践の根拠、この3つは同じ所属の制服を着たような感じがしないだろうか。 [変化発展プログラム]の中で最も最精鋭チームを選ぶなら確認、意志、実践の根拠を提供する[書く]という名前のチームではないだろうか。正規軍よりも先に現実に浸透して正規軍が上陸することができるような情報を収集し、敵の主要なポイントを打撃する先発隊の役割が[書く]というチームが行うことではないだろうか。
仕事がうまくいかないとき、現実と理想を話す。現実は現実であり、理想は理想に過ぎないと言う。当然である。現実は現実なので、現実というのであって、理想は理想なので、理想と言うのだ。現実が理想に瞬間移動するのではない。現実からどうすれば理想の方向に行くのかが重要なのだ。 1センチ動いたのならば、それだけ近く行ったということだ。現実から理想に行くための準備段階でありながら、土台となるのが、正に[書くこと]である。
ライフスタジオの報告書や計画書を、時間が経過してから確認してみると、ほとんど2-30%程度実践をして、後はしなかったものばかりだ。計画書を作成したので、スタートをすることができたのである。もう一度書かなければならない。前の報告書や計画書を評価し、2次、3次、4次といった具合に引き続き使わなければならない。使えば行動になっていて、行動すれば結果が出るようになる。その結果をもとに書いて、次のラウンドの準備をする。このような過程が正に[変化発展プログラム]が起動する原理である。 [書くこと]は[変化発展プログラム]の動作で重要な役割を担っている。
 
むことや経験を通して入ってきた数多くのことを確認して精製して、商品として作成し、
世界と闘争することができる根[書くこと]は提供する。
変化発展プログラムが正常に動作するためには、実践的な書くことが必要である。感情と感性を刺激する書くことも必要であり、実践的な書くことも必要である。書くことは問題を認識し、解決するプロセスである。自分の人生を省察し、コミュニケーションのツールとしての役割をしながら、問題を認識し解決する過程としての書くことは重要だ。写真の分析は、批評的な要素を持っている。一枚の写真の中に溶けている複数の構成要素を分析して、その写真が追求する内容と価値を抜き出すことが写真分析である。ライフスタジオでの写真の分析は、写真の批評的な要素ではなく、自分が持っている写真の概念と技術の確認と一緒に、より良くなろうとする意志の表現である。私の感性のセンサーを刺激するというよりは、今後の撮影のための準備としての役割が強い。
【2013年体制]は、[展プログラム]装着を目標に置いており、
[み、書き、議論を1番に]という原則も、その目的に服務しなければならない。
実践的な書くことは、って必要である。確認、意志実践の根は、実践的な書くことの主な材料である。 書けば見えて、見えればやるようになる。
 
3. 討論
 
個人と個人は作り出す化学作用は組織の変化を引導し
組織はかく個人に再度エネルギーを配分する。
個人と個人、個人と組織をつなぐ大動脈は即ち討論である。
 
 
討論と似ている言葉で討議がある。討議は議論と協議を通じて解決策を探そうとする試みであり討論は自身の解決策を相手に納得させる試みである。討議は様々な人が協議して良い意見を探す集団思考の過程であり、討論は先ず意見の対立が存在しお互いに対立する中で反対を覆そうという弁証法的な思考である。会議をする過程でも討論と討議はかわるがわる登場する。一つの主題を持って話をしながらも意見が割れて対立と論争が入れ替わる。[読み書き討論を第一として]で討論は討議と討論が混ざりあっていることを意味する。
 
討論の重要性は色々と分けることが出来るがこの論文では‘オーディションを受ける私’‘別々に一緒に’の2つで説明する。
 
[オーディションを受ける私]
 
韓国では30年前だけでも外国に留学に行くということは多くは無かった。町で一人いるかいないかの秀才が経済力の後援が合ったときに行くものが外国留学だった。しかし今はヨーロッパに旅行に行くくらいに特別なことではなくあった。幼い子供達が母親と一緒に留学に行くことが流行しているため韓国では一人残って仕事をして留学費用をまかなう父親たちの哀歓が映画や放送の題材としてよく利用される。外国留学が普遍化しながら外国で受ける学位が貴重な扱いを受けることが出来ないという。それでもたくさん行くのだ。アメリカ留学生の順位では韓国が、中国とインドに次3位、日本は6位に位置している。留学に行った人たちが体験する苦痛の中に多くの人たちが討論文化に関して話をする。韓国、日本、中国の学生たちは共通に自身の母国で受けた教育と大きく違う討論文化によって初期の適応が難しいという、韓国留学生のブログにある文章を見てみよう。
 
過ぎる11年の間アメリカ内の2つの大学と3つの高校で英語を教えながら、少なくない韓国人学生達に接する機会があった。惜しくもその中で大多数の他の国の学生に比べ英語で討論する能力がめっきり落ちていた。筆者はその理由を次のように整理してみた。
 
