レポートReport

2016.07.31「ONE POINT-ひとつの点から始める」

2018/4/23

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  ONE POINT 
ひとつの点から始める
                                                               
                                                                  
 
2016. 07. 31. Mr. Lee
 
 
始めに
 
去る5月すべての活動を中断しました。
 
もう一度始めると言いましたが、まずは夕立の雨をさけてみようという心情でした。各自の論文はどんな形体であれ結果が出て名分は作られました。とりあえずやり遂げたからと勘違いして新しい形式を探しどこかに向かうだろうと。お互いが拍手をし論文を終えた何ヶ月の余裕の中で今後を模索する方法もありましたが、急な活動中断を選択しました。個人的な趣向かもしれないし、今まで積もった感情かも知れません。常に不安と悩む人達ももう疲れました。組織の方向や運命を個人の趣向や感情で決定するという事もとても問題ですね。しかしある決定をし、今後行われる事を見るとその決定の適切性を判断できると思います。
 
活動中断の決定が適切な選択だったでしょうか?でなければ厚顔無恥の典型的な姿でしょうか?
 
活動の中断を決定した後の6ヶ月間、私達にどんな事が起きましたか?
 
6ヶ月が過ぎた時点で何か鮮明に確認できた事はありますか?
 
人には人生の転換点を提供する事件があります。私自身も何点かあります。恐れを勝ち抜く事ができず、自尊感に大きな傷を残した中学生時代があり、強烈だった初恋の記憶で今でも異性との出会いがぎこちないです。成人し、サガナムを辞めもぬけの殻になってしまった経験が大きくあります。私にとってサガナムを整理するという事はサガナムの根本がなくなるという事を意味する為、何か大きい事が起こるのかと思いましたが、何の反応もありませんでした。その当時は、裏切られたと思いましたが、今振り返ってみると沢山の事を知るようになりました。自身がもつ最も大きな勝負の賭けをなげ、みすぼらしい現実という形の贈り物をもらいました。サガナムをでてみると、自身の存在の重さを正確に計る事ができ、サガナムがもつ成果と限界に対して少しはより客観的な視線を持つようになりました。私達は6~7年間維持してきた事業を中断しました。それもある一瞬で中断しました。そして6ヶ月が過ぎました。
 
私がみる6ヶ月間を一言で整理すると「何も無かった」です。
 
活動中断の理由を説明する報告書にある文です。
 
私が「次は何なのか?」という文を読みながら一種の自覚をしたのは、ただやったという事とそうなったという事を混同し、ただやっていたらそうなったと錯覚したことです。与えられた形式に合わせただやった事をそうなったと考えてしまったということでしょう。内容が変わらないといけないのに、内容はそのままであるにも関わらず、なったと錯覚して又新しい形式を作ろうとした事です。
私達は皆、高校という形式を通過しました。でも各自に残った事は何でしょうか?

 
6ヶ月が過ぎた状態の結果は「私達はみんなDチームになって何もなかった」です。
 
台風の強い暴風雨が過ぎながら瞬間静かになります。活動を中断した6ヶ月は一部を除いて台風が過ぎたひっそり感にも似ています。悪質な書き込みより恐ろしいのは何も書き込みがないことだといわれますが今がそのような状況です。活動中断を別の側面から見れば一種の自由が与えられたということでしょう。全体に対抗する個人の活発な動きが発生することのできる条件です。コインの両面のように、組織と個人は、葛藤と協力により発展します。組織が活動を中断すれば、個人のエネルギーが発揮され、再度組織を動かす動力として作用することができます。しかし「何もなかった」とは何を意味しているでしょか?
 
現実は疲れ何か「これは違う」という考えは変わらない事実です。どこかに向かって行きたいという欲望が贅沢に感じるくらい、現実での障害物は強固になってきます。途方もないスローガンを立てる組織の提案が耳寄りに感じられ、各自は自ら賛同しました。隊列から離脱する人たちが出ることもありましたが、残った人たちの熱意は冷めることはありませんでした。活動中断は、熱意の問題ではありませんでした。方法の失態が確認された状態での決定でした。各自の活動が現実につながるわけでもなく形式だけが強化される状態が繰替えされました。情熱を持っている状態での活動中断は、どのような形態であったとしても反発を予想することができます。しかし、活動中断が決定された後、誰も反発せず、その後特別な行動は起こりませんでした。「何もなかった」私達の現状態と能力を正確に見せてくれる指標です。小学校の授業の時間、最後に先生が出す宿題によって午後の日課が変わります。無ければ良くてあればそれをやります。6~7年間やってきた私達の活動が宿題によって意味も分からずやれといわれればやり、無ければ無いという日課のようなものだったのでしょう。これは自ら条件を変化させる能力を持っていなかったという意味です。各自の現実は疲れ果て、変化したいという気持ち持っています。だから、現実を変化させようとする組織の呼びかけに情熱を持って各自は参加しました。一生懸命やればそのようになるということを信じ、走ってきましたが組織が活動中断を宣言したとたんに各自も同時に活動を中断することになりました。やるのであればやり、やらないのであればやらないという。それくらいの能力と情熱でした。私達がこのくらいの能力と情熱であったことを認識したということも成果といえば成果です。
 
では今からライフスタジオはどこに行かなければならないでしょか。
 
やってもいいしやらなくてもいい選択の問題でしょうか。
 
活動中断を宣言し、済州島であれこれ考えてみました。方法は4つ…
 
ライフスタジオから出るか、
 
金銭的な利益だけを得て、別の空間で欲望を満たすか、
 
新しい人達と新しい組織を作って新しく始めるか、
 
見えそうで見え無そうな理想的な共同体を作る為にライフスタジオでまた始めるか。
 
この4つの選択肢から、見えそうで見え無そうな理想的な共同体を作る為に、ONE POINTという名前でまた始めることを決定しました。ONE POINTを選択した理由は砂漠の砂粒くらいたくさんありますが、特別に言及することはしません。それでもONE POINTを選択した理由を挙げるのであればこの一言です。
 
[ライフスタジオでできなければどこでできるのか]
 
ライフスタジオを辞めていく人達にいつもする話です。新しい人と条件を探していくということは弁明である可能性が高いのです。やるならばライフスタジオでやり、やらないのであれば徹底的に個人として生きていくことになるでしょう。私達がこれまで言ってきた言葉を信じているのでライフスタジオで新しく始めることはとても自然な事です。
 
重要な事はやるならば上手くやるべきだということです。
 
失敗と成功の基準は自身がどの方向に立っているかにかかっています。やること毎に失敗を反復したからといって、必ず失敗したと規定する事はできません。幼い子供が何回も転んで自ら歩けるようになるように、失敗の反復は成功の為の準備の行為であることもあります。
進んでいた道を歩むのをやめることが失敗と規定されます。「何もなかった」という決定的な証拠は「何かがあった」という錯覚の中で仕事をしてきたいという事を意味します。「何かがあった」は「忙しさの中の怠惰」の別の言葉のようです。ONE POINTはひとつの点で、自らを表す為の計画です。この計画は、私の責任回避の為の柱であるかもしれないし、自身の仕事の創出のための煙幕であるかもしれません。どうしましょうか。私が持っている能力と潜在的な力をUPさせて失敗を減らす方法が最善です。また、自ら表そうとする人と共にしたいのです。
 
ONE POINTは唯一の方法です。そして私ができる事はこれ一つです。
「やるならばちゃんとうまくやろう。私から]
 
2つの障害物
 
「ライフスタジオは何をしようとしているのか?」という質問に対して、もっとも簡単な答えは「人間らしく生きよう」です。「どのように生きることが人間らしく生きることですか」という質問には「関係を形成しながら自身の道をみずから行くこと」と答えます。私はあなたとして表され、私達という囲いの中で生きていきます。相互作用が即ち関係であり、関係の中で私が規定されます。その規定を認識して行動し、変化させる過程が即ち人生の原理です。そのような規定の中では私が他と同じようになることと違うようになりたいということが衝突します。同じようになろうとする事と違うようになろうとする事に、特別な価値があるわけではありません。同じようになろうとする事にもいいものと悪いものがまた衝突します。違うようになろうとすることも同じです。この題目で自分らしく生きるための前提条件として自由が登場します。関係を形成しながら自分らしく生きる為にもがく事が、即ち人生の意味であり、この活動は一種の志向性を持ちながらより高い次元にいくようになります。変化発展プログラム、人文学、4大原則、論文プロジェクトもみな人間らしく生きる為に登場しました。
 
ライフスタジオの10年を見ていると人間が人間らしく生きるという事がとても難しいという気がします。人間らしく生き、もっと豊かな人生に向かう旅程でないといけないないのに、人生自体が人間らしくありません。一度静かに考えてみてください。
 
ライフスタジオの構成員の間で真の人間関係を交わしていたり、
自身だけの道を歩いている人がいるのか・・・・
 
少し前にある店舗で退勤時間が5分ずつ違うという話を聞きました。一緒に退勤する事が負担になるので、退勤時間になると、誰がカバンを持っているのか、靴を履き玄関から出る音に気を使うでしょう。こう生きるのが人間らしく生きていく事なのか、窓のない監獄から家に帰る事なのかわかりません。衝撃的な事です。
 
しつこいほど人間関係に対して話をしてきたのに現実はなぜ良くならないのでしょうか。
 
皆がそうなる事は出来ませんが、10人中2~3人が前に進めばずっと維持できる力ができます。しかし大部分が同じ病気にかかったように同じ症状を見せます。6ヶ月間の活動中断の過程でも同じ事が起こりました。こういう状態では通常、計画の失敗と推進勢力の無能を言います。もちろんこの部分も少なからず作用していますが、問題の本質ではありません。その理由は計画された物に対してはすべて一生懸命取り組むからです。皆が同意し誠意持って一生懸命に行います。論文を書けと言えば書き、哲学を勉強しようといえば皆が手をあげます。今では計画をする時、皆やるというと逆に心配になります。しかし、問題は各自が行っている事が外に出てこない事です。個人で取り組む作業は上手く出来るのに全体的にみると成果や勢力が形成されません。核心はここにあります。一所懸命行えば誰かが這い上がってくる、こういう事が繰り返えされると勢力が形成されバランスが取れます。その組織された力で次を話す動力が出来ます。ところが、6~7年の時間這い上がってリードする勢力が形成されませんでした。
 
全てのことは速度とバランスが重要に適用されます。次を話す動力が生まれない為に勢力が形成されないのは、現実に、ある大きな障害物があるからです。使う力に対して速度が出ず、不均衡な状態が持続されています。集まる過程で楽しさが発生する良い循環構造が作られない、現実の障害物があります。
 
一つ、人間関係の破片化
 
破片化という言葉通り、集らないで壊れて散ると言う事が持続的に表れる現象です。民族、国家、家族という集団が段々個人という小さな単位に割れて、既存の思想や概念、文化が変化していく状況に主に使われる用語です。外国人が日本を見る時、色々な事で驚く事があるのですが、その中の1つが自身を表さない事です。人に迷惑をかけまいという文化が資本主義と結合され人間関係が破片化されたのではないでしょうか。消極的自由主義が極端的に個人主義へと発展しながら社会性が段々退化している姿です。他人に対する配慮が無関心や傍観につながり、関係形成の技術等が退化します。小さな傷で関係設定に対する意思が弱化し、最初から試みさえしなくなる状況が文化として固まった感じです。仕事だけではなく、人間関係においても距離が置かれマニュアルが強化されたのは当たり前の結果です。中央で推進する事業は大部分同意し一生懸命行います。これも人間関係の破片化に対する反発です。皆人間関係の破片化を願ってはいません。不幸だからです。人間関係の破片化という渦の中から脱出したいという意思で一生懸命行います。こういう判断は理論に基づいたことではないのです。10年間の観察と経験による推理です。
 
最近、草加店が注目を浴びています。私がみる草加店は「やるべき事をやっている」です。上記で記載したように皆も一所懸命やっているのですが、成果がでないで疲労だけが溜まっていると話しました。草加店も同様に一所懸命行っています。同じようにやるべき事をやっているのに注目を貰う理由は、自身が行っている事がそのまま蓄積されているからです。特別な成果があって注目を浴びているわけではなく、自身が行った事達が自ら表れて自負心となり、その力で次に対する希望をもつという原理が作動したからです。特別な事が無いように見える草加店の肯定作動原理が実行されている理由がなんでしょうか?私の判断は人間関係が水が流れるように自然で、人と人のバランスが取れているからです。バランスが取れているからこそ、水がよく流れ、水が流れながらバランスはとれるのです。バランスを合わせる為のリーダーシップも一役しています。人間関係が水が流れるように自然だという事は他の言葉でいうと、人間関係が破片化しておらず、自然に集まる時は集まり、去る時は去るという事です。
そうなると自分たちの行ってきた事はそっくり残ることになるでしょう。
 
すべての事は、人から始まり人で終わりを結びます。理由は簡単です。すべての事の目的が人だからです。始まりも人で結果も人です。自分だけ上手くやればいいと考えがちですが、自分だけ上手くやる事の中にもっとも重要な内容が人なのです。人を除いて自分だけ上手くできる事がありますか?人間は本当に弱い存在です。国が戦争を起こすと侵略国の国民になり、私が出した税金が人間を虐殺するミサイルになります。そして自分と関係なくいつ家にミサイルが落ちてくるかもわかりません。構成員達は1つの店舗で作られる和音により自由になれません。ガスが発生すると私の意思とは関係なくそのガスを吸わないといけません。人間関係が破片化している組織では自分だけが上手く出来ません。私から発生した感じや考えはあなたによって確認され解体され再び生成されます。これが流れなければ停滞して、溜まり腐って歪曲が起こります。しかし構成員一人一人は孤立していて、私に入って来た数多くの情報と経験を上手く消化できずにいます。ひたすら解釈は私だけがなされて、その結果は不安と否定の連続です。店舗単位で仕事をする人達をみると、大きく忍耐型とあきらめ型があります。忍耐型は自身に入ってくる物を外に出すことができず、段々ガスが溜まっているまま、その状況を我慢します。あきらめ型はそういう状況を当たり前の事として受け入れます。忍耐が酷くなると問題が発生し最終的には店舗を変えたり、退社を促します。あきらめが多くなると5分ずつ時間をずらして退勤する事が発生します。この二つは「問題がない」を追求します。形成や価値、変化と同じ単語が入る席は減り現在の状態からさらに悪化しないように選り好むようになります。従って変化がない事を良い事として受け入れるようになり、判断の基準が「問題がない」となります。結局こういう全ての事は不幸ですよね。
 
私がよく行う事は観察です。計画を立て実行をし、自分だけの道具を使い、流れる脈絡を読む為に努力します。その過程で出て来た単語が「まさか」です。まさか、が人を捕らえるという言葉がありますが、まさかその程度まで・・・を繰り返します。面談をすると大部分の人は同じ問題をもち悩んでいます。慢性偏頭痛と同じように、自身の中で行う事に対してのわからなさによって苦しみます。結局相手の問題ではなく、自分自身の問題ですね。自身の問題が相手に転移し関係が段々と悪くなっていきます。4大原則の大部分の内容がこの問題を基盤とし作成されています。人間関係の破片化問題を解決せずには一歩も進む事が出来ません。
 
私達の事業に成果が出せない理由は、学習と教育が各個人の中だけで成なされ、
その成果が共に仕事をする人間の関係網に入ることが出来なくて消滅します。
人間関係の破片化が噴き出す断絶と孤立は
次を語る事が出来る動力を弱化させます。
 
今まで個人の好みによって店舗の人員を構成しました。皆失敗となりました。イメージで選択した事は現実で実体があらわれるからです。結果的に自分にとって脅威的であってはならず、煩わしくふるまってもならず、適切な雰囲気に流れていきます。その勇気を維持させる事が出来る人員構成と共に成功事例が必要なのです。
 
二つ、内容の再生産構造
 
会社や組織を構成する要素は数を数え切れない程多いです。このすべての事を上手く出来ないから会社や組織の文化、そして進む方向を考慮して選択と集中を通じて競争力を強化しなければなりません。ライフスタジオでは人らしく生きる為に学習と教育を最優先に配置してきました。学習と教育は手段であり、目標ではありません。学習と教育を通じ自身の問題に堂々と対抗していく体力と論理を育てる為でした。出発ラインという言葉で表現された、ある段階に上がってきたら、現実と結びついた主題を設定しようとしました。選択と集中の原理が作動しながら学習と教育に集中しましたが、成果がでてこなかったので、推進動力は弱まっていきました。
 
ならば学習と教育をする過程で何が問題だったのでしょうか?
 
