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ヒーリングキャンプ(2015-4)主題「哲学の教室」
投稿日:2016/11/13
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2014年4月 大宮店ヒーリングキャンプの哲学。
哲学の教室 (小川仁志著)という本を題材に進めた討論内容のまとめ。 作成:金・高津
哲学の教室 (小川仁志著)という本を題材に進めた討論内容のまとめ。 作成:金・高津
ハイデガー Heidegger.「生きることと死ぬことについて」 実存主義哲学者の代表的な存在の1人であるハイデガーは死の哲学者と呼ばれるが、むしろ生の哲学者と言える。死を認識することによって、自分の人生の有限性を見直し残された人生を一生懸命に生きろという実存主義哲学者。 -日本は近年12年連続で年間3万人(1日82名)自殺、韓国は14,000人(1日40名)が自殺。2013年統計。
人間は死を前提として、生がある。例えば「有る」は「無い」を前提として成立するのである。 余命が後何十年だから、残された人生を消極的、受動的に待つのではなく、自分がやりたい事をやりながら積極的に人生を生きる事。限られた時間の意味づけは自分がする。生きる事は自己実現の場であり、希望の実感である。 結局、死は生を意味付つけるものとして積極的な意義をもつ、死を意識する事で有意義に生きていける。
自分の人生は自分が決めるという事だが、社会の皆が自分の生き方のみを主張する社会は秩序が保たない。 「主観的見解」に留まる限界はあり、突っ込みところはあるハイデガーの話しだが「世間に埋もれることなく、自分らしくいきること。有言な人生を無駄にすごすな!」という事は胸に残る。 |
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「悩みについて メルロ=ポンティ」 ①はじめに 現代は「ストレス社会」とも呼ばれ、現代を生きる私たちは日々様々なストレスにさらされ、本書にも出てくるように、うつ病など精神的な病に苦しんでいる人たちも多く存在する。そしてそういった病は何もめずらしいことではない。体の不調が原因で起こる心の病、反対に心の不調が原因で起こる体の病もある。こう考えると、心と身体は切っても切り離せない関係である。 そういった心と身体の関係に焦点をあて、特に「身体」を哲学のテーマとしたのがメルロポンティである。それでは、ポンティのいう「身体」について本書の内容と討論の内容をまとめながら考察していきたい。
②要約 ●体とは何か? 私のものでありながら(体)、私のものではない(身体図式)。そういった「両義性」が体にはある。それは自分自身ではコントロールできないものである。つまりは非人称としての側面が体には存在するのである。自分の体なのに、体の不調に気付かないということがあるのはそのためである。 ●心はどこにあるのか?物質と精神は分離できるか? デカルトは心と身体を分離したといわれている。精神に重きを置き過ぎて、体を無視してしまったのである。また、中世の禁欲主義などにもあるように、体を悪なるものとして捉えることもあった。そこに対抗した考え方が、心と体はつながっているとする考え方。つながっているが同一ではない。胸なのか、脳なのか‥突き詰めて考えていくと厳密に「心」を定義することは難しいことが分かる。
ポンティは、体を世界(他者)と自分とをつなぐ唯一の手段、「媒体」として捉えた。そしてそれを「肉」と呼んだ。世界は全てつながっていて、私も他者もその世界の一部を体(肉)を通して表現しているのだとした。これは物質と精神を分離せず、融合した考え方である。 討論の中においても、精神と肉体は分離できるかどうかという問いに対して、完全には分離できないものであり、お互いにつながっているものであると共通の認識を持つことができた。 ③おわりに 心と体は切っても切れない関係である。ポンティの哲学を学ぶことによって、体に焦点をあてて世界や他者との関係を捉える視点を得ることができた。自分のようでいて自分ではない体というものを、再度見つめ直していくことは、人間の心を含め自分自身というものを考えていくということにつながるのだろう。そしてポンティによれば、それはそのまま他者と世界との関係につながっていく。心を大事にし、体を大事にしていく(バランスのとれた)生き方をしていきたいものである。 |