第一に、韓国文化の特性上相手と自身の意見が違う場合大部分の韓国学生は相手の主張の間違いを指摘して自らの意見を打ち明けるのに積極的に意見できない。事実アメリカの航行や大学で討論の時間を進行してみると韓国ならばお互いに顔を赤らめる程度に同僚の学生達の意見に直接的に反対し,批判・攻撃する場合も多々あり、さらに討論を侵攻する教授や先生の意見に対しても恐れなく反論を繰り広げたりもする。しかし討論はどこまでも討論であり、感情的な対立を生むことはあまり無い。
 
もし韓国の学生だけでこの程度に意見の対立を立てると討論が生きすぎ争いに発展する場合があるかもしれない。しかしひょ間の自由お保障することを何よりも重要に考えるアメリカではたとえばかばかしい主張であったとしても一旦は尊重する心で聞いた後、論理的な反対意見を繰り広げるように学生達を教育する、そのためアメリカで勉強する韓国の学生達はやはり授業時間にどのような主題に関して討論が進行するときに感情に傾かず説得力ある自身の論地を展開して相手を論理的に反撃する技術を習得しなければならない。そうすることでアメリカの学校で英語の討論にさらに自身を持って向き合えるようになるだろう。
 
第二に、韓国で普遍化された一方的、注入式広義になれた韓国の学生達が教授と学生、そして級友たちの間の終わりなく起こる相互作用文化で特徴付けられるアメリカの教室の雰囲気になれることが難しい場合も多い。相当数の韓国の学生達が筆記試験では良い点数を受けるが学習でなされる主題討論や同僚及び先生との相互作用に非常に受動的で消極的になるためにアメリカの先生や教授達に良い印象をあたえることが出来ないことが多々あるが、そうするといくら筆記試験の点数が良くても学点で不利益をこうむる始末だ。そのためアメリカの留学を夢見る学生達は特徴の主題を置いて友達を討論したr地お互いの意見を受け答えする`相互作用訓練’を集中的に練習する必要がある。
 
第三に、多くの韓国の学生達が機械的な英語の単語暗記や計算には優れているが批判的で創造的な方式で幅の広い主題を語る能力は明らかに落ちることが事実だ。一旦主題になる学習での討論に参加してみると自然のうちに学生達は主題に対して自身の立場を整理し、また相手の立場も対話を通じて知るようになる。このような相互作用を通じて受けることの出来る大きな利得は創意的で批判的な思考能力であるため、アメリカ留学を考える学生ならば一つの決められた主題を置いて創意的な接近方法をきちんと積み重ねていかなければならない。特定の主題を決めておいて相手と回数を重ね対話をしてみると以前に考えることの出来なかった創意的な接近方法を悟り知るようになることも多くあるからだ。
 
上の文で重要な部分が[感情に流されることの無い論理的な反駁][相互作用][批判的でありながら創意的な接近方法]である。反対に話して見ると自身だけの感情と一般的な論理を先に立たせて、極端的な順応や無条件的な反対と無関心、または当然のことを当然のものとして受け止める。感情に他か向くことの無い論理的な反駁、相互作用、批判的で創意的名接近方法がやれればいいし、やらなければ少しもったいない程度のことなのか?チーズケーキにチーズが入ることでチーズケーキであるように我々にかならず必要なことなのか?
 
写真館でカメラマンとしていながら自身の写真館に対する不平不満を繰り広げる人がいる。私が写真館を運用するならばこのようにはしないという。その人が自身の写真館をオープンすればどのようなことが起こるだろうか。写真館を構成する要素は私ならではの歴史があり多くの試行錯誤の結果物である。多くのカメラマンは現在の状態は当然のもので不合理的な点を指摘する。自身がオーナーとして写真館を運営してみればカメラマントしているときの当然のことが自身の写真館で当然のこととして作らなければならない。このためにはとてつもないことが必要だとわかる。自身がオーナーになれば自身が出来るのか、出来ないのかを試験することになる。オープンをすればその試験は過酷だ。上手くいかなければ襲ってくる資金の圧迫と前の見えない恐怖に寝ることも出来なくなる。上手くいけば自身の可能性に対す確信で張り切って仕事をする。オープンと言うものは自身を正確にわかることの出来る良い機械である。この機会を掴もうとするお金をかき集めて保障を立てることは人生最大の冒険である。
 
オリンピックを前にあする柔道の選手を思い浮かべて見よう。毎日高い次元の訓練とオリンピックにあわせて体を作っていく。相対する選手の長、短所を把握して自身の必殺技を集中練磨する。協議を前にしている選手は日が近づくにつれ緊張も高まる自身の器量が度の程度なのか、相手の選手に勝つことが出来るのかを毎日考え眠りに付く。競技になれば全てのものが分かれる。私が84.94で相手の選手が85.100であるということを。。。協議では負ければ悔しいがまた柔道着を気手順日運動をする。86.39のために
 
