レポートReport

2015.12.15 「ひとつの点から始める」

2018/4/23

2406

2016年,  私はこのようにします。 

                                                                

★. ひとつの点から始める 

去る5月すべての活動を中断しました。 

もう一度始めると言いましたが、まずは夕立の雨をさけてみようという心情でした。各自の論文はどんな形体であれ結果が出て名分は作られました。とりあえずやり遂げたからと勘違いして新しい形式を探しどこかに向かうだろうと。お互いが拍手をし論文を終えた何ヶ月の余裕の中で今後を模索する方法もありましたが、急な活動中断を選択しました。個人的な趣向かもしれないし、今まで積もった感情かも知れません。常に不安と悩んでるいる人達ももう疲れました。組織の方向や運命を個人の趣向や感情で決定するという事もとても問題ですね。しかしある決定をし、今後行われる事を見るとその決定の適切性を判断できると思います。 

 

活動中断の決定が適切な選択だったでしょうか?でなければ厚顔無恥の典型的な姿でしょうか? 

 

活動の中断を決定した後の6ヶ月間、私達にどんな事が起きましたか? 

 

6ヶ月が過ぎた時点で何か鮮明に確認できた事はありますか? 

 

人には人生の転換点を提供する事件があります。私自身も何点かあります。恐れを勝ち抜く事ができず、自尊感に大きな傷を残した中学生時代があり、強烈だった初恋の記憶で今でも異性との出会いがぎこちないです。成人し、サガナムを辞めバカになってしまった経験が大きく近づいてきました。私にとってサガナムを整理するという事はサガナムの根本がなくなるという事を意味する為、何か大きい事が起こるのかと思いましたが、何の反応もありませんでした。その当時は、裏切られたと思いましたが、今振り返ってみると沢山の事を知るようになりました。自身がもつ最も大きな勝負の賭けをなげ、みすぼらしい現実という形の贈り物をもらいました。サガナムをでてみると、自身の存在の重さを正確に計る事ができ、サガナムがもつ成果と限界に対して少しはより客観的な視線を持つようになりました。私達は6~7年間維持してきた事業を中断しました。それもある一瞬で中断しました。そして6ヶ月が過ぎました。 

 

私がみる6ヶ月間を一言で整理すると「何も無かった」です。 

 

活動中断の理由を説明する報告書にある文です。 

 

私が「次は何なのか?」という文を読みながら一種の自覚をしたのは、ただやったという事とそうなったという事を混同し、ただやっていたらそうなったと錯覚したことです。与えられた形式に合わせただやった事をそうなったと考えてしまったということでしょう。内容が変わらないといけないのに、内容はそのままであるにも関わらず、なったと錯覚して又新しい形式を作ろうとした事です。 

私達皆は高校という形式を通過しました、でも各自に残った事は何でしょうか? 

 

6ヶ月が過ぎ現在上の文を修正します 

私達すべてはDチームになった。 

「何もなかった、何も起こらなかった」 

 

台風の荒々しい爆風雨が過ぎ去ると瞬間静かになります。活動中断6ヶ月の一部を除いては台風が過ぎ去った物寂しさのようでした。悪いコメントよりコメントがないという事自体が恐ろしい事だといいますが、今がまさにその状況です。10年間行ってきた私達の活動は何だったのかと振り返ります。疲労が溜まります。こういった結果を提供してしまった当事者が私だという事実を認めないといけないという現実がとても苦しいのです。 

 

「2016年、私はこういう活動を行っていきます」は、自ら自分を表に出すための計画です。この計画は私の責任回避の起動かもしれず、自身の居場所確保のための煙幕かもしれません。どうしますか? 

私が持つ能力と潜在力を引き上げて失敗を減らす方法が最善の方法です。危機は機会であり、6ヶ月間広がっている証拠の中に私達をこの様に作った犯人がいます。ライフスタジオと本社に属する店舗、そして構成員達を観察しました。私達がどこで道を失ったのかと糸口を見つけようと試みましたが、6ヶ月間の証拠の中で何かを発見したように思います。 

 

「何もなかった」という決定的証拠として 

     「ひとつの点から始める」という新しい主題を導きだしてみます。 

 

「ライフスタジオは何をしようとしているのか?」という質問に対して最も簡単な答えは「人間らしく生きよう」です。どう生きるのが人間らしく生きる事なのかという問いには「関係を形成しながら自身の道を自ら行く事」だと答えます。私はあなたとして表現され、私達という枠の中で生きています。相互作用がまさに関係であり、関係の中で私が規定されます。その規定を認識して行動し、変化していく過程がまさに人生の原理です。その規定の中には、私が他者と同じようになる事と、違うようになることが衝突します。同じようになるのと違うようになることに特別な価値はありません。同じくなる事にもいい面と悪い面が衝突します。違うようになることも同様です。この大きい課題で自分らしく生きる為の前提条件として自由が登場します。関係を形成しながら自分らしく生きる為の苦闘がまさに人生においての意味であり、こういう活動が一種の指向性を持つようになり、さらに高い次元に進むことになります。変化発展プログラム、人文学、4大原則、論文プロジェクトも全て人間らしく生きる為に登場しました。 

 

ライフスタジオの10年を見ていると人間が人間らしく生きるという事がとても難しいという気がします。人間らしく生き、もっと豊かな人生に向かう旅程でないといけないないのに、人生自体が人間らしくありません。一度静かに考えてみてください。 

 

ライフスタジオの構成員の間で真の人間関係を交わしていたり、 

自身だけの道を歩いている人がいるのか・・・・ 

 

数日前にある店舗で退勤時間が5分ずつ違うという話を聞きました。一緒に退勤する事が負担になるので、退勤時間になると、誰がカバンを持っているのか、靴を履き玄関から出る音に気を使うでしょう。こう生きるのが人間らしく生きていく事なのか、窓のない監獄から家に帰る事なのかわかりません。衝撃的な事です。 

 

うんざりするくらい、人間関係に対して話しましたが、現実は何故よくならないのでしょうか? 

皆がそうなる事は出来ませんが、10人中2~3人が前に進めばずっと維持できる力ができます。しかし大部分が同じ病気にかかったように同じ症状を見せます。6ヶ月間の活動中断の過程でも同じ事が起こりました。こういう状態では通常、計画の失敗と推進勢力の無能を言います。もちろんこの部分も少なからず作用していますが、問題の本質ではありません。その理由は計画された物に対してはすべて一生懸命取り組むからです。皆が同意し誠意持って一生懸命に行います。論文を書けと言えば書き、哲学を勉強しようといえば皆が手をあげます。今では計画をする時、皆やるというと逆に心配になります。しかし、問題は各自が行っている事が外に出てこない事です。個人で取り組む作業は上手く出来るのに全体的にみると成果や勢力が形成されません。核心はここにあります。一所懸命行えば誰かが這い上がってくる、こういう事が繰り返えされると勢力が形成されバランスが取れます。その組織された力で次を話す動力が出来ます。ところが、6~7年の時間這い上がってリードする勢力が形成されませんでした。活動が個人の領域にとどまり、組織のエレルギーとしてならず、推進動力が作られない理由を2つ考えました。 

 

一つ、人間関係の破片化 

破片化という言葉通り、集らないで壊れて散ると言う事が持続的に表れる現象です。民族、国家、家族という集団が段々個人という小さな単位に割れて、既存の思想や概念、文化が変化していく状況に主に使われる用語です。外国人が日本を見る時、色々な事で驚く事があるのですが、その中の1つが自身を表さない事です。人に迷惑をかけまいという文化が資本主義と結合され人間関係が破片化されたのではないでしょうか。消極的自由主義が極端的に個人主義へと発展しながら社会性が段々退化している姿です。他人に対する配慮が無関心や傍観につながり、関係形成の技術等が退化します。小さな傷で関係設定に対する意思が弱化し、最初から試みさえしなくなる状況が文化として固まった感じです。仕事だけではなく、人間関係においても距離が置かれマニュアルが強化されたのは当たり前の結果です。中央で推進する事業は大部分同意し一生懸命行います。これも人間関係の破片化に対する反発です。皆人間関係の破片化を願ってはいません。不幸だからです。人間関係の破片化という渦の中から脱出したいという意思で一生懸命行います。こういう判断は理論に基づいたことではないのです。10年間の観察と経験による推理です。 

 

最近、草加店が注目を浴びています。私がみる草加店は「やるべき事をやっている」です。上記で記載したように皆も一所懸命やっているのですが、成果がでないで疲労だけが溜まっていると話しました。草加店も同様に一所懸命行っています。同じようにやるべき事をやっているのに注目を貰う理由は、自身が行っている事がそのまま蓄積されているからです。特別な成果があって注目を浴びているわけではなく、自身が行った事達が自ら表れて自負心となり、その力で次に対する希望をもつという原理が作動したからです。特別な事が無いように見える草加店の肯定作動原理が実行されている理由がなんでしょうか?私の判断は人間関係が水が流れるように自然で、人と人のバランスが取れているからです。バランスが取れているからこそ、水がよく流れ、水が流れながらバランスはとれるのです。バランスを合わせる為のリーダーシップも一役しています。人間関係が水が流れるように自然だという事は他の言葉でいうと、人間関係が破片化しておらず、自然に集まる時は集まり、去る時は去るという事です。 

そうなると自分たちの行ってきた事はそっくり残ることになるでしょう。 

 

すべての事は、人から始まり人で終わりを結びます。理由は簡単です。すべての事の目的が人だからです。始まりも人で結果も人です。自分だけ上手くやればいいと考えがちですが、自分だけ上手くやる事の中にもっとも重要な内容が人なのです。人を除いて自分だけ上手くできる事がありますか?人間は本当に弱い存在です。国が戦争を起こすと侵略国の国民になり、私が出した税金が人間を虐殺するミサイルになります。そして自分と関係なくいつ家にミサイルが落ちてくるかもわかりません。構成員達は1つの店舗で作られる和音により自由になれません。ガスが発生すると私の意思とは関係なくそのガスを吸わないといけません。人間関係が破片化している組織では自分だけが上手く出来ません。私から発生した感じや考えはあなたによって確認され解体され再び生成されます。これが流れなければ停滞して、溜まり腐って歪曲が起こります。しかし構成員一人一人は孤立していて、私に入って来た数多くの情報と経験を上手く消化できずにいます。ひたすら解釈は私だけがなされて、その結果は不安と否定の連続です。店舗単位で仕事をする人達をみると、大きく忍耐型とあきらめ型があります。忍耐型は自身に入ってくる物を外に出すことができず、段々ガスが溜まっているまま、その状況を我慢します。あきらめ型はそういう状況を当たり前の事として受け入れます。忍耐が酷くなると問題が発生し最終的には店舗を変えたり、退社を促します。あきらめが多くなると5分ずつ時間をずらして退勤する事が発生します。この二つは「問題がない」を追求します。形成や価値、変化と同じ単語が入る席は減り現在の状態からさらに悪化しないように選り好むようになります。従って変化がない事を良い事として受け入れるようになり、判断の基準が「問題がない」となります。結局こういう全ての事は不幸ですよね。 

 

私がよく行う事は観察です。計画を立て実行をし、自分だけの道具を使い、流れる脈絡を読む為に努力します。その過程で出て来た単語が「まさか」です。まさか、が人を捕らえるという言葉がありますが、まさかその程度まで・・・を繰り返します。面談をすると大部分の人は同じ問題をもち悩んでいます。慢性偏頭痛と同じように、自身の中で行う事に対してのわからなさによって苦しみます。結局相手の問題ではなく、自分自身の問題ですね。自身の問題が相手に転移し関係が段々と悪くなっていきます。4大原則の大部分の内容がこの問題を基盤とし作成されています。人間関係の破片化問題を解決せずには一歩も進む事が出来ません。 

 

私達の事業に成果が出せない理由は、学習と教育が各個人の中だけで成なされ、 

その成果が共に仕事をする人間の関係網に入ることが出来なくて消滅します。 

人間関係の破片化が噴き出す断絶と孤立は 

次を語る事が出来る動力を弱化させます。 

 

今まで個人の好みによって店舗の人員を構成しました。皆失敗となりました。イメージで選択した事は現実で実体があらわれるからです。結果的に自分にとって脅威的であってはならず、煩わしくふるまってもならず、適切な雰囲気に流れていきます。その勇気を維持させる事が出来る人員構成と共に成功事例が必要なのです。 

 

二つ、内容の再生産構造 

会社や組織を構成する要素は数を数え切れない程多いです。このすべての事を上手く出来ないから会社や組織の文化、そして進む方向を考慮して選択と集中を通じて競争力を強化しなければなりません。ライフスタジオでは人らしく生きる為学習と教育を最優先に配置してきました。学習と教育は手段であり、目標ではありません。学習と教育を通じ自身の問題に堂々と対抗していく体力と論理を育てる為でした。出発ラインという言葉で表現された、ある段階に上がってきたら、現実と結びついた主題を設定しようとしました。選択と集中の原理が作動しながら学習と教育に集中しましたが、成果かでてこなかったので、推進動力は弱まっていきました。 

 

ならば学習と教育をする過程で何が問題だったのでしょうか? 

 

2016年を準備する為に今まで書いてきた文章達を読み評価作業をしている中、遂にあの方が天から降りてきました。「2013年体制」報告書で2012年を評価する部分にこんな文があります。 

 

上記の文章を整理してみると、2011年のライフスタジオの状況はこうだ。表面上は何の問題もないように見える。ところが、私達が成し遂げようとする目標の基準から現実を見れば、その判断は非常に変わる。まず、複数の事業が内容より形式に偏って本来の​​意図がかなり褪色していた。代表的なのが、各店舗に討論文化が定着されずにいることだ。私達がこれほど多くの投資をしているにもかかわらず、この程度にしかならないことは、どこかに大きな障害があるからだ。 

第二に、現場と学習、現場と教育が分離されていた。ライフスクールやサークルでたくさんの話があったが、現場では現場の論理が優先される。私達の学習と教育は、単に週末に楽しむゴルフとは性格が違う。共通の目標に同意をしたからこそ学習と教育は会社次元で行われており、集中投資をしている。現場で適用されない学習と教育は底に穴があいている壺にずっと水を入れているようなものだ。 

第三に、現場の構造が学習と教育のためのシステムではなかった。店舗で学習と教育のためにやっていることが、全体に与えた主題に対しての討論を一、二回形式的にするということが現実であった。現場では、学習と教育システムが皆無な状態でライフスクールやサークル、または学習休暇を介して各個人の活動次元で行われていた。 

集中と習慣という原則の下、学習と教育のための様々な事業がライフスタジオの構成員に適用されたが、それを組織という枠組で実行、評価、修正の段階を経て変化発展するべきなのに、そんな姿を見せてくれる店舗がなかった。各個人に学習と教育を任せて私をはじめとし、リーダーたちは傍観者的な姿を見せた。どこから間違ったのかを悩みながらでてきた代案は、『現場のシステムから変えなければならない』という結論だった。 

 

この部分は本社中心体系を作る事になった理由について書いた文です。この後には越谷店現場適用プログラムの問題点を取り上げ論じながら、さらに選択と集中をし、システムを作り水面上に上がろうと主張をする事になりました。こういう評価を基盤とし2012年末には学習と教育の効率性を高める為にさらに強いシステム(2013年体制)を導入しました。 

 

過ぎし日の計画と評価をみながら分かった事は、大部分形式に対する話であり、当時の状況に合った形式を探す過程でした。より効果的な形式を提示したら突破できるだろうと信じ色んな装置を羅列してきました。これは仕方ない面もあります。下地を作るのが自分の役割であり、その下地の上で踊りを踊るのはその上にあがった当事者だからです。いくら良い音響と照明を準備しても、その人が踊らないと無駄になります。例えば、論文という枠において、6カ月間50ページ以上書くのであれば、少ながらず何かが出るだろうという希望がありました。論文は完成され、50ページ以上書きました。しかし、次を約束出来る動力の確保が出来ませんでした。なぜでしょうか?生産と消費を代入してみると、容易に説明出来るかもしれません。労働を通じ、もらう賃金をすぐに使ってしまうと消費の効用と一緒に思い出だけが残ります。賃金を消費の対象ではない、生産の側面でみるとまず貯金をして未来計画にあった賃金に対する消費の計画をします。賃金を再び生産過程に投入する事になるでしょう。論文を書く事自体が生産と消費のどの側面が強いかによって論文がもつ性格が変わります。論文が個人の満足で留まってしまうと、論文を書く事自体が消費となります。「わぁ、この長い論文を自分の手で書いたなんて・・・」自ら感動し思い出に移る事になります。論文プロジェクトは論文完成が目標ではありません。論文を準備して書きながら知っていく事と、その一連の過程の中での人との関係網を作っていく事です。おそらく論文を書きながら何かを感じた事でしょうし、自分の中において何かしら役に立っている事でしょう。しかし、自分の中にあるものが生産の原料とならずその次を話す動力が作られませんでした。 

私が計画書を書く時の基本的な立場は、形式の中で作られる内容がなんであれ、一緒に感じて知るという共通の経験が一定のエネルギーを作ることだろうと予想しました。そのエネルギーを予め話すのもおかしい事だし、そこまでは待たないといけないという事でした。言い訳のように聞こえるかもれしませんが、事実がこうです。その部分まで話すと言う事は未来を予め設定してしまうという問題が発生します。共通の経験で一定のエレルギーが作られると、その後一緒に相談し未来を一緒に描いていけると思いました。何というか、魚をつかまる原理で話すと、各自に合った釣り竿が出てくるはずで、何かを釣り上げてくれればそれを一緒に料理する風景・・・問題は魚が釣れないと言う事です。私も釣りに対する渇望によりチェジュドに来ました。釣れないため釣りをしないで、みかんをとっています。釣りに対する興味が段々と消えてきました。つまり、自身が釣った魚が又海に戻るという生産的な材料にならないといけないのですが、そう出来ずに思い出だけが残ってしまう過程です。 

そうなると又思い出を作る為の新しい形式を待つようになります。 

 