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「自分と他人について レヴィナス」 ①はじめに 私たちは生まれた瞬間から、自分という存在と共に、「他人」という存在と生きている。私の他に必ず他人が存在する。そんな当たり前のことであるが、他人について論じられるようになったのはデカルト以降、フッサールの現象学においてである。存在論において、宇宙、神、自然を追求し、認識論においてその認識の仕方が問われてきた。デカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったように、世界の中心は「私」であり、「他者」について語られるようになったのは近代以降である。そこで現れてきたのは「倫理学」である。哲学の大きなこの3つの枠組みにおいて、今回学んだレヴィナスにおける「他者論」はこの「倫理学」にあたる。 では、当たり前に存在する「他人」とはいったい何であるのか。討論で話し合われた内容も含めながらまとめてみたいと思う。 ②要約 ●他人の目が気になるとは? なぜ人は他人の目が気になるのか。それは、自分がどのように見られているのか、その人が自分のことをどう思っているのかが気になるからである。他人に良く思われたい、評価されたい、他人よりも優れていたい、そんな思いが他人の目を気にする理由としてあげられた。人は、他人からの評価や比較対象(他人からの評価)で自己を確立する。つまり他人の存在があって初めて自分というものが理解できるのである。 ↓ Q.ではなぜ他人が気になるのか?気になるときと気にならないときではどう違うのか? ・公共空間とプライベート空間によって違う。 ・関係性(家族など親密な関係の人と全く知らない人)によって違う。 ・理想と現実のギャップ 他人から求められる理想の姿と現実の自己とのギャップ。 ●他人とは一体何なのか? アリストテレスは人を「ポリス的動物」と呼び、マルクスは他人を「類的存在」と定義している。このことからも分かるように、人間は共同体の中で生きている。私の他に必ず「他人」が存在するのである。では、その「他人」とは何なのか。それは、私を規定するために私でないものを認識することで、自己認識が確定し、アイデンティティが形成される。つまり、他人とは、私を規定するための客観的基準となり得る! 例)ラカン 鏡像段階(赤ちゃんが鏡を見て自分の存在に気付く) ・他人を取り込む? 気になる他人を自分に同化させようとする(服装を真似たり) ⇒他人とは「もう一人の自分」であるといえる。 ここで、著書にも出てくる「他者論」における哲学史の流れを簡単にまとめておく。 他者論 哲学史の流れ ●デカルト 他者≠私 分離してしまった。「私」が世界の真理の基準である。 そこで、出てきたのがフッサール。哲学の領域で初めて本格的に扱われるようになった。 ●フッサール 「間主観性」として他者を理解。 私の身体に基づく類比によって他者を理解しようとした。他者を自分に移入することによって人は他者を理解できる。他の主観との相互性・共同性を備えた主観が間主観。根本は同じなのである。みんな同じ世界を見ているのであるから、私の主観の拡張にすぎない。 ⇒意識の世界のみの話。 ●メルロ・ポンティ 「間身体性」として他者を理解。 身体⇒「私」と「他者」をつなぐ媒体とした。「肉」の概念。「肉」は私のものでも他者のものでもない。 フッサールもポンティもどちらも名称はどうであれ何らかの非人称的な共通の基盤を設定し、それを共有することで「私」も「他者」も同等のものであると考えている。 ⇒なぜ「私」は「私」であり、「他者」が「他者」なのかが、個別性と人称性の意味が全くなくなってしまう。 そこで、「他者」を違う仕方で考える必要が出てきた。その必要性に応えたのがレヴィナスの「他者論」である。 Q私と他人は根本的には同じなの?別なの?? |
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「幸せについて アラン」 ①はじめに 人は生をこの世に与えられたときから、幸福を求めていく生き物だと思う。生まれること、生きていくことそれ自体が幸せなのかどうかは別として、誰もが生を受けた瞬間から、自ら不幸を求めて生きないように、皆「幸福」を求めて生きている。そんな誰もが求める「幸福」であるが、「幸福とは○○である」といった全ての人に共通するような定義づけをすることはそう簡単なことではない。アランも言っているように、幸福とはどこまでも相対的なものである。(最低条件はあるにしても)きっと誰もが「私なりの幸福論」を求め、生きていくのだろう。 アランの「幸福論」の中にもあるように、「今」を生きること、そこで自ら「行動」し、幸福を作り出していくこと。待っていても、思い描いていても幸福はやってこない。日々の日常の中にこそ幸福は存在する。そんなアランの幸福への考え方について、討論内容を含めながら考察していきたい。 ②要約 ●人はなぜ不幸だと感じるのか? →他人と比較するから。他人と比較し続ける限り、そこに際限はない。