オープンをすることもできず柔道をTVでだけ視聴する私たちは何を持ってこのような経験をすることができるのか。
 
討論は自身が持っている武器を相手と真剣勝負を繰り広げる場である。相手に勝つということが目的ではない。討論をする目的は集団的に心理を探そうとする旅行である。解釈改憲という名前に進行されている集団的自衛権賛成、反対の討論の目的は日本国民が人間の尊厳性を保障受けて幸せに暮すことができる条件を捜すことである。 集団的自衛権に対する自分の意見が説得力を持っている持たないはその次だ. 討論がよくできたということは自身の中で大きい響きがなければならない. 自分の論理が認定を受けたり虚点が発見されたり真理に向ける道で私の意見が 100% 正しいことはない。
 
自分を試験台にあげて客観的に評価を受けることができる方法で討論よりもっと良い方法があるだろうか?
 
感情にかたよらない論理的反駁, 相互作用, 批判的で創意的な接近方法は真理を捜す有用な道具たちだ.。討論はこの道具たちが自由自在に使われる競技場だ. 討論は私の中にあるセンサーとハードディスクが一番活発に作動している瞬間である。 相手の意見を聞けば早い時間の内に核心を把握して空いている部分を捜し出さなければならない.。捜した虚点を掘り下げて新しい私だけの理論を植えなければならない。 制限された時間の内に孫兵法に出るけんかの技術を総掛かりしなければならない.。血を流すわけではないが私が持ったすべてのものを投与しなければならないしそのすべての過程が外部に公開される。 誰かを勝つためのものではなくて私たち皆のためだという名分は個人も好きで皆が良い, きじも食べて卵も飲む事だである。自分が客観的に評価を受けるということは恐ろしさと一緒に喜悦が伴う. 恐ろしければ聞いてばかりのはずで喜悦がほしければ椅子を前に引くようになる. 討論は自立することができずに個別化されてますます萎縮する私たちのためのヒーリングの競技場だ.。自分が持っているものなどを皆現わすしかなくてその現わしたことを試すことができる最高のシステムが討論だ.。自分を試して攻撃されて新しい論理が登場するすべてのものなどは組職の資産として残るものである。
 
ディションをえた自分っているすべての技量せなければならないという圧迫感がある.
ディションがわればかるようになる. がこのだったということを.
[この程度] 基準としてまたられるようにするということ.
これが討論重要一番目理由.
 
[別々に一緒に]
討論は各自が事前準備をしたことを持って一定した規則の中で意見を共有して, たまには対立して真理を探していく活動だ。
 
共同体の辞書の意味はこうである。
 
人々が集まって一つの有機体的な組職を成して目標や人生を共有しながら共存する時のその組職を言う.。単純な結束よりはもっと質的に強くて深い関係を形成する組職だ.。共同体は相互義務感, 情緒的紐帯, 共同の利害関係と共有され理解力を土台にした社会的関係網を核心内容にして, 個人と共同体の間の葛藤調整が重要なカギだ。
 
共同体を維持することができる根幹として, 個人と組職をなだらかに作動させる装置として討論ほどのものがあるだろうか。
ビビンパを例に聞いて見よう. ビビンパはまず入って行く材料を個別的に作る.。各種ナムルと肉, たまごを準備する.。6-7種の材料たちがご飯と一緒に私の前に置かれれば自分の趣向どおり器においてコチュジャンとごまあぶらとともに交ぜ合わせる.。均等に混ぜてつやが出れば口に入れる。 各種情報が横行する. 人々のブログ, 各種報告書, 会議を通じて決まった多くの事項が私に入って来る.。この状態がビビンパの材料たちが私の前にあるのと同じことである。ビビンパは交ぜ合わせて食べることが核心だ。 ご飯別に材料別に食べることもできるが各種材料たちがコチュジャンとごまあぶらの助けを借りてご飯と一つになった時の味がビビンパだ.。討論は各自が持っている材料たちを交ぜて一番おいしいビビンパを作ることと同じことである。
 
討論は一人でできなくて組職も一人で構成することができない.。ライフスタジオは共同体形態の組職を志向する。 共同体は有機的組職を成しながら目標と人生を共有しなければならない.。各自は各自の人生を暮して来たしライフスタジオという共同体で一緒に生きて行かなければならない.。ライフスタジオが追い求める共同体の価値を自身の中に内在化させなければならない.。自分の中に入っていく作業は個人と組職の均衡の中で成り立たなければならない.。個人の合が組職で同時に組職は個人と分離している.。個人が作り出すエネルギーの総合が組職でありながら組職は個人と別に行動する。
 
個人個人げる化学作用組職変化いて
組職各個人にまたエネルギ配分する.
個人個人, 個人組職大動脈がすなわち討論.
 
