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読書②「「自分」の壁」養老孟子著を読んで

2015/3/25

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『「自分」の壁』養老孟子著を読んで
 
Mito mikiko
  ―自分なんて探すものではないー
しょっぱなから、本の帯にはこう養老氏の言葉が記されています。流石、養老先生ならではの言葉です。
よく、自分の壁にぶち当たったとか、自分の前に壁を作ってしまうだとか言いますが、この本は、そんな悩みの解決法や、あなたはそのままでいいんだよ等と慰める類の本ではありません。
養老先生の本を読むと、いつもちょっと変わった視点での見方・考え方に刺激と面白さを感じるのですが、よく考えれば本来それが人間としての慣習や所謂世間のルールに縛られない考えとして、私達が持っていなければならない力なのだなと思わせられます。
まず、通常の人間の、考え陥りがちな問いの否定から入ります。
氏は、「自分とは何だろう」と問うのではなく、もともと、世間と自分とに激しくズレを感じて幼少期から今日までを過ごしていたからこそだと思いますが、「自分は、世間と折り合いが悪いけれど、何故なのだろう」と問うのです。
氏は自分を理解しているからこそ、「人と違う所を探そう」ではなく、「人と違うのが当たり前」なのだから、世間との折り合いの悪さの解決として「人と同じところを探そう」と言います。
私達が、今世間で言われている事と逆だと思いますよね。
個性を大切に。自分と人とは如何に違うのか・・・。
ちょっと痛快ですが、氏の意見はこうです。
「個性は、放っておいてもあるものだ」と断言しています。だから、如何に人と違うかではなく、逆に人と同じところを探せと言うのです。
結局、人と上手く行かないだとか、自分は協調性に欠けるとか、周囲になじめない、自分は他の人とは違う・・・などと悩むのは、人は所詮人と違うからという根本があるからこそなのですね。
だからそこに着目して、現象に悩むのではなく、どうせ違うのだから、人と同じところを探せと言うのですね。
私達は個性だ個性だと言われ探したりしてきましたが、探す必要などなく、むしろ個性を探すよりも、人と同じところを探す方が難しいのだと改めて知らされました。
自分の悩みの根本は、探さなくても現れてるということなのだと思います。
本当は自分が自分をよく知っていて、どうしたらいいのか解らない、というよりも、認めないから辛いのだと私は解釈しました。
だから人が岐路に立ったり、悩んだりして進むべき方向についてを迷っている時は、悩んでいる時点で、もう答えが出ているのだと思います。
自分の内なる声に素直に耳を傾けること、何故悩んでいるのかを客観的に見る事が出来た時に、初めて前に進めるのではないでしょうか。
「客観」、という言葉を使いましたが、自分を客観視するのは本当に難しいことだと思います。客観視できるならどれほど楽かと思います。
けれど、氏は本の中で、臨死体験を例に挙げ、人間の持つ主観性と客観性についてを述べています。
臨死体験で、人はよく「幽体離脱」というものを経験します。その中で自分を上から見る「鳥瞰する」という体験をすることがあります。意識があるかないかの微かな状態の中で、起こるこの現象は、氏はこれこそ人間が本来持っている、残っていた客観性に現れなのではないかと推測します。
普段私達は、「意識」をしながら生きています。無意識に動く事も習慣としてありますが、大抵全ての行動・考えは意識に基づいているといいます。その意識が、臨死の状態では、ほぼあるかないかの低い状態である為、もともと持っている、客観が表に出てきて自分を「鳥瞰」するという状態になるのではないかといいます。