このような問題が発生する原因は、上記で話した人間関係の破片化と深い関連の中にあります。もう1つは、内容の再生産構造が作られない事にあります。内容が作られれば、その動力で高い段階に進まなければいけないのですが、内容が個人の経験の中だけで回ってしまって消滅してしまうのが決定的原因です。一週間に2日休む事も、お盆がある事も、異性の友達を探し道迷う事も、結婚する事も、子供を産む事も、いつかは死ぬ事も、見方によっては内容の再生産構造が作りだした騒々しい法則です。内容の再生産構造は他の言葉でいうと変化発展プログラムの事です。新しい物が生まれ、古い物は退化して死滅していく原理がまさに内容の再生産構造です。よく撮影者が毎日同じ写真を撮影しながら感じる退屈さを克服しようと様々な活動を模索します。内容が同じだから新しい物は出ず、古い物が独占していることに対する抵抗です。その場を占めている事に対する抵抗です。内容が再生産されないと、放棄し諦めの段階に至ります。 

 

内容の再生産構造で重要な事は、自ら体を動けるように作る新しさです。動機が付与され意味が確保できる程度の新しさが自分の中で作られないといけません。「そうなんだ」を越えて「それならばこうやって」とならないといけません。答えは哲学入門でしつこいぐらい出て来た「現実」です。 

 

この部分においてウギュリーダーの書いた文の中で歴史に残る「ライフスタジオシーズン2の理論的根拠とモデル」の部分を引用してみます。 

 

IV. 直接参与の為の二つの条件 

- 話がある程度流れ流れて直接参与まできました。この文章の流れを簡単にまとめてみると、政治的直接参与がうまくできれば、何を、どうして、自立することができると主張しているかのようだ。そうなのであれば、最後の理論的モデルとして直接参与するためにはどのような条件が必要なのかについて調べてみることにしよう。 

私達は、実際には前述のように、自身の意見を準備して談論を形成し対話し討論などをしながら「直接参与」をすることが良いこととわかってははいるものの実際には、あまりにも大変で疲れることだ。 

たとえば、私のような何かを言い張ることが好きな人と対話するとき、または権力を前に出して自身の意見を強圧的に主張しながら相手の意見を主導しようとする人と対話するとき、または全く全体的な流れも知らず自分が言いたい言葉だけ発する人と対話をするとき、または議論はさんざんつくしたが実際の私の生活では何の変化もないとき等の状況では、我々は弁証法であれ何であれイライラが押し寄せてくるのが事実である。 

だから「直接参与をするときに、このような消耗的な状況を避けるためにある具体的な条件を見つける必要がある。そこで、私達が見つけた2つの具体的条件は、「市民的徳性」の涵養と「政治的効能感」の増大を挙げることができる。難しい言葉を使うようになったが理論というものがそうであるように内容を現実的に分析し詳細に調べて見ると難しい概念ではない。具体的に見てみよう。 

 

A.「市民的徳性の涵養 

- 結局「直接参与をするために我々は自身の意見を作り、学習し、討論を準備すべきなのにこの時必要な「市民的徳性」の涵養を簡単に表現すると、このようなもの(自身の意見を作り、学習し、討論を準備)を上手く行うために技は術的な能力を高めなければならないということだ。討論を上手く行うことも徳性であり、能力である。 

すなわち、私達は自立した状態であるためには、自身の観点を表現しなければならない。しかし、うまく表現しなければならない。大まかに自分だけが知っている表現で言っておいて、相手が自分の意見を受け入れないからと怒ってはならないのである。また、他人の意見を聞いて共感してその上で理解することは理解しなければならないが自分の意見をより強力に主張しなければならときにはそうすることができる能力が必要である。ライフスタジオらしく言えば適切に「ミサイル」を飛ばすことも必要であり、必要なときに、パトリオットミサイルで相手のミサイルを適切に「防御」する術も知るべきであり、相手が苦しむときには適した「絆創膏」を付けてあげることもできなければならない。 

そして、さらにこのような観点の表現以前に私の観点を作るとき、より根本的に「市民的徳性」は重要である。たとえばお客様単価を高めるために、東京23区の中に住んでいるお客様のみ予約を受けるとは意見を持って多大な努力と学習をした後に経営に直接関与して埼玉のお客様は撮影することができないようにするという意見を完成したと考えてみよう。何か今まで言われてきた脈絡での直接参与とは何か乖離が感じられる。おそらく、このような直接参与を私達が追求する直接参与と考えるのではないのである。私達が追求するのは、個人的な観点を無視してはならないが、同時に社会的な視線を同時に考慮する。「哲学入門」に出てくる難しい言葉を引用すると、特殊だけではなく、普遍的と特殊が統一されなければならない。このように普遍的と特殊が統一された意見を持つようになる能力もまた「市民的徳性」を養うことで可能となる。 

まとめると普遍と特殊が統一された意見を持つことと、さらにそのことを正確かつ効果的に表現し伝達する能力を持つことが即ち「市民的徳性」の涵養である。それでは、このような「市民的徳性」を高める方法にはどのようなものがあるだろうか? 

私達がいつも強調する「学習」である。 

そのため、私達は学習をしている。学習するための方法と理論についてはライフスタジオ「白書」の「教育」の部分や「4大原則の解説」の「読み書き議論を第一優先事項に」などを参考にしていただきたい。 

実際に私に誰かが「学習の本質は何かと問われれば、その質問に答える資格がない。しかし、より重要なことは、私達が追求する「学習」も「自立」と似ていて固定されたどのような状態というよりは「態度」に近いと考えられる。そのため、「教えることはできるが伝えることはできない」という宮本武蔵の表現を借りれば「学習に対する考えと方法は教えてあげることはできるが学習そのものを伝達することはできない」 

しかし、一つの教えることができる学習に対する希望はある。昔の仏教の格言に「学ぶ準備ができていれば師匠は現れるようになっている」という言葉がある。あなたに学習のための意志があれば道は無条件生じることだろう。私達の周りに私達を助けたがる師は空の星のように多い。ただし、私達が見られずにいるだけだ。 

 

B.「政治的効能感」の増大 

- とにかく、このような着実な学習と努力で「市民的徳性」が高まるとしても私達が自立という空を飛んで行くためにはもう一つの翼が必要である。即ち「政治的効能感」の増大である。 

市民的徳性と同様に政治的効能感も難しい概念ではない。簡単に言えば、私は他の人と毎日討論し戦い酒を飲んでまた準備して学習し、また討論して戦ったのに私の実際の生活に何の変化がなければ力が抜けてしまう。相当な変態でもない限り、このような状況を長く耐えることはできないだろう。このとき必要なのが「政治的効能感」である。 

簡単に言えば、私達の「政治的決定」が実際に効果を発揮されるように作る状況になることが即ち政治的な効能感が高まった状態である。そして、これらの政治的効能感を高めるためには制度的なシステムのサポートが絶対的に必要である。システム的に私達の政治的決定が、実際に私達の生活を変化させなければならないということである。直接参与をするのに何の変化もなく「市民的徳性」だけ高くなるのであればその参与はただの「学習の集まり」に過ぎない。私が「直接参与」をするためには、私が、その参与の主体であることが絶えず確認される必要がある。 

しかし、すべての決定を「直接参与によって決定しなければならないわけではない。しかし、今、私達の条件に合わせて段階的に「直接参与」が可能になるよう「政治的効能感」が増加される方法を着実に考えて見つけなければならない。例えば、非常に簡単な方法で自由サークルのような組織を会社から制度的に支援することもでき、直接会社の経営には関係がなくとも、間接的に互いに影響があらざるをえない福祉のような部分から効能感を高めることもできるものであり、あえて経営の一定部分を制度的に「フォーラム」やその他の集りや全体が自由に参加できる部分に委任する方法もあるかもしれない。このような方法の追求は、「市民的徳性」を高めることができる学習の方法と合わせて必須的に考え適用されるべきである。 

しかし、勘違いしてはならない部分は、私達に政治的効能感が高いシステムが作られたということだけで、自動的に直接参与が増えるわけではないということである。以前、Bチームの失敗の要因の中一つもここにあった。Bチームが初期に集中していた部分は、全体の経営を「直接民主主義」という方法で「政治的効能感」は高めることに集中された。そして、そのように「政治的効能感」が高まれば私達の内部に隠れていた「市民的徳性」が自然に発揮されるだろうということがBチームの主張であった。しかし、より良いはしごを作ったということだけで、より多くの人々が突然はしごに乗って木の上に上がってくるものではなかった。 

どの木に上れば自身が望む果実があるかを知ることである「市民的徳性」と、はしごを上手に上る能力である「市民的徳性」の追求が共に必要だった。 

だから結論として、私達が今の時点で自立するための人生の目的としての「直接参与」を高めるためには、学習を通じた「市民的徳性」の涵養のために、「具体的な学習の方法」が提示されるべきであり、同時に「政治的効能感」のための具体的な「制度的なシステム」の提示が私達には必要である。 

 

現場での成果が自ら表われ、次の話をすることができる動力が確保されなければなりません。 

個人の作業に留まることを、どのように組織のエネルギーに引き上げるかが重要なことであり、これを内容の再生産構造と表現しました。朴ウギュの文章では、「政治的効能感」と説明しています。つまり、自分がしたことが外に表出され、それが現実に適用されることを意味します。その過程から次のように話すことができる動力が確保されます。ここで注目すべき単語が「現実」です。越谷店をオープンしながら主張していた言葉が「現場適用」でした。今振り返ってみると、料理ができない人たちに材料を投げてあげておいしく作れと注文したかのようです。私をはじめ、私達皆がわからなかったのでしょう。 

 

もう一つ指摘する問題があります。私達が行った学習と教育は現実を構成する原理と背景に集中していました。哲学や論文は、現実にはすぐに効果を発揮しません。基礎体力を養うことに該当します。現実には直接適用されない内容のために頭は大きくなり体はそのまま状態になりました。政治的効能感を通じて次を話すことができる内容の再生産構造が作られなくなりました。根本原理と共に私達の生活に直接的な影響を与える内容がバランスよく進行されるべきでしたが、その部分が不十分でした。Bチームの直接民主主義が失敗した原因は、決定過程に焦点を当て残りのその準備過程が具体的でなかったことです。決定をしたが、その決定により目標が達成されるわけではないからです。「2013年体制」は、原理や個人の努力に集中した残りの決定と実行の過程がなかった為に推進動力を作れませんでした。 

 

原理や個人の努力を通じて得られる組織のエネルギーが 

自然に現実の問題として移動するであろうという予想は 

人間関係の破片化とかみ合い、縮小されて消滅する結果をもたらしました。 

 

これまで、現場から自ら表わすことができず推進動力を確保できなかった理由を人間関係の破片化、内容の再生産構造として提示しました。 

 

店舗の人間関係が自然に流れて、次を話すことができる内容の再生構造を構築するために何をすべきでしょうか? 

 

ライフスタジオ10年は、縮小が繰り返し起こりました。計画し、実行し廃棄され、より小さな塊で計画し失敗し廃棄される繰り返しの連続でした。共同経営という名の下、リーダー会議が3年程度の活動をしてなくなりました。リーダー各自が関係を形成しながら自分らしく生きていくことができませんでした。リーダー会議をする理由が消滅してしまったのです。後に、A、B、Cチームに分け運営する実験をすることになりました。Aチームは、もう少し強力な形式である「2013年体制」が作られ再び縮小しました。「2013年体制」は、1年以上の過程の中で、新しい形式に適応と慣れが生じながら再び内容はなく、形式だけが残されました。そこで、より強力な形式である「論文プロジェクト」が出てきて、この過程でも営業チームと論文チームに分離され再び縮小になります。1次、2次の論文プロジェクトも計画、実行、廃棄、または縮小が進みながら活動中断をすることになりました。Cチームは序盤に無くなり、AとDに分化され、Bチームも2年近くの実験が失敗に終わり、すべてDチームに移動すことになりました。成功と喜びの瞬間もありましたが、全体的に見れば失敗と縮小につながり、これを選択と集中や中央の求心力で包装しましたたが、「すべてがDチーム」という結果物に至りました。 

 

まとめてみると次のとおりです。10という塊があります。10を基準として、「人間らしく生きる」ための計画をし実行をします。ところが、計画通りにうまくいきません。そこで7に減らします。7を基準に「人間らしく生きる」ために計画し実行をします。ところが、計画通りにうまくいきません。そこで5に減らします。 5を基準に計画して実行をします。ところが、計画通りにはなりません。だから一度活動を中断しました。中断をして6ヶ月が過ぎました。じっと過ぎた日々を振り返ると、人間関係の破片化と内容の再生産構造が作られないまま縮小と失敗が繰り返されました。人間らしく生きるための計画が現実に適用できなかったとうことです。 

 

結局、人間関係の破片化と内容の再生産の構築問題は 

既存にある、有、無形の基準では、解決できないという結論に至りました。 

人間関係が水の流れるように、健康な状態を維持し内容が再生産される構造が 

作られる最小単位は何だろうかを自然に考えるようになりました。 

頭の中に浮かんだ言葉は数字の「0」です。 

「0」をひとつの点として表現しながら「ひとつの点から始める」という主題が生まれました。 

 

活動休止をして、6ヶ月の間、「どこから間違ったのか」で始まり「どこから始めなければならいか」に考えが続きました。人間関係の破片化と内容の再生産構築の問題を克服し、ライフスタジオの目的に合う最初の単位を作るためには以前のように計画書と観察、側面の支援だけではできないという結論に至りました。この計画書は私を自ら露呈するためのものです。私もひとつの点です。私もひとつの点から始めなければなりません。誰のせいでもなく、私が持った権力、権限、役割を使用して歴史と目的に合う基準に立脚して始めなければなりません。また、ライフスタジオの全ての構成員たちもひとつの点から始まり、自らを表わさなければならないでしょう。そのようにひとつの点から始まる人々が集まればそれが最初の単位となるでしょう。 

 

私の個人的な話を少ししてみます。 

 

結者解之という言葉があります。結んだ人が解かなければならないという意味で犯したことは自ら解決しなければならないという言葉です。苦労してビザをもらい、日本に来たときに持っているものはあまりありませんでした。唯一の資本は、奈美と清子であり赤字だらけのデザイン事業を負債として持っていました。韓国で普通の人だった私は、日本からの二回の大当たりロトをプレゼントされました。第一は奈美の活動であり、第二が日本の写真市場でした。ライフスタジオは奈美が作ったといっても過言ではありません。私はすることがなく、本でも見ながらお酒を飲む機会ばかりうかがっており全てのことは、奈美の頭と手を経て行われました。ライフスタジオが本格的な上昇曲線を描く横浜店オープンまでは全体的に奈美の業績です。そして、日本の写真市場は、未開拓地のようでした。FAR AND AWAY という映画でトム・クルーズが旗を差し込むために馬に乗るシーンがあります。旗を差し込めば自分の土地になる、そんな時代の映画です。日本の写真市場も同じような状況でした。韓国はライフスタジオが100個くらいあると思えば良いでしょうか、ワタミのような居酒屋くらいあると言いましょうか。韓国のレッドオーシャンの殺伐とした戦場から、旗を差し込むだけで私の土地になる日本に偶然来たのです。奈美がいなかったら旗を作れなかったでしょうし未開拓地でなかったら涙を浮かべて仁川空港に戻っていたでしょう。 

 

横浜店をオープンすくらいにライフスタジオの認知度が急上昇し人々も多くなりました。組織と言えるくらいになりながら要求されることがますます増えていきます。 

目的と目標、戦略と戦術、人員管理、教育、マーケティング、コミュニケーション等々が必要になりそれは本社の役目です。 

  

この人たちをどう責任もつべきか? 

 

私がこの仕事をすることができるだろうか? 

 

この時、信念に満ちた声で、人間であるゆえ、教育だ自立だという話をしました。分かりません。信念というものが発見されるものなのか、作られるものなのか。。。巨大な事件の中で信念化されたりしてみると、それが信念のように固まっていく場合もあります。おそらく韓国の憂鬱だった80~90年代を経験しながら、流行のように広がった変化の渦の中に吸い込まれ、それが信念という名前で包装されたような気もします。ところが、人間であるがゆえ成長だ自立だという話を誰が拒否することができましょうか?また、ライフスタジオの中で反対や他の声がほとんどありませんでした。ウォンボクの酒に酔っての言葉は格が下がるので無視しましたが、ほぼすべてのことに反対がありませんでした。それは私がうまくやっていると密かに自惚れのぼせていたこともありました。止められない暴走機関車みたいに定められた方向に走ってここまできました。実際にライフスタジオの構成員に申し訳ない気持ちもありません。麻薬をしたわけでもなく、基本的に人々に良いことをした為そのような罪悪感はなく、ただ残念な限りです。 

 

25年前の話をします。大学生時代、総学生会を構成して、春に授業料納付拒否運動を展開したことがありました。民主広場で集会をして血書を書きながら血走った目の残りの数百人の学生が学生課に打って入って机や椅子など全ての什器を学生会の建物の前に持ってきたことがありました。心ならずも副会長の為、先頭に立っていたら教授に一撃を浴びて両鼻から鼻血が流血することもありました。学生会の建物の前には什器がたくさん積まれていてまだ興奮が冷めやらない状態の学生百数十程度が学生会にいるときに私は本当に恐ろしさにどんな言葉を発すべきかわかりませんでした。学生たちは、私の口を見つめていて私はどんな言葉を言うべきかわからない。その静寂を忘れることができません。学生たちは家に帰り、他の学校に通っているソクという友人を呼びました。その友人が走りよりあぁだこうだと話をしながら泣き始めました。大きな声で号泣しました。 

10余分を泣いて落ち着き、その友人といくつかの誓いをしたと思いますが、内容はよく思い出せません。その当時と現在が似ているので書いてみました。 

どこかで方向を話しそして人々は行きました。継続される方向転換にも人々は黙々と自分の仕事をしました。そうして数年に渡って嘘をつくように、この道ではないと言いながらしばらく座っていろといいます。それでは どこにへくべきか...。 

 

良く言えば期待を自信で突破し、悪く言えば牛が後ずさりして偶然ネズミを捕まえるように他の人に聞こえ良い言葉を言っては、それが政策となり実行を経て、再び取り返しのつかない状況になってしまいました。結者解之と表現しました。結び目を作った人が結び目を解かなければならず、事故を起こした人が、その結果の責任を負わなければなりません。ひとつの点は、私から始まらなければなりません。すべては自ら表わさなければなりません。人間らしく生きるためには、自ら表わさなければなりません。だから、私達は皆「ひとつの点は、私から始める」とならなければなりません。今まで私がしてきた方法はこうでした。十数個になる店舗と百余名の構成員を対象に方向と方法の提示をして実行される過程を観察します。論理と構造を整理して、持続と転換を決定して、再度同意を求める活動をしました。このような過程で、第2次の論文プロジェクトまで進行して途中中断を決定しました。現場に入るより大きな枠組みで決定し、観察のための面談と現場確認が主になっていました。 