でも、人というのは比較しながら生きていくもの。その中で自分が苦しまなくてもすむ基準を想定する。それが基準の相対化である。これはつまり事柄に合わせて都合よく基準を変えるということ。 ●幸福の基準 哲学における幸福の基準は①快楽に求めるもの②禁欲に求めるものの2つある。①はギリシャのエピクロス派や功利主義、②はギリシャのストア派、つまり禁欲主義にあたる。手段や方法は違えど、どちらとも心の平静、心が落ち着いた状態、心地よい状態というものを求めている。 心地よい状態を得るために、快楽を満たすこと以外に、人は欲望を満たすことで得られることもある。例えばスポーツ。ここで考えなければならないのは、快楽にしろ、欲望を満たすにしろ、そこで得られる幸福感は人によって差がある。人は生まれた国、性別、体、全てが偶然に左右された結果である。人間の存在は不可避的に偶然による産物であるから、幸福には相対性が必要なのである。ところが、人間というのは強欲な生き物。この偶然性を受けいれられず、富や名声を得ようとする。 ●真の幸福は平凡な日常にこそある! いくら抵抗しようとしても、私たちは偶然性を受け入れる他ない運命にある。 「幸福を感じるための条件 アランの名言」 『上機嫌など存在しないのだ。気分とは正確に言えばいつも悪いものなのだ。だから幸福とは全て意志と自己克服によるものである』 『うまくいったからうれしいのではなく、うれしいからうまくいったのだ』 Q絶対的な基準とは? 「知る喜び」は絶対的な基準になり得る? ここで、討論で出てきた意見もまとめてみたいと思う。限られた財源ではなく、尽きることのないものが絶対的な基準になり得るのではないか。愛、平和、平等、助け合いなど普遍的な価値があげられた。また、個人的に自分の中で基準になることをあげてもらったので記述しておく。 ・自己実現がなされたとき ・生きていることそれ自体が奇跡であり感謝である ・次にやりたいことがあること ・自分が自分に納得していること ・悩みがないこと ・その先のことを思い描いているとき どの意見も、「確かに」と思う基準でありながら、また人それぞれ幸福における条件も多種多様であることを再認識させられた。これがアランのいう幸福はどこまでも相対的なものであるということなのだと思う。 ●幸福は作り出すもの? アランは、幸福は作り出すものであるとしている。幸福になろうとしなければ幸福にはなれない。自ら動き出すこと! ●幸福は他人に対する義務である。 幸福は周りの人の人生を幸福にする。逆にいえば私の不幸は人も不幸にする。こう考えると、幸福は他人に対する義務であるといえる。 ●幸福の最低条件 個人の幸福を実現するための基礎条件→最低限の経済的豊かさ、平和、平等、助け合い、愛情、希望といった価値が社会に存在していること。(例:デンマーク) 個人が幸せであればそれでいい、というわけではない。(幸せの客観性の問題) 「宮沢賢治の名言」 『世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない』 ③おわりに 「幸福」について語ることは人生の本質について語ることでもあると思う。だからこそ多くの哲学者たちが「幸福」について思考し、多くの文学者たちが「幸福」について作品を書いてきたのだろう。そして今を生きている私たちも、その程度に違いはあるにしても誰もが「幸福」について考え求めながら生きているのだと思う。そして日々悩みながら・・・。 「幸福とは何か」この問いは人生を通して問い続けていく問いなのだろうと思う。 |
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アーレント Arent. 「仕事について」 なぜ働くのか?生きるために?食っていくために?仕事をしないと生きていけないから? 日曜日の夜になると明日からまた始まる仕事の事を思いだして嫌になる社会人はたくさんいるだろう。仕事が嫌な理由は?疲れる、人間関係が面倒、つまらない、長い時間拘束、自分の思い通りにならないとストレスがたまるなどの理由も感がえられる。 人間は生涯多くの時間を仕事して過ごすのであるが、どう仕事(労働)を捉えるかによって私達の人生は大きく変わってくる。 戦後の日本は近代化を目標に勤勉に労働主義を追いかけてきた結果、休暇やプライベートの事を主張する人はやる気がない人と見なされ、休まず長時間の労働で会社に尽くす人が評価の対象になっていた。父親は土日も不在で仕事という崇高な義務を果たしに仕事に出る光景はあんまりにも自然な日本の様子である。 勤勉、誠実で経済成長は成し遂げたが、相対的貧困により共働きで育児が難し為、少子化問題に発展する。そしてワークライフバランスが崩れて、どんどん国全体がうつ状態になっているのだ。仕事においてもっと責任が多くなれば給料も、地位も上がるだろうがそのお金を使う時間すらないほど忙しく会社に尽くさなければならない状況になるのだ。 資本主義では蓄積された資本力で効率を優先と分業化で人々は賃金労働者になり自分の労働から疎外されることになる。 アーレンとが言う労働、仕事、活動。