2016年を準備する為に今まで書いてきた文章達を読み評価作業をしている中、遂にあの方が天から降りてきました。「2013年体制」報告書で2012年を評価する部分にこんな文があります。
 
上記の文章を整理してみると、2011年のライフスタジオの状況はこうだ。表面上は何の問題もないように見える。ところが、私達が成し遂げようとする目標の基準から現実を見れば、その判断は非常に変わる。まず、複数の事業が内容より形式に偏って本来の​​意図がかなり褪色していた。代表的なのが、各店舗に討論文化が定着されずにいることだ。私達がこれほど多くの投資をしているにもかかわらず、この程度にしかならないことは、どこかに大きな障害があるからだ。
第二に、現場と学習、現場と教育が分離されていた。ライフスクールやサークルでたくさんの話があったが、現場では現場の論理が優先される。私達の学習と教育は、単に週末に楽しむゴルフとは性格が違う。共通の目標に同意をしたからこそ学習と教育は会社次元で行われており、集中投資をしている。現場で適用されない学習と教育は底に穴があいている壺にずっと水を入れているようなものだ。
第三に、現場の構造が学習と教育のためのシステムではなかった。店舗で学習と教育のためにやっていることが、全体に与えた主題に対しての討論を一、二回形式的にするということが現実であった。現場では、学習と教育システムが皆無な状態でライフスクールやサークル、または学習休暇を介して各個人の活動次元で行われていた。
集中と習慣という原則の下、学習と教育のための様々な事業がライフスタジオの構成員に適用されたが、それを組織という枠組で実行、評価、修正の段階を経て変化発展するべきなのに、そんな姿を見せてくれる店舗がなかった。各個人に学習と教育を任せて私をはじめとし、リーダーたちは傍観者的な姿を見せた。どこから間違ったのかを悩みながらでてきた代案は、『現場のシステムから変えなければならない』という結論だった。

 
この部分は本社中心体系を作る事になった理由について書いた文です。この後には越谷店現場適用プログラムの問題点を取り上げ論じながら、さらに選択と集中をし、システムを作り水面上に上がろうと主張をする事になりました。こういう評価を基盤とし2012年末には学習と教育の効率性を高める為にさらに強いシステム(2013年体制)を導入しました。
 
過ぎし日の計画と評価をみながら分かった事は、大部分形式に対する話であり、当時の状況に合った形式を探す過程でした。より効果的な形式を提示したら突破できるだろうと信じ色んな装置を羅列してきました。これは仕方ない面もあります。下地を作るのが自分の役割であり、その下地の上で踊りを踊るのはその上にあがった当事者だからです。いくら良い音響と照明を準備しても、その人が踊らないと無駄になります。例えば、論文という枠において、6カ月間50ページ以上書くのであれば、少ながらず何かが出るだろうという希望がありました。論文は完成され、50ページ以上書きました。しかし、次を約束出来る動力の確保が出来ませんでした。なぜでしょうか?生産と消費を代入してみると、容易に説明出来るかもしれません。労働を通じ、もらう賃金をすぐに使ってしまうと消費の効用と一緒に思い出だけが残ります。賃金を消費の対象ではない、生産の側面でみるとまず貯金をして未来計画にあった賃金に対する消費の計画をします。賃金を再び生産過程に投入する事になるでしょう。論文を書く事自体が生産と消費のどの側面が強いかによって論文がもつ性格が変わります。論文が個人の満足で留まってしまうと、論文を書く事自体が消費となります。「わぁ、この長い論文を自分の手で書いたなんて・・・」自ら感動し思い出に移る事になります。論文プロジェクトは論文完成が目標ではありません。論文を準備して書きながら知っていく事と、その一連の過程の中での人との関係網を作っていく事です。おそらく論文を書きながら何かを感じた事でしょうし、自分の中において何かしら役に立っている事でしょう。しかし、自分の中にあるものが生産の原料とならずその次を話す動力が作られませんでした。

私が計画書を書く時の基本的な立場は、形式の中で作られる内容がなんであれ、一緒に感じて知るという共通の経験が一定のエネルギーを作ることだろうと予想しました。そのエネルギーを予め話すのもおかしい事だし、そこまでは待たないといけないという事でした。言い訳のように聞こえるかもれしませんが、事実がこうです。その部分まで話すと言う事は未来を予め設定してしまうという問題が発生します。共通の経験で一定のエレルギーが作られると、その後一緒に相談し未来を一緒に描いていけると思いました。何というか、魚をつかまる原理で話すと、各自に合った釣り竿が出てくるはずで、何かを釣り上げてくれればそれを一緒に料理する風景・・・問題は魚が釣れないと言う事です。私も釣りに対する渇望によりチェジュドに来ました。釣れないため釣りをしないで、みかんをとっています。釣りに対する興味が段々と消えてきました。つまり、自身が釣った魚が又海に戻るという生産的な材料にならないといけないのですが、そう出来ずに思い出だけが残ってしまう過程です。
そうなると又思い出を作る為の新しい形式を待つようになります。
 
このような問題が発生する原因は、上記で話した人間関係の破片化と深い関連の中にあります。もう1つは、内容の再生産構造が作られない事にあります。内容が作られれば、その動力で高い段階に進まなければいけないのですが、内容が個人の経験の中だけで回ってしまって消滅してしまうのが決定的原因です。一週間に2日休む事も、お盆がある事も、異性の友達を探し道迷う事も、結婚する事も、子供を産む事も、いつかは死ぬ事も、見方によっては内容の再生産構造が作りだした騒々しい法則です。内容の再生産構造は他の言葉でいうと変化発展プログラムの事です。新しい物が生まれ、古い物は退化して死滅していく原理がまさに内容の再生産構造です。よく撮影者が毎日同じ写真を撮影しながら感じる退屈さを克服しようと様々な活動を模索します。内容が同じだから新しい物は出ず、古い物が独占していることに対する抵抗です。その場を占めている事に対する抵抗です。内容が再生産されないと、放棄し諦めの段階に至ります。
 
内容の再生産構造で重要な事は、自ら体を動けるように作る新しさです。動機が付与され意味が確保できる程度の新しさが自分の中で作られないといけません。「そうなんだ」を越えて「それならばこうやって」とならないといけません。答えは哲学入門でしつこいぐらい出て来た「現実」です。
 
この部分においてウギュリーダーの書いた文の中で歴史に残る「ライフスタジオシーズン2の理論的根拠とモデル」の部分を引用してみます。
 
IV. 直接参与の為の二つの条件
- 話がある程度流れ流れて直接参与まできました。この文章の流れを簡単にまとめてみると、政治的直接参与がうまくできれば、何を、どうして、自立することができると主張しているかのようだ。そうなのであれば、最後の理論的モデルとして直接参与するためにはどのような条件が必要なのかについて調べてみることにしよう。
私達は、実際には前述のように、自身の意見を準備して談論を形成し対話し討論などをしながら「直接参与」をすることが良いこととわかってははいるものの実際には、あまりにも大変で疲れることだ。

たとえば、私のような何かを言い張ることが好きな人と対話するとき、または権力を前に出して自身の意見を強圧的に主張しながら相手の意見を主導しようとする人と対話するとき、または全く全体的な流れも知らず自分が言いたい言葉だけ発する人と対話をするとき、または議論はさんざんつくしたが実際の私の生活では何の変化もないとき等の状況では、我々は弁証法であれ何であれイライラが押し寄せてくるのが事実である。
だから「直接参与をするときに、このような消耗的な状況を避けるためにある具体的な条件を見つける必要がある。そこで、私達が見つけた2つの具体的条件は、「市民的徳性」の涵養と「政治的効能感」の増大を挙げることができる。難しい言葉を使うようになったが理論というものがそうであるように内容を現実的に分析し詳細に調べて見ると難しい概念ではない。具体的に見てみよう。
 
A.「市民的徳性の涵養
- 結局「直接参与をするために我々は自身の意見を作り、学習し、討論を準備すべきなのにこの時必要な「市民的徳性」の涵養を簡単に表現すると、このようなもの(自身の意見を作り、学習し、討論を準備)を上手く行うために技は術的な能力を高めなければならないということだ。討論を上手く行うことも徳性であり、能力である。

すなわち、私達は自立した状態であるためには、自身の観点を表現しなければならない。しかし、うまく表現しなければならない。大まかに自分だけが知っている表現で言っておいて、相手が自分の意見を受け入れないからと怒ってはならないのである。また、他人の意見を聞いて共感してその上で理解することは理解しなければならないが自分の意見をより強力に主張しなければならときにはそうすることができる能力が必要である。ライフスタジオらしく言えば適切に「ミサイル」を飛ばすことも必要であり、必要なときに、パトリオットミサイルで相手のミサイルを適切に「防御」する術も知るべきであり、相手が苦しむときには適した「絆創膏」を付けてあげることもできなければならない。

そして、さらにこのような観点の表現以前に私の観点を作るとき、より根本的に「市民的徳性」は重要である。たとえばお客様単価を高めるために、東京23区の中に住んでいるお客様のみ予約を受けるとは意見を持って多大な努力と学習をした後に経営に直接関与して埼玉のお客様は撮影することができないようにするという意見を完成したと考えてみよう。何か今まで言われてきた脈絡での直接参与とは何か乖離が感じられる。おそらく、このような直接参与を私達が追求する直接参与と考えるのではないのである。私達が追求するのは、個人的な観点を無視してはならないが、同時に社会的な視線を同時に考慮する。「哲学入門」に出てくる難しい言葉を引用すると、特殊だけではなく、普遍的と特殊が統一されなければならない。このように普遍的と特殊が統一された意見を持つようになる能力もまた「市民的徳性」を養うことで可能となる。

まとめると普遍と特殊が統一された意見を持つことと、さらにそのことを正確かつ効果的に表現し伝達する能力を持つことが即ち「市民的徳性」の涵養である。それでは、このような「市民的徳性」を高める方法にはどのようなものがあるだろうか?
私達がいつも強調する「学習」である。

そのため、私達は学習をしている。学習するための方法と理論についてはライフスタジオ「白書」の「教育」の部分や「4大原則の解説」の「読み書き議論を第一優先事項に」などを参考にしていただきたい。
実際に私に誰かが「学習の本質は何かと問われれば、その質問に答える資格がない。しかし、より重要なことは、私達が追求する「学習」も「自立」と似ていて固定されたどのような状態というよりは「態度」に近いと考えられる。そのため、「教えることはできるが伝えることはできない」という宮本武蔵の表現を借りれば「学習に対する考えと方法は教えてあげることはできるが学習そのものを伝達することはできない」
しかし、一つの教えることができる学習に対する希望はある。昔の仏教の格言に「学ぶ準備ができていれば師匠は現れるようになっている」という言葉がある。あなたに学習のための意志があれば道は無条件生じることだろう。私達の周りに私達を助けたがる師は空の星のように多い。ただし、私達が見られずにいるだけだ。
 
B.「政治的効能感」の増大
- とにかく、このような着実な学習と努力で「市民的徳性」が高まるとしても私達が自立という空を飛んで行くためにはもう一つの翼が必要である。即ち「政治的効能感」の増大である。
市民的徳性と同様に政治的効能感も難しい概念ではない。簡単に言えば、私は他の人と毎日討論し戦い酒を飲んでまた準備して学習し、また討論して戦ったのに私の実際の生活に何の変化がなければ力が抜けてしまう。相当な変態でもない限り、このような状況を長く耐えることはできないだろう。このとき必要なのが「政治的効能感」である。

簡単に言えば、私達の「政治的決定」が実際に効果を発揮されるように作る状況になることが即ち政治的な効能感が高まった状態である。そして、これらの政治的効能感を高めるためには制度的なシステムのサポートが絶対的に必要である。システム的に私達の政治的決定が、実際に私達の生活を変化させなければならないということである。直接参与をするのに何の変化もなく「市民的徳性」だけ高くなるのであればその参与はただの「学習の集まり」に過ぎない。私が「直接参与」をするためには、私が、その参与の主体であることが絶えず確認される必要がある。

しかし、すべての決定を「直接参与によって決定しなければならないわけではない。しかし、今、私達の条件に合わせて段階的に「直接参与」が可能になるよう「政治的効能感」が増加される方法を着実に考えて見つけなければならない。例えば、非常に簡単な方法で自由サークルのような組織を会社から制度的に支援することもでき、直接会社の経営には関係がなくとも、間接的に互いに影響があらざるをえない福祉のような部分から効能感を高めることもできるものであり、あえて経営の一定部分を制度的に「フォーラム」やその他の集りや全体が自由に参加できる部分に委任する方法もあるかもしれない。このような方法の追求は、「市民的徳性」を高めることができる学習の方法と合わせて必須的に考え適用されるべきである。

しかし、勘違いしてはならない部分は、私達に政治的効能感が高いシステムが作られたということだけで、自動的に直接参与が増えるわけではないということである。以前、Bチームの失敗の要因の中一つもここにあった。Bチームが初期に集中していた部分は、全体の経営を「直接民主主義」という方法で「政治的効能感」は高めることに集中された。そして、そのように「政治的効能感」が高まれば私達の内部に隠れていた「市民的徳性」が自然に発揮されるだろうということがBチームの主張であった。しかし、より良いはしごを作ったということだけで、より多くの人々が突然はしごに乗って木の上に上がってくるものではなかった。
どの木に上れば自身が望む果実があるかを知ることである「市民的徳性」と、はしごを上手に上る能力である「市民的徳性」の追求が共に必要だった。

だから結論として、私達が今の時点で自立するための人生の目的としての「直接参与」を高めるためには、学習を通じた「市民的徳性」の涵養のために、「具体的な学習の方法」が提示されるべきであり、同時に「政治的効能感」のための具体的な「制度的なシステム」の提示が私達には必要である。

 
現場での成果が自ら表われ、次の話をすることができる動力が確保されなければなりません。
個人の作業に留まることを、どのように組織のエネルギーに引き上げるかが重要なことであり、これを内容の再生産構造と表現しました。朴ウギュの文章では、「政治的効能感」と説明しています。つまり、自分がしたことが外に表出され、それが現実に適用されることを意味します。その過程から次のように話すことができる動力が確保されます。ここで注目すべき単語が「現実」です。越谷店をオープンしながら主張していた言葉が「現場適用」でした。今振り返ってみると、料理ができない人たちに材料を投げてあげておいしく作れと注文したかのようです。私をはじめ、私達皆がわからなかったのでしょう。
 
もう一つ指摘する問題があります。私達が行った学習と教育は現実を構成する原理と背景に集中していました。哲学や論文は、現実にはすぐに効果を発揮しません。基礎体力を養うことに該当します。現実には直接適用されない内容のために頭は大きくなり体はそのままの状態になりました。政治的効能感を通じて次を話すことができる内容の再生産構造が作られなくなりました。根本原理と共に私達の生活に直接的な影響を与える内容がバランスよく進行されるべきでしたが、その部分が不十分でした。Bチームの直接民主主義が失敗した原因は、決定過程に焦点を当て残りのその準備過程が具体的でなかったことです。決定をしたが、その決定により目標が達成されるわけではないからです。「2013年体制」は、原理や個人の努力に集中した残りの決定と実行の過程がなかった為に推進動力を作れませんでした。
 
原理や個人の努力を通じて得られる組織のエネルギ
自然に現の問題として移動するであろうという予想は
人間係の破片化とかみ合い、縮小されて消滅する結果をもたらしました。
 
これまで、現場から自ら表わすことができず推進動力を確保できなかった理由を人間関係の破片化、内容の再生産構造として提示しました。
 
店舗の人間関係が自然に流れて、次を話すことができる内容の再生構造を構築するために何をすべきでしょうか?
 
ライフスタジオ10年は、縮小が繰り返し起こりました。計画し、実行し廃棄され、より小さな塊で計画し失敗し廃棄される繰り返しの連続でした。共同経営という名の下、リーダー会議が3年程度の活動をしてなくなりました。リーダー各自が関係を形成しながら自分らしく生きていくことができませんでした。リーダー会議をする理由が消滅してしまったのです。後に、A、B、Cチームに分け運営する実験をすることになりました。Aチームは、もう少し強力な形式である「2013年体制」が作られ再び縮小しました。「2013年体制」は、1年以上の過程の中で、新しい形式に適応と慣れが生じながら再び内容はなく、形式だけが残されました。そこで、より強力な形式である「論文プロジェクト」が出てきて、この過程でも営業チームと論文チームに分離され再び縮小になります。1次、2次の論文プロジェクトも計画、実行、廃棄、または縮小が進みながら活動中断をすることになりました。Cチームは序盤に無くなり、AとDに分化され、Bチームも2年近くの実験が失敗に終わり、すべてDチームに移動することになりました。成功と喜びの瞬間もありましたが、全体的に見れば失敗と縮小につながり、これを選択と集中や中央の求心力で包装しましたが、「すべてがDチーム」という結果物に至りました。
 
まとめてみると次のとおりです。10という塊があります。10を基準として、「人間らしく生きる」ための計画し実行をします。ところが、計画通りにうまくいきません。そこで7に減らします。7を基準に「人間らしく生きる」ために計画し実行をします。ところが、計画通りにうまくいきません。そこで5に減らします。 5を基準に計画して実行をします。ところが、計画通りにはなりません。だから一度活動を中断しました。中断をして6ヶ月が過ぎました。じっと過ぎた日々を振り返ると、人間関係の破片化と内容の再生産構造が作られないまま縮小と失敗が繰り返されました。人間らしく生きるための計画が現実に適用できなかったとうことです。
 
結局、人間係の破片化と容の再生産の構築問題は
存にある、有、無形の基準では、解決できないという結論に至りました。
人間係が水の流れるように、健康な態を維持し容が再生産される構造が
作られる最小位は何だろうかを自然に考えるようになりました。
頭の中に浮かんだ言葉は字の「0」です。
「0」をひとつの点として表現しながら「ひとつの点から始める」という主題が生まれました。
 

 
 
目的
 
活動休止をして、6ヶ月の間、「どこから間違ったのか」で始まり「どこから始めなければならいか」に考えが続きました。人間関係の破片化と内容の再生産構築の問題を克服し、ライフスタジオの目的に合う最初の単位を作るためには以前のように計画書と観察、側面の支援だけではできないという結論に至りました。この計画書は私を自ら露呈するためのものです。私もひとつの点です。私もひとつの点から始めなければなりません。誰のせいでもなく、私が持った権力、権限、役割を使用して歴史と目的に合う基準に立脚して始めなければなりません。また、ライフスタジオの全ての構成員たちもひとつの点から始まり、自らを表わさなければならないでしょう。そのようにひとつの点から始まる人々が集まればそれが最初の単位となるでしょう。
 
私の個人的な話を少ししてみます。
 
結者解之という言葉があります。結んだ人が解かなければならないという意味で犯したことは自ら解決しなければならないという言葉です。苦労してビザをもらい、日本に来たときに持っているものはあまりありませんでした。唯一の資本は、奈美と清子であり赤字だらけのデザイン事業を負債として持っていました。韓国で普通の人だった私は、日本からの二回の大当たりロトをプレゼントされました。第一は奈美の活動であり、第二が日本の写真市場でした。ライフスタジオは奈美が作ったといっても過言ではありません。私はすることがなく、本でも見ながらお酒を飲む機会ばかりうかがっており全てのことは、奈美の頭と手を経て行われました。ライフスタジオが本格的な上昇曲線を描く横浜店オープンまでは全体的に奈美の業績です。そして、日本の写真市場は、未開拓地のようでした。FAR AND AWAY という映画でトム・クルーズが旗を差し込むために馬に乗るシーンがあります。旗を差し込めば自分の土地になる、そんな時代の映画です。日本の写真市場も同じような状況でした。韓国はライフスタジオが100個くらいあると思えば良いでしょうか、ワタミのような居酒屋くらいあると言いましょうか。韓国のレッドオーシャンの殺伐とした戦場から、旗を差し込むだけで私の土地になる日本に偶然来たのです。奈美がいなかったら旗を作れなかったでしょうし未開拓地でなかったら涙を浮かべて仁川空港に戻っていたでしょう。
 
横浜店をオープンするくらいにライフスタジオの認知度が急上昇し人々も多くなりました。組織と言えるくらいになりながら要求されることがますます増えていきます。
目的と目標、戦略と戦術、人員管理、教育、マーケティング、コミュニケーション等々が必要になりそれは本社の役目です。
 
この人たちをどう責任もつべきか?
 