共同体を維持, 発展させるためには共同体の大動脈と言える討論が中心を取らなければならない.。ところが現実はそうではない.。動脈硬化にかかっている.。今まで [4台原則解説]を作成しながらずっと挙論された無気力による相互関係性がないため討論の効率が落ちて討論無用論が出るまでになる。討論を効果的にする方法以前に討論の準備段階で問題が発生すしている。食事を一緒にしようとするのに食べ物はなくて手に御箸だけ持っている.。食べ物がないという話だ.。各自は一生懸命しているのにすることに比べて持っている食べ物が物足りない。 そのため [論文プロジェクト]を始めた. 一つの主題に対して深く掘り下げて自分の言語で論文を作成してみると核心主題と論理を導いて行く連結の輪の大切さが分かるようになる.。核心と連結の輪が結局討論を導いて行くメイン主題になる. ‘別々に一緒に’から ‘別に’がこの部分にあたる. 自分が議題設定をして主題に対する論理を作る。作った論理が妥当性と説得力を持つための説明と事例が横行しながら結論に至るようになる。 自分の作った道は一言文句すべて事情があるものと決まっている. 10人が名古屋に行くと言った時皆の事情は同じで違う。何が同じで違うのかを確認しながら正しい道を捜して行くことが討論だ。自分の道が明確にあってその道を自ら説明することができる段階が ‘別に’の段階だ。
 
‘一緒に’の段階が討論だ. 名古屋に行く道の上で起ったことは各自には大事な事件だ.。ところが自分が行ったその大事な道が他人も必ずしも大事ではない。 各自の道が対立と同意義過程を経れば新しい道が作られる。 新たに作られた道は共同体の隅隅を掘り下げながら現実適応段階を経る.。流れてたまって浄化の過程を経りながら新しい道はライフスタジオという共同体を維持して発展させる。
 
子供家で定期的に家族たちを仕えておいて茶目宴をする. 親たちはカメラを準備して自分の子供が出るのを待つ. 間違いが連発して予想できない所で笑いが吹き出る. ここにあそこで泣いて笑う親たちを見られる. 自分の家でばかり見て来た子供が舞台でその間学んだものなどを熱心にして行く姿を見ながらどんな感情と駄目押しがある. 子供を育てながら大変だった記憶も擦れて行くはずで, 身違えるほど大きくなった子供を見ながら自分の役目に対する考えるでしょう. 家族という共同体に対する意味を今一度振り返って見る時間になったはずだ. 親と関係なく子供達は子供家で熱心に遊んで学んだ. そして一緒にその過程の結果を分ける. 共同体が追い求めるものなどを各自は熱心に準備して一緒に共有する.
 共同体維持発展させながら 各個人成長同時担保することができる理論
 「に、また一緒に」であり これは討論じてすことができる
 
討論は理性の作用を命令する。
 
皆が寝た時間、家に誰かが侵入した。バットを持って侵入者に応酬する。ところが気付いて見ると一番近くの友人だ。私たちの周辺でよくある出来事だ。入ってこられれば不安で、入ってこなければさびしい。私を硬化しておいて自身の枠に合えば良い人で、少しでも違えば私とは合わないとバットを出す。一日二日だけ合う人でもなく毎日365日を共にしなければならない。一、二回の摩擦で警戒態勢と共に戦争を準備する。枠に合う人もいつかは自身と合わなくなっている。感情と感情が出会い問題解決に対する方法や意思がないがゆえ私たちはいつもさびしい。
 
路上でもめてケンカするのとボクシングの試合を比較してみよう。当てて倒すことは同じだが、ボクシング​​は一定のルールがある。足の打撃は禁止しラウンド時間を決めてスコアを付ける。最終勝負のルールは厳格で勝者と敗者を尊重する。討論もこれと同じである。ルールがあり、理性の作動を命とし、感情が出てくることを制裁する。感情に偏らない論理的反論、相互作用、批判的でも創意的なアプローチで自身を防御しながら、相手を攻撃する。相手も同じ方法で防御と攻撃を並行する。討論の内容とプロセスは、共同体の中にそのまま入って活力を提供すると同時に、各個人は、自分の免疫システムを強化する。そして、個人と個人は理性に基づいて感情を分けることになる。共感は他人の感情と心理をよく理解して敏感に反応することができる能力をいう。共感は、相手の感情と近づくことを意味しない。他人の社会的、経済的、心理的環境を理解し、その理解に基づいて、感情が動くことを言う。共感できなければ、空虚な感情の交流にすぎない。相手の立場に共感する能力も理性に基づいて相手を真に理解して共有することができる基盤を整えたときに生じることができる。
討論は自発性に基づく準備と整理をした個人が集まって共に真理を見つけていこうという努力である。共同体と個人は討論を通じてお互いの境界と弛緩を繰り返しながら、少しずつ前進する。ある側面から見れば、[変化発展プログラム]が作動している総合芸術の競演にも似ている。
 