-良く遊び学ぶ事。どんな仕事でも仕事の中で楽しむ要素、遊びの要素を見つける事。仕事のなかで緊張と余裕、秩序と自由、仕事と遊びを行き来しながら、両方のバランスを取る事。 社会への無関心が全体主義を生む。 -資本主義→賃金労働→分業→貧富格差→労働条件悪化→どんどん時間が無くなる→社会活動が出来ない→全体主義の可能性がある。 仕事一色の毎日から解放されると、余暇、家族との時間、地域社会への貢献など人生が豊かになる。 仕事と人生の一致とは? -元々は一つであった。 -プライベートで好きな事をやりながら得る充実感や感動、意味を仕事でも得られるすること。 -仕事が手段ではなくそれ自体が目的になること。仕事を好きになる事は結局は自分にも良い事→いい仕事、良いサービスをする→業績上がる→会社が良くなる→人生の室が良くなる。 -家族の再生、地域社会の再生が健全な社会の基本になる。その根っこになるの公的な活動である。 |
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サルトル Sartre(1905~1980) 「自由」について ●自由とは何か わがままに何でもし放題ということではない。常に他人に配慮しながら生きることが求められる。では、他者に迷惑をかけなければ、完全に自由を謳歌できるのか?自由に振舞うと他人の迷惑になることがらを予めとりまとめ法律や倫理といった形で明示している。憲法には思想、良心の自由というものがあるが、思いたいことを思えないというケースもある。→何が障害?→不謹慎だという認識、良心の呵責 ●自由の歴史 古代ギリシャでは、「奴隷ではないこと」を意味 ↓ 近代に入ると絶対王政への反発から人間は生まれながらにして権利を持っているとする「自然権思想」が登場。それによって自由の概念が「政治的権力の排除」と定義された。政治以外の領域における個人の権利としての意味を持つように。 ↓ 19世紀前半J・Sミルの「自由論」誕生。他人に迷惑をかけなければ何をしても良いという「他者危害原則」を主張。これが古典的自由主義。しかしこれはブルジョワジーの経済行為の自由を保護するもので、労働者や貧困層にとっては自由の制約でしかなかった。 ↓ 19世紀後半「新自由主義(ニュー・リベラリズム)」の台頭。社会福祉によって古典的自由主義に歯止めをかけようとするものだった。 ↓ 20世紀前半、肥大化する福祉国家が足かせとなり、「小さな政府論」が台頭。国家の干渉を可能な限り排除し、個人の自由を最優先。「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」「自由至上主義」
「実存は本質に先立つ(実存:今ここにいる自分。本質:予め定められた状況」」「人間は自らをつくるところ以外のなにものでもない」人間とは、あらかじめ何者になるか決まっておらず、何者にもなる可能性があるという意味で自由である。今ここに生きている自分が世の中のあり方を決める。人間とは、決断し、物事に理由と意味を与え、世界に責任をもつ主体として運命付けられている存在だ。 ●自由には責任が伴う。 では、自由に対する中身は??自分で自由を決める。他人も同じように自由を決める。 →自由同士の衝突。そのため、どうしても他人への配慮が必要。 なぜ他人に迷惑をかえてはいけないのか?→その人の自由を奪うことになってしまうから。→共同体の中では、相手に配慮しないことには自分の自由も保障されない。 現代社会では、自由が個人主義と手を組み暴走している。(ex.新自由主義的経済活動、家庭での親子関係、学校の教育、会社での能力主義)
(ex. 刑法、学校や職場のルール:一部の行為を禁止するほかは、行為の自由を保障) 秩序が常識化するためには、それを明文かして毎日確認するようにすると良い。秩序の明文化は組織のモチベーションを高める効果もある。 しかし、自分にはどうしようもできないような客観的な事態というものが存在する。結局自由とは与えられた状況の中でしかあり得ないもの。しかしサルトルは、自分の気持ちだけではどうにもならない客観的な事態を仕方の無いものとして受け止めるのではなく、積極的な社会参与(アンガージュマン)によって、客観的事態をも変えることができるという弁証法的な主体のあり方を説いた。 「全体化」という概念。個人的な投企から集団的な投企へ ↓ 「アンガージュマン」による乗り越え ↓ 「自由の実現」 ★どうすれば人は自由になれるのか?自由を得るために必要なものは? ①実存は本質に先立つのか?