私がこの仕事をすることができるだろうか?
 
この時、信念に満ちた声で、人間であるゆえ、教育だ自立だという話をしました。分かりません。信念というものが発見されるものなのか、作られるものなのか…巨大な事件の中で信念化されたりしてみると、それが信念のように固まっていく場合もあります。おそらく韓国の憂鬱だった80~90年代を経験しながら、流行のように広がった変化の渦の中に吸い込まれ、それが信念という名前で包装されたような気もします。ところが、人間であるがゆえ成長だ自立だという話を誰が拒否することができましょうか?また、ライフスタジオの中で反対や他の声がほとんどありませんでした。ウォンボクの酒に酔っての言葉は格が下がるので無視しましたが、ほぼすべてのことに反対がありませんでした。それは私がうまくやっていると密かに自惚れのぼせていたこともありました。止められない暴走機関車みたいに定められた方向に走ってここまできました。実際にライフスタジオの構成員に申し訳ない気持ちもありません。麻薬をしたわけでもなく、基本的に人々に良いことをした為そのような罪悪感はなく、ただ残念な限りです。
 
25年前の話をします。大学時代、総学生会を構成して、春に授業料納付拒否運動を展開したことがありました。民主広場で集会をして血書を書きながら血走った目の残りの数百人の学生が学生課に打って入って机や椅子など全ての什器を学生会の建物の前に持ってきたことがありました。心ならずも副会長の為、先頭に立っていたら教授に一撃を浴びて両鼻から鼻血が流血することもありました。学生会の建物の前には什器がたくさん積まれていてまだ興奮が冷めやらない状態の学生百数十程度が学生会にいるときに私は本当に恐ろしさにどんな言葉を発すべきかわかりませんでした。学生たちは、私の口を見つめていて私はどんな言葉を言うべきかわからない。その静寂を忘れることができません。学生たちは家に帰り、他の学校に通っているソクという友人を呼びました。その友人が走りよりあぁだこうだと話をしながら泣き始めました。大きな声で号泣しました。
10余分を泣いて落ち着き、その友人といくつかの誓いをしたと思いますが、内容はよく思い出せません。その当時と現在が似ているので書いてみました。
どこかで方向を話しそして人々は行きました。継続される方向転換にも人々は黙々と自分の仕事をしました。そうして数年に渡って嘘をつくように、この道ではないと言いながらしばらく座っていろといいます。それでは どこへいくべきか…
 
良く言えば期待を自身で突破し、悪く言えば牛が後ずさりして偶然ネズミを捕まえるように他の人に聞こえ良い言葉を言っては、それが政策となり実行を経て、再び取り返しのつかない状況になってしまいました。結者解之と表現しました。結び目を作った人が結び目を解かなければならず、事故を起こした人が、その結果の責任を負わなければなりません。ひとつの点は、私から始まらなければなりません。すべては自ら表わさなければなりません。人間らしく生きるためには、自ら表わさなければなりません。だから、私達は皆「ひとつの点は、私から始める」とならなければなりません。今まで私がしてきた方法はこうでした。十数個になる店舗と百余名の構成員を対象に方向と方法の提示をして実行される過程を観察します。論理と構造を整理して、持続と転換を決定して、再度同意を求める活動をしました。このような過程で、第2次の論文プロジェクトまで進行して途中中断を決定しました。現場に入るより大きな枠組みで決定し、観察のための面談と現場確認が主になっていました。
 
ひとつの点から始めるということは、現場に入って目標を達成するということを意味します。
そして、その現場とは、私達の目的と目標が達成可能な最小限の位です。
 
「ひとつの点から始める」も失敗した場合どうなるでしょう?ライフスタジオは大きく変わることがはないでしょうが、私はいくつかの根本的な決定をするでしょう。その大きな決定が笑えることか悲しいことかはわかりません。ただ最善を尽くす方法しかありません。
 
「ひとつの点から始める」は0から始まることを意味します。自ら妥協せずに目標を実現しようという意志です。人間関係の破片化に対抗し、自然に流れる健全な関係を定着させ、それぞれの仕事が現場で適用され、内容が再生産される構造を作らなければなりません。「ひとつの点から始める」は、「人間らしく生きる」というライフスタジオの目的を実現することができる最小限の単位であり、これ以上退くことができないマジノ線です。(マジノ線とは、第二次大戦前にフランスがドイツとの国境に築いた要塞のこと。難攻不落と思われていたが、ドイツはマジノ線を迂回してフランスに侵攻した。これになぞらえて、為替市場では、投機筋や市場筋の攻撃と通貨当局の防衛、オプション・トリガーにからむ売り方と買い方の攻防が熾烈になる価格水準を指す。)必ず「ひとつの点から始める」が成功し、私達皆が表れることを期待していた「自立した人々の経済共同体」のモデルが作られることを希望します。
 
「考えたように生きていかないのであれば、生きて過ごすままに考える」という言葉があります。人生の主人になるための話をする時によくでてくる、素敵な言葉です。ところが、自ら自身の道を決定し、歩いていくということは簡単なことではありません。自身が考える事と、現実は、衝突します。傷つき失敗を経ながら自らを規定します。だんだん現実にあわせて生きていくようになります。そうすると、考えないようになり、生きて過ごすままに考えます。そのように考えると問題が発生する可能性は少なくなりますが、面白くはありません。このような時にもっと考えなさいとよく言われます。考えを通して障害物を越えたとしても、また次の障害物が表れると、また考えなければならないのでしょうか?現実はそんなに簡単ではありません。
 
私たちは規則で囲まれています。決められた秩序の中で生きていきます。電気をひとつつける為にも遠くの海の前にある発電所から始まって電線に乗って使う人の電気まで来て明かりをつけて約束された料金が定期的に負荷されます。この全てひとつひとつをその時その時、新しく設定するならば人生は維持できません。規則と秩序は人生の本質とも同じです。指ひとつの動きも数万年の間継がれてきた規則と秩序の結果です。しかし問題は規則と秩序が作動しない瞬間があることです。知ることの出来ない時がそうです。自身が知っている規則と秩序で解説が出来ずエラーが発生する瞬間があります。多くの人に会いながら特定の異性の前でだけドキドキし始め汗がでて言葉が出てこなくなる瞬間があります。知ることの出来ない状況になりながら愛の熱病に侵され始めます。愛が私の中に入ってくる瞬間をいつも待っているけれども日常の人生ではとても疲れることですね。
 
私達は皆自己実現をしたいのです。欲求から始まった行動が幾度の争いと傷が乱舞する戦場を過ぎながら、ある日平和な状態を迎えます。自己実現の為に一段階ずつ踏んでいく過程が人生であるようです。しかし現実はそうではないでしょう。欲求が生まれればあれこれ行動をしてすぐ危機が訪れます。すぐに危機に陥ります。知ることが出来ないからです。この状況で大体2つを選択します。自身の欲求を押さえ込みながら欲求が無かった事にして自己の対面を守り、最初の欲求と違う達成可能な変形した欲求を実現します。自身をある枠に入れ、縮小志向的な姿で発展したり、知らないということが発生しない事だけを探していくようになります。すると、決められた事だけをする人や非常に個人的な事だけに集中するようになります。この結果にいたる決定的な理由は、知ることができない事が発生する時の対応方式です。知ることのできない状況になった時に、退き自責しながら段々自身の願わない姿になってしまいます。私達が今まで学習と教育に集中した理由がここにあります。沢山知るために学習と教育をしたのではありません。自身だけの規則と秩序を作る為に、私達を構成している要素に対する学習と教育でした。6ヶ月は長いといって変わる本社のシステムも各個人が規則と秩序を効果的に作るための行動です。
 
料理が上手な人は各自の規則と秩序があります。初めて見る材料だとしても右往左往しません。結局人が食べることの出来る料理に仕上げます。試行錯誤はありますが、これはより精巧な規則と秩序を再生産します。料理に対する規則と秩序が無い人は料理をせず食堂を利用します。たまたま作った料理に自ら失望し、また料理との間に壁を作るようになります。このように規則と秩序があれば障害物は屈服の対象では無く、活用の材料になります。仕事がなされる原理も同じです。料理よりはより複雑なだけです。仕事と料理の決定的な違いは、試行錯誤の結果です。うまく出来なかった料理は我慢して食べるとか捨てればいいですが、仕事をして発生する試行錯誤の後の暴風は、人をとても苦しめます。傷をなでてまた挑戦するには多くの時間とエネルギーが必要になります。しかし、どうしようもありません。自身だけの仕事がなされる原理を定着するまでは自らが耐える方法しかありません。
 
近頃、頭角を現しているカツを例に挙げてみましょう。カツは日本によくいる青年です。自身の感情に忠実で誠実ですが、自身だけの明確な目標はありません。条件に合わせて生きていき、欲求に正直です。権威意識と妥協の共存から来る適当さを楽しみますが、いつも寂しさの中でさまよっています。ライフスタジオに入社しそんなに経っていない頃に言った言葉が「ライフスタジオの社長になる」でした。今まで自身が生きてきながら、どこでも人前に出て、ただ人生を楽しんで来たのでライフスタジオで1、2ヶ月を過ごしてみてライフスタジオの社長がそんなに難しい事ではないと考えたのでしょう。時が経ちながら知ることのできない事が沢山発生し、それが何なのかに対する疑問と妥協の日常化も進んでいきます。問題が蓄積されれば出来事が起こるようになっており、人との関係も良い悪いがはっきりしてきます。多くの人は、この状態になると自身の穴に閉じこもり防御幕を張りますが、カツは自身の長所である肯定的な人生に対する態度によってある程度バランスはつかむことが出来ました。自身を囲っている環境に対する疑問と、突破しようとする心が共存している時期に、香川県に行くという転換点で、客観化と主導性を認識するようになりました。ライフスタジオと同じだけど違う環境で自身を客観的に見ることが出来、自身によって周りが変化していく状況を経験するようになりました。何か確認して前進している感覚は、カツが持っていた肯定のマインドと結合しながら自ら動機付与する原理が作動するようになりました。新しい環境では、好奇心と知らないという事が同時に発生します。ここで、知らないということが強く作動すると、不安が増加して回帰本能が誘惑してきます。仕事が成される自身だけの原理が作動すると、肯定のウィルスが拡散され、前進するという爽快さが発生します。香川での4ヶ月は、自己の限界のまた別の繰り返しではない、確認を超えた可能性に対する気分の良い体験でした。現在は草加で水を得た魚のように可能性に対する期待で包まれている状態です。カツが人間関係ボードで自身の主題に挙げたのが「黙って行動」です。右往左往しないということでしょう。自身と正面から向き合うという意思です。

これは、カツ自身が認識しているかは分かりませんが、自身だけの仕事がなされる原理を探そうという宣言です。行動するという事は、自身が見ている所が間違っていなかったという確信からでた言葉です。周辺の障害物により、妥協して安住してきたという過ぎた日の反省であり、この機会にある段階に上ろうという無意識が作動したことではないかと考えます。ある段階と言うのは、何かの事をきちんとする人になるという言葉です。仕事をきちんとするということは、自身だけの仕事が成される原理があるということを意味します。仕事が成される原理があるという事は、自ら道を作って行く事を保障します。「黙って行動」は、単純に行動や経験の長所を知るようになる程度ではありません。「黙って行動」という方式で知ることのできないという壁を突破しようという事でしょう。その壁を突破するからといって、能力が突然良くなるということではありません。しかし1段階高い段階に進入するという事は確実です。新しい種類の戦いが待っています。その戦いの実態は、知るという主題であり、この過程で自身だけの知るようになる原理、仕事が成される原理が作られます。
 
以前は、このような個人の規則と秩序を変化発展プログラムと言う単語で表現しました。この変化発展プログラムをより現実的に表現するならば、「仕事が成される原理」です。4大原則も結局仕事が成される原理を定着させる為の約束です。ONE POINTをする目的も仕事が成される原理を定着させる為のものです。過去の経験を評価して現実で達成可能な成功体験の蓄積を通じて仕事が成される原理が各自に入っていくようにすることがONE POINTの目的です。目的は「2013年体制」変わりません。目的は同じですが、事業は別のものにしないといけません。現実と連結されなければならず蓄積がなされなければならず理論と実践がバランスを保たなければなりません。
 
仕事が成される原理がONE POINTの目的なのか目標なのか、でなければ各自が定着しなければならない重要な機能なのか正確ではありません。重要な事は、ONE POINTの構成要素は仕事が成される原理を体得するための内容でうめられており、主なエネルギー源がここにある為です。仕事が成される原理を知っていくためにONE POINTと言う形式を採択しています。全ての動力の始まりは各個人です。各個人が仕事が成される原理を知っていく過程ででて来るエネルギーを動力としてONE POINTが運営されます。私達が注目しなければならない部分です。計画をして実行し、出てくる結果の全過程で仕事が成される原理がどのように作動しているのかに対し、各個人は自身を初めとして同僚の変化の過程を良く注視しなければなりません。ONE POINTの主な動力はここから出てくるためです。
 
目標
 
高い山を登るためには、地図が必要です。地図を見ながら行く道を点検し、全体的な計画を立てます。ところが、いざ山を登って見ると疲れ喉が渇き、お腹がすきながら要領を覚えます。山では、その時からが危機です。全体ではなく、部分、目標よりは目の前の欲求が誘惑するからです。私達がすることも似ています。目標よりも、すぐ目の前の感情に触れる同僚の一言と突如訪れる人生の退屈さが大きな影響を及ぼします。基本的に人間は弱いです。始まりと終わりが異なり数えられない誓いと決意は吹いてくる風に首を振ります。だから、達成可能な目標の設定とその目標に集中している構成員の意志と内部文化が重要です。
 
私達が主に話してきた「人が人を人として」、「人間らしく生きる」、「自立した人々の経済共同体」、「変化発展プログラム」は、目的に該当します。一種の方向です。その方向によく行くために、現実に適用する具体的な設計と段階が目標です。「ひとつの点から始める」は、現在の状況を認識し、方向転換の必要性と形態を規定した一種の宣言です。学習と教育を主な手段として走ってきた活動の中断をし、以後6ヶ月の期間中には何もないことが確認されました。「何もなかった」という証拠を通じて6~7年を受け継いできた政策基調の変更が必要であり、その糸口をひとつの点から探しました。現在、私達の前にある基準ではなく、0から始めて、自ら表わすということを「ひとつの点から始める」と表現しました。「ひとつの点から始める」は、現在の状況の突破を通じ私達が行こうとする目的と方向に再び乗るための実践的な指針です。
 
やったことをできたことに、内容はなく、形式のみ生き残る、自ら表わさず、個人の経験次元に留まることが「ひとつの点から始める」を登場させました。だから「ひとつの点から始める」の目標は、達成する可能性が重要です。漠然とし、抽象的ではなく、測定可能であり、構成員のモチベーションに作用する必要があります。ひとつの点から出発して、ライフスタジオの基準を作り、持続可能性を証明しなければなりません。
 
それでは、目標を何に設定するべきでしょうか?
 
