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読書④『この国をダメにした「学校教育」』松永暢史著を読んで

投稿日:2012/6/27

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『この国をダメにした「学校教育」』 松永暢史著 を読んで

 

「学校」や「先生」、そして「教育」。

これらの言葉を聞いて、人は何を思い浮かべるのか?

良い記憶しかなかった、という人は多分多くはあるまい。

今 この3つのワードを聞いて マイナスに感じる事の方が大きいのは何故であろう。

その問いに対して、家庭教師を30年以上やってきて学校教育を常に側面から捉えてきた著者が

この本の中で、明確に答えてくれた。

本の中ほどで 衝撃的な一文が出てくる。

―わが国の教育の本質は、「覚醒させない事」が本質である。

わが国の教育は、わが国の将来の為のものではなくて、現実にそれに関して飯を喰うものの種に過ぎない。

覚醒をあたえないことが国としての教育の目的である。

なぜなら、覚醒した市民は、主体的に活動し、体制を無意味化するからである。

ここにこそ 教育お深淵なる重層的実体があるといえる。

そしてここにおいてこそ、資本主義メディアと教育の折衷点がある・・・・―。と

過激ではあるが 現在の国の在り方、政治家の本質や生き様をみているとあながちこの逆説的な主張が

核心をついていると感じる。

私が 今まで出会ってきた思い出深い先生を思い返してみる。

小学校1年、初めての学校。私が無意識下で学校を好きになる下地を作って下さったのはこの時の

担任の先生のお陰である。いつも一人ひとりを気にかけ、大きな愛情でお母さんのように私たちを包んでくれていた。

高校2年3年は同じ先生。英語の先生なのに、前歯が欠けているのでなんだか発音がおかしなことになっていたのだが、

授業はともかく、前出の先生と同様、とにかく私達をよくみているのだ。

叱るときには必ず他の誰にも気づかれないように呼び出し、1対1でそっと諭すように話をしていたという。

いたという、というのは、ちょっと道をはずしそうになっていた男子が、卒業後ずっと経ってから話してくれた為。

物理の先生はちょっと変人っぽかった。いつもテツ&トモまんまのジャージを着ていて、温水洋一のような風貌。

独身なのに、お洒落や趣味はなく、すべての情熱は私達に物理の楽しさを教える事のみに注がれていた。

「わかりません」と、生徒が手を挙げると、懇切丁寧に教えてくれる。「それでもわかりません」と言うと

泣きそうな顔になりこれまたさらに一生懸命に教えてくれる。物理は楽しいからみんなにわかってほしい。

この先生の授業ほど、「わかりません」という者が続出する授業はなかった。

中学の先生はほとんど嫌いだった。唯一好きだったのはひどい点を取ってしまったときに、一言「幹子さんはこんな点とった事

なかったでしょ。」と言ってくれた(笑)ちょっと甘い数学の先生だけだった。

結局私たちが大好きだった先生というのは みんなもその先生の事が大好きで、

その先生たちは、そろって、一人ひとりの事をよく知り理解しようとしてくれ、そして認めていてくれた、

そして 自分の出世などという事は眼中になかった、という共通点を持っている。

決して教え方がうまかったなどという理由はない。

教え方がうまかった先生はいたかもしれないが一人として覚えてもいないし記憶にもない。

私は極端な文系で、学年が進めば進むほど顕著になったが、教科ごとにどんな先生が教えても

その傾向は変わらず、大好きな国語はどんなに先生が厭な奴だろうと進んで勉強したし、

科学はどんなにその先生が好きでも、成績が上がることはなかった。

私事の思い出話で、文が稚拙になってしまった。本の話に戻したい。

結局 先生は、私たちに何をもたらし、教えたのだろう。

学校とは どのような場所であるべきなのであろう。

今の政治家、国政をみてわかるように、教育の成果とは、先に書いた、「人々を覚醒させない」という事

においては大成功を収めたといえよう。

今子供たちが勉強する目的は、未来的リッチネスの消極的保証の為だけになってしまう。

このリッチネスの中には、“人を導いて 世の為に役に立つ”という事は含まれていない。

裕福な状態にあれば その持続をしたいだけであり、そのためには余分なエネルギーは節約する。

大きなエネルギーを巻き起こすことよりも、いかに余分なエネルギーを出さないで済ませるかを追及する。

ここには、ある意味で、無駄を可能な限り省く中で、他者に無関心でいられる能力が要求されるのは、

体制側思惑的に大成功の象徴がある。と筆者は言う。

今まで日本の教育の中では、頭の良いものがクラスのリーダーに任命され、自分より愚かなものを尻目に、

要領よく自己責任を回避する能力を発揮していたが、これは、今の政治にまで繋がっていると思う。

教育とは 自己をつくり、世界をつくる基礎となるものである。

私が強く感じたのは、先生を目指す学生たちには、かならず「リーダーシップ」を教育しなくてはならない、

という事である。

ひいては小学校教育の中でもう「リーダーシップ」を過程に採りこむべきである。

教育において、今システムも行き詰っており 改善せざるを得ない時期に来ているが、

今からでもすぐにできる事は、教育に携わるすべての人間が「リーダーシップを学ぶこと」である。

なぜなら 真のリーダーシップとは、人の上に立ち見下ろすのではなく、誠実に謙虚に、人を愛し、 そして

互いにより良く生きるために自らが土台となり、幸せになろうというあらゆる影響の輪を周りに作り出す事の

できる人であるからである。

学校とは 何をするところであるか、ひとことで言うならば、

「人を育てるところ」

である。

 

 

 

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