たちの[自立]妨害する一方的感情噴出いで理性人為的作動させ
自分組織っている限界可能性確認する。
確認て、そのをする過程は、個人組織両方つことができる
魔法にも形式である。
 
インドの精神ガンジーは公平な不一致は、多くの場合、進歩の良い兆候だとした。議論は不一致を前提とする。 「なぜあんな言葉を言うのだろうか?」という疑問に始まるゲームである。不一致は、心拍数を早め感情が出てくる可能性を内包している。相手との不一致が怖くて顔を下げて沈黙する。不一致はむしろ自分の中で毎日起こる。自分にだけ寛大であるだけだ。相手との不一致は、瞬間苦痛がある。体を治す注射は針が入って来たときに瞬間苦痛を与えるが、持続的な平和をプレゼントする。相手との不一致が客観の世界で繰り広げられて融合する過程は、自然の摂理とも連結されている。すべての物質は、運動をして変化する。どのように変化するかが問題である。環境に順応しながら、淘汰の過程もあり不一致を一致の過程から変わりながら積極的な介入もある。
 
公平不一致は、くの場合進歩兆候とは人間きていくにおいて
自然にあるしかないことを賢明ていく真理んでいる。
討論不一致前提に、さらに進歩しようとする人間意識的自覚である。
 
4. どのようにすべきか?
 
自分がしたかの談論実践いて
最終的論文という結果物として完成すること...
これがかっこよくくことではないか?
 
選択集中
新入社員がよくする質問である。 "なぜ[読み、書き、討論]をしなければならないですか?"
新入社員だけではない。したくなかったり、または限界に直面した従業員も同じ言葉を言う。 「我慢してやって見たが、なぜ[読み、書き、討論]をするかはまだ分からない。」このような質問と悩みを話す度にいつの頃からか、このような話をする。 「私も分からない。ただやれ。ライフスタジオでは、[読み、書き、討論]に方向を向けた。したくなければ、または不明な場合は、[読み、書き、討論]をしていない環境を探しに行けばいい。
 
ほとんどの従業員は、[読み、書き、討論】しようとライフスタジオに入社したのではないと言う。自分は写真を学び撮影を継続的にしたり、お客様との出会いのためにライフスタジオにいるという。 [読み、書き、討論]が良いのは分かるがあまり面白くはないし、分からない、心的圧迫に疲れるという。また、[読み、書き、討論]は、会社でやれと言われているからしているという。複数のデバイスを作り、楽しくできる環境を造成し、物的、心理的なサポートをしてみても、[読み、書き、討論]が自分に直接的利益をもたらさないためにますます忌避する現象が発生している。また、しようとする人と避けようとする人が混在することにより、内部の文化も作られていかない。結局、下方平準化が進むにつれて、形式的な[読み、書き、討論]が行われるようになった。"
 
メンバーたちがもう一つ指摘している部分が[読み、書き、討論]を通じて得られるものがどのようなものかという問題提起である。売上高や客単価、写真技術の向上はある程度目に見える成果を確認することができるが、[読み、書き、討論]は、見えるか見えないか霧の中をさまよっているような感じだということだ。 [読み、書き、討論]がライフスタジオという共同体と各個人の発展においてどのように寄与しているのかという疑問がモチベーションや持続性を弱化させている。
 
これまでに多くの報告書や各種政策、そして今書いている論文などで[読み、書き、討論]をする理由と目的を聞いて、見て、話して、経験した。しかし、まだ多くの人が現在の政策に同意をしていないか、または同意をしたとしても、正確な実体と意味がわからないという。実は私も分からない。たまに揺れる。複数の場所が消された地図を頼りにして宝のある所に行っているが地図とは違った姿の地形地物が表れると当惑する。もう何か見える時であるはずが、まだ可能性だけを持っていくには、食料もつき、意志も少しずつ減っている。
 
このような状況でもう一度[選択と集中]の戦略を引っ張り出した。
 
選択と集中をしなければ、私たちが建てた最初の柱さえ崩れ落ちることもできる。しようとする人も​​、自分の力量が不足して周辺の状況に見舞われたくない人は、周囲の顔色を見て形式的な姿だけを見せ主、してもしなくても変わらないかのような[読み、書き、討論]が進められている。しようとする人としない人を区別して、それぞれに異なる機会と条件を与える戦略が必要な時期であった。だから出てきたのが論文と営業の分離であった​​。
 