「ひとつの点から始める」が成功したことは何をもって証明できるでしょうか?
 
二つ考えてみました。
 
 
-. 持続可能組織のプラットフォーム作り
 
先日ライフスタジオの構成員の一人がこのような悩みを吐露しました。「私がいつまでライフスタジオで仕事をすることが出来るでしょうか。年をとっていきいずれ子供も生まれてくる未来に対して心配です。」私達は皆、ライフスタジオの持続可能性に対して疑問を持っています。今はまだ若くやりたいことをやっているといえますが、10年、20年自身の未来をライフスタジオと連結させるには不足な点が沢山あります。おそらく一般の写真業界では、ライフスタジオは成功している会社に分類されるでしょう。お客様が3ヵ月後の予約を取るために待機しなければならない状況は祝福です。しかし、私は表面的に見えるこのような状況とは別に、現在の組織の状態が正常ではないという考えを強く持っています。ライフスタジオは経済的な基盤は比較的強くはありますが内部構成員の満足度や組織のシステムは「人間らしく生きる」と言う目的にはとても遠くあります。構成員達がお客様と出会い話をして撮影をする等の日常業務に対する満足度も高いです。しかし、労働と人生の一致と言う側面ではまだ始まってもいない状態です。労働が自身の人生と分離されています。集めてつなげて楽しんで積重なり整理されながら、自身の道を自ら歩いていく組織を作りたいのです。しかし、現実はそうではなさそうです。個別的で分断化されていて刹那の喜びだけを探しながら分離が連続的に起こっています。
 
ライフスタジオ10年の歴史を一言で表現するならば、人間らしく生きていける組織を作る為の一連の活動でした。共同経営、生きて動く組織、2013年体制、論文プロジェクト等の事業は労働と人生を一致させることの出来る持続可能な組織の形を作る為の努力でした。残念ながら失敗と試行錯誤の連続であり、活動中断につながりました。上の質問に私はこのような答えをしました。「私達がこれまで持続して行ってきた様々な事は、あなたの質問に答えるためのものです。様々なことをしてきましたがあなたの疑問が消されない状況が残念でなりません。私に出来ることはONE POINTの成功しかないようです。ONE POINTは持続可能な組織のプラットフォームであるからです。」
 
私達の目的は人間らしく生きることです。人間らしく生きる為には各個人と組織が有機的な連関関係の中にいなければなりません。各個人は自立をしなければならず、組織は共同体を志向しなければなりません。これが「自立した人たちの経済共同体]です。自立した人たちの経済共同体を作る為には現実で実現可能な組織のプラットフォームが必要です。汽車やバスの乗り場であるプラットフォームは交通手段と乗客が会うことの出来る拠点の役割を果たし、交通と物流の中心になります。そして、その中で無数に多い価値交換が起きて取引が発生します。このような意味が拡大して供給者と需要者等の複数のグループが参与、各グループが得ようとする価値を公正な取引を通じて交換できるように構築した環境として、最近よく使われる単語になりました。単純に本を何冊か読んで会食をよくしたからといって人間らしく生きることの出来る条件を作ることは出来ません。ONE POINTは一部分の改善や特定の能力を培養するというよりも、私達の目的を実現することの出来る組織の構造と作動システムを構築する事業です。個人と組織、現実と理想、日常と目標が有機的に連結されなければなりません。その為に人間関係が水の流れるように自然でなければならず、私達の全ての活動が蓄積されなければならず、持続可能性を担保としていなければなりません。
 
ライフスタジオが追求する目的が現実の中で実現される最小限の単位がONE POINTであり、これは持続可能な組織のプラットフォームです。これは単純に個人の満足に終わるのではなく、ライフスタジオの競争力と直結する事業です。「良い企業を超えて偉大な企業へ(ビジョナリーカンパニー)」にハリネズミのコンセプトが出てきます。この本では沢山の事を知っている狐になるのではなく、ひとつの事を大きく知っているハリネズミになるべきだと強調します。一番うまくできる仕事と、稼げる仕事、そして情熱を持つことの出来る仕事の3つが共通して持っていることを単純化し、持続的にそれを追求しなければならないという話です。ライフスタジオのハリネズミコンセプトは内部的には「人が人を人として」であり、外部的には「人生の写真館です」。「人が人を人として」と「人生の写真館」同じ意味ですが使われ方が違います。中心には「人間らしく生きる」があります。全ての人が普遍的に願う内容であり、全ての写真館のホームページに書いてある内容です。なりたいけれども現実では到底探してみることが出来ないため、そのくらい感情的な文章が乱舞します。現実に最小の単位で存在するようにしようとするプロジェクトがONE POINTであり、これの為の具体的な1番目の目標が持続可能な組織のプラットフォームです。労働と人生が一致した組織、人間関係が水が流れるように自然な組織、各個人ごとの仕事が成される原理がバランスを成す構造と作動システムを持つということは日本の写真市場で競争力を維持して持続可能性を確保するということです。
 

-.  自ら表わした直
 
直営リーダーは簡単に言うと、現在の加盟店のオーナーが持つ責任と権限を従業員に付与することを指します。給料は上がり、権威も確保され新しい条件の中で、既存とは違ったエネルギーが発生するでしょう。直営リーダー制度の最大の特徴は、公正で透明な選抜過程です。誰かが誰かを指名する方式でなく、具体的な枠組みの中で確保された根拠を通じて選抜され活動し、評価されなければなりません。
 
直営リーダーという言葉は、2012年、本社運営計画書で初めて取り上げられました。その時の文章から抜粋します。
 
現在のオーナーたちは所有と経営を同時に行使しながら、自ら「私のもの」という囲いに閉じ込められるという短所を克服できずにいる[社長]という肩書きが現れながらその権威意識が所有と経営の様々な側面から発揮され、現場での問題点は勿論自己発展の限界に作用されている。[自分が社長なのに…]、[自分のスタッフなのに誰かが何かいっている…]のような考えの主体がオーナー自身であり、スタッフを始めとする様々な部分は客体になる事例がよく発生した。共にしなければならないと叫ぶが、権威意識と衝突する。また、経営評価が明確にされないままでいる。少し前に会計公開の過程で大半のリーダーたちは自身の経営能力が少し不足したが大きく問題はないという認識をしていた。本当にそうだろうか?職員の問題の報告を受け月に一度飲み会する程度で社長の役割を問題なく遂行していると考えているのではないか?問題がないからとうまくいっていることと錯覚しているのではないだろうか?これは、所有と経営を一緒にしながら、経営の部分が小さく見える結果を持ち、これは誰にも助けにはならない方向である…
 
一度オーナーになると、何かを変えることのできない構造が定着される。数多くの事例があり、全てを論ずることはできないが、特に今回の会計公開過程でリーダー達の固定された観念を変えるということが難しいということを実感した幾つかの事例がある。リーダー達の給料はリーダーが決める。自分がいくらだときめ、それが問題ではないというならばそこで終わる。経営能力やリスクに対する準備を数字で正確に算定するのも難しく、介入するのももっと難しい。スタッフの給料を3万円上げるということには、3時間以上の討論をしなければならず、自身の給料を30万円上げることには一瞬で決定する。また、スタッフの自由な移動や店舗の改善作業、ライフスタジオ全体の事業が適用される過程でもリーダー達の役割により、縮小され、歪曲される場合がよく発生する。リーダーというフィルターを通過し、政策の指向が成されなければならないのに、これはそのフィルターが単純に決済の印鑑を押す過程ではない、積極的な行動と、雰囲気造成を必要とする。このフィルターの作用が止まり、悪く作用された時の代案がないということが問題になる。

今までリーダーになる過程の検証が成されてこなかった。誰がオープンできる人なのかを決定できる基準を作るということほど難しいことはない。現在は本50冊を読み、読書感想文を書き、事業計画書を作成すればオープンできる構造である。しかし、多くの問題を発生させ適切でない人だと判断される人が本50冊と読書感想文、10ページ程ある事業計画書を書きオープンするというならば、対策が立てられなくなる。普通会社に入ると、平社員、代理課長、部長を経過しながら役員になりそこでも生き残れば社長になる検証過程がある。しかし、ライフスタジオはそんな構造を作ることができないため、オープンに対する熱意を持った人に加盟店を出すことのできる、条件を作った。熱意と能力はお互い大きな差が見える時もあり、上記で述べた、一度オーナーになると何かをかえることができない構造が定着するという問題を抱えている。そのため、本50冊と読書感想文、事業計画書と共に事業の中で能力が検証され、ライフスタジオのアイデンティティーを実現する人に対する新しいシステムが必要だ。

直営リーダー制度は本社直営店の形体で所有は本社がし、経営はライフスタジオの構成員の中から選抜された人が行い、現在のリーダーに準ずる権限と義務を与える。これは、幾つかの長所を持っている。

1つ目に、
善意の競争が発生する。現在店舗オープンを考えているスタッフがいる。多分店舗オープンを考えているスタッフ達は店舗オープン自体そんなに難しくないことだと考えているだろう。時期と場所の問題さえ解決されるなら、いつでも本を読み読書感想文を書けばよいという考えをもっていることだろう。つまり、今まではオープンに対する情熱が基準になっていた。しかし、問題はその漠然とした情熱だけではその当事者を除くと誰のためにもならないということだ。情熱と共に、ライフスタジオが追求する理想的な店舗の運営を消化することのできる能力、またはその可能性に対する努力と検証が抜けていた。能力の培養と可能性の確認は現場で可能であり、普段の活動で判断することができる。直営リーダーになろうとする2人以上のスタッフが出てきて、その人達の中で善意の競争が触発され、それが個人は勿論ライフスタジオにも新鮮な風の役割をすることができる。つまり、善意の競争過程は社長ではなく、リーダーを作る過程でなければならず、そのエナジーが組織としてうまく吸収されねばならない。もしライフスクールをしていない人が直営リーダーをする資格があるのか?インテリアに顔の判子を押すように、来る人に直営リーダーの役割を与えることに正当性があるのか?何の人的交流なくして全体会議でオーバーする人は、適切な人なのか?数学的に彼らの能力と情熱を計算することはできないが、エラーを減らすことはできる。人を判断することほど難しいことはないが、反対に人を判断することは、数学問題の正解よりもより正確である。現場で、そして彼の活動で最小限直営リーダーとして任命する正当性は多くの人に確保されるだろう。

2つ目に、
経営能力に対する検証と共に自己発展プログラムとしての役割をすることになるだろう。所有ではない経営を専門的に行うという設定は、組織内の構成員達と直営リーダー本人を集中させることができる。そして、ライフスタジオが要求する水準の店舗運営が成されているのかに対する検証が可能だ。このような検証はすぐに自分自身に厳しい基準を持たせることであり、自己発展プログラムが稼働しているということを意味する。直営リーダーは、現在の加盟店リーダー達と同じ権利と義務を持つことになる。しかし、現在リーダー達と違う点は自分の活動を激励し、同時に牽制する枠を提供されるだろう。普通のリーダーは統制を受けない多くの時間を前に悩んでいる。何をどうすれば良いのかに対して彷徨っている。この機会を活用しもするが、反対に識見を濫用することもある。自己管理プログラムの不在により、エナジーの消耗的な浪費は大部分のリーダー達が持っている弱点である。直営リーダーは自己統制プログラムを稼働する可能性が高くなるのだ。

3つ目に、
内部文化を作ることに集中することができる。殆どのリーダー達が店舗の内部文化を作ることを大変だという。一番下の段階から始めなければならず、多くの技術を習得しなければならないからだ。しかし直営店は方向性が明確に定められており、様々なプログラムが稼働中である。そして、直営リーダーを補佐することのできる様々な人達が陣をしいており、実際にその対話の相手、またはよき相談者としての役割をすることになるだろう。つまり、内部文化を作ることに対する集中と人と組織の中で深く入ることのできる条件の中で仕事をすることになる。事実内部文化を作ることはそんなに難しいことではない。自分が考えていることを具体的に実現する問題だからである。集中し、深く入ると少しずつできるようになる。条件さえそろえば、誰でもできるため、そんな条件の一環として直営リーダー制度をしようとしているのだ。

4つ目に、
スタッフ達に希望と目標を立てることのできる条件が形成される。オープンは自分とは関係がないと考えるスタッフが多い。多くの資金と何かすごい能力を必要とするような考えに、始めから扉を閉めている場合が殆どだ。しかし、直営リーダーはオープンをするのではなく、経営をするため、現場でスタッフから直営リーダーに移動する同僚をみることになり、自分にもできるという希望と長期的な目標樹立に繋がる可能性が高い。スタジオに初めて入社し、アシタントと撮影者の役割に対して悩むようになり、これは全体をみて、行動しないといけないリーダーシップの世界に入ったということを意味する。しかし、その限界で留まってしまう。ある程度慣れてくると、悩みは少なくなり、自分の役割を縮小する傾向がある。次の段階があるならば、少しは変わるのではないだろうか?まったく違う新しい世の中だと言えるような直営リーダーが存在するということは、店長達が次を規約し、より自分を発展させることのできる動力を提供することができる。
 
加盟店から直営店へ、そして直営リーダーを作る根本的な理由は変化発展する人を作ることにある。そして、ライフスタジオの全てのリーダー達が反省しなければならない題目がある。全体を考え、自分の活動力を拡大し、限界の克服のための努力達が過ぎた2年の過程を経ながら、だんだんと下落する傾向を見てきたからだ。つまり、店舗の経営が安定圏に入りこんで、見える保守的は傾向はライフスタジオが行くべき方向性と少なくない差が発生される。直営リーダー制度は準備された人間が選抜されるというよりは、本社という無形の規律の中で準備をさせようという側面が強い。それが少し戻ることになったとしても、または、時間が少し掛かったとしても変化発展する人間として行く効果的な方法だと考えるためだ。

直営リーダーになる基準は次の機会に発表するが、とにかく、自ら変化しようとする意思と、一種の成果が追加される形体になる可能性が高い。単純に行事にたくさん参加しただとか、能力があるのに、行っていることが効果的にも見えることをよく区別する必要がある。出発店舗は違くともその発展の形体は真正性に判断をすることが、私達が願う予備リーダーの姿ではないだろうか。

 
上記の文は、直営リーダー制度が構成された背景と、いくつかの利点を説明できます。当時はリーダー会議で立案された政策を全店舗に適用しました。店舗別に偏差が表れ店舗の限界を克服できず、痛みを訴える人が段々増えていました。全体と店舗をつなぐリーダーの力量不足と既得権維持、円滑な人員移動の必要性が提起されながら直営リーダー制度が構想されました。立場が人を作るという基本的な立場から本社直営店舗を縮小し、加盟店を増やしましたが、かえって各店舗のオーナーたちが変化発展の障害として認識されながら、直営リーダーという制度も出ることになりました。立場が人を作る場合もあるだろうし人が立場を作る場合もあります。結局、条件と人がバランスを成しながら、押してあげ引いてあげる原理が働かなければならないでしょう。
 
「ひとつの点から始める」の目標は、達成可能性が重要です。そのために測定可能であり、モチベーションとして作用しなければなりません。「自ら表わした直営リーダー5」は2年以内に直営リーダー5人を作ることを指します。
 
「直5」が「ひとつの点から始める」の目標として設定された理由は簡です。
はひとつの点となったということを証明するからです。
 
このように、ひとつの点が集まれば、小さな塊となって、この塊はライフスタジオを持続可能にするための最初の単位を形成することができます。直営リーダーになることは、単に1つの運営権を超えてアップルツリーファクトリー理事会に入ることができる権利を確保します。2年以内に5名が確保されれば、理事会を開催する最小限の条件が作られ、これは「ひとつの点から始める」の終了を意味します。直営リーダー制度はオープン的で透明な選抜過程を経て、ライフスタジオの構成員に権限を認められ具体的な事業を進行していくことになります。モチベーションは長く説明しなくてもいい部分です。やろうとする人には、これよりも強力なモチベーションはないだろうし、やりたくない人にとっては遠い国の話です。
 
「自立した人々の経済共同体」…ライフスタジオの目標でありながら目的を文学的に表現した言葉です。自立と共同体に対する具体的な内容がなくて目的化されてはいるのに、私達が達成しなければならない具体的な目標です。ひも解いていくと自身を取り囲んでいる環境を人間らしい生き方にするために闘争する人々が写真館という経済活動空間で関係を形成しながら共に有、無形の形を作っていき変化発展する集団が、ライフスタジオが達成すべき目標です。このような遠大な目標に向かう最初の単位として「自ら表わした直営リーダー5」が持つ意味があります。ライフスタジオが10年を越えながら持続可能に対する話がたくさん出てきています。持続可能は難しい言葉ではありません。持続可能な未来の予測と方向についての話です。誰かと結婚を決めるとき、最も重要な要素が持続可能です。この人と結婚をすると経済的に、精神的にどのようになるだろうということが予測されてそのような結果に対する方向が、私が望む人生であれば、結婚を決定することになります。生きていくことが大変で未来が不確実であるため、結婚も遅くなり子供も少なく産むことになります。現在のライフスタジオを一生の職場だと思っている人はそう多くありません。持続可能性に対する疑問を持つからです。これは、近い将来の予測が不可能でライフスタジオがどこに行くことになるかに対する不確実性に起因します。これが持続可能という言葉が登場することになった背景です。持続可能は目標が現実としてなされているかに対し体感的に測定されます。未来に対する方向性なく毎日同じ撮影をしながら感じられる無力感は持続可能の強力な敵です。また、失敗と挫折に​​よる敗北意識も一役買うでしょう。
 
私達は人間らしく生きようとライフスタジオで仕事をしています。人間らしく生きることは関係を形成しながら、自身の道を自ら歩いていこうということです。これを組織の基準として表現した言葉が「自立した人々の経済共同体」です。その最初の出発が「自ら表わした直営リーダー5」という「ひとつの点から始める」の最初の目標です。Bチームで推進した「遊び」と「直接民主主義」という実験は、「共に働く人々の共同体」でした。「自立した人」と「共に働く人」は同じでありながら異なります。これは傾向の問題です。共に同じ事をしている人たちの水準に合う事業と、順序を経て、自立の道に入ることと、自立を熱望している人々が集まって作った結果を、共に同じ事を行う人に拡散させるものの中で、どれが現在の条件で、より効果的かつ正しい道なのかはよく分かりません。そこで「ひとつの点から始める」が出てきて目標を「自ら表わす直営リーダー5」に設定しました。ひとつの点が集まって単位が形成されることは、「自立した人々の経済共同体」の所有と経営、意思決定構造が始まったことを意味します。持続可能という主題の開始点にあります。今実験で具体的な現実の適用の段階に入らなければなりません。
 
「直営リーダー5」は、高徳の「マニュアル1000」の主題です。高徳が作る計画書に注目し直営リーダーに関心がある方は、高徳とラリー遊びをしてください。(良く話しての意味)
 
「直営リーダー5」は、多くの点で魅力的で目標として設定するのも無理がないように見えます。ところが、もし直営リーダーが作られない場合は、どうなるでしょうか?「ひとつの点から始める」の目標が挫折しながら危機にさらされ、基準を下げて目標を達成する2つの場合を予想することができます。おそらく私はそのような状況になると、「ひとつの点から始める」の失敗を認めることを決定と思います。皆さんはどのような考えですか?想像することも嫌な状況を作らないようにうまくやっていきましょう。
 
 
 
3大事業
 
 
1. 自律経営店舗
 
-. 背景

 
自身の暮らしの中で会社が占める比重とはどのくらいでしょうか?人ごとに違うでしょう。私は残念ながら、ほとんどの時間が会社と関係しています。結婚もせず女性の友人もなく、特別な趣味や余暇活動がありません。済州島での生活の基盤を用意したのも、会社の仕事が意味するところに行かずに生じたことからある種駄々をこねているかのようです。私だけでなく、多くの人々が会社との関連の中で忙しく生きています。
 
会社は自身にどのような存在でなければならないでしょうか?
 