なるほど、鳥瞰できるということは、人間は、本来自分を客観する力を持っているのだけれど、それが自己の「意識」の力によって抑えられている・・。
意識は生きていく上でとても大切だけれど、それ故に客観性を抑えてします。
だからそこでまた氏は力説します「意識の中の”無意識“に気付け」と。
う~ん、これこそ、客観を意味する事だと思いながら、無意識にどうやって気付けというのか、難しいなと思いましたが、本の最後の方に答えらしきものを見つけたのでそれはまた最後のまとめで書きたいと思います。
さて、戦後の教育の中で、結果的に命が粗末に扱われたという反省をふまえて、国や人の為の自分ではなく、まず「自分」を大切にしようという事が教育や世間での最重要思想ともなりました。
ですから、学校では「個性」とか「ゆとり」とかそういったもので、如何に自分は人と違うか、自分とは何なのかという教育が行われてきたと思うのですが、反面、実際の授業の場面に於いては戦前と変わらない「正解を出す事」が大切だという現場での教育が通常だったと思います。
だから、一方「個性」といいながら、結局「正解」が重要とされる、矛盾した教育の結果、何か自分という定義についてが歪んできたのかなと考えます。
個性が大切ならば、その答えが重要なのではなく、「如何に考えたか」が重要視されるべきで、私達はその矛盾の中で学校生活を送ってきたのだなと、討論や考えの必要な場面において痛感することが多々あります。
だから、戦後の教育であれだけ個性重視を謳いながら、何故日本人は今に至るまで、自分の言葉で自分だけの自分の意見を公に述べる事が不得手なのか、国の思惑の裏表を見せられたような気がしています。
尤も、今、小学校の息子の学校に於いての教育を見ていると、国立で実験的な授業が行われているせいもあるかと思いますが、「自分たちで計画、実行、反省、そしてまた実践」することが授業の中で多く求められています。特に運動会では、運動会いう名称は用いず“キッズワールド”と称し、種目を考えプログラムを作成し当日の運営までを全部生徒たちが考え実行します。そして、よくありがちな、“校長先生のお話”もありませんし、先生が表立って私達に何かするという事はなく、全て裏方に回り、生徒のお手伝いのみをひたすら行っています。先生が生徒に号令をかけているなんていう姿もありません。
こんな学校の姿を見ている限り、将来を悲観するものではないとも思います。余談が大分長くなってしまいましたが、学校教育の中で、慣習から、何かの「疑問」「問い」が見いだせていくならば、このような姿が通常となっていくのかなとも思います。
本に戻りますが、これほど戦後の教育で「確固とした自分」「個性を発揮する事」が謳われたにも拘わらず、結局日本人の姿が根本的に変わらないのも、日本や日本人が古来から持ち得ている、日本独自の文化や思想の力があるからではないかと氏は言います。
逆に、日本を訪れた外国人の、日本人の発言の自由さに驚かされたというエピソードを挙げています。日本人は、世間に従いながら生活をしているけれど、「頭の中の自由度」は相当なものであるといいます。ネット上でも好き放題の発言が行われ、それは宗教の話でも人種の話でも、政治についても同様であるといいます。確かにそうかもしれません。人間の脳なんて、人種によって容量の差がある訳ではないので、考えの自由が外に出ているか、内にあるか、それだけの違いだとも言っています。
であるならば、私達日本人は、考えがないのではなく、考えを外に出すという教育が行われさえすれば、何かが少しずつは変化していくのではないのだろうかと思います。
私達が、置かれている環境や職場、学校に何か馴染めない、そう考えるのであれば、それこそが「無意識」に囚われない真の自分の現れだと考えられないでしょうか?