[読み、書き、討論]を正確にはわからないが、最後までその道を行こうという人と、まだ[読み、書き、討論]の確信がなく、現在の自分が背負った重い荷物を降ろして、日常の撮影と顧客の接待だけという人たちを区別して支店を新たに構成した。これまでの論文と営業の分離が純粋に機能的に作用している。論文チームは、[読み、書き、討論]が何であるかの論文を通じて少しずつ知っていくようになり、営業チームは、組織が安定化し、撮影と顧客の接待に集中している。まだ選択と集中戦略の成功かどうかを言うことはできないが、表れている現象は肯定的である。
 
[読み、書き、討論を第一優先に]という原則から見れば、今後も、選択と集中の戦略は維持しなければならない。 [読み、書き、討論]が正常に遂行されたときのサンプルが必要である。 [読み、書き、討論]が何であるかということを確認することができる空間が必要であり、各自が自ら選択することができる基準が必要である。限界を突破して得る結果が私たちの前に置かれたとき自由を確保することができる。
 
このため、論文発表後支店構成でも、選択集中戦略維持しなければならない。
[み、き、討論]優先順位にする支店構成して、[自立]かう
[み、き、討論第一優先]原則がどのように作用するかを証明しなければならない。
 
[読み、書き、討論を第一位優先に]は、[4大原則]の中心である。 [読み、書き、討論]を通じて材料が出てくるからである。 [責任と権限]は、[読み、書き、討論]を通じて価値を作り、共有する原則である。これまでの価値がつくられていない理由は、[読み、書き、討論]で価値が作られなかったということと同じだ。 【知らないことは犯罪]の無知と知には、[読み、書き、討論]の過程から明らかになる。 [読み、書き、討論]のプロセスがなければ、反復的な経験に過ぎない。 [美しい競争]は、[読み、書き、討論]を競うものである。このように[読み、書き、討論]から4大原則は始まる。したがって、[読み、書き、討論]で証明しなければ、他の原則は開始もできなくなる。 [選択と集中]をするしかない理由がここにある。
 
[論文のように仕事をする]
[論文プロジェクト]は、いくつかの条件の中で構想された。まず、[2013年体制]が持つ意味と目的が段々と消える状況だった。形式は維持されているが、内容はなかった。形式的に行われる内容は、構成員の疲労度だけ高めていった。第二に、しようとする人がだんだん疲れながら、それでもあった動力さえ消える危機に瀕した。すべきことは多く、現実は水中に深く沈むカバのように重かった。価値を生み出す人になりたいが決まったことを進行することにとどまっていた。第三に、[2013年体制]に同意をしたが、まだ受動的な姿を抜け出せない人たちがいた。意図していなかったが、これにより、組織全体の硬直性はさらに加重された。
 
【2013年体制]が1年程度が経過する頃には多くの問題が露出され、[論文プロジェクト]で突破を試みた。 [論文プロジェクト]の議論が始まったきっかけは、[2013年体制]が持つ硬直性だった。しようとする人は、能力がなく、消極的な人は、なぜするのか分からない状況が[2013年体制]を機械的な組織に構築していた。 【2013年体制]を一時的に稼働をしてみたところ、懸念していたことが現実になった。人を区別するということは確かに困難な仕事である。憲法に保障された思想の自由があり、各自に[2013年体制]の意志を実験するということ自体が不可能に近かった。ほとんどの人は[2013年体制]が何なのかの実体を知らずにいて、自分が属している支店の雰囲気によって参加するかどうかが決定された。特別[2013年体制]を拒否したとしても、他の選択肢があまりなかったので、無理なく[2013年体制]の参加を決定した。ところがしようとする人は、何をすべきか分からず、何なのか知らない人は、やっているふりをすることさえ疲れるようになった。投入された量に比べて出てくる結果がますます貧弱で、組織は硬直し参加の熱気は減少していくしかなかった。
 
集中治療室にいる[2013年体制]きて組織にするために
したスロガンが「自分入場券は、自分ってこい!」である。
 
「自分の入場券は、自分で作ってこい!」は最後に選択したカードであり、特別な方法を見つけられずに出てきた苦肉の策だった。その当時、[2013年体制]を成している構成員には、現在の膠着状態を突破することができなかった。 【2013年体制]をしようとする意志だけでは成らず自ら突破を証明する特段の措置を構想し、その結果が[論文プロジェクト]であった​​。論文を通じて証明をしようとする人と、写真と顧客を中心にのみ運営する人を論文店と営業店に区分した。
 