活動中断以降、「ライフスタジオは何をしようとするのか?」に、対する根源的な問いが、頻繁に私の頭の中でぐるぐると回っています。最近では、人間らしく、自分らしく生きることへと整理されています。そのため、「やりたいことの前にやるべきことをしなければならない」と強調しました。人間らしく、自分らしく生きるためには、多くの理論と実践の材料があり、その中に学習と教育を選択しました。従って、学習と教育がやらなければならないことになりました。人々は問います。
 
「皆が嫌がる読み、書き、討論になぜ固執するのか?旅行や遊びのように人々が楽しくできることをするのではダメなのか?」。もちろん学習と教育よりは接近し易いかもしれませんが、やるべきことに立ち返れば共に計画、論議、実践、評価、維持の過程を経なければならず、問題点が登場し限界が来るようになっています。学習と教育であるが故に難しいのでなく、やるべきことをする過程から事が成されていく原理が作動しない為です。やるべきこととは義務を同伴します。峠を越えると、私たちが望む世界が出てくるだろうという幻想を植えつけながら、忍耐して突破しようとしました。問題は鮮明ではないという点です。「だからなんだ?」と質問すると、観念的な話をするようになります。
 
やるべき事と共に、もう少し現実的で直接的であり、楽しみがある、その何かが必要です。運転を楽しむ人は運転をする過程で発生する、その何かがある為に運転が楽しいのです。やるべきことは、交通法規を守る義務です。その条件で運転の楽しさを追求しなければなりません。責任と権限の両者が相互に関連の中に結びつきながらの運転が完成されます。運転を避ける人の共通点は責任だけがあります。交通法規を守って目的地に行くことが運転の理由のため楽しめるはずがありません。目的地に行くことも重要ですが、その過程も楽しく面白い必要があります。
 
やるべきことをしながら同時にやりたいことをするということ
 
この二つの軸が同時に動かなければならないこと
 
人間らしく生きるということは 
 
日常でこの二つのバランスをとっている状態です
 
書籍:[7つの習慣]に時間使用に関する4つの形態に対する話が出てきます。時間の使用に関する4つの形式の話が出てきます。緊急ではないが、重要なことに集中しなければならないと言います。学習と教育は緊急ではないが、重要なことです。緊急ではないことは、短時間ではできず、多くの経験と事由の結果を必要とします。すぐに目の前に見えることができないが、私たちの生活の根本に関する内容であるため重要です。
 
すべてのエネルギーを注ぐことと集中は、少し異なります。学習と教育に集中したことまでは良かったものの、すべてのエネルギーを注ぐのは問題があります。結果的に、私たちが足踏みしている[現実]から目を背けました。写真、お客様、人間関係、マーケティング、参加民主主義、業務改革、福祉、勤務条件など、日常的に現場で成されることたちは後ろにおいやるようになりました。現場から推進力が消えてしまえば学習であれ教育であれ、何にもならないでしょう。現実の問題は、緊急であり重要な問題です。緊急でありながら重要な問題と緊急ではないが、重要な問題のバランスが必要な時です。「マニュアル1000」は、学習と教育の内容に「現実」を組み合わせた事業です。
 
これと一に直接的に現の構造と件をえることができる、その何かが必要です。
 
自由と欲望の実現……… 最近自由と欲望に対する考えをたくさんします。
 
とにかく旅立て
たどり着くことのないその場から立ち上がれ
それが蘇生である。
                                キムシジョン [明日]
 
[人生のための哲学の授業]という本の、はじめの部分に自由に対しての話があります。要約すると次のとおりです。通常、自由といえば拘束や抑圧された状態の解放や他のものを選択することができる可能性であると理解していますが、それ自体では自由な生き方を示すものではありません。私を取り巻く自由な制度や条件が私を自由にすることができず、私を締め付ける拘束や抑圧があっても、私は自由であることができます。自由とは、自ら何かを作っていくことができる[能力]と結びついたものであり、いくつかのもっともらしい選択肢の誘惑の前にも、自分がやりたいことをする能力であり、目の前の制約や拘束の中でも自身が望むように生きていく能力です。
 
しかしそれはよく言う「私だけのもの」ではない。自由であることのできる能力。それは何よりも自身の人生、または自身を含めた「私達]と呼ばれる私達の人生と結びついています。私ではない他者、私が知る事の出来ないこれらを知らなければならないという逆説を通過しなければなりません。その為に自由の為には自身の「自由意志」だけではなく自身の殻を破ろうという意思が必要です。
 
自身の考えだけではなく自身が考えられない事を考えることが必要です。または考えたように動くことのできないこの体を動かす事の出来る能力が必要です。その為に自由な人生の為には「小さな勇気」が無ければなりません。少しでも高い所に上ろうとする彼ら、その為にはどのような抵抗をも屈服しようとする彼ら、これらが即ち自由をめざしていこうとする彼らです。これの為には小さな勇気「一握りの勇気」が無ければなりません。
目を背けたい苦痛とクールに対面するために、従順を要求して向かってくる人生の命令に立ち向かう為には、それを私の人生に対する抵抗として迎え前に出ようとすると、小さな勇気が無ければなりません。しかし、その勇気は全ての事を賭けた博打的な出し方ではなくただ「一握り」の小さい勇気です。

「犠牲」を伴えという途方もない要求は、いざ考えなくてはならない事を考えられないようにします。その大きなものの前で、その要求と共に出てくる「大儀」を大きく受け取るようになります。この時勇気は考えなく命をかける無謀さになり、決断を取り巻いている不安や恐怖はその無謀さを隠す霧になります。その恐怖の前で、これに勝たなければならない促しの前で私達は考える方法を無くし、犠牲を要求する大きな偶像の前で進もうとする方法を見失うようになります。

途方もない勇気は私達を日常の人生から出ていく道に導いてくれますが、私達の日常的な人生を導いてはくれません。しかし正しく「導かれるべき」ことは、この毎日毎日の私達の人生、私達の日常ではないですか?自由な人生の為に、自身の人生を愛する為に必要なものはただ一握りの勇気です。正しいと与えられたことが、本当にあっているのか考え、自身が本当に肯定することができる良い人生がどのようなものなのか再度考えることは、この一握りの勇気から始まります。それと合わせて、与えられる、与えられる事に対した順応とは違う方法に向かって、既存の価値を指す方法から少し外れて始まることが可能になるという話です。

この本を見る間、現在ライフスタジオの状況を代入するようになりました。「飛び出せ。まだ見ぬ世界へ。繰り返されるさびれた毎日から」をよく話をしました。学習と教育をするようになった理由もまだ発揮されていないですが、何かを知るようになれば自身を超えて投げてより広い海に行くことのできるという信頼はあったからです。

個人に自由に対する意思、より良くなろうとする身震いのきっかけを作りさえすれば、現在の自身からまだ見ぬ場所へ飛び出すことができると考えます。しかし内容は形もなく、形式だけ残るようになり、なにか現実の小さい変化が蓄積されず疲労感だけがたまるようになりました。著者は自由の為には能力が必要で、この能力を発揮する為には一握りの小さな勇気が必要だと言いました。この能力を教えようと学習と教育をしました。
分からないというところから問題が始まると考えた為、学習と教育をするようになったし、知るに対する読み書き討論を強調しました。ライフスタジオの目的と目標に同意し、誠実に学習と教育に向かう個人は少しずつ知るということに対して知るようになりますが、なぜかその状態にとどまっている感じです。現実の壁は考えるより硬く固定されています。

「自由意志」だけではなく自身を超える意志「私達と」呼ばれる群れを通過しなければならず、現実はそのままである状態を維持しています。学習と教育の内容が現実で適用されずに乖離が生まれ、だんだん推進動力を失っていく結果が表れる事なのではないかと考えました。その間作った形式や構造は途方もないスローガンを持って背中に背負ってこれに集中すればそのような構造を知るようになることだと言います。何回かの試みがありましたが作られることはなく、その時こそより大きなスローガンと形式を提供してきたように感じます。
 
日常の小さな勇気を出す具体的な現実、
日常的に人間らしい人生に近づくことのできる構造と条件が必要です。
 
ショーン・ペンが脚色と監督をした[イントゥー ザ ワールド]という映画があります。主人公は全ての世俗的所有物を他者にあげ、世の中で自身の位置を発見するために旅立ちます。ヒッチハイクを通じてアラスカまで行って自然の中で生活します。アラスカは過酷な環境と人生に必要な知識が全くない状況で空腹に負け自身の死を予感します。
 
現代的な平安を拒否して自然そのままの人生を生きるという意思は分かりますが飢えて死ぬ過程が自殺なのか自然死なのか知る事が出来ない状態で映画は終わります。ライフスタジオの現状に対して考えながらこの映画が浮かびました。倒れ行く家がある荒野に人を呼んで集め、本1冊を投げて一言言います。
 「では今からこの荒野があなたにとって生きていく土台です。この本を読んで自身の考えを書いて討論をしながら未来を計画して欲しいと思います。人間はどのようにしてでも生きていきます。ではあなたたちの未来に幸運を…」もちろん、ライフスタジオが荒野でもアラスカでもありません。経済的問題から自由で各種福祉と給料も同業者の中では良好です。

しかし、パンだけあっては生きることはできず、パンが無ければ生きることもできません。小麦粉と水、オーブン等、パンを作ることのできる条件になって必要なものも購買すると予想されます。自身が論議して計画して実行すればいいと仮定して自らできる条件に集中しました。しかし、そのようにはできませんでした。
 
事が成される原理が作動せずに内容はなく形式だけ残るようになります。荒野やアラスカで生き残る為には最小限の条件を各自が作ることができるという考えにエラーが発生したことを知ります。「一握りの勇気」をだすことのできる条件を作らねばならないという事を悟るようになります。もっともいい姿は自らが条件を作る事ですが、そうでなければ会社の次元でも作る必要があるでしょう?
可能性です、問題が発生する根源は孤立と断絶、歪曲の放置から来ます。自ら条件を作ることができない理由もここにあります。事がなされる原理もこの問題を解決する為の方法で構成されています。
孤立と断絶、歪曲の放置は誰も否定することのできない客観的な事実だと認められる状態になれば自然に消滅します。

代表的な事は出退勤です。9時に出勤ならば59分かいつも5分遅くくるか測定可能です。そのため私達は出勤時間を正確に守ります。毎日遅刻が反復されれば具体的に話をします。割れた窓ガラスの理論があります。割れた窓ガラスを一つ放置すれば、その地点を中心に犯罪が広がるという理論です。
現在ライフスタジオの店舗ではお客様の予約を受け撮影して商品を伝達する仕事以外に、私達の人生を改善しようとした多くの政策と計画は消えました。店舗の改革作業が持続する事ができなかった理由の相当部分が割れた窓ガラス理論で説明可能です。

現在の状態にはないですが、近い未来にはそのようになっている為に、やるべきことが登場します。無いものをあるように作るということは難しい事です。今までになかった理由を自ら取り除かないといけないからです。難しい為に集団で約束をします。しかし、だんだんと力がなくなってきて元々の自分に戻ろうとする誘惑の前で綱渡りが始まります。やっているわけでもなく、やっていないわけでもない状態になります。このような雰囲気が持続されながら、割れた窓ガラスの理論が登場し、内容はなく形式だけが残るようになります。ところが、もし測定可能ならばどうでしょうか?
 
人間が苦痛を感じる理由は、より大きなリスクを予防するための進化の結果です。苦痛がなければ人間の寿命はとても短かったでしょう。歯が痛いのは[治療してください]という体からのサインです。直す時期が過ぎると、手遅れになり歯を抜く事になります。測定可能だということは、持続可能性の土台であります。予測可能性とは、持続可能性のバロメーターなのです。原因が分からない慢性疲労にさいなまれ、仕事自体を放棄するようになりました。現実を正確に判断できるように、測定可能性を高める事は「一握りの勇気」をだせる現実の条件を作るにおいて充分条件です。
 
今までの話を整理するとこうです。緊急ではないけど重要な事である学習と教育を選択し、資源をここに集中させました。その結果、失敗しました。失敗した理由はいろいろありますが、一番の核心は個人では行っているのに、集団ではそのエネルギーを集める事ができず、推進動力をだんだんと失っていきました。私達が立っている現実の問題を見て見ぬふりをし、学習と教育を個人の単位で推進しながら、緊急であり重要な現実の問題が個人の意志さえも消滅させる結果がでてきました。各個人が一握りの勇気の小さな勇気をだすためには現実の条件と構造を具体的に設定する必要があります。
 
やるべき事を現実の条件と構造に適切に入れ
 
個人と組織の均衡を作っていかなければなりません。
 
そのために「測定」可能な現実を設定しなければなりません。
 
何かが成されたら、その時から人間らしく生きるという事ではないでしょう。呼吸をしている今この瞬間が人間らしく生きる過程でなければなりません。やるべきことをやるという疲労感に対する対応として「出発ライン」という表現を使いました。峠を越え、出発ラインに堂々と立つならば、その時からあなたの人生が変わると言いました。出発ラインで峠を越えてきた人達を待っていましたが、今までのように見えず、多くの人が救急患者だという話だけが噂で伝わってきます。「出発ライン」は最初から無かったのかもしれません。私達が立っている今この瞬間が「出発ライン」でなければいけません。やるべき事とやりたい事が均衡を成すための現実の変化が必要な時です。
 
現実の条件と構造を、測定可能に設定しなければなりません。
 
やらなければならない事と、やりたい事を弁証法的に発展させられる方法が必要です。
 
価値と欲望が絶妙な調和を成せる構造が作られなければなりません。
 
学習と教育、欲望に基づいた日常を、同時に満足させられる案として
 
自律した経営店舗を提案します。
 
 
-. 蓄積と福祉
 
 
自立経営店舗を簡単に説明するとこういう事です。
 
人間らしく、自分らしく生きるということがライフ スタジオの目標です。そのために内容と形式がなければならず、理想と現実の均衡が必要です。以前までは学習と教育を通じて出発点に立った人々と共に人間らしく生きることができる組織を作ろうとしました。しかし継続されずに、失敗の中で活動中断をすることになりました。学習と教育は急いでやる事ではないにしても重要なことであり、これと同時に急で重要な現実の問題があります。やるべき事とやりたい事の均衡を通じて理想と現実の問題を解いてみることが自立経営店舗です。自立経営店舗は今から最初の出発点まで現場の構成要素に関する内容を測定可能に決めます。内容は期待値でない測定と達成の可能性が基準です。孤立と断絶、歪曲の放置を回避できます。このように定めた内容に同意する人々で人員が構成され、店舗を運営します。もちろん序盤には過度な業務が予想される一定期間が過ぎれば慣れて日常になるでしょう。多くの仕事がやるべき仕事で規定された内容を自らアップグレードしなければなりません。実行、評価、代案の過程を経てみるならばやるべき事がやりたい事になり、その力で私達は一握りの小さい勇気を出すことができる動力ができます。これは、人間らしく、自分らしく生きて行くことができる土台が作られるということを意味します。自立した経営店舗の核心はやるべき事がやりたい事になり、それが日常につながる善の循環形式を作る事です。これは、事が成されていく原理を知っていく事の経験であり、それと同時に変化発展プログラムの装着を加速化させることです。習慣化になり方向性を持つようになれば特別なエネルギーを投じなくても自身の変化発展はもちろん、「別々に一緒に」の原理が発生するでしょう。しかし容易なことではありません。やらなければならないことがやりたい事になる日常が作られるまでは、時間と努力が必要です。線路からの離脱を防止し、もう少し前へ飛び出すことができる強力な防御網は「月給40万円」が担当します。2つの店舗で3つのチームが運営され、ここで発生した利益を通じて平均基本給40万円は十分に可能であり、今後45万円までも期待できます。
 
