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☆写真館で働くとは-ライフスタジオのユニークなとりくみ5-③☆

投稿日:2019/8/1

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教育と学習編③

 

「哲学入門」第5章~6章

 

5. 常識

常識とは、社会的経験の集積であり、私たちの行為の多くは常識に従って行われている。

常識は個人的経験の結果ではなく、社会的経験の結果である。

今自分の持っている常識が、他の人の常識と同じとは限らない。例えば、食事をする際日本では、箸はお椀の手前に横にして並べ、お椀を持って食べる。正座をして食べるということが常識としてある。しかし、韓国では、箸をお椀の右横に縦にして並べ、お椀は置いて食べるということが常識となっている。日本で韓国のやり方で食べると行儀が悪いと言われ、韓国で日本のやり方で食べると行儀が悪いといわれる。

常識とは、自分が作り出したというよりも、自分が属している、環境、社会により作り出されてきたものである。そして、その作り出された常識に沿って私たちは生活してきている。

しかし、この常識だけで、生きているわけではない。私たちには、常識とともに、良識というものも持っている。

良識とは、あらゆる人間に共通しており、人類的な常識と考えられているものである。

これは、社会や環境が作り出したというよりも、全ての人間に普遍的に通用するもの。例えば、どんな理由があろうとも、命を奪ったり粗末にしたりすることはいけない。など。

この、常識と良識は、常に、人の中にあるが、常識と良識は時に、対立する。あまりに常識的であることは、良識に反し、あまりに良識的であることは常識に反する。

 

主題①:“私の常識が変化した経験とは?その常識の変化における対立物とは何であったか?”

 

私の中で一つの常識が変化した出来事の一つに「時間」がある。

比較的時間をきちんと守るタイプであり、時間にルーズになったりするのは好きではない。だから、どこかに行くときは、ある程度のタイムスケジュール組んだりしていた。

「時間」において崩れた一つ目の出来事。

以前所沢店に出勤していた頃、出退勤の時間に往復4時間以上かかっていた。私の中でそれは、その時間がもったいなかったが、しょうがないことであった。時間が重要だとはわかっているつもりだったが、時間が一番にはこなかった。そんな中、ある人と出会った。その人は、職場まで10分の距離に住んでいて、それでも遠いということで5分のところに引越しをするということだった。その人にとって、時間は本当に大事なもので、1分をどのように使うのか。その1分1分をとても大事にしている人だった。この人の話を聞いた瞬間、大きな衝撃をうけた。タイムイズマネーということ。何かすごく納得し、私の中で、時間というものの認識が大きく変わる。実際の行動が昔と大きく変わったかと言われると、そうではないが、無意味な時間をできるだけ使わないように努力するようになった。

この時の対立物は、時間は大切だと思う気持ちと、時間に対してあきらめていた気持ちであり、外から入ってきた違う常識により、時間はあきらめてはいけないもの。に変わったことである。

 

もう一つの出来事は、日本では、横断歩道を渡るとき、隣に車が止まって待っているのを見ると小走りになって渡る。信号のない横断歩道ではむしろ、車は止まらずに人が待つ事の方が多い。カナダに遊びに行った時のこと。彼らは、決して走らなかった。車がスピードを出して向こうから走ってきているにも関わらず、横断歩道を渡る時は絶対に走らない。スピードを出していた車も横断歩道ギリギリ手前くらいで減速する。そういう常識がカナダにはあるのだ。急ぐということをしない。いかに、私が時間にとらわれせかせか生きてきたのか思い知った時であった。

常識は、人それぞれ違うが、生きて行く上で、より良い常識の観念を持ってすごしていけたらいいと思う。そのより良い常識を持つために、私たちは違う常識とであい、少しづつ互いの常識を認めあい、変えていくのだと思う。

 

主題②:“「現実社会は閉ざされていると同時に開かれており、開かれていると同時に閉ざされている。」ということの意味を自分の言葉で説明してみましょう”

 

例えば、閉ざされた社会を「家族」とすると、開かれた社会は「社会」といえる。この「社会」の中には、職場であるライフスタジオ、友達関係、学生時代の先輩後輩、日本の政治経済など。「社会」の中にはたくさんの意味が含まれている。