 

ひとつの点から始めるということは、現場に入って目標を達成するということを意味します。 

そして、その現場とは、私達の目的と目標が達成可能な最小限の単位です。 

 

「ひとつの点から始める」も失敗した場合どうなるでしょう?ライフスタジオは大きく変わることがないだろうが、私はいくつかの根本的な決定をするでしょう。その大きな決定が笑えることか悲しいことかはわかりません。ただ最善を尽くす方法しかありません。 

 

「ひとつの点から始める」は0から始まることを意味します。自ら妥協せずに目標を実現しようという意志です。人間関係の破片化に対抗し、自然に流れる健全な関係を定着させ、それぞれの仕事が現場で適用され、内容が再生産される構造を作らなければなりません。「ひとつの点から始める」は、「人間らしく生きる」というライフスタジオの目的を実現することができる最小限の単位であり、これ以上退くことができないマジの線です。(マジノ線とは、第二次大戦前にフランスがドイツとの国境に築いた要塞のこと。難攻不落と思われていたが、ドイツはマジノ線を迂回してフランスに侵攻した。これになぞらえて、為替市場では、投機筋や市場筋の攻撃と通貨当局の防衛、オプション・トリガーにからむ売り方と買い方の攻防が熾烈になる価格水準を指す。)必ず「ひとつの点から始める」が成功し、私達皆が表れることを期待していた「自立した人々の経済共同体」のモデルが作られることを希望します。 

 

★. 目標 

 

高い山を登るためには、地図が必要です。地図を見ながら行く道を点検し、全体的な計画を立てます。ところが、いざ山を登って見ると疲れ喉が渇き、お腹がすきながら要領を覚えます。山では、その時からが危機です。全体ではなく、部分、目標よりは目の前の欲求が誘惑するからです。私達がすることも似ています。目標よりも、すぐ目の前の感情に触れる同僚の一言と突如訪れる人生の退屈さが大きな影響を及ぼします。基本的に人間は弱いです。始まりと終わりが異なり数えられない誓いと決意は吹いてくる風に首を振ります。だから、達成可能な目標の設定とその目標に集中している構成員の意志と内部文化が重要です。 

 

私達が主に話してきた「人が人を人として」、「人間らしく生きる」、「自立した人々の経済共同体」、「変化発展プログラム」は、目的に該当します。一種の方向です。その方向によく行くために、現実に適用する具体的な設計と段階が目標です。「ひとつの点から始める」は、現在の状況を認識し、方向転換の必要性と形態を規定した一種の宣言です。学習と教育を主な手段として走ってきた活動の中断をし、以後6ヶ月の期間中には何もないことが確認されました。「何もなかった」という証拠を通じて6~7年を受け継いできた政策基調の変更が必要であり、その糸口をひとつの点から探しました。現在、私達の前にある基準ではなく、0から始めて、自ら表わすということを「ひとつの点から始める」と表現しました。「ひとつの点から始める」は、現在の状況の突破を通じ私達が行こうとする目的と方向に再び乗るための実践的な指針です。 

 

やったことをできたことに、内容はなく、形式のみ生き残る、自ら表わさず、個人の経験次元に留まることが「ひとつの点から始める」を登場させました。だから「ひとつの点から始める」の目標は、達成する可能性が重要です。漠然としたり、抽象的ではなく、測定可能であり、構成員のモチベーションに作用する必要があります。ひとつの点から出発して、ライフスタジオの基準を作り、持続可能性を証明しなければなりません。 

 

それでは、目標を何に設定するべきでしょうか? 

 

「ひとつの点から始める」が成功したことは何をもって証明できるでしょうか? 

 

二つ考えてみました。 

 

-. 自ら表わした直営リーダー5 

 

直営リーダーは簡単に言うと、現在の加盟店のオーナーが持つ責任と権限を従業員に付与することを指します。給料は上がり、権威も確保され新しい条件の中で、既存とは違ったエネルギーが発生するでしょう。直営リーダー制度の最大の特徴は、公正で透明な選抜過程です。誰かが誰かを指名する方式でなく、具体的な枠組みの中で確保された根拠を通じて選抜され活動し、評価されなければなりません。 

 

直営リーダーという言葉は、2012年、本社運営計画書で初めて取り上げられました。その時の文章から抜粋します。 

 

現在のオーナーたちは所有と経営を同時に行使しながら、自ら「私のもの」という囲いに閉じ込められるという短所を克服できずにいる[社長]という肩書きが現れながらその権威意識が所有と経営の様々な側面から発揮され、現場での問題点は勿論自己発展の限界に作用されている。[自分が社長なのに...]、[自分のスタッフなのに誰かが何かいっている...]のような考えの主体がオーナー自身であり、スタッフを始めとする様々な部分は客体になる事例がよく発生した。共にしなければならないと叫ぶが、権威意識と衝突する。また、経営評価が明確にされないままでいる。少し前に会計公開の過程で大半のリーダーたちは自身の経営能力が少し不足したが大きく問題はないという認識をしていた。本当にそうだろうか?職員の問題の報告を受け月に一度飲み会する程度で社長の役割を問題なく遂行していると考えているのではないか?問題がないからとうまくいっていることと錯覚しているのではないだろうか?これは、所有と経営を一緒にしながら、経営の部分が小さく見える結果を持ち、これは誰にも助けにはならない方向である… 

 

一度オーナーになると、何かを変えることのできない構造が定着される。数多くの事例があり、全てを論ずることはできないが、特に今回の会計公開過程でリーダー達の固定された観念を変えるということが難しいということを実感した幾つかの事例がある。リーダー達の給料はリーダーが決める。自分がいくらだときめ、それが問題ではないというならばそこで終わる。経営能力やリスクに対する準備を数字で正確に算定するのも難しく、介入するのももっと難しい。スタッフの給料を3万円上げるということには、3時間以上の討論をしなければならず、自身の給料を30万円上げることには一瞬で決定する。また、スタッフの自由な移動や店舗の改善作業、ライフスタジオ全体の事業が適用される過程でもリーダー達の役割により、縮小され、歪曲される場合がよく発生する。リーダーというフィルターを通過し、政策の指向が成されなければならないのに、これはそのフィルターが単純に決済の印鑑を押す過程ではない、積極的な行動と、雰囲気造成を必要とする。このフィルターの作用が止まったり、悪く作用された時の代案がないということが問題になる。 

今までリーダーになる過程の検証が成されてこなかった。誰がオープンできる人なのかを決定できる基準を作るということほど難しいことはない。現在は本50冊を読み、読書感想文を書き、事業計画書を作成すればオープンできる構造である。しかし、多くの問題を発生させたり適切でない人だと判断される人が本50冊と読書感想文、10ページ程ある事業計画書を書きオープンするというならば、対策が立てられなくなる。普通会社に入ると、平社員、代理課長、部長を経過しながら役員になりそこでも生き残れば社長になる検証過程がある。しかし、ライフスタジオはそんな構造を作ることができないため、オープンに対する熱意を持った人に加盟店を出すことのできる、条件を作った。熱意と能力はお互い大きな差が見える時もあり、上記で述べた、一度オーナーになると何かをかえることができない構造が定着するという問題を抱えている。そのため、本50冊と読書感想文、事業計画書と共に事業の中で能力が検証され、ライフスタジオのアイデンティティーを実現する人に対する新しいシステムが必要だ。 

直営リーダー制度は本社直営店の形体で所有は本社がし、経営はライフスタジオの構成員の中から選抜された人が行い、現在のリーダーに準ずる権限と義務を与える。これは、幾つかの長所を持っている。 

1つ目に、 

善意の競争が発生する。現在店舗オープンを考えているスタッフがいる。多分店舗オープンを考えているスタッフ達は店舗オープン自体そんなに難しくないことだと考えているだろう。時期と場所の問題さえ解決されるなら、いつでも本を読み読書感想文を書けばよいという考えをもっていることだろう。つまり、今まではオープンに対する情熱が基準になっていた。しかし、問題はその漠然とした情熱だけではその当事者を除くと誰のためにもならないということだ。情熱と共に、ライフスタジオが追求する理想的な店舗の運営を消化することのできる能力、またはその可能性に対する努力と検証が抜けていた。能力の培養と可能性の確認は現場で可能であり、普段の活動で判断することができる。直営リーダーになろうとする2人以上のスタッフが出てきて、その人達の中で善意の競争が触発され、それが個人は勿論ライフスタジオにも新鮮な風の役割をすることができる。つまり、善意の競争過程は社長ではなく、リーダーを作る過程でなければならず、そのエナジーが組織としてうまく吸収されねばならない。もしライフスクールをしていない人が直営リーダーをする資格があるのか?インテリアに顔の判子を押すように、来る人に直営リーダーの役割を与えることに正当性があるのか?何の人的交流なくして全体会議でオーバーする人は、適切な人なのか?数学的に彼らの能力と情熱を計算することはできないが、エラーを減らすことはできる。人を判断することほど難しいことはないが、反対に人を判断することは、数学問題の正解よりもより正確である。現場で、そして彼の活動で最小限直営リーダーとして任命する正当性は多くの人に確保されるだろう。 

2つ目に、 

経営能力に対する検証と共に自己発展プログラムとしての役割をすることになるだろう。所有ではない経営を専門的に行うという設定は、組織内の構成員達と直営リーダー本人を集中させることができる。そして、ライフスタジオが要求する水準の店舗運営が成されているのかに対する検証が可能だ。このような検証はすぐに自分自身に厳しい基準を持たせることであり、自己発展プログラムが稼働しているということを意味する。直営リーダーは、現在の加盟店リーダー達と同じ権利と義務を持つことになる。しかし、現在リーダー達と違う点は自分の活動を激励し、同時に牽制する枠を提供されるだろう。普通のリーダーは統制を受けない多くの時間を前に悩んでいる。何をどうすれば良いのかに対して彷徨っている。この機会を活用しもするが、反対に識見を濫用することもある。自己管理プログラムの不在により、エナジーの消耗的な浪費は大部分のリーダー達が持っている弱点である。直営リーダーは自己統制プログラムを稼働する可能性が高くなるのだ。 

3つ目に、 

内部文化を作ることに集中することができる。殆どのリーダー達が店舗の内部文化を作ることを大変だという。一番下の段階から始めなければならず、多くの技術を習得しなければならないからだ。しかし直営店は方向性が明確に定められており、様々なプログラムが稼働中である。そして、直営リーダーを補佐することのできる様々な人達が陣をしいており、実際にその対話の相手、またはよき相談者としての役割をすることになるだろう。つまり、内部文化を作ることに対する集中と人と組織の中で深く入ることのできる条件の中で仕事をすることになる。事実内部文化を作ることはそんなに難しいことではない。自分が考えていることを具体的に実現する問題だからである。集中し、深く入ると少しずつできるようになる。条件さえそろえば、誰でもできるため、そんな条件の一環として直営リーダー制度をしようとしているのだ。 

4つ目に、 

スタッフ達に希望と目標を立てることのできる条件が形成される。オープンは自分とは関係がないと考えるスタッフが多い。多くの資金と何かすごい能力を必要とするような考えに、始めから扉を閉めている場合が殆どだ。しかし、直営リーダーはオープンをするのではなく、経営をするため、現場でスタッフから直営リーダーに移動する同僚をみることになり、自分にもできるという希望と長期的な目標樹立に繋がる可能性が高い。スタジオに初めて入社し、アシタントと撮影者の役割に対して悩むようになり、これは全体をみて、行動しないといけないリーダーシップの世界に入ったということを意味する。しかし、その限界で留まってしまう。ある程度慣れてくると、悩みは少なくなり、自分の役割を縮小する傾向がある。次の段階があるならば、少しは変わるのではないだろうか?まったく違う新しい世の中だと言えるような直営リーダーが存在するということは、店長達が次を規約し、より自分を発展させることのできる動力を提供することができる。 

 

加盟店から直営店へ、そして直営リーダーを作る根本的な理由は変化発展する人を作ることにある。そして、ライフスタジオの全てのリーダー達が反省しなければならない題目がある。全体を考え、自分の活動力を拡大し、限界の克服のための努力達が過ぎた2年の過程を経ながら、だんだんと下落する傾向を見てきたからだ。つまり、店舗の経営が安定圏に入りこんで、見える保守的は傾向はライフスタジオが行くべき方向性と少なくない差が発生される。直営リーダー制度は準備された人間が選抜されるというよりは、本社という無形の規律の中で準備をさせようという側面が強い。それが少し戻ることになったとしても、または、時間が少し掛かったとしても変化発展する人間として行く効果的な方法だと考えるためだ。 

直営リーダーになる基準は次の機会に発表するが、とにかく、自ら変化しようとする意思と、一種の成果が追加される形体になる可能性が高い。単純に行事にたくさん参加しただとか、能力があるのに、行っていることが効果的にも見えることをよく区別する必要がある。出発店舗は違くてもその発展の形体は真性性に判断をすることが、私達が願う予備リーダーの姿ではないだろうか。 

 

上記の文は、直営リーダー制度が構成された背景と、いくつかの利点を説明できます。当時はリーダー会議で立案された政策を全店舗に適用しました。店舗別に偏差が表れ店舗の限界を克服できず、痛みを訴える人が段々増えていました。全体と店舗をつなぐリーダーの力量不足と既得権維持、円滑な人員移動の必要性が提起されながら直営リーダー制度が構想されました。立場が人を作るという基本的な立場から本社直営店舗を縮小し、加盟店を増やしましたが、かえって各店舗のオーナーたちが変化発展の障害として認識されながら、直営リーダーという制度も出ることになりました。立場が人を作る場合もあるだろうし人が立場を作る場合もあります。結局、条件と人がバランスを成しながら、押してあげ引いてあげる原理が働かなければならないでしょう。。 

 

「ひとつの点から始める」の目標は、達成可能性が重要です。そのために測定可能であり、モチベーションとして作用しなければなりません。「自ら表わした直営リーダー5」は2年以内に直営リーダー5人を作ることを指します。 

 

「直営リーダー5」が「ひとつの点から始める」の目標として設定された理由は簡単です。 

直営リーダーはひとつの点となったということを証明するからです。 

 

このように、ひとつの点が集まれば、小さな塊となって、この塊はライフスタジオを持続可能にするための最初の単位を形成することができます。直営リーダーになることは、単に1つの運営権を超えてアップルツリーファクトリー理事会に入ることができる権利を確保します。2年以内に5名が確保されれば、理事会を開催する最小限の条件が作られ、これは「ひとつの点から始める」の終了を意味します。直営リーダー制度はオープン的で透明な選抜過程を経て、ライフスタジオの構成員に権限を認められ具体的な事業を進行していくことになります。モチベーションは長く説明しなくてもいい部分です。やろうとする人には、これよりも強力なモチベーションはないだろうし、やりたくない人にとっては遠い国の話です。 

 

「自立した人々の経済共同体」。。。ライフスタジオの目標でありながら目的を文学的に表現した言葉です。自立と共同体に対する具体的な内容がなくて目的化されてはいるのに、私達が達成しなければならない具体的な目標です。ひも解いていくと自身を取り囲んでいる環境を人間らしい生き方にするために闘争する人々が写真館という経済活動空間で関係を形成しながら共に有、無形の形を作っていき変化発展する集団が、ライフスタジオが達成すべき目標です。このような遠大な目標に向かう最初の単位として「自ら表わした直営リーダー5」が持つ意味があります。ライフスタジオが10年を越えながら持続可能に対する話がたくさん出てきています。持続可能は難しい言葉ではありません。持続可能な未来の予測と方向についての話です。誰かと結婚を決めるとき、最も重要な要素が持続可能です。この人と結婚をすると経済的に、精神的にどのようになるだろうということが予測されてそのような結果に対する方向が、私が望む人生であれば、結婚を決定することになります。生きていくことが大変で未来が不確実であるため、結婚も遅くなり子供も少なく産むことになります。現在のライフスタジオを一生の職場だと思っている人はそう多くありません。持続可能性に対する疑問を持つからです。これは、近い将来の予測が不可能でライフスタジオがどこに行くことになるかに対する不確実性に起因します。これが持続可能という言葉が登場することになった背景です。持続可能は目標が現実としてなされているかに対し体感的に測定されます。未来に対する方向性なく毎日同じ撮影をしながら感じられる無力感は持続可能の強力な敵です。また、失敗と挫折に​​よる敗北意識も一役買うでしょう。 

 

私達は人間らしく生きようとライフスタジオで仕事をしています。人間らしく生きることは関係を形成しながら、自身の道を自ら歩いていこうということです。これを組織の基準として表現した言葉が「自立した人々の経済共同体」です。その最初の出発が「自ら表わした直営リーダー5」という「ひとつの点から始める」の最初の目標です。Bチームで推進した「遊び」と「直接民主主義」という実験は、「共に働く人々の共同体」でした。「自立した人」と「共に働く人」は同じでありながら異なります。これは傾向の問題です。共に同じ事をしている人たちの水準に合う事業と、順序を経て、自立の道に入ることと、自立を熱望している人々が集まって作った結果を、共に同じ事を行う人に拡散させるものの中で、どれが現在の条件で、より効果的かつ正しい道なのかはよく分かりません。そこで「ひとつの点から始める」が出てきて目標を「自ら表わす直営リーダー5」に設定しました。ひとつの点が集まって単位が形成されることは、「自立した人々の経済共同体」の所有と経営、意思決定構造が始まったことを意味します。持続可能という主題の開始点にあります。今実験で具体的な現実の適用の段階に入らなければなりません。 

 

「直営リーダー5」は、高徳の「マニュアル1000」の主題です。高徳が作る計画書に注目し直営リーダーに関心がある方は、高徳とラリー遊びをしてください。(良く話しての意味) 

 

「直営リーダー5」は、多くの点で魅力的で目標として設定するのも無理がないように見えます。ところが、もし直営リーダーが作られない場合は、どうなるでしょうか?「ひとつの点から始める」の目標が挫折しながら危機にさらされたり、基準を下げて目標を達成する2つの場合を予想することができます。おそらく私はそのような状況になると、「ひとつの点から始める」の失敗を認めることを決定と思います。皆さんはどのような考えですか?想像することも嫌な状況を作らないようにうまくやっていきましょう。 

 

 

-. 世界最初、日本最初 写真館マニュアル1000 

 