やるべき事とやりたい事の均衡が
 
人間らしく生きる個人と組織の方法であり
 
その名前が自立経営店舗です。
 
 
自立経営店舗は蓄積と福祉という二つの軸に走ります。
 
蓄積から説明します。私達が行うすべてのことは人生の傾向を変える作業です。人間らしく、自分らしく生きるということが私達の目的であり、学習と教育を通して選択と集中をしました。これは習慣化させるためです。傾向を変える作業が容易なことではないので習慣化させなければならず、一定期間が持続するならば傾向が少しずつ変われると見ました。この論理を現場に代入すれば蓄積と連結されます。韓国にこのような詩があります。
 
人がくるというのは/実はものすごいことだ
彼は/彼の過去と/現在と/そして
彼の未来が共にくるからだ
ひとりの人の未来がくるからだ
壊れやすい/だから壊れもした
心がくるからだ
その分かれ道を/多分風は包みこんであげられる心
私の心がそのような風をまねることができるならば
結局歓待になるだろう。
                                   パンムンギェク / キムヒョンジョン
 
人が来るということは彼の一生が来るということです。これが蓄積の力だと思います。破片化されず、自分の過去・現在・未来が凝縮された力が蓄積です。オーナーの能力は個人の暮らしがいくら華やかでも、自分が経営している店舗に正確に表現されて表れるしかないのです。自分の過去・現在・未来の原子がひとつずつ集まって客観的な実体として、また他の自分の反映です。 私たちの仕事の実態は個人よりは、各店舗にあります。一個人が自分の能力を向上させることも重要ですが、自ら表すことは、店舗の内部文化が発生するしかないのです。だから、「人が人を人として」という言葉が出ました。一つの店舗が撮影をし、お客様と会って討論をして酒を飲むのが刹那の消費で終わるのか、それとも栄養分が蓄積されるかに応じてその店舗の質が決定されます。5分ごとに退勤する店舗は一日一日の生活が個人で破片化されています。蓄積されるものが発生しないため、現在を維持することが最大の目標です。その空間で個人は変化に対する抵抗と共に、個人と集団の持続的な距離を置くことが最大の関心事項です。人間らしくないです。過去を買うことができるとなると。 栄養分が蓄積されるシステムが崩壊し、競争力がますます喪失されれば、企業はドアを閉めなければなりません。

よくよく考えてみてください。現在ライフスタジオで蓄積されるものはなんでしょう? お客様しかありません。再度訪問という方式でお客様は蓄積がなされライフスタジオはその蓄積の恵みを受けています。ライフギフトをできる条件と意図がここにあります。スタッフブログを例にしてみましょうか。ライフスタジオが3-4年程度経った時、最も多く聞いた話がスタッフブログの競争力でした。日本のどこにもこのようなホームページはないだろうと皆がうらやましがったスタッフブログは現在、無用の長物になりました。蓄積ができないためです。蓄積されない空間には古いイメージだけが残っています。イメージはコピーが可能です。現在ライフスタジオと一緒に家庭で自然光で撮影するスタジオたちの写真はほとんど似たパターンを見せます。ホームページのイメージも似たように出ます。弁別力を見つけることがありません。内容の蓄積なく、イメージだけで維持しということは認識せずにいる間に、だんだんお腹が沈んでいるというのと同じです。もしスタッフブログが活性化され、その中に私たちの本当の姿が映っていたら、そのどのような写真館も付いて来ることができない競争力を持つようになったのだと思います。写真もそうです。みんなが写真に関心があるといわれるが持続的な計画がないのを見るとライフスタジオの写真が特別さを喪失した事がながくにいたった。
 
蓄積の力を見せる一つ事例が以前ありました。ライフギフトでの初めのお客様との出会いがあり、その間10回撮影した写真をスライドで上映しました。パパ、ママは涙が止まることを知らなかったし大内としばらく涙声で話して話をしたといいます。子供を産んで今まで如何に多い事件事故があるでしょうか?うれしい日もあり、気に障った日もあったでしょう。ママのお腹の中で始まった新しい生命でもう小学校に入る年齢になる時までの写真を時間順に見ていればその何なのか数万、数百万種類のものなどが集まる感じがあったでしょう。おそらくこの胸が痛い瞬間を感じるために大変な人生を勝ち抜いて生きていくのではないのかと思います。第3者が見る時は子供が美しく育ったよ程度の興味だがパパ ママの心は手にあまったその何かです。これが蓄積の力です。
 
蓄積はライフスタジオを囲んでいる内外部へ同時に影響を及ぼします。内部は自分のアイデンティティーの確認で外部的には持続可能な会社での発展です。この二種類がバランスが取れているように発展する過程が人間らしく、自分らしく生きるということでしょうか?蓄積は他の言葉では意味ある関係ネットです。私たちがすることが利害関係者などの関係ネットで弛緩と収縮を繰り返して一定の方向性を持つようになることが自分のアイデンティーの確認でありこの関係ネットが最高の競争力だと信じます。ますます厳しくなる関係の分離が加速化するこの時代に蓄積の力はより一層必要です。やりたい事は、事実純白な内容です。共に仕事をする同僚を一生の友達で作りたいこと、自身の写真が少しずつ良くなって「オイ君、写真は何か特別なのがあって」という話を聞くこと、自身の労働に対する代価を十分に受けて満足すること、お客様が、私の名前を呼んで「あなたに撮影をお願いしたいです」という話を聞くこと、分からないということに対する強迫観念なしで、話がスムーズになること、何か価値ある仕事をしているという信じることのようなものではないでしょうか? 自立した経営店舗で現場の構成要素を定めようというのはこういうものが実現されるようにしようとする規定です。 今はそのような状態ではないので、やらなければいけない事になるでしょう。自身がSラインスタイルを作りたければ、苛酷なダイエットをしなければなりません。ダイエットと運動が上手くできるのならば、着たかったが、意欲を出せなかった服を果敢に着ることができます。やらなければいけない事をやりたい事で作るということは、ライフスタジオの競争力を引き上げて持続可能性の方向を提示することで我ら自らのアイデンティーを確認して、さらに高い方向で自然に進もうとする動力が発生します。自立した経営店舗は基準と条件を具体的に決めて日常的に実践する事業です。自立した経営店舗は特別なのか、一日3時間だけ寝て何かをさらにしようとする事ではありません。やらなければいけない事を、日常的にしてみることで、その中でやりたい物事になる姿が現れるという信頼です。
 
一握りの勇気はやらなければいけない事を日常的にしながら発生する
 
蓄積される力で出来ると考えます
 
蓄積を通して自身の道を作ることが
 
人間らしく、自分らしく生きる事ではないでしょう?
 
自立した経営店舗はライフスタジオのモデルハウスにならなければなりません。最初の模型が自然に作られるのを待ちこがれたが、もうこれ以上避ける方法がないようです。自立した経営店舗は今までしてきたことを現場でしなければならなかった仕事をひろげて日常的に可能なことを選別して約束して現実で実行するという事業です。これを通じて私たちが行こうとするところが、間違わなかったということを証明して価値と現実の調和の中で蓄積を通じて一握りの容器、自身の道を自ら作り出すことができる条件を作ろうとします。人間関係の破片化と内容の再生産構築は蓄積の力を通じて克服可能です。測定可能な現実の条件と構造を通じて蓄積の力が作られます。蓄積は傷を受けた魂が治癒できる余裕と希望で、やらなければいけない事がやりたい事になる日常を作り出すことができます。
 
自立した経営店舗一言整理すれば
 
[測定できる現実条件構造って蓄積じて
 
やらなければいけないが、やりたい転換させるプログラム]です。 
 
次は「福祉」です。簡単に話せば「月給が40万円です」。月給を話すことがぎこちないです。月給というのは、表現は自身がやりたい事に対する象徴で使いました。人によってやりたい事が違います。勤務条件であることもあって、時間、写真、余裕、月給であることもあります。まず「自立した経営店舗」が正常化する時までは「月給40万円」で統一します。現在の労働時間と強度を維持して「月給40万円」支給は可能です。2つの店舗の休日を、4人で構成された一個のチームが撮影します。一つのチームが4.5日営業をすれば4-5百万円売り上げが発生して3個のチーム14人の月給を上げることができる金額が百万円確保されます。1人当り7万円程度です。ここに本社の店舗が増えて、共通費用相殺効果まで加えれば1人当り10万円上昇も可能だろうと見ます。自立した経営店舗開始と同時に「基本給平均40万円」、来年下半期に「月給43万円」を予想します。
 
「月給40万円」で途方もない動機付与だと期待しません。また、より多くの時間を投資しろというのではありません。「月給40万円」は自立した経営店舗の進行過程で発生しうる問題を最小化するための安全地帯としての役割と共に政治的効能感を高めるための手段です。その間ライフスタジオでどれくらい、どこまでしなければならないのかに対する不明確性と自身がした仕事に対する具体的な評価システムがない事に対する指摘がありました。自立した経営店舗で仕事をするということ自体が、「月給40万円」と評価されると考えます。代わりに無賃乗車では出来ません。何かを規定するということは測定可能でなければなりません。評価と同時に賞罰を明確にしなければなりません。
 
福祉に関する二種類の争点があります。
 
最初に、自立した経営店舗の構成員はどのように選定するのか?
二番目、本社管轄店舗と自立した経営店舗の違和感はどのように解決するだろうか?
 
構成員は私が指名します。独裁します。「ワンポイント」が最後の機会だと考えています。もうもの乞いしません。人員構成は私がすることが効果的だと判断しています。また、違和感も生じます。ただ急に月給が7-8万円上がることなので、納得できないという人もいるでしょう。同一労働は同一賃金を適用しなければなりません。同一賃金を受けたければ同一労働をすれば良いです。自立した経営店舗に参加したい人や店舗は手をパッと上げて「私もしてします」を叫べば良いです。それで私が分厚い書類の固まりを与えてこのように話すでしょう。「あなた方が今からやらなくてはいけない事が入った書類等を見て自信があれば決められれば良いです」。すべての人々が「私もします」を叫んで皆が自立した経営店舗になったら良いです。しかし事実と真実が他の言葉のように、やった事を成された事とされては困ります。
 
自立した経営店舗は「健康の拡大」連結されます。今まで全国化に対する議論が毎年具体的に話されました。全国化がしばしば話される理由はできることと、したいことの合計であるためです。毎回全国化政策が、力をもらうことができない理由は、やらなくてはいけない事で具体的な成果が出てこなかったためです。やらなくてはいけない事は、ライフスタジオの目的を現場で具体的に実現できるシステムです。システムが作られなかった状態での量的拡大は災難に近いと考えています。ある誰かに「私が今までした仕事中で最も上手なことが何もしないこと」だと話をしたことがあります。数多くの誘惑があったし、やりたくてできる全国化議論で結局「社告」を打たなかったのが、私がしたことの中で最も上手なことであるようです。しかし、自立した経営店舗がうまくいくならば、やりたい事ができること、描いてしなければならないことが自然に融合になって「健康の拡大」戦略を広げる条件が作られることができます。健康の拡大のためには、人とシステムがなければなりません。これは競争力と生活の質のための、蓄積がなければならなくて、具体的な成果とともに、その恩恵がそっくり適用されなければなりません。
 
自立した店舗が、上手く運営されて判断材料になるならば、その時から「健康の拡大」を推進しようとします。「健康の拡大」の規模は、自立した店舗がライフスタジオ全体に及ぼす影響により変わることができます。本社だけの祭りならば拡大が微々するでしょう。7年前皆が集まって未来を話した時期もありました。そのような状態を再現したくはないけれど拒むこともありません。新しいパラダイムで新しい時代を自ら作っていくということ…….. これが伝説でしょう?
 
-.規定しよう。私たちの生き方を
 
写真館を構成する要素は本当に沢山あります。このすべてのものを規定することは出来ないし、規定してもだめでしょう。今まで様々な政策がありそれと同じように中断もありました。1字としてライフスタジオが追求する目標を達成する為の6種の部分に対する約束を決めました。もちろんこれから事業を推進しながら、私達の体に合わなかったり不必要な事業であれば、思い切って取り除かなければならず必要な要素は追加しなければなりません。また以後「マニュアル1000」を通じて私達の生き方を一つずつ規定していかなければなりません。現実が測定可能になりこれを通じて蓄積の力を発揮することを期待しながら私達の生き方を決めましょう。
 
6個の各部分の具体的な内容は別紙[ONE POINTガイドブック]を参考にしてください。
 
 
  1. HP
 
HPが持っている意味と役割は大きく二種類あると考えます。
 
1つ目が競争力の源泉です。HPは1次的に「私達はこのようです」と話をする空間です。私達がこの様だということを知らせてお客様の選択を待つ場所です。それならば私達がこのようですと、説明を上手くしなければなりません。結局私、あなた、私たちの門を開けなければなりません。
普通の写真館は知って欲しい事だけ公開します。ひどく話をすればお客様はしなければならない消費に焦点があっています。それは、弁別力がないですね。お客様が知って欲しい事はまず写真でしょう。今すぐに客観的に見ると決めて写真館を検索してライフスタジオと違う写真館の写真を比較してみてことを願っています。違いますか??10年前には良い悪いで区分する程度の弁別力があります。しかし今は少し違います。いえほぼ同じと言える程度に違います。

なぜでしょうか?ライフスタジオが写真を作る条件が特に差異が無いためです。10年前には条件自体が違いました。自然光と住宅と言う条件自体が無かったために、その位希少性がありました。もし誰かが無重力状態の写真館を作るならば写真が全く違うでしょう。しかし自然光は太陽が無料ですべての人に分け与えられているものが住宅です。

住宅を写真館に使用して自然光を中心に撮影すればライフスタジオと似たような写真が撮れるしかありません。自然光と住宅と言う競争力は時間が少し過ぎれば弁別力をなくしてしまいます。ライフスタジオはその誰も真似できず日本の会社で要求する「人」に集中しました。
私が日本に始めてきてどのような売り場にいってもお客様に対する従業員のサービスに驚きを隠せませんでした。いつでも笑いながら最善を尽くしている姿を見ながら日本はやはり先進国だと考えます。しかしずっと見ていると同じだという感じを受けます

「あ、これもマニュアルなのか」。人を配慮する日本人の基本的性格にマニュアルが追加されながらいつも同じ言葉と表情を維持しながら仕事をしているようです。問題はないけれど魅力も無い状態だといえると思います。ライフスタジオの構成員も大きく違いません。それで出てきた言葉が「真正性」です。真正にやっていくというのは人間らしく、自分らしく起きることと直列で連結されるが競争力の側面でもこれほど効果的なことは無いという確信をするようになりました。私達は写真を売ることではなく人間との真正な出会いを販売することだという考えにいたるようになりました。

実際にHPを通じて写真館を決定する要素は写真と写真館を構成する人として考えます。しかし写真と人がイメージだけであったならば別に効果がないでしょう。現在の写真館はそうです。しかし写真と人に対する具体的な内容が入っていたならばどのようなことが起こるでしょうか。写真に対する情熱と努力、何かを追及して学習して時にはさまよう人間の汗と涙、喜びと苦悩の記録たちがそっくりとけているHPであればお客様はどのような写真館を選択しますか?このような写真館のHPには写真館のすべての構成要素が入っていなければなりません。これはHPが競争力の源泉である為です。Facebookはその次の話しです。

2つ目に、アイデンティティーまたは内部文化を確認して蓄積させる事の出来る唯一の貯蔵所です。アイデンティティーや内部文化は実際に存在するが目では確認することができません。目で確認することが出来ない為にそれが何故必要なのかに対しても疎かになります。目で確認可能な売り上げ、利益、人の状態に対する部分だけに関心を向けがちです。それだけで人間が生きているならば人類はこれほどまでに進化することはなかったでしょう。確認することはよりよくなろうとする欲望の1番目であり、最後です。やろうとする事が無ければ確認も必要ありません。

現在日本の写真館のHPをみると10年前と大きく変わったことはありません。イメージが改善され予約システムがHPの中に構築されている程度に納まっています。写真館は撮影を媒介に商品を販売するところに限定されているためにHPの内容は大同小異です。しかし写真館の概念を写真館の構成要素と言う一つの塊だと見れば話しが違ってきます。
または写真館を営利行為をする事業所としてだけ見るのではなく人間らしく生きる共同体として認識をして何かを作る空間としてみるならばHPに対する転換が可能になります。外部的には積極的な広報は活動であり内部的に見れば写真館の構成要素が並んでいる貯蔵所になります。もっとも短い時間内に自身と私たちを確認することの出来る空間は構成員に自負心と共に方向性に対する確信をくれます。「私達の道は間違ってなかった、これからも頑張ろう」と決意を可能にする力がHPにあります。

