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市川店
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ほーーーん‼︎よんでみよぉぉおぉーおー‼︎⑱

投稿日:2019/4/30

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ぼくのオレンジの木

 

5歳という幼い主人公ゼゼーが、家族から暴力を受けながらも、ポルトガル人ことポルトゥーガや声が聞こえるオレンジの木との出会いによって、ゼゼー自身の心が変化していく姿に惹かれる作品であった。

この本の中でやはり多く出てきた内容としては、ゼゼーに対しての暴力が何とも悲惨で読み進めながらも心が痛くなるばかりのものであった。もちろん、ゼゼーにも非があるわけだが、どうも愛のムチとはとらえにくく、暴力として考えても、親が子に対しての行う行為かと読んでいられなくなりそうだった。

 

今回、この本を読む中で愛のムチと暴力の違いを深く考えるようになった。

私自身、暴力を受けたこともなければ、愛のムチだと言って、叩かれたりされたことはないが、私の高校時代を思い出すと、何となく想像ができそうな気がした。

私が通っていた高校はスポーツが強く、どの部活動も県の上位に名が上がるほどであった。

いずれの部活動も今振り返ると、上下関係は厳しく廊下で遠くに先輩や先生の姿が見えようものなら、とにかく大声であいさつが交わされるほどであった。こちらが見ていても、時間や行動を全て監視されているような環境であったように思う。

その中でもやはり、どの顧問の先生も本当に厳しい先生ばかりであった。練習中にミスしたであろう生徒に、ボールをぶつけ部活動が行われる間、顧問の先生が怒鳴っていない時がなかったのを今でも覚えている。

厳しい指導のあまり周りからさまざまな意見が飛び交っていたのも事実であるが、不思議と誰からも、顧問の先生を辞めてほしいなどといった意見はなかったし、厳しい部活動でありながら、辞める生徒は誰一人もいなかった。

そこには、顧問の先生と生徒の間に信頼関係が気づけていたからではないかと思う。

要するに、厳しい指導として、叩いたり、蹴ったりしたときに、どれだけの信頼をお互いが持っているかが重要になってくるのではないだろうか。

体罰として考えるのであれば、他人に手を挙げる行為は、絶対に責任が伴う。受けた方が、暴力と感じ取ったなら、それは暴力であろう。愛のムチと感じ取ったなら、それは愛だと思う。

愛のムチと暴力は捉え方によっては、紙一重かもしれない。

私が高校時代のときにはそういった行為が許されてはいたが、今となっては時代が変わり何もかもが暴力と捉えられる時代である。しかし、今の時代も、信頼関係の度合いにおいては、問題にならないものになるだろう。

関係性で成り立っている体罰であれば、それは暴力として捉えづらいのではないかと私は思う。

 

人が存在するところには関係が伴う。

その関係には、広いもの狭いもの、また浅いものから深いものまで存在する。生きていきながら、一番難しい問題のような気がする。人間関係こそが人生そのもののような気もする。

そこに今回、僕のオレンジの木を読む中で、人との関係において気づかされたことがいくつもあった。

いい意味でも、悪い意味でも、人の関係において、ぶつからずに解決できる問題はない。そこに恐れを感じている私であるが、いい関係を気づいていくにはちゃんと向き合うことが大切だと感じた。

向き合うことすら避けていたら、始まりもしないからだ。

そんな簡単ではない人間関係を私から作って行くことがいい人生につながることを信じたい。

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それは、出会う全ての人が生きている証を確認できる場所になること。
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