自ら表わさなければならないと話しました。それでは、何で表わすべきでしょうか?直営リーダーとして表すことができ、現場から成功事例が作られる方法もあります。現実から、自ら表すことは容易ではないでしょう。具体的でなければならず現場で適用されなければならず適用の結果が、私達の人生を変化させなければなりません。「自ら表した直営リーダー5」が、各個人に焦点が合っているならば、「マニュアル1000」は、「ひとつの点から始める」のすべての構成員が参与する集団の目標です。「マニュアル1000」は、ライフスタジオ初の規律になるものであり、作られる過程自体が「経済共同体」に向かう第一歩です。「マニュアル1000」は、私達を構成する要素に対し、自ら調査、整理、議論、決定し、現実に適用することを指します。「ひとつの点から始める」の構成員は、それぞれ自分のテーマを設定して議論をリードし、現場に適用しなければなりません。この過程で、「別々に一緒に」の原理が作動し政治的効能感を高め変化発展の善の循環構造を定着させなければなりません。 

 

私達を構成する要素は本当に多いです。写真館という小さな会社や店舗で自分たちだけのマニュアルを自分の文章と考えで議論し決定して適用すること......これまで見たこともなく、これからもそうではないでしょうか?.....それだけ難しいという話です。たとえば給料は日本社会で通用する金額で定められ、インセンティブやボーナスは残っていれば出せますが、無ければあげられません。小さな会社は通常社長の気分によって決まります。現実がこのようである為、無条件たくさんもらうことを誰もが望みます。各個人、私達だけの基準がないということです。自らの事由や努力による決定と執行ではなく私以外の存在によって動くという話です。給料の基準が仕事に対する補償か、結果かによって私達の人生は変わります。農夫は地に物乞いしません。荒地に種をまき、豊かな穀物を要求しません。自分の汗が土地に入っただけの穀物を受け入れるだけです。自ら表すということは、自らの判断と決定に基づいて行動し、結果を受け入れることを意味します。つまり責任と権限の原則が動作する必要があります。「マニュアル1000」は、「自立」に対する根源的な問いであり、労働に対する礼儀です。 

  

数年前に越谷店で35万プロジェクトをしたことがありました。適用されたいいくつかの利点が決定され、実行されました。そして終わりでした。 35万プロジェクトは、結果が導き出される過程から知ることになる現実と自らの力で現実を変化させる経験が核心でした。しかし、自分たちの願いを列挙して自分たちが悪く言われない程度に決定した後終了しました。何も残ったものはありませんでした。朴泰赫の話していた「必要による」ではなく「必要性を作って」消費をすることになる代表的な事件となりました。「経済共同体」は、主人意識を基盤にします。主人意識は、参与を通じて実現されます。所有の問題で発生する主、客体の二分法的分離は参与を通じて存在に変わります。主人意識を基盤に積極的な参与を通じて経済共同体の真の一員となり、その過程が即ち自ら道を作っていく善の循環構造が即ち「経済共同」です。「自立」と「経済共同体」は、互いにかみ合っています。お互いがお互いに存在の根拠となります。これが「人が人を人として」ではないでしょうか? 「マニュアル1000」は、「自立」と「経済共同体」を連結させるための具体的行動指針であり、現実的な目標です。 

 

「マニュアル1000」は、私達が足を踏み出している土台を説明します。これは、変化発展の基準であり根拠です。「ひとつの点から始める」は、0から始まり、最初の単位を作る作業です。最初の単位は人と根拠です。私達の目標に向かう実行主体と設計図です。  

 

「マニュアル1000」は、「自立した人々の経済共同体」への最初の設計図であり、 

判断と計画の基準です。先頭に立っている人の命令ではなく、 

各自が作り、皆が議論して適用させる設計図を通じて 

ライフスタジオを再び始めようとする誓いです。 

 

ライフスタジオは価値志向的な組織です。いえ、そうありたいのです。価値を現実に存在させる装置が「マニュアル1000」です。だから「ひとつの点から始める」の目標に魅力的です。一方、大変な挑戦です。「マニュアル1000」は、伏兵がいろんな所に隠れています。だから名前を「世界初、日本初写真館マニュアル1000」に定めました。なさなければならないことであり、目標に設定し、若干のいばらの道も予想されます。若干の使命感も必要です。誰も行ったことのないところをいろんな人が歩いてみると道が作られるではありませんか?一緒に世界初、日本初の写真とマニュアルを見事に作ってみましょう。 

 

今まで「ひとつの点から始める」の目標「自ら表す直営リーダー5」、「世界初、日本初 写真館マニュアル1000」説明しました。ところが、いくつかの疑問がずっと頭の中を離れません。 

 

「目標が達成されたといって現実がどれだけかわるだろうか?」 

 

「直営リーダーが生じてマニュアルが作成されたとしても、これを維持することができるのか?持続可能な最初の単位がいつまで維持できるか?」 

 

私の別名が「自慢の結晶体」ではありませんか?直営リーダーやマニュアルは達成できると思います。少しだけ努力して注意を傾ければ達成可能な目標です。ある程度内容も裏付けになると思います。ところが、具体的な目標が達成された後が心配です。昔は計画を立てる意志が生じながら、胸が躍りましたが、今はそうではありません。理由が何なのかじっくり考えてみると、この部分ではないかと思うのです。私がすべきことがそこまでという漠然とした考えがあったようです。「ひとつの点から始める」がライフスタジオで最後の事業という予感です。人は出る時と退く時を知るべきだと言いますが私の能力や役割、ライフスタジオの未来のために「ひとつの点から始める」を忠実に完了し、拍手を受ける時に離れるべきではないかと考えてみました。理由はなくただの勘です。皆さんにお願いです。「ひとつの点から始める」が成功して拍手され離れることができるようにしてください。ねー。皆さん。 

 

 

★. 2016年実行計画 

「ひとつの点から始める」は「自ら表す直営リーダー5」と、「世界初・日本初の写真館マニュアル1000」という目標を通し、持続可能な組織の最初の単位を作る作業となります。その為には、流れるような自然な人間関係と、内容の再生産構造が必要です。この全ての行為は「0」から始まります。ところが、実行計画の所々に、既存にある古いものをそのまま引き継ぎ、簡単な選択が提示されているものに妥協しようとする自身を発見するようになります。既存のものを捨てるというのは本当に難しいですね。なので「ひとつの点から始める」に臨む私個人の原則のようなものを考えてみました。 

 

目標達成に集中する。 

 

違うことは違う。 

 

誠実に働く。 

 

まぁ。。。幼稚ですよね。小学生が夏休み前に立てる三日坊主に終わる決意のようにも聞こえるでしょう。特別な事はありません。守ればよくて、守らなければ小学生の子供と同じになるのです。このような原則を維持するために、毎月始めに「ひとつの点から始める」が進行されている状況と、これからの展望に対する報告書を作成しようと思います。 

「ひとつの点から始める」の現状報告のようなものです。この文章の内容が引き続き継続して作成されれば、上記の原則を守る可能性が高くなり、作成されなければ再び観察者の位置から獲物を探すようになるでしょう。特別なことではないように思えますが、怠け者の私がこのような約束をするということ。。。本当に危険なことです。 

 

それでは「ひとつの点から始める」の内部設計図を書いて見ましょうか? 

 

 

-.誰をどのように選抜するのか? 

 

この部分が一番微妙なのです。人が持っている情熱と能力に点数をつけることほど難しい事があるでしょうか?思想の検証をすることもできず、化学的結合を証明することもできません。証明できず、してもいけない事だと思っていましたが、今回だけは、目をつむってやります。客観的にあるべき事業で、投票のような人員選抜になる可能性も高いですが、他の方法が思い浮かびません。 

 

「ひとつの点から始める」を共に動かしていく人員は、私が指名します。指名とは、言葉通り私が決定し、該当者に同意を得て共に動いていくという方法です。私の中で指名に対する基準は特別なものはありません。私個人の好み、親しさ、今まで本人が見せてきた活動を土台とし、指名するようになります。指名は、「ひとつの点から始める」を一番小さな単位で始めるために現実的に設定された人員です。指名を受けたからといって喜ぶ事でもなく、嫌がる事でもありません。うまくいけば、各自の人生において絶好のチャンスを得るのであり、うまくいかなければ敗北意識の数が増えるだけです。指名は拒否しても参加してもよいです。人間関係においてガスを出し続け、約束を守らなければ、容赦なく条件を変えます。指名を受けた人員は私が責任を持ちます。責任を持てば持つほど働く環境は苛酷になるでしょう。 

 

もう一つは、指名を受けていなくとも「ひとつの点から始める」をやりたいという人がいるかもしれません。「ひとつの点から始める」を志願することはできますが、以前のようにその人達を一つの店舗に集めてやるということはしません。「ひとつの点から始める」と、ネットワークを形成した状態で、個人で作業していく形態で動いていきます。自分のいる店舗で自ら表す方式です。おそらく、志願者を集めサークル形体で運営していくと思います。指名と志願にさほど違いはありません。事実、指名されたからといって、情熱や能力があるということではありません。最小の単位で出発しなければならず、店舗単位で動くため、指名と志願者を一つの場所に結ぶ事ができないためです。指名と志願はそれぞれ長所と短所があります。むしろ志願したほうが、自ら表すことにおいて有利かもしれません。志願を望む人はこの報告書をよく読み、意志が固まったら私に志願書を提出してください。おそらく、今までとは違うでしょう。本当に自分自身を投げ出す準備ができた人だけが志願してください。正直、志願書が提出されないことを願っています。もう、辛い不安だという話は聞きたくないし、私の能力の限界を痛感するのです。 

 

 

次は、単位です。先ず、本社の役割が必要です。ライフスタジオで起きている人事・商品・教育・写真・オンライン・リスク管理等に関する日常的な実務業務があります。比較的店舗に比べ移動が可能なため、「ひとつの点から始める」の円滑な運営のための行動に優先的に投入される人達です。名前を発表します。高徳、清子、情婀、奥村(鈴木)、正国、本社管理責任者として金賢旭。合計6名になります。 

シーズン1があります。シーズン1は、何があっても4月1日に始まります。もう、シーズン1を伸ばす事はできません。シーズン1を行う理由や、計画はすでに出ている報告書を参考にしていただき、名前を発表します。大内、1名です。 

次に、店舗です。この部分で、若干ためらいもありますが、越谷店を再オープンすることに決めました。越谷店の責任者は、清子。五明と新入社員2名の構成で、5月1日からオープンします。総人数11名です。11名にプラス数名の志願者が[0]から始める最初の人々です。こう書いてみるとあまり代わり映えしませんね。まあ、そのおかずにその飯ですよね。この人々が衰退していく組織の最後の敗戦兵になるのか、復興の芽になるのかは見守ってください。。 

 

-. 運営体系 

 

目標と人がいたら、組織は作られます。目標を達成するために、人々が共に方法を講じ実行します。目標は、人々を掴んで引っ張る求心力により作用し、人は、目標達成のために外縁を広げようとする遠心力が発生します。求心力と遠心力のバランスは、組織を丈夫にし具体的な方向性を持つようになります。最初の組織が構成されると求心力と遠心力の適切なバランスを確保するための運営体系を設定します。意志決定構造、リーダーシップ、動機付与、内部文化、結果物に対する配分等をシステム化させようと努力します。「ひとつの点から始める」は、無から有を作る事業ではありません。既存にあった人員とシステムを最小化し、価値を作りだし、その価値を土台として最初の単位を構成し、ライフスタジオを変化させようとする一つの努力です。既存にいた人員とその人達が持っている限界、経験と方向を継承した状態で出発します。そのため、新規で作るというよりは習慣のように成されてきた事に対する再解析と限界を克服しようとする意志です。運営体系を5つ程に分けて見ましょう。 

 

●. 意思決定構造 

意志決定の構造については話すことはありません。ライフスタジオで一番多く聞いた言葉が「不安」その次に「決定権」でした。会議の最後にいつも出てくる言葉はこの二つです。「私達に決定権があるのですか?」、「私達には決定権がないから。。。」です。「決定権」の単語が出てくる度同じ言葉を繰り返し言いました。 

 

「決定できるならしてください」 

 

ライフスタジオで決定権は誰にでもあります。しかし、決定権はこれを行使できる人の権利であります。つまり、決定権は誰にでもありますが、出来る人だけがやるのです。オーナーだから決定権を行使できると思っていますか?本当に現在のオーナーが決定権を行使していますか?私達は誰でも自由があるのです。あなたは、自由を手の中にある携帯電話のように自由自在に利用していますか?自由が重要なのに行使していなかったり、できないため憲法にまで釘を刺されました。決定権もおなじです。自分が決定すると、その瞬間責任と権限の原理が適用せざるを経ません。大部分、決定後にくる嵐を怖れ「決定権」を留保します。決定権を行使したいという本能と決定権を行使できない現実的限界の中で不安は膨らんでいきます。事実、公式的な会議だけでなく、自分自身に限った事でさえも決定権を行使出来ていないことが、より大きな問題です。自身の問題で決定権を行使できないため、公式的な場では、より決定権を行使することが難しくなるのです。人生がそうなのだと思います。決定をし、その結果、自身に返ってくる事に対するときめきと緊張があります。ときめきと緊張、平安と苦痛の繰り返しが人生ではないでしょうか?できなければできるようにし、出来た事で未来を構想します。やってできなければそのまま置いておくのです。必要だと思って買った物が家の中の隅に置いてあるからといって、不安にはなりません。引越をするとか大掃除をする時に、分別してもう一度使う事もあり、捨てる事もあります。できるのも自分自身であり、できないのも自分自身を構成しています。決定はこのような一連の過程にある段階なのです。 

 

「ひとつの点から始める」の意志決定構造は簡単です。皆が決定権を持っています。そして、その決定により発生する事は、私達皆に適用され、その責任も私達皆にあります。つまり、各自の決定は組織の決定であり、組織の決定は各自の決定です。「ひとつの点から始める」も私個人の決定です。この決定により、責任と権限の原理が適用されることを望んでいます。「ひとつの点から始める」の構成員達も同じです。自身が決定し、責任と権限の原理が適用され、自ら自身の道を探し出さなければなりません。決定権に対する大前提は「皆が決定権を持っている」です。 

 

一人で仕事をするのではなく、共に目標を達成するために組織を作ったため、意志決定構造が必要です。事実、意志決定構造と自己決定権は、別で存在します。数年に一度ある国会議員選挙に参加し、自身の決定権を行使したからといって自身の責任と権限がそのまま適用されたとは言えません。政党、候補者、時代の精神、国家の未来に対する認識と持続的な政治参加が伴わなければ、自己決定権に対する責任と権限が保証されます。意志決定構造があるからといって、自己決定権が自動的に発揮されるわけではありません。お互いが、歯車のようにかみあっていくときに効力が表れます。今までライフスタジオでは民主主義の原則に立脚した意志決定構造がありました。しかし、悲しくも意志決定構造はあったものの、意志決定が成されませんでした。意志決定を行った事が無いという事は、意志決定をする内容がないからです。数年前に店長会議でフレンドカードについて数カ月かけて話しをしていたことがあります。論議の水準も問題ではありますが、意志決定する内容がないため、一つの内容を数カ月かけて話され、組織の力は尽きました。まずは、議論し決定する内容が多くなければなりません。一つの主題に対しての討論と討議が成され、投票を通して決定され、現場に適用される事例が多くなければなりません。このような過程の繰り返しを経て決定権は勿論「ひとつの点から始める」に合った意志決定構造が作られます。したがって、意志決定構造というよりは一緒に集まり論議し決定し実行する順序の繰り返しが重要になります。 

 

「ひとつの点から始める」の意志決定構造は簡単です。月に一度集まり論議し決定します。名前も決定会議と決めます。案件、提案は私達皆の権利であり義務であり、決定に対する責任も私達皆にあります。「ひとつの点から始める」は、本社「1チーム」、シーズン1と越谷店「2チーム」の2つの単位とし、1,2チームは、個別に意志決定構造を持ちます。決定会議の実務責任は本社1チームで行います。そして、私と金賢旭、高徳、清子4人は「ひとつの点から始める」を始めとする代表フォーラム、チョコレート、CO2、全店舗の状況等を点検する会議「4人会議」を行う事になります。簡単です。「ひとつの点から始める」は、決定すべき内容が沢山あります。まず「マニュアル1000」では、月に少なくとも2つの大きな決定をしなければなりません。そして本社で話される内容も決定会議で最終的に論議され決定されます。その他様々な事を合わせると、月に3~4個の案件が論議されなければなりません。決定の豊年です。慌ただしくなりますね。 

 

意志決定構造で一番悩みの種になるのは私自身でしょう。会議のテーブルにどかっと座り皆さんの口と耳を塞ぐ張本人です。私も決定したくありません。銀行と不動産で私の名前の判子を何十回も押すことのどこが気分良いでしょうか?判子を押す回数が増えるほど、負担であり全てが責任です。皆さんが決定しないため、私が決定するようになります。また、たくさん悪くも言われます。独裁だ何だと言いながら、私が一方的に組織を運営していると。ある面から見ると私が最大の被害者です。最大限民主主義的な運営がしたい、責任というものから自由になりたい。分かりますよね?私のテーマソング「♬飛び出せまだ見ぬ世界へ…」自由でありたいのに何故しきりに私を中央に座らせ一匹狼のように働かせようとするのですか…何であれ「ひとつの点から始める」でちゃんと行動していきますので皆さんも積極的に自己決定権を行使していただき、各自の悟りが開けるよう願っています。 

 

意志決定構造は、情報の流通と分析の機能も同時に行います。私達の全ての行為は判断と選択の連続です。1日でも数十回決定権を行使しています。判断と選択の過程に、材料として使われるのが情報です。情報の流通と分析が意志決定構造と分離すると、非常に非効率的でしょう。[0]から始めるということは、この部分と密接な関連があります。10余名の小さな組織は情報と流通と意志決定の迅速性が強みです。「ひとつの点から始める」は、隠れる場所がありません。自ら表れなければなりません。「ひとつの点から始める」の構成員達はこれから意思決定の後ろに隠れ、他人の決定による人生を終え天国に入ったのです。いいえ。地獄かもしれません。 

 

「ひとつの点から始める」意志決定構造の核心は 

最適なシステムを確保しながら政治的効力感を体感できるまで 

機械を継続して回す事です。 

 

 