自律経営店舗が形態を持ち、持続可能だという判断になれば、HPを既存の店舗と自律経営店舗とで分離する計画を持っています。予想では来年の8月です。HPのアドレスを入力すればTOP画面に2つの大きなアイコンが出てきます。既存の店舗と自律した経営店舗の名前が分けて出てきます。
HPを区分する理由はライフスタジオ10年を受けて持続可能な会社を作るための競争力強化と新しい成長動力を探す為です。写真館の構成要素に重要でない事はないだろうが、なによりもHPの弁別力を高める事が優先であると考える。先日人と会話の中で「私達が特別なことをしていない状況ではお客様達がライフスタジオを探す理由はなんですか」という質問が出てきます。

私はやはり差別化だと応えました。10年間ライフスタジオで撮影したお客様達は10万名を超えます。私たちが特別に何か問題が無く強力な競争力が無い状況で蓄積されたお客様達の再訪問は自然な事です。これは歴史の力のです。その為に歴史の再選さん構造を強化する為のライフギフトをやっています。差別化は遊びの空間である概念に価値の戦略的移動を通じて新しいお客様を創出しました。
記念写真と暗い室内の背景紙中心の撮影だけをしてきた日本の写真市場で新しさと希少性という養分で差別化に一定部分成功しました。しかし10年が経過して利府スタジオと同じような形態のスタジオが多くなり、差別化がだんだん消えています。人がその人たちが集まった店舗が最高の競争力であり差別化させることの出来る最適の場所がHPです。
HPで内容が生産されてその結果物は自然にオンライン世界に広がって生きます。ライフスタジオを一つのかたまりでこのようなHP改革処置をとる事が出来ない為に分離することが最善の方法です。分離を通じてライフスタジオ内部の競争も誘発して鮮明に私達が行くべき方向に対して提示しなければなりません。
 
  1. 写真
 
個人的に写真が良くなる為には写真分析と自らの新しい条件を作らなければならないと強調しました。自律した経営店舗は日常的にやるべき事をやる構造をつくって現場で実践することです。写真分析は上のHPで話をしたようにフォトジェニックやフォトエッセイの様に1ヶ月に一個以上作成すれば十分だと考えます。しかし自ら新しい条件を作ることはあったことも無く自律した経営店舗の基盤が作られるまでは適切でない方法です。ではどのようにしていきますか?

写真には蓄積の原理が作動しています。毎日同じ写真だけを機械的に撮影すれば蓄積されることが別にないでしょう。特別な基準無く撮影してみて偶然に探してくる感じや技術的な獲得に依存します。しなければならないことをすることではなく偶然に好きな写真を探して変化発展の原理が作用することはないでしょう。
写真は改良することは出来ないが一定の段階があるようです。写真館に入社をすれば約1年間は撮影現場の状況に適応して臨機応変と言うことを学びます。撮影のパターンと写真を見れば各場所で撮影する写真を頭の中に入力をします。カメラマンになれば既存の写真を真似ながら同じように撮影しようと努力します(1段階)
約6ヶ月撮影をすれば要領が生まれ自信だけのアングルとレンズ、フレーミングに対する感覚がつかめるようになってきます。この時から1年間自身だけのレパートリーが作られます。(2段階)撮影を始めて2年程度が過ぎるとマンネリ化に陥る。同じ場所で同じ写真を作って写真館で起こる場合の数を大部分経験しているとつまらなくなってきながら写真が退行を始めます(3段階)普通3段階を経ると決定をします。
 
店長等の管理職を移動したり辞めたり出なければ継続して同じ写真をつくっていきます。大部分ここまでは特別な努力をしなくても写真館という空間に居れば来る段階です。しかし写真をやっていきたいといいます。ここでもやりたい事をやるためにはしなければならない事をやらずにやりたい事ばかり話をするために変化発展がありません。

4段階は写真を作る作業においてインテリアと状況演出があります。5段階は成人写真があり、6段階はその他の写真世界を経験しながら写真を見つめる視角に変化を与えるものであり7段階は自身の写真構築です。ライフスタジオの多くのカメラマンが3段階で止まっています。写真のより高い段階に行くためには新しい条件を探して今までとは違う場所に行く必要があり、写真に対する学習もしなければならず自信の考えを文章で整理をしなければなりません。これはやるべき事です。やらなくてはいけない事をやらないので3段階に止まって4段階に越えていくことが出来なくなっています。

重要な事は撮影をする過程で特別な基準です。カメラを通じて被写体の美しさを探してさまよう方法を中断して特別な基準を持ってその基準に合う写真を作っていく方式に転換するべきです。別途時間を捻出する必要は無く1日に何時間もの間やっている撮影を活用すればいいのです。その基準はパクウギュが昨年に1次的に完成した写真大辞典で提示しています。簡単に整理をするとこのようになります。自身の写真の主題、フォトフォリオブック、写真分析と言う3つの準備物を持って毎月1つの主題ずつ課題を遂行します。

毎日する撮影過程で自身の写真の主題とその月の課題を頭の中に入れて撮影にのぞみます。写真の主題とその月の課題を満たしたり自身が良いと思う写真をフォトフォリオブックに入れてその写真を持って写真分析をします。店舗に対する基準をもって撮影をして自身の撮影の結果物を自ら代入してみる事がたいした方法ではないように見えても持続的にやれば蓄積の力が作動して量的成長を通じて1段階あがる質的変化をなすことが出来ます。
カメラマンが必ず写真分析をして写真に対する主題を選定しなければならないとは考えません。写真は必須ではなく選択の問題です。しかし写真をやらないと別の主題が無ければなりません。写真につかうエネルギーを違うところに集中させたい部分があれば協議して決めれば良い問題です。
 
  1. 人間関係
 
ライフスタジオには、人間関係に関する具体的な事業や政策はありませんでした。最善の条件を作るところまではできるものの、人間関係は、当事者の問題であるからです。しかし、自律した経営の店舗では、人間関係に関する具体的な方法を模索せざるを経ない状況です。現場で人間関係に関する問題が頻繁に起きもしますが、それ以上に問題なのは、特別な人間関係が見えにくいということです。現場を優先とする自律した経営店舗で、人間関係は必ず越えなければならない峠なのです。
 
人間関係は、計量化して測ることが難しいのです。一緒に働いている人とどれだけ親しいのか、または、どれだけ嫌いなのか、具体的な数値で把握するのは容易ではありません。外に表れて大騒ぎにならない限り、イシューになりません。また、店舗内を色々な面で調整する役割を担う人がいない状態で、問題の解決ではなく、傍観し、放置する事態を維持します。特別に事を起こさなければ、人間関係の問題が少なく発生し、発生したとしても大きな事になりません。しかし、何かをしようとすると、人間関係の爆弾が爆発します。最近あった所沢店の出来事が一つの例です。私たちは、何かをあえてしようとします。目的があり、やらなければならないことがあるため、人間関係が重要であると同時に、問題が発生する可能性が高くなりました。
 
「ワンポイント」で一番強調している事が投げかけて受け取る事です。自分がやっていることについて、一緒に働いている人や理解当事者に、投げかけ受ける過程で事が成されていく原理が作動し、それと同時に、人間関係が新しく展開されます。投げかけ受ける過程がない理由は、選択をし必要に応じて関係を設定しようとする意図から現れます。自分に入ってきた内容を、主観の領域にのみ留めることにより、歪曲されます。歪曲は、他の歪曲を呼びます。投げかけられない理由は、歪曲されたものを受けとることを恐れている心であり、受けとることを躊躇するのは、歪曲された自分を知っているからです。歪曲されるのならば、関係をなくし、歪曲自体が起きないように作ります。または、歪曲された状態を放置しながら放棄の状態に至り、自分自身の意志とは関係なく、外部からの指示や変化を受け入れます。人間関係の問題も、分からないということが原因だと思われます。分からないために、自分の主観で処理します。歪曲の修正や公開された場所での確認を見ようとしません。家の電気が突然消えた場合、その状態のまま過ごす事はしません。ブレーカーの確認をしに行き、知ってそうな人に電話をしてみたり、電力会社に電話します。結局、料金を支払っていなかったことが分かると、すぐに解決しようと努力します。ところが、人間関係はこうはいきません。相手が私にする行為や言葉に歪曲が起き、その歪曲を正当化するために、自分自身の内部で行動に起こします。自分の中に積み重ねてきた万里の長城は、聞きたいことだけを選択して聞くことと判断が壮烈しながら、人間関係は悪化の一途を辿っていきます。
 
問題が発生するだけでなく、真の人間関係が作られない理由も、大きく見てみると、知らないというところから始まります。あの人のことを知らず、自分自身のことも知らないので、突っつくこともできず、食べて見ることもできずに怖れています。ならば、自分の世界で小説を書くなり、鍵をかけ耳が聞こえない生活3年、話せない生活3年、盲目の生活3年を送ってみます。知らないということを知るようにする方法は、目で確認する方法しかないでしょう。そこで思いついた幼稚な方法が一つあるのですが…本当に幼稚です。しょうがないでしょう。私達の人間関係がより幼稚なのに…解決さえできるなら、できないことは何もありません。
 
各店舗で「投げかけ受け取る」のボードを作ります。その中に各構成員の名前が書かれている紙を付けます。構成員が4人いれば4枚必要です。Aは、BCDと投げかけて受けとることついて書きます。同様に、Bは、ACDと投げかけて受けとることについて書きます。内容には、点数が必ず記入されている必要があります。例えば、私が清子と投げかけ受け取ることは、越谷運営、新入社員教育、デザイン関連、本社管轄店舗の人員の話、ワンポイント関連、その他で分かれます。何を投げかけて受け取ったのかを書き、自分の満足度に関する点数を自らあげます。私の投げかけ受けとるボードには、清子との内容と各部分の点数があるだろうし、清子の投げかけ受けとるボードにも同じ内容と点数があります。確認することができるでしょう。何をしており何をしておらず、何が不足していて、お互いに何が違うのかについて...私達は全ての人に投げかけ受け取ることをする必要はありません。だからといって、全ての人と投げかけ受けとらなくてもいいという理由もありません。投げかけ受け取ることも量と質の問題です。量が足らなくても問題であり、質が支えてくれないと持続することも難しくなります。このように、複雑な内容が自分に入ってくることにより、それを正しく見ようとせず歪曲された日常化が起きるのだと思います。確認作業は、何よりも、日常の複雑さを単純化させ、何が核心なのかを認識することが目標です。確認できたら、その時に選択しても遅くはありません。投げかけ受けとるボードは、複雑そうに見えますが、日常的に起きることなので、各単位の最も弱い部分がどこなのかすぐに分かるようになります。うまくできていることはそのままやり、弱い部分を見つけ集中すれば効果を発揮することができます。
 
整理するとこうです。人間関係の核心は、投げかけ受け取るということです。投げかけ受けとることをしなかったり、歪曲されるため、持続可能な人間関係の形成が難しく、多くの場合、問題が発生します。自律した経営店舗では、投げかけ受け取ることを測ることが必要だと思います。誰もが客観的に投げかけ受け取る過程に関する確認ができるならば、かなりの効果があります。各店舗では、投げかけ受け取る状況が見て分かるよう、状況ボードを作り、その中に、各個人がメンバーと何をどのように投げかけ受け取るのかを点数と一緒に記録します。すべてを確認し、その内容の話をするということ自体が、人間関係の安全網の役割を果たすことを期待します。
 
 
  1. マニュアル 1000
 
「マニュアル1000」は、下記の内容と重複するためこの場ではあげません。具体的な内容は「ONE POINTガイドブック」を参考にしてください。
 
  1. 会計
 
会計は簡単でありながら重要です。会計項目は簡単に立ち入ることが出来ないようでもあり意思によって数字を変化させることも出来ます。売り上げと利益、固定費と変動費、人件費と材料費の比重、客単価と利益、撮影件数と余裕、共同経費等が我々の人生と関連しています。会計は「ニュアル100」通じて各項目に対する研究と代案が出なければなりません。
 
会計は私達の暮らしが金額で表示される装置です。自身が所有している資金に対しては自身と会計が分離していません。1万円を通帳に入れたのに千円として記帳があれば「あ、銀行では千円だけ使えということか」と考える人はいません。
しかし会社の会計と自身は分離しています。異常なことですよね。自身の会計は一致しているのに会社の会計は分離しています。売り上げがいくらで利益がいくらであるから私の給料がいくらかと言うことを判断はしません。自身と会社の売り上げは大きく関係が無く決められた仕事をして決められた給料ともらえばいいという認識の中で生活をします。

普通の会社ではそうですが、ライフスタジオではそうではありません。とりあえず私がそうではありません。現在は私が給料を決めています。その人がどのような仕事をしているとどの位知って給料を決めますか。私が持っている情報で各自の給料が決められますが私が持っている情報が正確でしょうか。正確でもなければ効果的でもありません。事実、核心は各自の給料がいくらかということではありません。

30万円と32万円がどの位差がありますか。おそらく30万円をもらっている人が普通の写真館に入社すれば23万円程度をもらうでしょう。しかし大きな不満は無く過ごしたと思います。普通の写真館や日本の会社の基準で大きく悪くないためです。1-2万円が重要ではなく全体の規模が重要です。または会計は給料がいくらに策定されるかよりも自身が人生の主人であるかそうでないかと関係しています。

他の誰かによって決められたものが自身に適用されその適用する内容と関係なく生きていることが問題です。自身の人生は自身の意思で生きていくものとして考えますがそのように適用されて作られた条件の中で私達は生きています。その条件を越えることは簡単ではありません。よってその条件の実態を知って、条件自体を変化させることが人間らしく、自分らしく生きていくことだと考えます。私達が出した税金がどこに使われているか関心が無く国民は局少数の政治家と官僚の立場で作った世の中で疲れながら生きていかなければなりません。

会計は知らなければならず参与しなければなりません。そうしなければ自律が成立しません。その為に各店舗では月初めに会計に対する整理をして共に分析と共に自身の給料を請求します。このような過程が1年持続されれば1年会計がでて利益と分配に関する話をする条件が作られます。自身がやった仕事に対する確認と分析、適当な要求と決定の過程を経なければなりません。

この様なシステムが定着されるならば自身が予算を立てて給料を決めて利益金に対する決定をすることができるでしょう。もちろん1回目のお酒でお腹が膨れることはありません。まず店舗に会計担当人員を決定します。会計担当者は月初めに前月の会計に対する整理をしてその内容を店舗構成員と共有をします。決められた給料が支給可能なのか可能でないのかに対する判断をして給料を請求します
もし赤字であればある決定をしなければなりません。

まずもらって事後に利益を出す方法や給料を少なく支給する請求をすることも出来ます。しかし自身の給料が低くなる事に心配をします。自身の給料を少なく請求するという事は堂々とすることです。その堂々とすることで1年利益に対する、自身の給料上昇に対する要求もすることが出来ます。ここまで期待することは無理だと思いますが方向はそうです。
 
  1. 環境改善
 
1年前か店舗を訪問して面談をしていてその途中上から何かが雪が降ってくるように落ちました。上を向いてみるとエアコンがありました。カバーに埃が積もりに積もって次の水が落ちるために出発を待っているような状態でした。家に帰ってきて「私は本当に仕事ができないなと」考えました。この様な現実を作った張本人が私だからです。その店舗で仕事をする人たちの勤務怠慢で起こったことではありません。ライフスタジオのフレームがそのように設定されているからです。そのフレームは私がつくったものでスタジオに居る全ての埃は私が飲まなければなりません。

環境改善は基本中の基本です。環境改善は大きく最適の状態を作る掃除と整理、維持管理、環境改善作業の3種類があります。環境改善に対するマニュアルを作ろうと決めれば何百ページになります。また細部的に入る必要がある部分が多いですが、簡単に決める問題ではありません。細かく計画をねり簡単に出来るように作る必要がありません。掃除は毎日、一月、1年単位の計画が出なければならず、維持管理はスタジオを構成する全ての物品に関した現状把握と共に管理に対するマニュアルが出なければならず環境改善はインテリアを通じた構造と条件変化を話しています。この部分は各担当者が規定をし、皆が同意するプロセスを経なければなりません。
  • …ここまでが私が考えた6つの主題の規定です。これ以外にも写真館を構成する要素は何倍も多いです。最も重要で必ずしなければならない事を6つに決めてこれから現場で、現実で自ら主題を決めて規定していかなければなりません。スケジュールはこうです。5月決定会議の日に自律した経営店舗関する話をして6つの主題の中から自身が準備する内容を決めます。一月の間整理をした後に7月の決定会議で私達のしなければならないことに対する約束を確定します。もうそんなに大変じゃないですね。なにかさらに追加してやろうと言うことではありません。しなければならない事を実践を通じてやりたい事が出来るように蓄積の力を信じてみようという話しです。
 
整理してみます。
 
出発点に立つために走ってきました。しかし出発点は今日でなければならず、昨日でなければならなかったということを分かりました。私達が立っている現実が即ち出発点でなければなりません。やるべき事を現実で日常的に出来るように作らなければなりません。やるべき事をやればやっただけ設定して実践したならば蓄積の力でそれがやりたい仕事になります。