閉ざされた社会を「家族」の中の、一人の娘、3人の姉とするならば、開かれた「社会」においてのライフスタジオで働いている私。とも見ることができる。

現実社会は閉ざされていると同時に開かれており、開かれていると同時に閉ざされている。というのは、家族の中ではライフスタジオの私はあえて、現れることはない。ライフスタジオで働く私は社会的な面から見たら家族も含まれる。社会の中にある会社であるライフスタジオの中に、私の中の閉ざされた社会である「家族」が含まれるのだ。しかし、逆に常に開かれているかというとそうではなく、社会の中に「家族」を含めないこともある。

 

 

6. 科学

常識と科学は切り離すことのできないものである。

 

科学とは、問いを立てて、実践をし、答えを導いていくこと。

常識とは違い、どの社会においても普遍的であるもの。

まず、理論を立て、それを行う。作り出した理論が正しいのか間違っていたのか。成功もし、失敗もしながら新しい常識になっていく。

常識ができる前に、科学の理論実験を通し、その結果が私たちの常識になっていく。

例えば、今でこそ、車は人をのせて動く乗り物だという常識が当たり前のようにある。しかし、この車の常識は、昔の車がなく歩いて長距離移動をしていた時代では常識として存在していなかった。どこかの人により、もっと早く安全に人が移動できる手段はないかと考え、それを実現するためにはどうしたら良いのかの理論立てをし、実験する。その繰り返しがあったからこそ、現在の私たちが考える車という常識があるのだ。

この科学は、人がよりよく生きていくために使われた時、一番の有用な価値を発揮する。

例えば、炭鉱で働く人々がより安全で、働きやすくするために、ノーベルはダイナマイトを作り出した。しかし、その善意とは逆に、ダイナマイトは、戦争で人を殺すための武器として使われ、より多くの人を救うために生み出されたダイナマイトは、逆に多くの人の命を奪ってしまうものとなってしまった。

科学は自然の理念のみを証明するものだ。人がどのようにしたらよくなっていくのか。という考えから離れた瞬間、人を不幸の道に引っ張っていく力を持っている。そのため、科学だけでは、人の心理にたどり着くことはできない。だから哲学が必要になる。

 

主題: 私における、理論と実践の弁証法的統一とは何か?

この主題をみてすぐに感じた事。それは、自分の中に果たして理論と呼べるものがあるのか!ということだった。答えはないのではないか?

自ら理論を作り、それを実践し、出た結果をもとに、より良くしていくように、再度理論立てしていくという繰り返しの過程。もしも、このサイクルが自然と自分の中で成されていたら、きっと今頃私はここでこのような学習はしていなかったろう。

とはいうものの、今はその理論立てて実践をしていく小さな一歩のところにいると信じたい。

 

私の中で常にあるものは良くなりたいと思う自分と、めんどくさくてやりたくないという自分である。良くなるために、自分の中でいろんな理由を作る。目標を立てることもあり、それを実践しようとし、なかなか結果がでないことにやきもきもする。

今の私が持っている理論とは、まずは「やる」ということ。そして「できないことはない」ということである。ただこの言葉だけでは何をどうするのかわからない。

自分がよりよくなるために、そのためには、まずは、自分の中に入れること。そしてそれを整理して、外に出すこと。ずっと思っていてやらなかったことを実践していく。もちろんただやるのではなく、今までやってきたことと同じようにやるのではなく、それよりも少し深く入ること。わからないで流してきたことを、そこで一度止まり、そのわからないことをわかるようにすること。その繰り返しを行っていくことで、結果、より良い自分の姿のイメージに近づいていくはずだ。

もし、この実践を途中でやめたり、適当にやっていたら、結果は、やってもやらなくても変わらなかったというものになるだろう。そうならないために、常に少しの緊張感と少しの楽しみをもつこと。「神は人に越えられない試練を与えなかった」その通り!やればいい。ただ、ちゃんとやればいいのだ。それが私の弁証法的統一であると思っている。

 

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