[論文プロジェクト]が5ヶ月程度経過した時点では評価をするのは無理がある。しかし、論文を作成しながら、鮮明に刻印された限定的な一つのことがある。
 
論文作成するように[み、き、討論]をしなければならないということだ。
[み、き、討論]はもちろんのこと、仕事をしていくことも同様原理作用しなければならない。
現実で問題が発生して結果が出ない理由は大まかに、適当に、そして正確にわからないからである。 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10のプロセスを踏んでいきながら1.6.10だけ知って仕事をする。 2.3.4.5を知らない1から6にショートカットするため、問題が発生する。 2に対する問題が発生した場合、私たちは、1と6を話しながら2を無視するか、見てみぬふりをする。 6と10は2がないので、不明確な期待と可能性にのみ依存をするようになり、結果を待っている。問題が解決されないまま、新たな問題が引き続き発生する。論文は1.2.3.4.5.6.7.8.9.10の過程を踏まなければ完成することができない。論文を書いて見ると、2と3がないことによる論理的な展開にエラーが発生していることを知ることになる。 2と3を探して補強をしながら、論文は変更と編集のプロセスを経ることになる。普段は何かということが検出されると擦れる感じで2と3を考えるが、現実の論理に押され6を固守するようになる。しかし、論文は2.3を知らなければ、これから展開されることができない。調べて研究して文を続けながら、何らかの形で自分だけの2と3を決定する。 [読み、書き、討論]というのは、1.6.10を確認する場ではなく2.3.4.5が何なのか」別にまた一緒に'探していく過程である。
 
[論文プロジェクト]が終わり、経営を中心とした一つの視点が作られたとき論文のように、[読み、書き、討論]が成される状況を説明してみよう。経営店舗は、ライフスタジオの経営に対して話し実践する支店である。経営の視点から[4大事業]を論文として設定し、各自役割を分担する。フェスティバルを引き受けた人は、フェスティバルに対する論文を6ヶ月以内に作成することを目標とする。まず、論文の主題と構造を設計する。フェスティバルをする理由と目的、【4大原則】の実装方法、運用計画、評価という内容が作成されると、論文を書くために、複数の資料調査をする。様々な人にアドバイスを求めて関連の本を読んでいき論文を書き始める。論文と同時にフェスティバルは開催されるため、その人はフェスティバルの運営者としても役割をしなければならない。また、経営店舗は、定期的な討論を通じて、皆の知恵を集める時間を定期的に持つ。各自が準備してき論文の内容が発表され、皆が意見を述べる。討論を通じて出てきた人の意見として論文は、再点検の時間を持つ。現実では、フェスティバルは継続して行われる。その結果が、論文の内容となりそれが再び経営店舗の討論を通じて、完成度を高める。理論、現実、実践がバランスを成しながら、論文が6ヶ月後に完成されフェスティバルの過去、現在、未来がそのまま論文に入れられることになる。
 
計画書、報告書、評価書をまとめたものが論文のようだが若干は他の面を持っている。論文の形で仕事をするということは、モチベーション、満足度、理論と実践の結合という側面から長所を発揮することができる。決められた時間があり、論理的な完成度を必要とし一つのテーマについての理論と実践、結果を一貫して連結することができる。 [読み、書き込み、討論]の決定版である論文に実践という強力な武器の組み合わせは、非常に理想的な組み合わせであることができる。もしかすると、本来仕事をする基本的な方法でもある。事がなされていく原理が即ちこれではないだろうか。
 
自分がしたかの談論実践いて
最終的論文という結果完成すること...。これがかっこよくくことではないか?
 
論文を書くように[読み、書き、討論]と仕事をするなら、月に何ページの文章を書かなければならないだろうか?哲学サークルは2週間に3ページ、月に6ページ以上の宿題をしなければならない。ここにフェスティバルを引き受けた人は、少なくとも10ページ以上は書くしかない。それならば、一ヶ月に16ページ以上の文、これも日記ではなく、哲学で出てくる概念と論文形式の文章とはは何か? チョン·ジフンに向かっているキム·テヒを今、私のガールフレンドにしなければならない課題のようだとでも言おうか?[ロミオに向かっているジュリエットを自分のガールフレンドにしなければならない課題のようだとでも言おうか?]
 
ここで、選択と集中戦略が入らなければならない。という人を集める。する人はして、ついてこれない人は、軽いテーマを持つ支店に行く。
 
独裁が連想されるか? もう、少し独裁が必要な時期となった。
 
[2013年体制]だけの討論する方法開発
 
討論をしてみると、自分だけの方法が生じ、少しずつ上手になると考えた。だから討論を上手にする為の方法の学習はしていなかった。ところが違った。討論にもルールがある。ルールに従わないと討論が効果的に行われることがないからである。ゴールをたくさん入れるために、ゴールキーパーの横についているストライカーはいつもオフサイドの状態である。それではサッカーをすることができない。討論もそのような規則があり、それぞれの意識的な努力が必要である。インターネットに記載されている内容を少しご紹介てみよう​​。
 