やるべき事をすればやりたい事が出来るという真理は即ち仕事がなされる原理でありながら人間らしく、自分らしく生きることだと考えました。やるべき事を規定すると言うことは蓄積可能に作ることが中心です。知ることが出来ないから外面と歪みの日常化が進行しています。みなが確認可能なように測定することが出来れば多くの問題が解決しながら同時に蓄積の力が発揮されます。蓄積されるということは余裕があるということであり、余裕があるということは人間らしく生きていることを証明します。

まず、皆の知恵を合わせて現実でやるべき事を規定します。この文ではHP,写真、人間関係、マニュアル1000、会計、環境改善を提案します。5月にある決定会議で規定する主題を決めて各自が役割分担をします。構成員達は一ヶ月間構成と投げて受けるを通じて自身の規定を確定して6月の決定会議で発表をします。討論を通じて意見を交換して再度みなおし7月の決定会議で確定8月1日から自律した経営店舗を始めます。
自律した経営店舗はライフスタジオの未来を照らす試金石にならなければなりません。やるべきこと、やりたいこと、出来ることの調和をなして「健康な拡大」をすることのできる土台が作られることを期待します。
 
 
2. マニュアル1000
 
「マニュアル1000」は、ライフスタジオ最初の規律になるでしょうし、作られていく過程自体が「経済共同体」へと向かって行く初めの1歩です。「マニュアル1000」は、私達を構成する要素に対し、自ら調査、整理、論議、決定し現実に適用することを言います。ONE POINTの構成員たちは各自自身の主題を設定し、論議を引っ張って現場に適用させなければなりません。この過程で「別々に一緒に」の原理が作動し、政治的効能間を高め変化発展の善の循環構造を定着させなくてはなりません。
 
私達を構成する要素は本当に多いです。写真館という小さな会社や店舗で自分たちだけのマニュアルを自分の文章と考えで議論し決定して適用すること…これまで見たこともなく、これからもそうではないでしょうか?それだけ難しいという話です。たとえば給料は日本社会で通用する金額で定められ、インセンティブやボーナスは残っていれば出せますが、無ければあげられません。小さな会社は通常社長の気分によって決まります。現実がこのようである為、無条件たくさんもらうことを誰もが望みます。各個人、私達だけの基準がないということです。自らの事由や努力による決定と執行ではなく私以外の存在によって動くという話です。給料の基準が仕事に対する補償か、結果かによって私達の人生は変わります。農夫は地に物乞いしません。荒地に種をまき、豊かな穀物を要求しません。自分の汗が土地に入っただけの穀物を受け入れるだけです。自ら表すということは、自らの判断と決定に基づいて行動し、結果を受け入れることを意味します。つまり責任と権限の原則が動作する必要があります。「マニュアル1000」は、「自立」に対する根源的な問いであり、労働に対する礼儀です。
 
数年前に越谷店で35万プロジェクトをしたことがありました。適用されたいいくつかの利点が決定され、実行されました。そして終わりでした。35万プロジェクトは、結果が導き出される過程から知ることになる現実と自らの力で現実を変化させる経験が核心でした。しかし、自分たちの願いを列挙して自分たちが悪く言われない程度に決定した後終了しました。何も残ったものはありませんでした。朴泰赫の話していた「必要による」ではなく「必要性を作って」消費をすることになる代表的な事件となりました。「経済共同体」は、主人意識を基盤にします。主人意識は、参与を通じて実現されます。所有の問題で発生する主、客体の二分法的分離は参与を通じて存在に変わります。主人意識を基盤に積極的な参与を通じて経済共同体の真の一員となり、その過程が即ち自ら道を作っていく善の循環構造が即ち「経済共同」です。「自立」と「経済共同体」は、互いにかみ合っています。お互いがお互いに存在の根拠となります。これが「人が人を人として」ではないでしょうか? 「マニュアル1000」は、「自立」と「経済共同体」を連結させるための具体的行動指針であり、現実的な目標です。
 
「マニュアル1000」は、私達が足を踏み出している土台を説明します。これは、変化発展の基準であり根拠です。「ひとつの点から始める」は、0から始まり、最初の単位を作る作業です。最初の単位は人と根拠です。私達の目標に向かう実行主体と設計図です
 
「マニュアル1000」をする決定的な理由は、仕事の成される原理を現実で具体的に実現する事業である為です。設定して計画し、実現して障害物を取り除きながら最終的に結果物を受け入れる過程が仕事が成される原理です。「マニュアル1000」の原則は3つです。「1つ、構造から現実適用までする。2つ、短時間内で反復する。3つ、投げて受ける」。この3つの原則が守られなければ「マニュアル1000」を維持することは難しくなります。この3つの原則自体が、仕事が成される原理です。現実で現実の問題を現実的に解決していこうというのが「マニュアル1000」で仕事が成される原理の直接的な体験です。

「マニュアル1000」は、現実を自ら規定し、1000ページ以上の本として作る事業です。「マニュアル1000」の主題は、私達を構成している全てのものです。人間、会社、歴史、国家、権力、労働、ビジョン、戦略、戦術、組織、お客様、関係、意思決定、動機付与、リーダーシップ、意思疎通、文化、規律、分配、所有構造、写真、デザイン、モニター、商品、価格、HP,オンライン、インテリア、衣装、環境、給料、休暇、インセンティブ、福祉、直営リーダー、教育、新入写真選抜、会計等、数え切れないほど沢山あります。写真だけ見ても写真とは何か。写真の歴史、ライフスタジオの写真規定、成人写真とは何か。ベイビー写真の特徴と実技、753の意味と確信方案、ライフスタジオでの証明と革新方案、写真とインテリアの相関関係、写真と衣装等々沢山あります。この用に多くの主題を自身が選択し研究して結果物を作ります。
 
さあ…どうですか?「ひとつの点からはじめる」をやってみたくなりましたか?それとも逃げたくなりましたか?それとも以前と変わったことがないため興味がなくなりましたか?私も分かりません。「4大原則」で話をしたように、やりたくてやるのではありません。やらなくてはならない事なのでやるのです。やってみればやりたいことになるのでしょう。「マニュアル1000」が以前と違うことは、主題となるものが私達の話であり、その適用も私達自らが受けるという点です。自ら決定して自ら適用を受け、自ら苦痛の中にありながらも自ら楽しむことが出来ます。まあ、苦痛の中でも耐えるか変えてもよく、楽しければもっと良いではないでしょうか。これもあれも違うのであれば再度中断して冬の国になるかもしれないし、どこからか白馬に乗った王子が現れることもあるかもしれません。ONE POINTはある面から見れば「マニュアル1000」が確信です。おそらく外から見ると「マニュアル1000」で始まり「マニュアル1000」に終わるのではないかと予想されます。まず量が多いです。そして組織が運営される手順が「マニュアル1000」で進行されます。また「自ら表した直営リーダー5」も「マニュアル2500」の過程で表される他ありません。
 
「マニュアル1000」を肯定的に考えてみればこうです。自身と他人の主題は30:70が良いバランスです。自身の主題だけに埋没することも健康に良くありません。1年に3つの主題をするとすれば、自身の主題は1ヶ月に1つずつ3ヶ月で終わらせます。1ヶ月で終わらせて2~3ヶ月目は休み、また自身の主題を1ヶ月で終わらせます。残りは、他の人の主題を一緒にやります。打っておちて噛み付いて傷が出来れば赤い薬を塗ってあげて共に食べて飲んで旅行も行って関係を形成します。夜がふけるまで続く自己の存在証明の饗宴達…このようにだけなればゲームオーバー…もう何も言うことはありません。
 
余裕とは、主題を少なくするからと言って生まれるものではありません。もちろん、物理的な条件も必要ですが、余裕とは、人生の態度なのです。お金が多くて選択の幅が広い人が必ず余裕があるということではありません。「マニュアル1000」をみて「あ~忙しくなるんだな」と心配している人が大部分だと思います。運営の妙を活かし、有機的でバランス感覚を忘れない用に努力をしますが、重要な事は各自の心もちと仕事の配分です。自身の能力に合う仕事の適切な配分と、できるくらいやって次を準備する人生の態度を維持しましょう。自身の中で問題が起きたら勇気を持って突破し、出来なければ議論して5段階の予防策も使用してお互いがお互いに希望の根拠になる文化を創りたいです。
 
 
3. 意思決定構造確立
 
目標と人がいれば組織は作られます。目標を達成する為に人が共に方法を講じて実行します。目標は、人々を引っ張っていく求心力として作用し、人々の目標達成のために外側を拡張させる遠心力を発生させます。求心力と遠心力のバランスは組織を強くして具体的な方向性を持つようになります。最初の組織が構成されれば求心力と遠心力の適切なバランスを確保する為の運営体系を設定します。ONE POINTは無から有を作る事業ではありません。既存にある人力とシステムを最小化して価値を作っていき、その価値を土台として最初の単位を構成、ライフスタジオを変化させようとする努力です。既存にある人力と彼らが持っている限界、経験と方向を継承した状態で出発します。したがって新規で作るというよりは慣行のようになされていた事たちに対して再解説と限界を屈服しようとする意思が重要です。
 
ONE POINTの目標は、持続可能な組織のプラットフォームです。組織のプラットフィームは運営体系を言います。意思決定構造、リーダーシップ、動機付与、内部文化、結果物に対する配分等をシステム化しなければなりません。この多くの運営体系の構成要素で、もっとも至急で持続可能な組織のプラットフォームの根幹になるものは意思決定構造です。組織は人間を媒体に情報と製作、実践と評価が水が流れるように循環しなければなりません。個人の努力が組織の動力で確保されず単純な経験に終わるしかなかったことも意思決定構造が定着しなかった為です。
 
意思決定構造に対しては言うことはありません。ライフスタジオで最も多く聞いた言葉が、「不安」。次に「決定権」です。会議の最後にいつも出る話が二つです。「私達に決定権がありますか」「私達に決定権は無いから…」です。「決定権」の話が出る時毎に同じ言葉を繰り返します。
 
「決定することが出来るならばやってください」
 
ライフスタジオでは、決定権は誰にでもあります。しかし決定権はこれを行使することの出来る人の権利です。即ち決定権は誰にでもあり、決定することの出来る人だけがします。オーナーだから決定権を行使することが出来ると考えていますか?本当に現在のオーナーたちが決定権を行使していますか?私達には誰にでも自由があります。しかし、自由を手の中にある携帯のように自由自在に利用していますか?自由が重要であるにも関わらず、行使せず出来ずにいるために憲法にまで釘を刺しました。決定権も同じです。自身が決定をすればその瞬間に、責任と権限の原理が適用するしかありません。多くは、決定後に来る暴風が怖くて「決定権」を留保します。決定権を行使したい本能と決定権を行使することが出来ない現実的な限界の中で不安は増幅されます。事実公式的な会議でだけではない完全に自身のことだけに狭まった内容でも決定権を行使する事が出来ません。自身の問題で決定権を行使することが出来ないため公式的な場でもさらに決定権を行使する事が難しくなります。
人生がそうです。決定をし、その結果自身に返ってくる事たちに対するときめきと緊張があります。ときめきと緊張、平安と苦痛の繰り返しが人生ではないですか。出来なければ出来るようにして出来たことで未来を構成します。やってみて出来なければそのままにしておきます。必要だといって買ったものが家の中の隅に追いやられていたからといって不安になったりはしません。引越しをしたり大掃除をしながら区分してまた使ったりします。なるようになるものも自身であり、ならないことも自身を構成します。決定は、この一連の過程にある段階です。
 
ONE POINTの意思決定構造は簡単です。皆が決定権を持っています。そして、その決定により発生することは私達みんなに適用され、その責任も私達みんなにあります。即ち、各自の決定は組織の決定であり、組織の決定は各自の決定なのです。ONE POINTも私個人の決定です。この決定によって責任と権限の原理が適用されることを願っています。ONE POINTの構成員も同じです。自身が決定して責任と権限の原理が適用し、自ら自身の道を探していかなければなりません。決定権に対する大前提は「皆が決定権を持っている」です。
 
しかし、一人で仕事をするのではなく共に目標を達成する為の組織を作ったので意思決定構造が必要です。事実意思決定構造と自己決定権は別に存在します。何年に一回ある国家議員選挙に参加して自己決定権を行使したからといって、自身の責任と権限が完全に適用されたということは出来ません。政党、候補、時代の精神、国家の未来に対する認識と持続的な政治参与が同伴されれば自己決定権に対する責任と権限が担保されます。意思決定構造があるからといって自己決定権が自動的に発揮されるということではありません。お互いが鋸歯のようにかみ合っていれば効力が生まれます。今までライフスタジオでも民主主義の原則に立脚した意思決定構造がありました。しかし残念ながら意思決定構造はありましたが意思決定はありませんでした。
意思決定をした事が無いという事は意思決定をする内容が無いからです。何年か前に店長会議でフレンドカードを数ヶ月かけて話をしていた事がありました。論議の水準も問題ですが意思を決定する内容が無いためにひとつの事をもって何ヶ月間も引張事になり組織のエネルギーが消沈されました。まず論議して決定した内容が多くなければなりません。

ひとつの主題に対する討論と討議がなされ、投票を通じて決定され、現場に適用する事例が多くなければなりません。このような過程の繰り返すことにより、自己決定権はもちろん、ONE POINTに合う意思決定構造が作られます。したがって、意思決定構造よりも共に集まって論議し、決定して実行する手順の反復が必要です。
 
「皆が決定権を持っている」を前提に、情報と政策、実践と評価が循環する装置で決定会議、運営委員会、本社、店舗があります。
 
ONE POINTの意思決定構造は簡単です。本社が政策を生産し、運営委員会で各店舗の意見を集め、決定会議で最終案件を選定して決定します。当然の話のようですが形式に内容を当てはめることは簡単な事ではないです。ONE POINTは一ヶ月に1回全体会議をします。情報共有と発表、討論等をしますが核心は決定です。それで名前も決定会議に決めたいと思います。案件提案はみなの権利であり義務で、決定に対する責任も私達みんなにあります。日常業務や生活に対する決定もあるでしょうが、多くの内容は「マニュアル1000」が提供します。
自身が構成して適用までを責任を持つ「マニュアル1000」は、各個人が投げて受ける構造です。始まりは個人がやりますが論議を通じた決定を共にします「マニュアル1000」の全ての内容は私達皆の内容である為です。
 
意思決定構造として、決定会議と共に運営委員会があります。見る視点によって決定会議よりも運営委員会の活動がONE POINT成功においての革新的な役割をすることが出来ます。民主主義の運営原理はいくら強調しても過ぎることはありません。平等と自由、意見収集と合意、公開と委任、公正と信頼は人間らしく生きる為の基本原則です。この原則が現実で適用される中心に運営委員会があります。運営委員会は代表性を持っています。各店舗の責任者が集まり、ONE POINTとライフスタジオに対する意見交換と共に政策を生産して決定した権限と共に、各店舗で実践しなければならない義務を同時に持っています。運営委員会を作るために今までの間多くの試みがあり、それに値する程の失敗がありました。

失敗の原因は様々ありましたが、システムが無い状態で各個人の個人技に依存してきたためです。各店舗の責任者が物理的にひとつの場所に集まったからといって仕事がなされる事はありません。ONE POINTと言うシステムの中で運営委員会の活動が規定されなければなりません。責任と権限と言う原則の下、具体的な事業と明確な業務区分が必要です。また以前とは違う2つがあります。1つが、来年初めから始まる運営委員会は、直営リーダー選抜選の性格を持っています。直営リーダーになる過程は別の規則で決めますが、おそらく運営委員会での活動で決定される可能性が高いです。2つ、政策に関する実務を本社が担当します。政策の生産は専門家グループが必要です。以前は政策が無かった為に政策に対する意見交換で終わりました。政策生産と決定、実行が区分されずに全体的に不足した基盤の上で事が運営されました。現在本社が政策を生産して執行する役割までしています。仕事の流れが硬く政策が店舗に安着することの出来ない事が繰り返されてきました。政策の生産は本社が行い、運営委員会は深さのある論議の中で決定をし、各店舗に持っていく形態にならなければなりません。
 
運営委員会は、来年初めに新しい店舗の人員配置がされる過程で作られる予定です。各店舗に店長が選抜され、店長と本社の責任者が運営委員会を構成します。この時の、店長の選抜と各店舗の人員配置が重要です。この部分に関しては、今後の計画書と共に各店舗の論議を経て決定会議で決定されます。
 
 
-. 最後に
 
少し前に、本社実務会議に対する評価をした事がありました。みんな良いのですが、全体的に一歩下がった状態で仕事をしている感じといいました。事は、その話は私自身に言った言葉です。過ぎた日の活動を振返り、一歩引いた状態で仕事をしていた人は私であったということを実感しました。人員が多いという理由で、通訳を通さなければならないという理由で、毎日同じ状況が繰り返されるイライラが段々現実と離れていき、私の手には泥もつかない位置から指揮棒を振っていました。ONE POINTは2つの足で確実に立っていなければなりません。私から立っていなければなりません。「やるべきだ」は「やっている」を保障してくれません。「やっている」は「そのようになった」を保障してくれません。やらなければならないことを成ったことに作る為にONE POINTを始めます。私から、現実にいます。