個性個性というならば、そこで自分と周りとの違いは何か、同じところは何なのか、とことん考えられるチャンスなのではないかと思います。そこに感情を置くのではなく、客観的に捉え、徹底的に自分を分析する。
氏は、「世間と折り合いがつかないのであれば、とことんケンカでもすればよい。それで世間が勝つか、自分が勝つかは解らないけれど、最後に残ったのが“本当の自分”であるはずだ。」と言っています。
「本当の自分」は戦った後にも必ず残るはずで、逆にそのような過程をみることで本当の自分が見えてくるのだと思います。
だから、自分について何か感じ、思い、悩むことがあるならそれについてを徹底的に考える過程こそが大切なのではないでしょうか。
西洋的近代自我と日本の伝統的な考え方は相容れない事をよく知っているのが夏目漱石で、ロンドンに留学してまで西洋思想について学んできたにもかかわらず、結局晩年行き着いたところが、仏教の考えである「即天去私」(私なんかない)という考えであるそうです。
氏自身も、今の境地は「この年になると、ますます“我”を消す方に向かっている。俺がなんだ。という感じだ。」と述べています。
氏の個性を持ってしての、この発言に却って笑えてしまうのです。
結局、自分をいうものをどれだけ理解しているかに基づいている氏ならではの考えだと思うのですが、並べて言うのも何だと思いますが、漫画家の蛭子能収氏も、「オンリーワンonly oneじゃなく、ワンノブゼムONE OF THEMでいたい!」と言っていました。
この二人に共通する個性と発言を深く考えると面白いものがあると思います。
自分が、自分がという人ほど普通じゃないか。
控えていたい、目立ちたくないという人の個性の大きさ。
根本には何があるのでしょうね。
自分を知る、ということは社会を知る事でもあるということだと思います。自分を知るという事の初めの問いは、最初に書いたように「世間との折り合いの悪さ」であるからです。
社会との繋がりの中に自分があることを知り、そして自分を知っていく事。
それは教育の中で強制された「自分探し」などではなく、自分の内に必ず持っている自分を客観的に見る事のできる力、それによるものであることが重要なのだと思います。
そして、今世界が、日本人の美徳に驚く的報道が各分野に於いて報道されたりしていますが、逆に考えるならば、「驚かれている」という事は、世界基準ではないという事が前提にあるからで、そんな事も考えると、やっぱり違っているのが大前提で、その中に良さがいくらでも見いだせるという事なのでしょう。
生きづらい世の中だという言葉もありますが、氏に言わせれば、昔を考えれば昔であるほど、生きづらかったのではないか?というギモンが出てきます。
世の中にある溢れている情報の中で、それが当たり前だと思ってしまっているメッセージを「メタメッセージ」といいますが、情報がたくさんあるからその中からの自分の取捨選択だと安易に感じてしまうのはそれこそ、メタメッセージの罠であるといいます。
メタメッセージというのは、本当は新聞などで、今どこどこの国で戦争が行われている、と書かれている事実に、書かれていない事なのに、如何にもそれが一番世界で重要なのだと自分の中でメッセージ化されてしまうという現象をいいます。
氏が何故このメタメッセージの危険性を挙げているかというと、結局は受け取ってしまう自分の意識を疑うという事をしましょうということです。日本が軍国主義に陥った時も、そして今の憲法解釈についての事案もそうであると思います。
自分の意識がいつも正しいとは限らないと、時には自分の意識を疑う事も必要で、氏の言う「意識外の事を意識する」という事が、結局自分や世界を客観視する事の重要性を言っているのだと思います。
最後に、氏は「自信は自身で育てるもの」であると言います。
ライフスタジオで様々な教育が行われていますが、難しさゆえに「何を考えさせたいんですか?」「どういう答えを出したらよいのですか?」という質問を聞いたことがあります。
氏は、最も良くない物は、「詳しく説明が書かれすぎが教科書」であるといいます。
何も考えなくても正解が書かれてある。すると何も疑問を持つことなどなく、答えを導き出す苦しみも体験せず、正解を知る事ができます。
すると、正解という答えは単なる知識となるだけで、実体験に基づかない理論だけになります。理論を解か不正解かの判断をするには、実践が無くては出せない事です。
私達も、ライフスタジオの教育の中で、難しさを感じるという過程、苦しんで考えて出した答えを実践する事無くして正解だけを求めても、何の意味もなさないという事なのですね。
最後に氏はこう言います。
『「それをどうやって知る事が出来るのですか?」と問われたら 、
「体験するしかない」としか答えようがない。』と。
本当にその通りだと思います。自分が実践できているかは別として・・。
人間は面倒くさいことから逃げたがる脳を持っている。けれどその面倒なことを抜きにしては、その場は逃げる事ができても、結局その後違う局面に出会っても、根本的な事が同じ原因で相対さなくてはならない時が来るのだと氏は述べています。
逃げ切りはない。逃げてきた人には真実は見えない。
他人とかかわり、面倒を背負い込みながら自分がどこまで出来るのか、ぶつかり迷い、四敗する、その過程をが大切である。
そうやって自分で育ててきた感覚を「自信」という。と言う氏の言葉には重みがあります。
私達は、生きていく中で、効率よく答えを見つけるのではなく、自分で自ら問いを設定し、苦しいけれど価値観や自分を知るという問題の過程、挑戦し続けていく事こそが重要なのだとしみじみ感じました。
 

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