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大阪1号店
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<コラム> 幸せな会社のために...(4)

投稿日:2018/11/24

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日本の写真文化を変える

簡単に言えば"写真を媒介に人と人が会う文化を作ること"を実現するためにライフスタジオでは様々な試みがありました。

今度作られている大阪店1号店では写真館が"何を"ではなく"どのように"したら私たちを変えることができるのかについて新たな試みをしようとします。 そしてそのような試みの計画を少しずつお見せ致します。

 

 

0-IV. 遊びの特

 

では、遊びと労働の一致のために遊びの特徴について具体的に調べてみよう。

まず、遊びの特徴を知るためにいくつかの資料を調べて見た。しかし、私の足りない識見で調べた結果、色んな遊びの定義が正確に一致するわけではなかった。だから、(私は文化人類学者でもなんでもないけれど)まず色んな主張の中から私たちに必要ないくつかの特徴を整理して見ることにした。そうして整理された遊びの特徴は「楽しさ、真剣さ、参加、自発性」だった。

 

  1. 楽しさ

 

これを知るものはこれを好む者に如かず。

これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

  • 孔子『論語』より

 

 

先日、娘にこう聴いてみた。

「シヨンちゃんは何で遊ぶのが好きなの?」

最初は私の質問をあまり理解出来ないようだった。

何で息をするの、と同じぐらい当たり前だという表情で私を見つめるだけだった。

「シヨンちゃんは何で遊ぶの?」

質問を変えて聴いて見ると、彼女は呆れた表情で答えた。

「楽しいから!」

 

そうだ。遊びは楽しい。他の言葉にすると面白い。今までの人生で、覚えている限り一番すごかった瞬間を思い出してみよう。だいたいは楽しく遊んでいた一瞬の思い出ではないだろうか。自分が一番夢中に遊べた記憶を思い出してみよう。楽しくなかった時があっただろうか。楽しくなかったらそれは遊んだと言えない。つまり私たちが望む楽しい人生と遊びは切っても切り離せない。

 

  1. 真剣さ

 

遊びに夢中になっている人の目を見たことはあるだろうか。よく遊ぶこと、一生懸命に遊ぶことはもの凄いエネルギーと情熱を必要とする。遊ぶ時、私たちはそれをよりうまくやりたくて、知りたくてもの凄く努力する。だから遊びは真面目であり、その上に競争的である。だから手を抜いて遊ぶとか、軽く遊んでいると勘違いしては困る。遊んでいる人は真面目だ。

(遊びを定義している人の中で、遊びと真剣さを反対概念として説明する場合もある。おそらくその場合の真剣さは「権威的で」「深刻な」…つまり「権威的で堅苦しく行動する真剣さ」を指しているようだ。)

遊んでいる人は没頭して各自の遊びを真面目に捉えている。反対は真面目ではなく手を抜いて遊んでいると想像してみよう。クロスワードパズルをしている人が途中から面倒くさくなって後ろの解説を読んで答えを書いたとしよう。それは遊びでも何でもない。ただ、紙と鉛筆を持って時間つぶしをしただけである。真面目に単語一つ一つを合わせようとした時、それは遊びになる。このような真剣さがあるから遊びは単純な快楽的楽しさを越えられる。

 

  1. 参加

 

遊びは心で行う何かではない。

それは遊びではなく幻想である。

遊びは他と何かを没頭する行動である。

遊び一人だけの快楽というより、人と共有できる楽しみである。

  • ジェラミー・リフキン

 

現代の私たちは遊びが徹底的に個人的な者だと思う傾向がある。おそらく遊びというと、お家で寝転がりスマートフォンを見たり、テレビの前でプレーステーションをしたりする光景を思い浮かべてしまうからではないだろうか。しかし、子供達が「遊びに出かける」という時一人で遊ぶためではない。一人で遊ぶなら外に出かける必要がない。子供達が公園に出かける理由は友達と会って遊ぶためである。もちろん一人で遊ぶ場合もある。しかし社会的次元でみると一緒に遊ぶ遊びがもっと意味深い。そして、このような社会的遊びの他の表現が「文化」である。

では、普段私たちはなぜ遊びを個人的なものに限って考えるのだろうか。このような考え方も同じく近代社会になって労働と遊びが分離され、歪曲されたことで作られた結果物である。段々と遊びが各自のお金を払って、その対価として自分だけの空間と時間の中でうける幻想として変化したからである。しかし、本当に遊ぶためには他の人と共にしなければならない。一人で右手と左手を出して「じゃんけん」をやると想像してみよう。考えただけで恐ろしい。

 

  1. 自発性

 

何よりも全ての遊びは自発的行為である。

命令による遊びはもう遊びではない。

  • ヨハン・ホイジンガ

 

 

「ホモ・ルーデンス」という本で遊びを人類学の全面に登場させたホイジンガは、単純な労働ではなく遊びになるためには人間の自由、つまり自発性前提されなければならないと強調する。命令がなされた瞬間、遊びは遊びではなくなるということである。これと関連し韓国の哲学者「Kang Shin-ju」が書いた文を引用してみよう。

 

ある会社の上司が最近登山の楽しみを覚えた。頂点に向かって登る一歩一歩が手段であり同時に目的であることを悟った貴重な経験だった。日常の労働に疲れていた彼はついに遊びの楽しさに目覚めたのである。自分にとって良いもの、幸せを感じるものをより多くの人と分かち合いたいという理由から、彼は登山を通じて自分が感じたことを部下たちにも教えたくなった。結果、彼は一ヶ月に一回、登山に出かけるという社内規定を作ったのである。

果たして、上司の意図通りに部下たちも登山の楽しみを覚えるのだろうか。恐らく不可能であろう。彼らにとって登山は、ただ上司の後ろに付いて一歩一歩「無理矢理に装っている」遊びに過ぎないからだ。

 

誰かが経験した楽しみを共有することが悪いという訳ではない。ただ、自分の自発的な選択によるものではなければそれはすでに遊びではないという事だ。誰かの強制によって遊んだ記憶があるか。あるとしたらそれは楽しいか。それは条件がいい時、一度はやっても良い労働にすぎない。前述した本当の意味の遊びは自分が選択してこそ意味を持つ。自分が選択していなければ単純な快楽以上にはなり得ない。

 

自発性より魅力的で説得力のあるものはない。

  • エーリヒ・フロム

 

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