●. リーダーシップ 

リーダーシップも簡単ではありません。良い構成員から良いリーダーシップが生まれるでしょうか?それとも良いリーダーシップが良い構成員を作るでしょうか?鶏が先か卵が先かと同じ話しです。私の友達がニュージーランドに留学をしていた時おもしろい話がありました。ニュージーランドに留学に行く学生の多くは韓中日だと言います。中国の学生たちは中国人同士で遊び、韓国と日本の学生は一緒に遊ぶそうです。でも、集まりに韓国の学生が1人いて、日本の学生が10名いると韓国の学生がリーダーになると言います。リードするのがうまいからではなく、ただ韓国の学生が、自分がやると言うと日本の学生たちは同意するのだそうです。リードすることに特別な事があるでしょうか?飲み屋を決めメニューを選ぶ程度のことです。私が日本に来て間もない頃、日本で長い間仕事をしてきた方に会いました。その方に、日本人の働き方について聞くと、こう言いましいた。「1年働くなら韓国人と、10年働くなら日本人と働きたい」。韓国は短く即興的で迅速です。そして騒がしい。短く太く付き合います。日本は永く慎重で段階を踏みます。そして静か。薄く永く付き合います。韓国と日本をうまく合わせたら、完璧な人が生まれそうです。ライフスタジオが今まで問題なく成長できた理由も日本人特有の根性が発揮された結果かもしれません。傲慢でなく、請け負った任務に充実な姿がお客様のリピートが増えた理由でもあります。ところが、現在の壁を壊し、新しい価値を作りだすには難しさがあります。決められた事はうまくやるのに新鮮味のない状態。。。持続性は素晴らしいのに興味深くない。。。ライフスタジオの構成員達は群れの中にいることを好んでいます。リードする人や勢力がなかなか形成されません。日本の社会をそのまま反映した姿かもしれませんが、何かを追求する組織においては問題でないわけがないのです。同時にリーダーシップが重要になります。 

 

リーダーシップの辞書的な定義は、集団の目標や内部構造の維持のために構成員が自発的に集団活動に参加し、達成できるよう誘導する能力です。リーダーは、知識、意志、情熱、勇気、誠実、意志疎通等、多くの能力を必要とします。構成員の時はうまくやっていた人も、リーダーになった瞬間墜落していく多くの人を観察しながら知った事があります。たとえ数名の中でのリーダーになったとしても、何かを成そうとする情熱と能力があるということです。ところが、問題が発生すると氷の女王のようになります。ボロボロ泣いてくれさえしても、一緒にお酒を飲みながら歴史に残るような粗相をしたりして悪くも言えるのに、氷の女王になってしまうため、何とも言えなくなるのです。 

氷の女王になってしまった当事者は、どれだけ辛いでしょうか?問題が発生した時にその状況を突破する勇気が相対的に足りません。勇気が生まれない理由は関係設定の未熟さもありますし、自信の無さから時期を逃し、過度な責任意識で崩れることもあります。4大原則にも書いた内容ですが、問題が起きるのは自然な事であり、その段階に登ろうとリーダーになったものの、殆どが、いや、皆同じ現象が起きました。突破せずに自身の責任にし、来た道を戻るのです。苦痛に勝ち抜きその状況を突破するという言葉自体が、嘘のように感じ、あなたの頭の上にある重い王冠を脱ぎなさいという言葉しか言えません。ならば、どうしたらよいでしょうか?「ひとつの点から始める」のリーダーシップはどのように作るのでしょうか? 

 

こんな時は、鞭よりもあめです。 

 

良い薬として「成功体験の蓄積」ほど良いことがあるでしょうか? 

 

「ひとつの点から始める」では、リーダーと言う王冠がありません。自ら表さないとならないため、皆がリーダーであり、皆が構成員です。なので、何かを引っ張らなければいけないというプレッシャーが少ないのです。その代わりに、見えない手が作動します。自身の周りにいる人を包み込もうとする努力が必要です。このような条件の中で、現実に設定されている事に対して小さな成功が繰り返されなければなりません。これはつまり、自ら表すようになり、自然と人々が集まるようになっています。このような人が直営リーダーとなる予備の資格を与えられます。現実で設定されている事は「マニュアル1000」です。2年間で各自、4~6つの個人主題を設定し決定と実行まで引っ張っていかなければなりません。自身の周りまで含めると、10個以上の主題があります。自身の主題を成功的に引っ張り、周りの人々には大蛇が塀を超えるように、音、噂なく接近します。このような経験が数回続いていけば、その過程で事が成されて行く原理を知るようになり、自身だけの突破する方法がでるかもしれません。「ひとつの点から始める」は、論議、決定、実行、評価が繰り返しが核心だとしました。「マニュアル1000」は、大体40個の主題が繰り返し論議、決定、実行、評価が繰り返し起きる事業です。この過程で難しさもあるでしょう。頭がつるかもしれません。このような条件の中で問題解決能力や突破に対する知識も重なっていきながら成功経験に繋がります。自然と見えない手が活発に動く人が自ら表すようになっており、この人を私達は直営リーダーとして推薦するようになります。 

 

「ひとつの点から始める」は、現場で起きる成功体験に注目しなければならず、小さな成功を激励します。リーダーシップは成功経験が起きる過程で自ら表せるのです。能力がある分だけはたらいて結果だけ拍手を受ける文化が定着するためには、小さな成功のリレーが繋がらなければなりません。 

 

私は余りにも楽観的に見ていますか?皆が氷の女王になる状況になったらどうしましょうか?そうなると、ライフスタジオが冬の王国になりキンキンに氷るでしょう。 

 

●. 動機付与 

動機とは、他の言葉で言うと欲求です。欲求は結果を予想します。欲求と結果が結合すると、同期が付与され、それ位の力で行動します。汗が出れば水が飲みたいという欲求が生じます。水を飲むと喉の渇きがなくなり気分が良くなるという結果を予想します。だから、水を飲みます。「ひとつの点から始める」をしようとする人には、ある欲求があります。その欲求が解決された時の結果もあるでしょう。「ひとつの点から始める」を行う欲求と、予想される結果は何でしょうか? 

 

事実、人間の持つ欲求は具体的ではありません。大体が漠然としています。人々は幸せを追求します。世の中に幸せを測定できる秤がありますか?幸せだという感じは、どこかに貯めておくこともできず一瞬の瞬間が過ぎればなくなります。数回繰り返すと、退屈になり当たり前のことになります。そして、他のその何かを見つけるために歌舞伎町に行きます。私達は、漠然と今よりよくすることを望んでいます。基準は、現在の自分自身です。今現在、自分自身に大きな不満はないものの、漠然とよくなることを望む場合もあり、現在の自分自分に対する大きな不満を持って沼から抜けでたいという欲求を持っています。重要な単語は漠然とです。漠然と今よりも良くなる事を望みます。漠然としているのは当然なのです。その道を行ったことがないからです。テレビに出てくる成功した経営者や芸能人に対する憧れは、間接経験が蓄積された漠然とした期待です。どれだけ辛ければ、自分が望む事をはっきりと想像すると夢は叶うというシークレットという本が、全世界的に流行したでしょうか?ライフスタジオでも現在の自分自身よりも良くなるという基準があまりありません。漠然と周りの人達から仕事がうまいという声を聞いたり、給料が上がるとか、会おうという連絡がもう少し来る程度を考えています。数年前は、店長になるということが、何か良くなったような感じがしたりもしましたが、もう、店長の人気も枯れてきました。 

 

だからといって、吹く風にのみ頼って生きていくことはできません。それでも確実であると認められる基準を根拠に、計画を立てて実践しながら一日を生きていかなければなりません。「ひとつの点から始める」を構成している人々は、何を基準に自分の欲求を代入し、結果を予測するでしょうか?これも明確ではないですが、「ひとつの点から始める」の目標が、欲求の基準になるでしょう?直営リーダーとマニュアル1000がその基準とならなければなりません。勿論、各自の欲求は、個別にあります。しかし、各自の共通点は、「ひとつの点から始める」の目標達成が、欲求とならなければなりません。「ひとつの点から始める」の目標は、今のところ、家庭です。変わる可能性もあります。例えば、直営リーダー5は、直営のリーダーを作ることが最終的な目標ではありません。2年以内に達成する、期限付き目標と言えます。直営リーダー5とは、最終的に、ライフスタジオを構成員が所有することです。形体が協同組合になるのか、従業員株主制度になるかは分かりません。とにかく直営リーダー5は、一種の過程です。 

 

「ひとつの点から始める」の目標は、そんなに新鮮ではありません。知らないからです。私もよくわかりません。直営リーダーやマニュアル1000が、人々にどれだけの欲求と結果として感じるものなのかよくわかりません。それでも、私達の現実と条件を考慮したときに、最も高い点数をもらったため目標として設定しました。「ひとつの点から始める」の目標は、発見よりは発明のように思います。発見とは、あるものを見つけるということであり、発明とは、無いものを有るように作ることです。目標はある物を探すというよりは、私達が自ら作るべき種類のものであるように思います。知っていきながら価値を高めること、知っていきながら私達の欲求を目標に集中させること、目標が達成したときに、決定的な一発になるような結果を私達自ら作り出すことが必要です。「ひとつの点から始める」は、2月から開始します。1月は、予備会議を数回行う予定です。この席で、「ひとつの点から始める」の目標の話を重点的にします。他の目的に変更されるかもしれず、現在設定されている目標を修正するかもしれません。可能な限り、自分自身の動機付与になることを目標に設定し、本当に達成したときの気持ちがどういうものか感じてみたいのです。 

 

動機付与の真実は、人々が自律性、関係性、力量に対する心理的な欲求を持っているという 

前提から出発する。人間は学びを通して成長を追求し、仕事を楽しむことを望む。 

誰かに肯定的に貢献することを望み、長く持続する人間関係を志向する。 

                                   - スーザン・ファウラー 

 

良い言葉は使い果たしました。スーザン・ファウラーは、飴とムチでは動機付与されないと言います。どんな条件で動機付与された行動をしたのか。と質問を変えなければならず、自律性、関係性、力量を強調します。この内容は、インターネットにたくさん出ているので調べてみてください。自律性と力量については、4大原則の解説本に記載されていると思いますし、関係性についての話をしたいと思います。関係性とは、他人に関心を傾けたり、他人からの関心を受けたいという欲求です。また、他人と繋がっていると感じたい欲求であり、自分自身よりも重要な何かに寄与すると感じたい欲求です。この部分は、人間関係の破片化と繋がります。実際に動機付与において、最も強力な力が関係です。一緒に働いている同僚が私に向かって親指を立て「やっぱりお前は。。。」と言ってくれることくらい、心にビビッとくることがあるでしょうか?なのに、私達は人間関係の破片化に囲まれています。最も強力な欲求なのに、現実で私達の生活をめちゃくちゃにしているのも、また関係性です。特段の措置が必要ですが何かありますか?今2時間、ノートパソコンの前でじっとしています。特別なことはないですね。「マニト」という、秘密の友達遊びをすることもなく、死ぬまで酒を飲みながら一夏の夜の夢で終わることもできず。。。私の頭の中に浮かんでくるのは「マニュアル1000」しかないですね。各自は、自分の主題についての調査、学習、整理をし、その結果を一緒に議論して決定します。決定された内容は、現実に適用され、個人と組織は、「別々に一緒に」の原理が作動し、一つに繋がります。この過程で、いつもとは違う関係性が発揮されるかもしれません。言い換えると「信念で結ばれた人間関係」を経験することになります。信念とは、自分が知っていることに対して信じる事と同時に、自分がその道を歩いていくことです。この過程を共にするということは、人間関係の他の言葉です。大人になる前までは、一緒に経験するだけで友達になります。大人になってからは信念で繋がり、共にその過程を通過する瞬間に関係が形成されます。だから大人になって、真の友達に出会うというのは簡単ではないのです。自身の主題を愚直に引っ張っていく過程に関係の種が生まれるという話ですが、本当にそうなるでしょうか?できたら最高です。「ひとつの点から始める」の構成員は、人間関係の破片化に立ち向かい、人間関係の回復を優先順位1位に置きます。日常的な生活でも、以前とは違う姿を見せなければなりませんが、核心は、「信念で結ばれた人間関係」の種が作られる瞬間であり、「ひとつの点から始める」の目標である「マニュアル1000」の過程で、「別々にまた一緒に」の原理が作動する過程に集中する必要があります。私があまりにも、言葉を作っているように見えますね。鳥肌が立つような話をしていますが、人が最も美しく見える時が、自分の事を一生懸命している姿ではないでしょうか? 

 

動機付与のまた違う一つの大きな軸が報酬です。報酬とは、各自が行った仕事に対し組織が有形無形の対価として返すことを言います。報酬は精神的、物質的報酬として分けることができます。精神的報酬は、名誉や賞賛のようなもので、物質的報酬は役職、給料、インセンティブ等があります。精神的報酬は、物質的報酬と一緒に支給されたり、会食の席での真正性により確認することができ、この文章では、物質的報酬についての話をします。報酬とは、評価を前提とします。評価に基づいて報酬のためのシステムが作動する必要があります。この部分も本当に難しいです。代表者フォーラムで評価のための作業を進めており、「マニュアル1000」でも評価のための学習と議論が必要になります。また、直営リーダー制度が物質的報酬の頂点にあります。他の部分は、システムが作られるとして、この文章では、インセンティブについて私の権限で1つ提案します。上記の人員配置を見ると、私を除いて10人です。志願者がいる場合は、その分増えます。毎月50万円をインセンティブとして積立します。インセンティブ支給対象者が出れば支給し、残りの金額は積立します。支給は、システムが作られるまでは、私が決定します。理由は特別ありません。1年単位で積立され、残ったのインセンティブは、配当という形で私がいただきます。これも特別な理由はありません。私のポケットに入る前に、早く持って行ってください。という意味です。毎月50万円は少なくない金額です。インセンティブは争奪戦です。自ら表し、毎回受け取る人もいるでしょうし拍手だけおくる人もいるでしょう。 

 

●. 内部文化 

内部文化とは、組織の構成員達が共有している価値観、信念、習慣、規範、礼儀、意識、知識、技術等を全て含む総合的な概念です。長い期間に渡って形成され、一度形成されると簡単には変わらず、組織の構成員の行動に影響を与え、組織の成果、即ち、組織の効果性にも影響を与えます。簡単に言うと、組織のアイデンティティです。アイデンティティとは変わらない存在の本質です。アイデンティティを確保し、維持しようとする意志は本能です。他とは違う自分だけのものとして存在したいという、人間の本能は組織にまで繋がっていきます。これは、人生の意味とも繋がっているため重要です。写真館をしている理由を様々な社長に尋ねると、お金を稼ぐためだと答える人はいません。自身が追求する価値について長く話されます。存在理由についての質問と答えの間に置かれた道です。 

 

サガナムのスタジオ時代にベイビーユーというスタジオがありました。似たような時期に、急成長したため、不本意ながらも競争業者になりました。サガナムとベイビーユーは、内部文化を基準とし、韓国の写真館を一列に並べた時、一番遠く離れていたでしょう。ホームページのサンプル写真だけを見てもサガナムは、近所でよく見る子供で、ベイビーユーは、粉ミルクの広告にでも出てきそうな子供でした。大きなイベントが終り、全体で会食をすると、サガナムは、「今日は飲み明かそう。明日なんてない。」といい、ベイビーユーは、高級レストランで優雅にカットステーキを食べていたそうです。人事管理もサガナムは、平等が基本ポリシーだったらなら、ベイビーユーは、能力と成果でした。ベイビーユーで仕事をして、サガナムに入社したヒョンジュは、サガナムを見て狂った会社だと思い退社しようとまでしていました。後に最もサガナムのアイデンティティと一致した人になりましたが、それ程ベイビーユーとサガナムは違ったと言います。現在サガナムは、幾度かの危機を経験しなくなり、ベイビーユーは生き残りました。サガナムの内部文化は生活であり、ベイビーユーの内部文化は生存でした。 

 

「ひとつの点から始める」の内部文化は何でしょうか?その前に、ライフスタジオの内部文化から話さなければなりません。ライフスタジオの内部文化は、一言で「人」です。少し長めに言うと「人が人を人として」です。これを解いてみると、人が共に関係を形成しながら、より良い人生に向けて、各自の道を共に進むことです。そのための具体的な実践指針は「共にする楽しみ」と「自律の中の秩序」を規律にします。このような内部文化を通して「自立した人達の経済共通体」を作ることが、現実の中での目標です。このように言ってみると、現実とは関係のない言葉のパレードにぎこちなさも感じられます。一歩避けて考えてみると、ライフスタジオは本当に良い会社です。誰かが誰かを支配することなく、各自の道を確保しています。私達に能力が不足しているからであり、追求している方向は正しい道であり、実行の方法も方向に反していません。ところが、現実に表れていない継続している失敗と中断の連続です。そして、「ひとつの点から始める」まできました。 

心理学で、認知的一貫性の理論(人の「態度」に関する理論)があります。人間は基本的に非一貫性のため、予測不可能になると心理的な緊張ないし、不快感を得るため、これを除去し減らし、可能な限り一貫性を成そうとしているという理論です。もしかしたら、私も認知的不協和の状態により、認知的一貫性を維持しようとむきになっているのではないかという考えもしました。人に対する話をしてきたのに、現実でそのような事例を見ることができないため、なおさら「人、人」と言っていたのではないかと。。。 

そうでしょうか?私達の道は間違っていたのでしょうか?それとも今までは準備運動をしていたのであり、「ひとつの点から始める」で、本当に始めようとしているのでしょうか? 

 

この問題は、「ひとつの点から始める」の構成員に聞いてみることです。行けない道なのであればあきらめなければならず、今始まりであるならば、これまでの経験を生かして道をよく探していかなければいけません。しかし、しばらく考え行き止りで1つの文章が浮かびました。「人は結果ではなく過程である」。人を通して何かを成し結果を期待していたこと自体が道を間違えて入ってきたという証拠ではないのか?人は過程そのものではないのか?流れる河の結果はあるのか?流れる過程自体が河なのではないか?人も同じように、私達が設定した段階に上がることではない、変化発展する過程そのものではないか?「自立した人達の経済共同体」という言葉も結果ではない、過程が含まれた表現ではないか?もしかしたら、皆知っている内容なのに今更話す私が恥ずかしいですか? 

