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武士道 静岡プロジェクト23

投稿日:2011/12/3

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武士道

著者:新渡戸稲造

Center:蒔田高徳

 この本の著者は少し前まで日本の5千円札の人だった。しかし、何をした人なのか、私はこれっぽちも知らなかった。武士道という言葉から、おそらくこの本は、武士のように生きるべきだとか、武士道とは、とかを深く厳しく説明される男らしさとは何たるかなんてものの指南書なのではないかと、タイトルから勝手な偏見を持っていた。

 本を読んでみて、全然違った。これはある種の哲学書のようでもあった。説明書のようでもあった。日本人だからか、漢字の意味からも理解がしやすかった。

今まで学んだ哲学書にはいきなり、西洋の単語でアガペー、イデア、アプリオリ・・・と単語で理解すること自体が頭の中で???を起こしてしまう事があったのに比べて、

「義」「勇」「仁」「礼」「誠」などなど、漢字で表される武士道の精神的支柱の単語達は、それ一文字に、その意味に芸術性さえ感じる。改めて漢字がというものがとても精神的で深く、芸術性があるものだなと感じた。

もっと偏ったメッセージの本だと勝手に思い込んでいた。全く違ったものだった。新渡戸稲造の広い視野、世界の哲学、思想、また聖書、コーランまであらゆるものを引き合いに出し、書かれたこの本は閉鎖された島国の思想の日本人が書いたものでは全く無い。

とにかく読んで見て、書かれた時代的な背景からも驚くのである。

 

「義」

武士道での中心かつ最も厳格な徳目は「義の精神」とされる。「義」とは、打算や損得のない人間としての正しい道、すなわち正義を指すものであり、「義」から派生した言葉に大義・道義・節義・忠義・仁義・信義・恩義・律義、更には義理・義務・義憤・義侠・義士・義民・義挙などがある。武士はこの「義」を武士道精神の中心に据え、これを踏み外した者は卑怯者として糾弾の対象となった。

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

武士道には孔子や孟子の思想の影響が見える。孔子が『論語』の中で著した、「義を見てせざるは勇なきなり」(人の道として当然行うべき事と知りながら、これを実行しないのは勇気がないというものである)義は勇と並ぶ武士道の双生児だとある。ある高名な武士はそれを決断する力と定義して次のようにのべている。

「勇は儀の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」

「義」とは武士道の光り輝く最高の支柱でサムライの規範の中でもっとも厳しい教えである。サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはない。武士として人として守るべき正義であり「義」がなくては「武士道」は話にならず、サムライは「義」に生きてこそ、なのである。

「勇」

「勇」とはすなわち「義をみてせざるは勇なきなり」と。正しいことをする勇気である。しかしあらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に臨むこと、とは多少異なる。死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とされた。

「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を引退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」

また武士道の「勇」は平静さに裏打ちされた勇気でもある。勇気の精神的側面は落ち着きである。平静さとは、静止の状態における勇気である。果敢な行為が勇気の動的表現であることに対して、これはその静的表現である。まことに勇気のある人は、常に落ち着いていて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。サムライ達は戦場の昂揚の中でも冷静である。破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている。地震にもあわてることなく、嵐に立ち向かって笑う。危険や死を眼前にするとき、なお平静さを保つ。迫りくる危難を前にして詩歌を作ったり、死に直面して詩を吟ずる。それは人の大きさの証拠である。

「仁」

「仁」とは人の上に立つ条件である。封建制度の世の中では武士階級は他の階級の上にあった。だからこそ持っていなくてはならない愛・寛容・他者への同情・憐憫(あわれみ)の情である。「仁」はやさしく、母のような徳である。慈愛であり女性的な性質であるやさしさと諭す力を備えた徳である。か弱い者、劣った者、敗れた者への「仁」が所謂「武士の情け」である。サムライは苦しんでいる人、落胆している人の事をいつも心に留めている。

「仁の不仁に勝つはなお水の火に勝つが如し、今の仁を為す者はなお一杯の水を持って一車薪の火を救うが如し」

武士が詩歌を詠む事が奨励されたのは、より優しい感情を表面に表し、その反対に内面にそれを蓄えるためのものであった。したがってサムライの詩歌には悲哀と優しさが底流に存在している。

「礼」

「礼」とは他人に対する思いやりを表現すること、物事の道理を当然の事として尊重することである。また優雅な作法は力を内に蓄えさせる。あらゆる礼法の目的は精神を陶冶することにある。心静かに座っているときは、凶悪な暴漢とても手出しをするのを控える、というが、そこまで心を練磨することである。正しい作法に基づいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中にいきわたることである。

また礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事をおこなうので、いつも優美な感受性として表れる。「礼」の必要条件とは、泣いてる人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。このような教訓的必要条件はそれが日常生活の細々とした点に及ぶ時、人の注意をあまり引かない些細な行為の中に表れる。

「誠」

誠のサムライは「誠」に高い敬意を払う

真実性と誠意がなくては、礼は道化芝居か見世物のたぐいにおちいる。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである」と言っている。

孔子は「中庸」の中で誠をあがめ、超越的な力をそれに与えて、ほとんど神と同格であるとした。すなわち「誠なる者は物の終始なり。誠ならざれば物なし。」

孔子が熱心に説くところによると、誠は次のとおり。

まず至誠は広々として深厚であり、しかもはるかな未来にわたって限りない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、自ら目的を達成する力を持っている。「言」と「成」の部分からできている「誠」という表意文字をよく考えさせてくれる。素敵な文字だ。

 

武士道の精神世界を謙虚な心で学ぶと、正座をして目をつぶりたくなる。きっと畳の上がいい。平穏の中の熱い心を感じる。私に適用させるのは難しいような思いをしながらも、深く呼吸をし、考え心と体を哲学をするようだ。

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