米国レッドモンドシティ、スティーブンソン小学校の教室の壁に貼ってある[討論のルール]という文...。
- 。私の批判は、他の人に向けたものではなく、他の人の見解に向けたものである。
- 。私の目標は討論で勝つのことではなく、最も好ましく実現可能性が高い結論を得ることである。
- 。私の友人のすべてが議論に参加できるように励ましながら、自分も討論を通じて学ぶ。
- 。たとえ同意できない意見だとしても、すべての学生の意見に耳を傾ける。
- 。誰か自分の考えを十分に表現できなかったという気がするときは、可能な限り彼にもう一度話をする機会を与え、彼を理解しようと努力する。
- 。他の人の見解を批判する前に、すべての意見を十分に傾聴する。
- 。討論を通じて、私は変化しなければならないという明確な証拠が発見された時は、喜んで自らを変化させる。
 
単純な内容である。しかし、私たちはそうしていない。討論の目的、方法、原則、規則に対する学習を進行して[2013年体制]だけの討論ルールを制定する。論文が終わって10,11,12月の3ヶ月間の本を読んで全店舗の構成員が参加して討論のルールを定めてこれの遵守を約束する。
 
 
  [読み、書き、討論]は、読み、書き、聞いて話すである。
話すのは書きが前提されなければならない。即興的な発言は、響きがない。
自分の内攻は、書きで整えられる。
  書くには読みと事由の結果物である。読みと事由がない文章は傲慢と偏見の
  結果である可能性が高い。書きの天才でない限り、書きは読みと事由を通じた
  自分だけの省察が表現されたものである。
また、話をよくするには、傾聴しなければならない。
一方的な発言は、ドアの外に聞こえる車の騒音と似ている。
心を得る知恵が即ち傾聴と言う。
もしかしたら、読み、書き、討論するすべてのプロセスが傾聴であるかもしれない。
 
読み書き聞き話すを優先事項にする理由は自明である。
私たちの目標は、変化発展プログラムを搭載して稼動させることである。
これは、まだ変化発展プログラムがない話になる。なぜないのだろうか?
お金を集めて、フランスのパリにも行って自分の顔を美しくする化粧テクニックは
知っていても変化発展プログラムはなぜないのだろうか?
 
ただ生きてきたとでもいおうか?
斜面が水平線だけで構成された海に浮かんでいる小さな船、
その船は方向を決定するキーがなく、動力源もない。ただ水の上に浮いている。
海流によって、風によって漂う小さな船...。
私たちの姿がそのような小さい船ではないか?
誰かがやれと言えば、そのようにして、誰かがやるなと言えばせずに...
大学に行けというから大学に行き、お金を稼がなければならいから会社に通い...
学習せよというから学習し、討論の時間が決められたからら顔を隠してただいて、...
自身に入ってくる人を拒否して、人に入ることはなく...。
考える能力がないことを宿命として受け入れ
誰かによって船動かされることだけを望んでいることはないだろうか?
 
[変化発展プログラム]は、その小さな船が自らの方向を決定して前に進むことである。
[読み、書き、討論]は、変化発展という巨大な機械を最初に動かす力であり、方向である。
既存の観念を崩し、私を新たに再成立させる動力が[読み、書き、討論]である。
[読み、書き、討論]が前提されていない[4大原則】は無用の長物である。
電源が入らない冷蔵庫と同じである。だから第一優先事項でなければならない。
 
昨日入社して4ヶ月程度した新入社員が尋ねた。
[読み、書き、討論]は、自身の変化発展プログラムの装着となった経験をしましたか?
私の答えは「そのようだ。"経験したのか、経験したかのようかもわからない。
ここからは言い張る。私が知ればどれだけ知っているのか?
[変化発展プログラム]を作るために必要なことは何だろうか?よくわからない。
よくわからないから向かうことができる。子供が回る扇風機に指を入れるように...
 
しかし、一つは確実である。私たちの人生のすべての過程は、[読み、書き、討論]である。
あなたが目を開いて、見て、すべてのものを読むことで
  それが私の中に入ってきて位置を成すことが書くことであり
  笑ってさわぎながら言うすべてのことが討論である。
 
  ただ見て、書いて、聞いて、話すために、私たちは[無気力]という罠から出てこれない。
  自分を取り囲んでいる環境にそのまま順応しながら生きている。
  幸せか?映画の主人公たちは一様に事情があり、美しいがあなたは?
   
  私は幸せには関心がない。平安に暮らしたい。平安に暮らすことが幸せだろうと思う。
  私たちは、快適ではない。不便である。無視して問題を起こさないようにしてみても
  私たちの人生には不快である。映画の主人公も望まない。ただ快適であればよい。
  人に会うことが負担ではなく、ただ元気に暮らしているという心地よさを感じたいと思う。
   
  [読み、書き、討論]することが決定的に私に快適さを与えるだろうと確信はできない。
  ただ信じることである。その信じることに基づいてライフスタジオがあり、[2013年体制]がある。
  信じてみよう。でなければ、その時変えよう。
  信じなければ、[読み、書き、討論]がない空間に自然に行けば良い。
 
  しかし、前に行きもせず、吹いてくる風に私の運命を任せたくはない。