 

そこで考えたのが「ひとつの点から始める」の内部文化を短期間で何かを成すということに執着せず、今を感じて楽しむことでなければならないかと考えるようになりました。こう言うと、Bチームで話された「カルペディエム」が浮かびます。この辺で、少し長くなりますが、レモンツリープロジェクトの一文を引用してみます。 

 

「余裕」は、どのように生きるかという指針である。「余裕」というと、遊んで食べることを連想させる。だから、持った者の余裕という言葉が頻繁に使われる。しかし、「余裕」という言葉は、木を植える将軍のように、時間が余っているからやるのではなく、どのように生きるのかという、自分の世界観を行動に移す過程で真価を発揮する。イギリスの歴史家フラーは「木を植える人は、自分ではない人を愛する人である。」と言った。彼はその木が豊かに大きく育った姿を見れずに亡くなるだろうが、100年後には多くの人に心の安らぎを与えることができると信じている。自分ではない他人を愛する心で木を植える。 

「いまを生きる」という映画でキーティング先生が生徒の後ろから「カルペディエム」を叫ぶ。1人の学生がその意味を尋ね、「現在を楽しむこと」と答える。映画がヒットし、一時「カルペディエム」が流行っていた。私もこの映画を4~5回見ながら、キーティング先生が中世の時代の修道士のような口調で「カルペディエム」を叫ぶたびに、私も一緒に口にしていた。ライフスタジオのBチームも、数か月の議論の末、Bチームのアイデンティティを「カルペディエム」と決めた。ところが、なぜか「現在を楽しむ」というと、食べて飲んで楽しむ快楽主義を連想させる。良い大学に行くために、抑圧された教育政策をとっている有名な私立学校の生徒に「遊びたいだろう、彼女もほしいだろう?若さはもう戻ってこない。食べ、遊び、飲みなさい」と受け入れる人が多い。しかし、真の「カルペディエム」とは、自分が置かれている条件の中で、最善を尽くし、その過程で発見する日常の美しさを楽しみなさいということだ。一日一日一生懸命生きていれば、知らない間に変わっている自分を確認することになるだろう。誰かが決めてくれた道を行くのではなく、自分の道を確認し歩いてみると良い日が来るということだ。 

 「現在をたのしみなさい」とは、ふんだんに楽しみなさいという言葉ではなく、自分の人生を真剣に見つめなさいという言葉なのだ。 

「余裕」とは、退屈で暇な人生として見つめなさいという言葉ではない。真剣に向かい合いなさいという言葉である。大切なものであるほど、「余裕」を持つ必要がある。私の人生が大事なら、私の人生に対する「余裕」がなければならない。「余裕」とは、辞書的な意味での精神的、物質的、時間的に余裕で残りがある。つまり、余裕が心の余裕スペースを作る十分な条件である。「ゆっくり生きることの意味」という本にこんな文がある。「ゆっくりとは、より速いテンポに適応できないという意味ではない。ゆっくりとは、時間をいそいそと忙しなく扱わないという意志、時間に追われ慌てて生きていかないという意志、世界をゆったりと受け入れ、人生の道で自分を見失わない能力を育てていくという意志の確認である。」ここでゆっくりを、余裕に変えてみよう。 

余裕とは時間を焦って扱わないという意志 

時間に終われ慌しく生きていかないという意志、 

世界をゆったり受け入れ人生の道で自分を見失わない能力を育てようとする意志の確認である。 

今、「会社の特定の目的」について話している。特定の目的というと、「お客様の究極的な感動」や、「あなたの人生の最高の瞬間」、または「真と出会う甘い人生」のように何か途方もないものを出すべきだろうが、「余裕」といっていることが、おかしいと感じるかもしれない。余裕とは、何か成した時に得られるプレゼントのようなイメージを持っている。ならば、その何かを成し遂げることが、特定の目的にならなければならないのに、なぜ特定の目的を話す前に「余裕」といっているのか?ここで、小さな告白をしなければいけない。 

ライフスタジオで、学習と教育を行ってきた結果、「2013年体制」が作られた。「2013年体制」とは、「読み、書き、討論」を動力とし、構成員達に「変化発展プログラム」を装着させるということを目的とする。このような結論に至るまでに9年という年月が流れた。自分と社会が作り出した壁の前に、どうしていいかわからない人があまりにも多い。「自分自身に対する無気力」をベースに、不安と倦怠が繰り返される日常を送っている。この問題を解決しない限り、お客様満足だの自己実現だのという話は、パンをくれと言う平民に「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」といっているようなものだ。人々が苦しんでいる首に刺さっているとげを取るために、私、あなた、私達で構成されれいる人間に入っていく、学習と教育を始めた。一定の成果と限界の中で、多くの単語や命題、さまざまなプログラムが登場した。選択と集中の結果として「2013年体制」が作られ、現在は「論文プロジェクト」を通じた集団的な鍛錬と共に、独自のダイエットが完了した地点である。 

全体的な事業の形はこうだった。まず、遠く微かに見える目標地点を言う。それが正確に何かわからないため、曖昧に話すことしかできない。「自立」という言葉を繰り返すが、それが正確に何であるかは誰も知らない。現在行っている過程を通過すると、私達が目標としていることが分かるだろうという呪文を唱えるしかない。今まで特別な成果がなかったのにも関わらず、持続することができた理由は、組織のための手段ではなく、各個人を目的として対しているという信頼からである。だが、このような信頼も少しでも成果があったときに、持続することができる。この峠を越えたら何かになるだろうという漠然とした希望により、今まで耐えてこられたが、もうこのような方法では長続きしないかもしれないという不吉な予感が漂ってきた。私達が望む世界は、「読み、書き、議論」ではない。「読み、書き、討論」は、そこに行くための電車の切符を手に入れるための活動だったが、いつからか私達が望む世界ではなく、「読み、書き、討論」が目的になってしまう状況があちこちで目撃された。  

1年前、人々が難しがっている部分に対し、耐えるように言い、少し粘れば、私達が望む世界が見えてくるだろうという、事業のパターンから少し方向転換を模索した。代々木店をオープンしながら手段と目的が共存する状態を計画していたが、現実には適用できなかった。代々木店オープン報告書の一部にこのように書かれている。 

私達は、2013年体制を話す時、大体が学習に関する話をたくさんする。普段関心がなかった哲学や時事問題や、生まれて初めて聞く言葉が溢れる状況になるため、2013年体制の関心は、学習や教育に重点が置かれている。例えば、私達が食事をするとしよう。おいしいとんかつを作るためには、お米も必要で、肉も必要で炊飯器も必要だ。そして、お腹がいっぱいになることが目的ではないように、おいしくなければならないし、豪華な器も必要で、一緒に目を合わせて話せる愛する人も前にいなければならない。とんかつを食べるための行為と、食べる過程の意味が一緒にバランスをとらないといけない。このように、2013年体制で重要に思われる学習と教育というのも、結局は、私達に余裕があり豊かであり何かを得て分け与えて過ごす事を前提とする。ライフスタジオ、2013年体制、各店舗の構造が、結局は余裕があって豊かであり、何かを得ながら分け与えるために存在するのだ。そのために、学習と教育が重要になるが、私達が生きていくための大前提である「余裕-豊か-得る-与える」が前提とならなければならない。そのため、ライフスタジオ-2013年体制-各店舗の関係の中で、現場の構造を「余裕-豊か-得る-与える」の原則の下、絶えず変化し続けるべきである。その構成要素は、出勤と退勤、給与、インセンティブ、撮影時間、予約、1ヶ月の流れ、福祉、学習と教育、関係、お客様、写真、地域等、私達を取り巻く関係網のためのものだ。 

ところが、豊かな組織のモデルが出てこない一番大きな理由は、2013年体制で言われていることを全てしないといけないという、強迫観念と硬直性にある。固定され硬く見ていることにより、自分の中での選択と集中が発揮されていない。そのため、全体的に低い標準化の方向に向かっているのも、ある程度事実だ。「違う」、「だから私達はこれだ」と言えないといけない。代々木店では、読む、書く、討論に対する効率性と共に、「余裕-豊か-得る-与える」を、一つの軸として、その構成要素に対する理解と共に状況変化を目的とする。 

「余裕-豊か-得る-与える」は、まず硬まった心と体をリラックスさせることから始めなければいけない。そして、条件自体をそのように作らなければならず、そのためには、各自が感知するセンサーの小さな動きに忠実でなければならない。代々木店では、多くの変化が起こるだろう。だから、私の役割は、外部の視線からの風除けになるということと同時に、代々木店の構成員のセンサーが作動するように風を駆り立てることなのだ。自分自身の条件を継続的に変化させる作業が必要であり、それを2013年体制に吹き起こさなければならない。 

会社でやらなければならないことが本当に多い。写真の技術も向上しなければならず、お客様サービスに関するアイデアも作らなければならず、定期的に一緒にお酒も飲まなければならない。[2013年体制]では、哲学もやらなければならず、論文も書かなければならない。たくさんの事があり、それには、それなりの理由がある。しかし、このように多くのことを行いながら、その事をする真の目的を見失い手段が目的化される、「目的転置」現象が起きる。最近「2013年体制」の中で[読み、書き、議論]に対する疲労が蓄積し、「読み、書き、議論はさまざまな面で良いが、これが現場でどのように適用していけばよいのか?」という質問が増えている。手段と目的が共存しなければならないのに、そうできないために起きた出来事である。むしろ手段に対する疲労度が高くなると、目的自体を見失ってしまうこともある。その中に「水面論」として、このような質問に対応してきた。今、私達は水面下にいるため、蓄積されず常に不安に脅えている。水面上に上がってくれば、すべてのことがすらすら解けていくというのが、水面論である。しかし、水面はいつ現れるのか?数年前にブログに書いた文章があった。 

…… 

私が出発した所があっただろうか。どこに帰らなければならないだろうか? 

2ヶ月ほど前から、私がある転換点に立っていて、本当に向かう目的地について考えている。現段階での結論はこうだ。 
「ああ、目的地はどこにもなかったんだな!!!」 

何かを決めておき、そこに向かっているという希望をもち生きてきた。虚像と弁明の繰り返しからこのように生きてきた。こう生きてきながら私の存在のかすかなささやきを外面してきた。。。 
人生は、このように見えるようで見えないような具体的でないため、生きていくこともでき、つらくもある。ある面から見ると、目的地の変更はあまり重要な問題ではないように思う。目的地は結局海になり、その中に様々な形態として存在することだ。 
私が集中して見なければいけない事とは、どんな海で何をするかというよりは、その海を見つめる態度なのだと思う。 
目標に向かう能動的な行動や未知の世界に対する挑戦は、今まで私を守っている人生の方式であり、態度であった。 

…… 

相模湖に暖炉がある。薪を焚きながらいろいろなことが交差する。木を持ってきて火遊びを始めながら燃え上がる赤い気運を感じる。時には、小さくなり、時には大きくなる。ここそこと木を移しながら、彼らが繰り広げる宴会を見物する。位置を少し動かすと、怒りもし、良いと明るい笑顔になりもする。とても熱かったと思うと、下の火も残らない。そして、もう一度木を持ってきて始める。 
客観的になるということだ。客観的にこのように変化の過程を長い間見てきたのは、本当に久しぶりだ。彼らが繰り広げる姿は私と私達に似ている。少しの忍耐もなく、回りの条件に対してすぐに反応する。自分ができることはそのまま立っていることか、燃えて灰として残る方法しかない。一定の武器と形が材料に変わる過程は存在と意識の長いトンネルに入るようになる。 
私は誰なのか?という前からの質問をもう一度するようになる。転換をしないといけないという圧迫と、海と合流しなければいけない視点に「私は誰なのか?」という自らの質問がでるのは自然なことだ。しかし、この質問は私の命が続く瞬間まで持っていかなければいけない永遠の課題であるため、結論を出すことができず、だしてもいけない。 
転換とは、目標や計画の変化や修正のことを言っているのではない。人生に向き合う態度と方法の転換を意味している。計画し経験し、得た心理の一部分として、私に合う服を作った。過ぎた時期を振り返ってみると、それは姜尚中さんが言っている青春であった。あちこちぶち当たり砕けながら息がつまり、私を確認する時間であった。我慢できない存在の軽さを忘れようともがいている世の中と合わせて伝説を作りたいという欲望の力を信じた。 
そんな欲望が私の中の偽りから始まったということを少しずつ知るようになりながら、その推進動力は消耗されてきている。伝説は生きているが欲望は泡である。欲望の位置に謙遜が入らねばいけない。歩きながら出会う山奥の山荘のように、私の中のエナジーを自分の中で生産する謙遜な態度が転換を可能にする。謙遜は皆知っている、またはある程度は知っているため、この程度で大丈夫だ。という程度を超える主題だ。今まで外部から来る刺激に対する反応が、1次的な人生のエナジーであったなら、もう私の中で私をゆっくり見つめながら、その変化を認識する人生の態度が必要だ。想像できないその広い海で、私の存在は砂漠の砂粒のように小さい。いくら、もがいても救助隊や偶然通り過ぎる船を発見することはできない。発見できたとしても、光に反射する瞬間的な銀の光の波模様のようなものだ。私が私であることは、私が私を見つめること、そしてその過程で発見する存在の美しさである。 

動機付与やリーダーシップの話をする時にこういう話がたまに出てくる。「仕事をちゃんとしたら給料を上げるのと、給料を上げて仕事をちゃんとさせるのと。あなたの人事政策は何ですか?」数人の社長と、このような質問と答えをしながら、自分がとる人事政策に対して合理化していく話がメインを占めるようになる。ところが、ある日わかった事実が、仕事をちゃんとしても給料は上がらず、給料が上がったからといって仕事をちゃんとするわけではない。ということ。給料に対する根本的な転換が必要だ。給料は会社が作り出す価値に比例して設定されている。動機付与の手段として作用されているように思われるが、社長の権力を持って給与でおふざけしている側面が多い。会社が生み出す価値は、人々が作り出すものであり、その価値のすべてを人に分け与えるというのが正解である。社長は会社が作りだした価値に対して公平に分配する責任がある。 

このように、既存のパラダイム(理論的枠組み)を転換することは、本当に困難な事でありながら、根源的な問題に関する考えるという過程で出てくるしかない。基本のパラダイムをレッドオーシャンになぞらえて話をする。レッドオーシャンの相対的な概念で、ブルーオーシャン戦略が10年以上前に流行した。ブルーオーシャン戦略を簡単に紹介すると、ブルーオーシャンは現在存在しないすべての産業を表し、まだ私達が知らない市場空間である。ブルーオーシャンは、未開拓の領域に新たな需要の創出と高収益に向かう機会として定義される。したがって、ブルーオーシャン戦略は、ゲームのルールを自分で作るものである。ブルーオーシャン戦略は、競争相手との勝負に勝つために集中する代わりに、買い手と会社のための価値の飛躍を遂げ、新しい非競争的な市場空間を創出することにより、競争自体から外れる。これを「価値革新バリューイノベーション」と呼ぶ。 

特定の目的を話しながら、「余裕」を特定の目的の、最も上位の概念として説明した。一見、新しい会社を作り、この社会に第一歩を踏み出すプロジェクトの目的を、「余裕」という言葉で、説明することはぎこちなくもある。しかし、私達が会社を作っている理由を根源的に問うていき、私達が持つ固定観念から抜け出そうとした。既存の概念と価値として、「レモンツリープロジェクト」を行う理由がない。適度に売上を上げる写真館を数十店舗オープンすることは、従来のライフスタジオでも可能なことである。いやむしろ効果的である。ただし、「レモンツリープロジェクト」をあえて作る理由は、他の所にある。 

事が成されていく原理を知っている人達が価値の戦略的移動を行うということが 

「レモンツリープロジェクト」である。 

これは既存にもっていた私達の固定概念自体から抜け出し、 

「価値の革新」をしていこうということである。 

なぜ私達は、会社を作ろうとするのか。本当に会社を立ち上げる理由を忘却したまま固定観念と現実の論理による事業をしているのではないだろうか?会社を作る本当の理由を現実で実現できる方法はないだろうか?に対する質問と回答を繰り返しながらここまで来た。 

会社の特定した目的以前に、目的に対する態度に注目しなければならない。世の中を十分に受け入れ、人生の道で自分を失わない能力を育てていくという意志が会社を構成して、プロジェクトを進行するための前提でなければならないことを強調したい。ここで一歩進んで、「余裕」というものを私達の特定した目的と設定することができるという考えをしてみる。  

上記でも取り上げたが、人はみな同じであり異なっている。旅行を生きがいにする人たちのインタビューで必ず出てくる質問と変わらない答えがある。旅行をしながら出会った人たちはどうでしたか?と質問すると、「人はみんな同じであり、みんな異なります」と間違いなく答えるだろう。当然のことながら、哲学的な意味を内包している。1つの組織で構成員たちが持っている目標は同じでありながら違う。同じことを追求し、他のものは推奨しなければならない。「別々に、一緒に」の原理は、これを表現した言葉であり、組織を柔軟かつ強く作っている根幹だ。撮影者は写真を、編集者はデザインを、会計担当者は正確かつ繊細さを追求する必要があるが、構成員たちはみな、一つの目的に服務しなければならない。  

各自はそれぞれの目標に向かって走って行き、私達のすべては「今最も重要な場所は、労働をしている現場、まさに会社であり、最も重要な人は一緒に労働をしている目の前の人であり、最も重要なことは、今自分の目の前で共に労働している人を尊重することを目的」としなければならない。 「余裕」は、このすべてが実現されることができる環境を説明する言葉である。「余裕」の精神は私達の社会と会社で実現されず、特定の時間と場所でのみ適用される。固定観念と現実の論理に押されて「余裕」が確保されていないということは、結局は会社を構成して一緒に仕事をしている理由が現実ではなく、理想にとどまっているということだ。 

 

だからこそ、「レモンツリープロジェクト」の特定した目的を「余裕」に設定し、 

「レモンツリープロジェクトの目的を達成しなければならない。」 

 

「余裕」が実現されるためには、精神的、物質的、時間的にゆとりがなければならない。精神的には自分の信念と世界観の形成を必要とし、物質的には生活を営むために必要な経済的支援と福祉、時間的には自分を取り巻く環境と内面を見ることができる時間が必要である。この部分は、「私達の計画は何か?」で詳しく説明する。  

「私達の使命は何か?」のまとめの時間になった。  

 

「私達の使命は何か?」に対するものを、文章として定義することは容易ではない。考えを表現するのに文章をいくら書いても足りないのに、考え自体はそれより短いので残念だ。今まで「会社は私達の人生の何であるべきか」に答えをだすための過程であった​​。会社は利潤を追求する集団という固定観念が、現実で歪曲され表れている。だから私達の人生は苦しくなる。会社を運営する過程でも、数多くの誘惑と妥協の落とし穴があった。誘惑に負けたり、数少ない信念と妥協もした。 

 

「レモンツリープロジェクト」は誘惑と妥協に立ち向かっていくという意志である。 

そのためにはより根源的で本質的な接近が必要だ。 

会社は人生の大部分を占めている。労働と会社は自己実現の空間であり、私、あなた、私達をつなぐ媒介として機能しなければならない。人生と労働、人生と会社は分離することができない。資本主義が頂点に駆け上がっている現在の社会では、ますます労働と自分、会社と自分の分離が加速している。生活の不均衡は、非正常を正常にさせ、それを宿命的に受け入れることを強要する。本当に他の方法がないのだろうか?  

会社は共通の利害と要求を持った人たちが、特定の目的を達成するために集団を成しているものと規定した。共通の利害と要求は「尊重」である。労働現場で一緒に仕事をする人の間の相互尊重と、私が生きているという暖かな感じは、会社を構成する基盤である。その土台をベースに、蜘蛛の巣のような人間関係が形成されなければいけない。「尊重」をベースに集まった人たちが特定の目的を実現するためには、「余裕」が必要である。遊んだり食べたりという話ではなく、苦しい労働の後、ほんの束の間の休みのような狭い概念の「余裕」を言うわけでもない。 

私達の特別な目的は人間らしく生きることだ。人間らしく生きるということは、自分の内面の声に耳を傾け、自らによって自分の道を行くことだ。人間と人間が相互に尊重しながら、自分の道を行くことだ。私、あなた、私達はお互いに違いながらも、同じ何かに向かって集団を形成している。 

衒学的なビジョンや目的を作り、人々に同意を求めることは、それほど難しいことではない。しかし、誰も逆らうことができない、普遍的なスローガンの中に隠された現実の苦しさが浮き出るかが怖い。あいまいな未来の推測ではなく、目的を実現する今が重要である。従って、特定の目的自体を「余裕」、「日常の余裕」に設定する。 

人生に対する態度、組織を取り囲んでいる内部の文化自体を特定の目的のために置くということだ。あいまいな目的ではない今日、今が重要だという認識の下に、「レモンツリープロジェクト」の構成要素にこの文章を移植する必要がある。 

 

人間尊重を土台とし、「日常の余裕」という人生の土台を維持する。 

 

この文章を見て、何かが訪れませんか?私だけでしょうか?何か発想の転換がされたかのような感じです。私は未だにこの報告書を書きながら、どうしたら高い基準を提示して目標を達成できるかを考えていましたが、そうではありませんでした。「人は結果ではなく過程である」は、正しい言葉です。過程に最善を尽くさねばならず、その最善は盲目的に熱心に行うのではなく、日常の余裕という大前提の下で、最善を尽くさなければならないという結論に至ります。この報告書の冒頭で、皆一生懸命だが成果が出ないと言いました。その秘密がもしかしたら、ここにあるのでしょうか?盲目的に最善を尽くし、実質的な「人」を逃していたのではないか?追われずに追う者になるために学習と教育をしたのに、それ自体に追われ、核心を失ってしまったのではないか?一緒に勉強した哲学入門で、著者は哲学において現実を私達の生活の土台ではなく、1つの観察的対象としてみなしてしまう考え方により、哲学が現実から遠くなってしまったと言いました。私達も同じ失対を犯していたのでしょうか?本当に行おうとしていた事は、人間らしく生きようとするものなのに、私達の現実は、人間らしくない盲目的な最善を強要したことではないでしょうか? 

 

とし、日常の余裕という生活の態度を維持することについてどう思いますか? 

 

内部文化は、イベント性事業で作られる問題ではありません。髪の毛一本にも、その人だけのDNAがあるように、私達が見て感じ、行動する全ての要素に入ってなければならないのです。人生の態度を変えるというのも1つの過程として理解するべきことです。まあ。。。私から変わらなければいけませんが。。。特効薬があるでしょうか?私達が考えて行動する最初の一言に入れましょう。「日常の余裕」という概念を。。。 

 

「ひとつの点から始める」の構成員にお願いします。何かの政策や案件の話をするとき、それが日常の余裕を確保しているかどうか、手段が目標を捉えて大きくなっているのではないかと。。。 

 

●. 意思疎通体系 

先日、ライフスタジオの内部構成員達を対象にアンケート調査を実行しました。予想可能な結果が出て、中心部と構成員間の意志疎通の問題として指摘されました。通常このような場合には中心部の意思疎通能力に対する批判と共に新しい政策を早急に作ります。 

中心部は意思疎通の生産者で現場の構成員達は情報の消費者という認識がパターンとして土台となっています。生産者が情報を作っていなく、疎通をしていないから消費者は道がないというのです。本当にそうでしょうか。中心部にいる人は意思疎通の方法を限りなく悩まなければならなく直接的な方法も怠ってはなりません。中心部の多くの仕事は意思疎通です。 

しかし意思疎通が中心部だけの問題でしょうか。焚き火をしてみた人はわかります。湿った木は絶対に燃えることはありません。土台の火がいくら強力であろうとも湿った木に火は移りません。意思疎通は両方向の問題です。 

お互いの周波数が合わなければならないし、同じ言語を使用しなければならず自らの考えと連結しようとする意思がなければなりません。あふれる情報を自身のものとして作り知識化しなければなりません。自らに入れる器がなければいくら水を入れたとしても溜まる事はありません。 

「ひとつの点から始める」が作られた相当部分は意思疎通と関連があります。湿った木に火をつけることができるのかに対する懐疑が「0」という数字を考えるにいたりました。中央のスピーカーと各単位個人の受信機を効果的に連動させることのできる能力がないということを認めます。これはスピーカーだけの問題ではありません。 

受信機は自体の処理過程を経て再度スピーカーにならなければならず、スピーカーも受信機にならなければなりません。このような意思疎通の両方向システムを現在の構造では構築することが出来ないと告白します。組織が作られて、目標を達成する為の一連の過程は意思疎通で表面化されます。大部分の問題は意思疎通の問題として置き換えられます。 

しかし真実は反対です。ことがうまくいけば意思疎通がうまくいき、仕事がうまくいかなければ意思疎通がうまく行きません。意思疎通がうまくいくからといって事がうまくいくのではありません、木が湿っていればいくら意思疎通がうまくいったとしても火はつきません。 

意思疎通は事がうまくいくための手段であり、目的ではないからです。しかし意思疎通がうまくいかなければ事はがうまくいくのは難しいのです。研究室で一人作業をしている人でない限り意思疎通の問題が仕事の問題に連結されるのが現実です。もっともいい方法は、個人の仕事自体が意思疎通自体にならなければなりません。個人と個人、個人と集団の意思疎通が仕事になる構造を作るために「ひとつの点からはじめる」を構成するといっても過言ではありません。そのため「0」からはじめるということが出てきました。 

 

では、同じ布団を使う夫婦も毎日のようにけんかをし離婚も多い中で、最小単位にしたからといって意思疎通の問題が解決されるのかといえば疑問を持つこともできます。当然だと思います。意思疎通が効果的になされる最小限の組織を構成した状態で味を最大限引き出すことのできる調味料が必要です。この調味料は「4大原則」で明かしている「三投戦法」です。今から土の中にあった真珠を取り出します。意思疎通の秘薬「三投戦法」を紹介します。 

 

私の目の前で繰り広げられる現象を観察する。何か私の体のセンサーが動作をして、その実体を知るために聞き込み捜査をする。質問してみたり、本やインターネットで調査をする。最初に投げると整っていない荒い塊が出来上がる。未完成の塊を書くことを通して滑らかにする作業をする。羅列と論理が入って、自身の主張を書くことが進行される過程に2度目の投げ出しする。投げ出すと何かが私に入ってきて、これは書くことの味を出す調味料としては十分である。書くことが終われば、世界に出て、書いたものの評価を進める。この部分は3度目の投げ出しだ。 3度目の投げ出しを通した修正作業をすると、最終的な文が完成される。シナリオが完成したので、これから撮影に入ればよい。簡単ではないだろうか。 

知っていく過程の他の言葉が「書き込む前に投げだし、書きながら投げだし、書き終わって投げ出す」であり、このような一連の過程自体が全体を見る行為である。 「三投戦法」の過程を数回経験すると、自分だけの方法が生まれる。また、受ける側を自動的に参加させながら、総合芸術の性格も持っている。福利、利息は自分自身を複製し、魔法を振るう。利息が利息を生むため、時間が経つにつれて、雪だるま式に大きくなっていく。 「三投戦法」は、福利・利息のように、自分を自分で引き上げながら、今後うって出る力を生産する。  

「書き込む前に投げだし、書きながら投げだし、書き終わって投げ出す」で「書くこと」は、実践の根拠を提供する。 

組織でも日常生活でも使われることがなければ見逃す部分が多くなり不良となる。このより大きな問題は、どのような仕事をすべきなのかすら分からなくさせる。頭の中では何かよくないと分かっていて、何かをしなければならない気がするが、その実体が見えないから目の前に見えることだけをすることになる​​。お金を計画的に使用して節約するために家計簿を作成する。家計簿を作成すると、意外にも支出に多くの影響を与えるといわれる。単に支出を減らすのではなく、合理的な消費に私を導いてくれる。つまり実践の根拠を提示するため、実践するようにさせる機材として機能する。ましてや、自分が行くべき道や組織を運営する人が計画を立てないこと、またそれを使わないことは、ある一種の皮肉だ。  

経済的災難に備えたり、将来の支出のために銀行に貯金をする。文を書くことは貯金ににたようなところがある。貯金は私の記憶の中ではなかなか消えず、使用のために待機状態をとっている。 「書くこと」も漂っている材料を体系的に概念化させて保存しておくものである。瞬間の言葉や記憶より貯蔵能力に優れ、いつでも私の人生に飛び込む準備をしている。 

 

おそらく書くことのほとんどは飛び込むために書くものである。  

自身に動機付与することができる強力な力が書くことにはある。  

実践のための名分と、やらなければならないという信念を同時に付与する。 

 

三投戦法は「読み書き討論を第一優先として」で書きを説明する過程で出てきた新薬です。書くということは苦痛ですね。私もここまで書くのに1ヶ月丸々かかりました。机に座っていた時間が100時間を過ぎ、吸ったタバコで寿命が3年短縮した感じです。はじめの3ページを書くために1週間ずっと座っていました。それでもわずかこのくらいしかできません。 

 

三投戦法は書くよりも相互に受ける、意思疎通が核心です。相互に受け、打ってくれと投げる過程です。書きの苦痛だけ抜かせば書くということは相互に受けあう内容を蓄積するのに効果的な方法です。 

 

事が成される原理をよく話します。10Mの高さの壁を上るためにはしごがあります。はしごは50cm間隔で足を乗せることのできる足置きがついています。一歩一歩あがっていく場壁を越えることができます。 

しかし3mほどに達したときに足の板がありません。その上の7m辺りからまた足の置き場があります。ここで事が違う様相で進行されます。見方によってはここからが仕事です。いつでも50cm間隔ではしごが正常な状態であればそれは機械がすればいいことでしょう。変わりなくいつでも同じ仕事を反復すれば機械を設置するほうが合理的です。カメラも同じです。 

露出は変化せず物理的な性質です。光が10であれば露出計は10を表示します。いつでも同じため露出計が作られました。フレームの中に入ってものを判断するのは機械ではできません。いいものなのか悪いものなのか美しいのかだめなのか撮影者が判断して決定しなければなりません。 

即ち人間だけができるのです。はしごの足置きが無く壁を越えなければならない事が人がする「仕事」です。この過程で喜びと悲しみ、屈服と挫折、希望と絶望が交差します。このように仕事は人生です。しかし私達は3mの足置きでどのようにすればいいのかわからなくなります。寒くお腹がすいて寂しくなりながら苦痛の中で地に下りてきます。なぜでしょうか?「事が成されていく原理を」知らない為です。 

計画を立てる事は足置き場を作るようなもので、リーダーシップが必要なのは10mの壁をあがるまで集中することであり動機付与は自ら上っていくための科学的結合の内的活動です。3mでの停止はこれまで作動していたシステムが停止したと言うことを意味する。 

では、システムを動かしてみましょうか?お互いに受け合い投げて打って走ってをしていかなければなりません。その過程でシステム作動の為の道を探さなければならず、探すようになります。私達の人生はすべてこの様な作動原理で動いています。うつや不安はお互いに受け合い、投げて打って走ってをするということでその過程で人は成熟していきます。 

 

三投戦法は旅行、事由、転換、関係、対話、相談、書き等、私達の人生のすべての部分を使用します。これが意思疎通です。必要であれば10投戦法もしなければなりません。投げ受けする過程で事が成され、投げ受けながら人生を維持していくことは本当の意思疎通です。 

何もいわずにいたのに急に「じゃん!」と出てくる人は本当に仕事ができない人です。誰のための仕事かわからずただ自分だけの為に仕事をしている可能性が高いです。三投戦法は事が成される原理の汽車のレールともいえるものです。投げて受ける過程が意思疎通です。また、私のものだけを投げるのではありません。他の人に向けても投げて受けなければなりません。関心と配慮、愛情と犠牲が他の人に向けて果敢に投げることのできる力です。 

 

「ひとつの点から始める」の構成員たちは投げて受けることが日常化しなければなりません。もし投げて受けることができなければ、意思疎通がなされないならばどのようにしなければならないでしょうか。まず、私が指名したため問題になったのであり、ガスが発生したのであり、条件の変化を要求するでしょう。「ひとつの点から始める」では違うものは違うといわなければなりません。 

投げて受けることができなければ、撮影者が決定的な瞬間にシャッターを押すことが出来なかったのと同じことです。常に遅く目つぶりだけを確認する撮影者がその役割を維持できるでしょうか。別の道を探すべきでしょう。「ひとつの点から始める」は状況を放置せず決定を迅速にします。各自の基準は尊重されます。基準は相対的です。しかし自身の基準で止まりガスが発生して皆が中毒になる状況を見過ごす事はしません。「ひとつの点から始める」は投げて受ける過程が無ければ耐えることの出来ないシステムです。いやそういうシステムでありたいです。 

 

 

-. 「世界初、日本初の写真館マニュアル1000」 

 「マニュアル1000」は現実を自ら規定して 1000ページ以上の本を作る事業です。 

 

「ひとつの点から始まる」の構成員は自分の主題を自ら決めます。主題を調査して学習し、 1次規定した報告書を「マニュアル 1000 審議委員会」に提出します。審議委員会に提出されたということは自分が属した単位でどの位論議になったということを前提にします。意思疎通でも話したように投げて受けてが何回も成り立ちながら日程の水準を維持していなければなりません。審議委員会は提出された案件と内容に対する検討を通じて「決定会議」に案件上程の有無を決めます。「決定会議」に上程になれば各単位では上程された主題に対する学習と討論をして「決定会議」に参加します。全体は 「決定会議」に参加して提出された案件に対する論議を通じて保留、追加の調査、決意の方法で決定をします。最終的に決定になれば個人で始まった主題が「マニュアル 1000」に入る資格が付与されます。規定された内容は直ちに効力が生じ「ひとつの点から始める」の組織と構成員に適用になります。適用はまあに、テストを意味します。日程期間適用の事例を分析して修正と補完を経てまた決定会議に上っていきます。 

 

審議委員会は客観的で専門的な領域で担当しなければなりませんが、現実的に容易ではありません。専門的な知識とライフスタジオを理解していなければなりません。また客観的な視点を基盤とした均衡感覚と権威も確保しなければなりません。この文を書きながらもこんな人や集団を探すことができるかも知れません。一旦、審議委員会が作られる前まで、臨時で「4人会議」が役目を遂行します。 

 

1人当り1年に3個を基本単位にします。1個の期間は自ら決めます。構成員合わせて10人なら1年に30個、2年なら60個の主題に従ってチームや単位で研究を遂行することもできる為少なくとも 2年に4~50個の主題が規定されます。このくらいなら1000ページでも不足ですね。 

 

「マニュアル 1000」 の主題は私達を構成しているすべてのものです。人間、社会、歴史、国家、権力、労動、ビジョン、戦略、戦術、組織、お客様、関係、意思決定、モチベーション、リーダーシップ、意思疎通、文化、規律、分配、所有構造、写真、デザイン、相談、商品、価格、ホームページ、オンライン、インテリア、衣装、環境、月給、休暇、インセンティブ、福祉、直営リーダー、教育、新入社員選抜、会計など数を数え切れないだけ多いです。写真だけ見ても写真と言うのは何か? 写真の歴史、ライフスタジオ写真規定、大人写真は何か? ベビー写真の特徴と実技、753の意味と革新方案、ライフスタジオでの照明と革新方案、写真とインテリアの相互関係、写真と衣装等々多いです。 このような多くの主題を自分が選択して研究して結果物を作ります。 

 

1年は主題を自由にしてその結果にしたがって 1年は戦略的選択による割り当ても考慮しなければなりません。「ひとつの点から始まる」は 2016年 2月から出発します。この報告書は 12月末に公開になり1ヶ月の期間の間「ひとつの点から始まる」の構成員は自分の主題に対する事前の調査を通じて考えを整理し、1月31日まで自分の一番目の主題に対する事前計画書を提出してください。主題が重複になるとか主題の修正が必要な場合には単位の責任者との相談を通じて調律することができます。 

 

じゃあ。。。どうですか?「ひとつの点から始まる」をやりたくなりましたか?でなければ逃げだしたいですか?でなければ、以前と変わったことがなくて興味がなくなりましたか? 私にもよく分かりません。「4大原則」で話したように、やりたいからやるのではありません。やらなければならない事であるからやります。やっているとやりたい事になるでしょう。「マニュアル1000」がこの前と違う事は、主題が私達の話であり、その適用も私達自らが受けるという点です。自ら決めて自ら適用を受け、自ら苦しいのに自ら楽しいことがあります。苦しければ堪えるか替えればいいし楽しければもっと良くないですか?ああでもこうでもなければまた中断して冬の王国になることもでき、どこかで白馬に乗った王子が現われるかもしれません。「ひとつの点から始まる」はある面で見れば「マニュアル1000」が核心です。たぶん表面だけを見ると「マニュアル1000」で始まり「マニュアル1000」で終るということが予想されます。まず量が多いです。そして、組織が運営される手順が「マニュアル1000」によって進行されます。また、「自ら表す直営リーダー5」も「マニュアル1000」の過程で表われるしかないです。 

 

「マニュアル1000」 に対する考えを繰り返すほどに「マニュアル1000」の成功と失敗の分かれ道に2つの心配があります。 

 

第一に、上の文で「余裕」を内部文化にしなければならないとも言いましたが、「マニュアル1000」の計画を見れば、余裕とか何とかいうまでもなく「マニュアル1000」にすべての神経が集中され、主客が前途される状況が発生するかもしれないという憂慮です。マニュアルが盛られた本だけが残り、人はいない状況になってしまえば「ひとつの点から始まると」が失敗したということを意味します。このくらいまでではないにしても「マニュアル1000」に埋没されて本当に重要な人、関係、内部文化のようなものなどが2番目に押し寄せられることがあります。「余裕」を確保しながら「マニュアル1000」が組織の元気なエネルギーと作用することができる設計が必要です。 

 

第二に、「マニュアル1000」をしながら首を下げる人たちが多くなることがあります。「マニュアル1000」の主題は私達の話です。お坊さんが自分の頭は刈る事ができないと言うように、自らの話を論文形態で作るということは、この前の論文プロジェクトとは次元が違う話です。また、自分が書いた内容を多くの人々が評価をしなければならないし、現実に適用されることができるように整えなければなりません。資料もそんなに多くなく、コピーにも限界があります。例えば「自由」に対する理論は整理することはできるても、実際に自分と組織の自由をどのように現場で具現することができるのかは全然違った問題です。また、自分の話が討論過程を経て再誕生しなければなりません。私達が本当にできないのが討論ではないですか? 論文プロジェクトが一方向で書かれた内容であったならば「マニュアル1000」は多くの人の討論を経て決意と適用の段階を踏まなければならないため、本当に高度なことなのです。このような過程を経ながら人々の目もとが黒くなって首を下げる人々が多くなることがあるかも知れせん。 

 

賭博のように何かをかけなければならないタイミングです。予想が的中すれば「ひとつの点から始まる」はライフスタジオを救う英雄になり、間違えば、何でしょう。。。大変ですね。 

 

自ら表わすこと、政治的効用感、成功経験の繰り返し、日常の余裕を確保、三投戦法など。良い言葉を多く解いておきました。このすべてのものなどが効力を発揮するためには、結局「マニュアル1000」を行う過程での感覚です。自動車をいくらかっこよく作っても各種便宜装置をつけてもこれらが進む力が基本です。エンジンで発生する力を始まりに、自動車は作られなければなりません。「マニュアル1000」も自分の主題を自ら導いて行く過程で発生する「何かができてるようなのに、何が違うのか」という感情が、自らの中で水にインクが広がるように感じられなければなりません。自分の中で火花が散ればその時からは高速道路です。火花以前には苦痛です。結局この苦痛をどのように耐えようか?そして苦痛から火花になる時です。 

 

では … ここからは集中して読んでください。 

 

私、個人的には「マニュアル1000」は魅力的で面白い課題です。また、うまくいけばその間の失敗を一気にとり除いて質的に変化された状況を作ることができると思います。「また論文なんですね…。また疲れる事をするんですね…。」と思う人も多いはずです。そうも考えられると思います。または違う視点で「マニュアル1000」を見たら、新世界が開くように見えるかもしれません。自分を自分が規定するということ。。。これ程胸ときめく事がありますか?このような事を、偶然ではない自分が決心してやってみたことがありましたか?何かが自分の中にゆっくり入って来てぎゅっと満たされる感じを受けた事があるはずです。何というか…。胸の中に広がる充満感だと言えばいいでしょうか …。自分が知ることによって確認を受けて価値が付与される時ではないでしょうか。お客様の写真を見ながらお客様も私も涙を流したことがあるはずです。撮影のための数万回の行動が確認を受けた瞬間です。「間違っていなかったな」。こんな価値を作るための行動であったということを確認しながら得るようになる胸中に広がる充満感は簡単には訪れません。「マニュアル1000」は、このように偶然に出会える自分の存在証明に対する意識的な努力です。自分との美しい戦いでありながら同時に一緒に関係を形成するための絶好のチャンスです。また、料理人にとって世界にある新鮮な材料で、ショッピングが好きな人には世界最大の免税店のように直接的に自分の問題を一緒に料理して購入することができる宝物箱とも同じです。私があまりにもオーバーしているのでしょうか?もちろん、うまくいけばそうだということです。問題は自分の存在証明の方式がどうしても適応されない学習、討論、文章です。チョンアがディズニーランドで遊ぶだけでこうなれたら、ウギュがお酒を飲むだけでこうなれたらどんなに良いでしょうか。 

 

甘い実を得るためには同程の苦痛は避けることができないのです。何かを与えると何かを受けることができます。核心は苦痛の種類です。チョンアは忘れたころにダイエットをします。苦痛が伴います。しかし、その苦痛が持続可能な苦痛なのか、それとも避けることができなくて自滅に陥る苦痛なのかは突き詰めなければなりません。「マニュアル1000」を行う多くの人々には、持続可能で甘い実を得るための、健康的な苦痛になるはずです。問題は全く違う道でどうしたらいいか分からない道に仕方なく意欲が喪失され「ひとつの点から始める」の根幹が搖れることの可能性です。一度つまれば息をつくことができなくできる性質を持っているからこそです。それで5段階の予防策を考えて見ました。 

 

1 段階 : 各単位の責任者が「マニュアル1000」において構成員のメンターになります。 各単位の責任者は構成員の主題に対して持続的に投げて受けます。 論文プロジェクトを遂行した時の店長は同じ立場でした。 自分の論文を完成するのにあくせくしていたのです。 周辺を見る暇がなかったのです。 各単位の責任者は自分の主題をする義務はありません。 構成員の主題に積極的に参加して均衡を維持することに集中します。 キム・ヒョヌク、清子がメンターの役目をうまく遂行することができます。 私も側面から支援をします。 

2 段階 : トヨタ自動車生産方式で 「大気の浪費」という概念があります。 以前は機械に人が配置されましたが不良や故障すれば機械が自動で停止するようにしながら費用を画期的に減らしたと言います。 各自の主題を遂行してみると前がまっ暗になる時があります。 この症状が持続すれば脱することが難しいのです。 この時泥沼から引き上げる非常ベルを作ります。 「ひとつの点から始める」のすべての構成員はしている仕事を止めて火事鎮圧にすべて動員されるという構想です。 誰でも非常ベルを押すことができます。 泥沼に落ちた当事者はもちろんでメンター、泥沼に落ちた当事者を見つけた人でも人を助けるのが優先であるからです。 大気の浪費を減らしてゴールデンタイムを逃さないで応急室での治療だけでも泥沼で引き上げてあげる方法です。 多分これがうまくできれば効果満点であるはずです。 「ひとつの点から始まる」の構成員でラインを作って {---}表示が非常ベルです。 {---}表示とともに自分の現状態を簡単に書いて救助を待ちます。 論理、お酒、お金、旅行、休息、ヒーリングなど各自は各自の方法でこの可哀相な羊を救出しましょう。 愛を与えた人だけが愛されることができるということ知っています。 この機会に大きい愛を与えてみましょう。 

3 段階 : 2週間学習休暇です。 回数は無制限です。 道徳的な緩みではない線で機嫌をうかがわないでためらわずに使ってください。 学習休暇は危機が来た時にだけ使うものではありません。 水が流れるように労動と余暇、主題と結果の均衡のために学習休暇制度を活用してください。 もちろん無給です。 もし 「ひとつの点から始まる」ではない方々が無制限的な学習休暇に対してきれいではない視線があることができます。 仕方ないですね。 言葉で説明することができないし自ら証明する方法の外には仕方がないです。 証明になれば全体で拡大するようになります。 ただ一つ頼みがあります。 学習休暇に行こうと心に決めたら代替え人力に対する代案は自ら提示してください。 物知らずのように学習休暇行くといきなり日付だけいうのではなく …  

4 段階 : 空間移動です。 現在としてはソウルのデザインボム、香川のココン、札幌のONEDAAYです。 環境が台無しである所もあれば良いと思います。 地獄に自ら入って行くことも精神的健康に役に立ちます。 自分を客観的に見られる空間への条件変化を通じて転換を模索する方法として費用も少なからず入って生の空間を移動することでありますが効果は意外に良いものです。 積極的にすすめます。 これも危機が来た時にだけ使うことではないのです。 代替え人力に対する代案を自ら作って楽に行って来てください。 

5 段階 : 臨時脱退です。 「ひとつの点から始まる」 以外の地へ行って再起を模索する方法です。 プロ野球で見れば負傷やスランプが尋ねて来ればリハビリ治療をするとか 2軍に行ってまた身と心を再整備します。 これもシステムです。 5段階を選択するということはある意味勇気です。 条件が違う空間に燃えている火を見てみることほど、状況判断が客観的なことはないです。 これは 2歩前進のための 1歩後退と言うよりそのまま 1歩前進です。 それほど軽く考えなければなりません。 機械が問題なしに回ることは故障の可能性が高くなっているということを意味します。 自ら治療する方法で臨時脱退も勧奨事項です。 

5 段階にわたった予防策は条件変化に関する話です。 人間は条件変化に対する拒否感があります。 勝ち抜けることができなかった自分が見すぼらしく見えたり集団がプレゼントする安楽な状態を維持したいのです。 ところで条件変化をしなければ人生の楽しさがありません。 問題はないが乾燥するように暮さなければなりません。 重要なことはどこを見て条件変化をするかです。 他人の目や自分の所有欲による現状維持は万病の根源です。 自分が目標にしている、「ひとつの点から始まる」で初めに持っていた心を成すための条件変化は結局後で現われるようになっています。 これのためには数百回ももっと条件変化をしなければなりません。 5段階の予防策は自ら選択しなければ強要によってもたらされる状況になります。 自ら病院に訪ねてインフルエンザ予防注射を打つのがウイルスに屈服することではないです。 自ら自身の体の条件変化を通じて現実を私が作って行くという意志です。 「ひとつの点から始める」では長く待つことはしません。 応急患者は即刻処置をします。 

 「マニュアル 1000」 を肯定的に考えて見ればこうです。 自分と他人の主題は 30:70がいいでしょう。 自分の主題にだけ埋没されることも健康によくないです。 1年に三つの主題をすると言えば自分の主題は一月に一つずつ 3ヶ月で終わらせます。 一月に終わらせて 2-3月休んでまた自分の主題を一か月で終わらせます。 残りは他の人々の主題をおこないます。 打って抜けてかみちぎって傷がつけば赤い薬を塗ってくれ一緒に食べて飲んで旅行も行って関係を形成します。 夜を明かすようにつながる自分の存在証明の香煙 … … … … これさえできればゲームオーバー … … … . 

余裕は主題を少なくしたからといって生ずることではないでしょう。 もちろん物理的な条件も必要ではありませすが余裕は人生の態度です。 お金が多くて選択の幅の広い人が必ず余裕があるのではないでしょう。 「マニュアル 1000」を見て 「精神をなくしていくのだな」と 心配する人々が大部分でしょう。 運用の畝をいかして有機的で均衡感覚を失わないようにと努力はするが重要なことは各自の心得と仕事の配分です。 自分の力量にあった適切な配分とできる程度して次を準備する人生の態度を維持しましょう。 自分の中で問題が起これば勇気をもって突破して、だめならば相談して 5段階の予防策も使ってお互いにお互いが希望の根拠になる文化を作りたいです。 

 

-. ライフスタジオの組織改編 

2011年度のライフスタジオは自中之乱の性格を持っていました。 リーダー会議が消えて店長会議体系になりながらリーダーシップの危機が尋ねて来たし、どこに行かなければならないかに対する会議がますます叫ばれるようになりました。方向感覚を失くした状況に現場は放置されて権力の中心部は何もしない真空状態で無気力な姿でした。 ライフスタジオの目標が明確ではなかったらたぶんその時から一般的なフランチャイズ会社の道に行ったかも知れません。 あの時選択した方法が本社中心体系を作って単一な単位を形成する拡大戦略でした。 越谷、草加、川口、新横浜、青葉、代々木、下関店が順にオープンし、浦安、青山、湘南店が本社中心体系に入って来ました。 規模を拡大しながら「2013年体制」が出て論文プロジェクトまでつながりました。 そして活動中断になりました。 このような過程で多くの新入社員採用がありました。 拡大戦略は目標達成のための条件を作るための選択であったし本社中心体系を中心にライフスタジオが行かなければならない方向の模型を作ろうとしました。 2次論文プロジェクトまで進行されながら既存の方式では目標を成すことができないという判断で活動中断をするようになり、今 「ひとつの点から始める」を計画しています。 

2012年から始まった拡大戦略は失敗しました。 失敗の原因は多くの報告書で取り上げていますが一言で整理すれば私達皆の無能力です。 外部の変数によったのでもなくて戦略のエラーでもない目標を果たすことができる能力が不足していることを認めます。 それでも目標は正しいと思うから再び 「O」から始めるという言葉が出てこの文も書いています。 「ひとつの点から始める」はそのままひとつの点で始めればいいです。 それでは加盟店と本社の管轄する店舗はどうすれば良いでしょうか。 

 

先にこの文を通じてライフスタジオを眺める私の考えを整理したいです。 

 

ライフスタジオを初めて作って加盟店に対する問い合わせが来た時気持ちが良かったです。 特別に外部に表現はしませんでしたが会社が認められたということで経済的利益も少なくないからです。 経済的な部分は瞬間で加盟事業をする理由は私の不足さに対する反対給付です。 良い会社を運営するために 100が必要であったなら私は 10 くらいです。 90が必要です。 一緒に仕事をする人が必要です。 加盟事業をするというのは先に加盟店の社長とともに仕事をするということです。 能力は不足で人は必要であるため加盟店オーナーの持つ自発性が魅力的に近付きました。 加盟店が 10個ちかくになったということは自発性を持った人が 10人身近にいるという話です。 それでは何になってもいいはずであるつもりでした。 自然にリーダー会議が作られて共同経営という名前でさまざまな規則と規律が作られたが時間がたつほどますます加盟事業に対する問題が発生し始めました。 ナミがライフスタジオを出るのが一番目だったし、加盟店で第 2 ブランドや 2号店話が二番目で魂のない店舗の出没が三番目でした。 仕事をして見ればこんな人もあんな人もいるという事で過ごしてきましたが加盟店オーナーは同じ傾向を見せながら、ますます加盟事業をしなくなりました。 加盟店オーナーが一緒に仕事をしていく人から説得の対象になりながら本社中心体系を構想するようになったのです。 湘南店を最後に加盟事業は中止になりそれから顔も見ないで看板だけ一緒に使う店舗が生じました。 

運が良くもお客様の足は絶えず経済的な問題では自由になりました。 

今率直に申し上げれば 1-2年前からライフスタジオ加盟店に対しての責任意識は消えました。 道徳的義務感もあまり高くないです。 自慢ばかりの結晶体の言葉にすれば 「することはすべてした」で整理することができます。 ライフスタジオの加盟店はもう各々生計を探していかなければなりません。 私がライフスタジオを売却しようがブランドを無くそうが法的、道徳的義務はすべてしたと思います。 本社は本社どおり行く道に行って加盟店も各自の道に行きます。 意味が合えば一緒に仕事をしお互いに違えば各自の道を行くことが現段階での状況認識です。 

 

加盟店はこのくらいに整理して、本社管轄地点に対する話をします。 目標を成すために拡大をしたし目標を成すことができないから縮小をしなければなりません。 縮小が重要ではなく我が身に合った組織を作るための再整備が必要です。 人々は言います。 「いや … .. 人々が普通に問題なく仕事をしてじっといても利益が出る店舗をどうして縮小するかと … ..」 私はそのように判断していません。まずみんながきちんと仕事をしていないです。 店舗の構成員が退社をすればどうすればいいでしょうか。 普通は新入社員を採用します。 これは店舗運用を維持するという意味です。 ここで状況認識が違います。 私は現在店舗が正常に運用されていないと思います。 問題があるというよりは私達の願う店舗ではないという話です。 誰も分からなかったまま時間が経てば亀裂はもっと大きい災いになるでしょう。 先制的な対応が必要です。 自然発生的に欠員が生じれば補わない予定です。 自ら人員は少なくなって店舗も縮小にならなければなりません。 変化する状況に対処するために私達の体を減らしておく必要があります。 また利益が出る事は別に関心事項ではないです。 一つの店舗で出る利益を私の月給や配当と連動させなかったです。 店舗は店舗で大部分の利益が消尽される 

為職員の平均月給が級上昇することもないです。 もちろん店舗が多ければ資金の余裕空間が確保されることは事実ですが本社の構造上特別な意味を持つことができないのです。 

現在推進している地域別店舗連合は分散している各店舗を地域で強化しようとする事業です。 店舗 

を減らして各店舗の人力はふやして効率性を高めて余裕を確保しようとする政策です。 このような 

流れは我が身に合った組織を作るための再整備の一環で推進されています。 これから規模は縮小して内実を押し堅める形態で組織を作って行かなければなりません。 「ひとつの点から始める」は持続可能な組織の最初模型を作るための実験を持続してその他店舗は勤務条件の改善で方向を取ってい 

きます。 

 

次は新入社員採用に関する話です。 新入社員採用がしばらくありませんでした。理由は簡単です。 ライフ人として作る自信がなかったからです。 それでも人は必要です。 それで採用しようと思います。「ひとつの点から始める」でこの前と違う方式で採用と教育を進行しようと思います。 これも新入社員をひとつの点と思ってはじめから体系的に人を作って見ようとする冒険です。 この部分は清子の個人主題になるはずで早いうちに計画書が提出される予定です。 

 

-. 短いまとめ 

この間本社実務会議に対する評価をした事がありました。 皆いいのに全体的に一歩引いた状態で仕事をしている感じだと言いました。 実はその話は私自信に言う言葉です。 去る日の活動を振り返りながら一歩引いた状態で仕事をする人が私であったということを実感しました。 人員が多いという理由で、通訳を通じなければならないという言い訳で、毎日まったく同じ状況が繰り返されるという癇癪がますます現実と離れたまま私の手に土がつかない位置で指揮奉を振っていました。 

 「ひとつの点から始める」 は二つの足が現実に立っていなければなりません。 私からたっていなければなりません。 「しなければならない」と言うのは「している」を保障しないです。 「している」は「なった」を保障しないです。 しなければならないことがなったことにするための何種類かの計画を整理しました。 「ひとつの点から始める」は現実で適用して現実でなっているようにするための計画です。 私から現実にいるようにします。