本質が先立つのであれば、自由に自らを作ることはできないのか?決められた何か、定められた何かが人間にはあるのか?規律の中で自由が保障されるように、人間自身にもなんらかの規律(本質)のようなものがあって、そのうえで自由に自己を実現していくべきなのでは?その本質とは?→自分が世界の一部であるということ。世界の均衡(バランス)を保つために何かをすべき存在であるということ。 実存が本質に先立つうんぬんという話は置いておいたとしても、歴史や現代社会における様々な問題を見るときに、他者への配慮なしに自由を掲げることで世界のバランスは崩れているということが分かる。その事実だけをとってみても、人間は世界とつながっていて、人と人はつながっていて、個人の自由は他者への配慮や一定の規律の中で保障されるものなのだという認識が必要なのでは?自由を主張する前に、その自由が全体の輪の中で保障されるべきものなのかどうかを考えなければならないのでは? ②自由であるためには、何が正しいのかを見極めることができなければならない。善悪の判断ができなければ、個人的な他者への配慮の基準の違いによって、その自由は保障されない場合がある。ex. ストーカー(自分がこんなに愛してるんだから相手も幸せという思い込み)、殺人(殺してあげることが本人のためという思い込み)復讐(やられたらやり返すことが正義だという思い込み) そこの認識がないまま、欲望のままに自由を掲げ自分勝手に行動する人間により、悲惨な歴史は生み出され、今現在もさまざまな社会問題が存在するのでは? 自分にとって何が本当によいことなのか?自分にとって良いことは全体にとっても良いことでなければならないのでは?全体にとって良いことは、自分にとってもきっと良いことだ。そういった社会の仕組みや構造を正しく認識することが大切なのでは? |
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フーコー Foucault 権力が必要な理由は? -権力がないとまとまらない。人間の欲望の対立を調整して共同体を運営して行く為に必要。 -社会のルール、法律を守らせる強制力で社会の秩序を保たれる。 しかし権力は一部の人間の為に悪用されてきた歴史が長い。権力は闘争の中で力を確立し、維持して行く為に、常に自らの権力を巨大化し個人の反乱を阻止する。そして権力に都合の悪いものが隠ぺいする。 権力の歴史のながれ。 国家権力を背後資本主義→国力増強の為に過剰価値追究(無制限な欲求の追究)→労働から疎外される→疎外現象から人間を解放を目指す社会主義→官僚、国家独占機構崩壊→社会主義渡来人間解放?!→社会主義がより巨大国家になる。 しかもその巨大化された権力は良く見えない。誰かを道引きだして、得をしている人を探すと権力が見えてくる。 権力に対抗する為の方法として「マルチュード」がある。 マルチュードは差異を自由かつ対等に表現することのできる、発展的で開かれたネットワークとして多数多様性を特徴としている。この組織は目的だけの為に不特定多数で即時性を持っている。 権力が恐れているのは生きる欲望を基本とした力の終結、結集した勢力である。 現代社会を動かしている見えない権力をそのまま受け止めるのではなく、なぜそのルールが出来たのか?当然とされている権力に対して意識する事。その為には知らなければならない。 |
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「人生について ニーチェ」 ①はじめに 「人生に意味はあるのか?」この問いもとても本質的な大きな問いである。結局はその人次第・・・といった結論にも陥ってしまいそうだが、この問いはそのまま「自分自身がどう生きたいか」という自身の「生き方」にもつながる問いである。そしてニーチェもまた人生における意味を求め、否定を通過した上での「人生の意味の再生」(人間自らが主体的に人生への意味を見出していくこと)を図ったのではないか。それがつまりニーチェ哲学がニヒリズムを克服し、「積極的ニヒリズム」と言われる所以なのだろう。 それでは、本書の内容と討論での内容をまとめながら「人生に意味はあるのか」について考えていきたい。 ②要約 ●何かに頼って生きていっていいのか 人はその対象が人であれ、物や事であれ、何かしら頼り頼られながら生きていくものである。そのこと自体が間違っているとか悪いことなのかどうかというと一概に言えないが、それが「依存」や、自分の人生までも委ねてしまうといった態度は良くないだろうと討論の中でも結論づいた。では、ニーチェの言う「神は死んだ」という有名な言葉は何を意味しているのだろうか。 ニーチェのキリスト教批判 奴隷道徳・・・人間の弱さを肯定し、神という存在に自分の人生も含めて全てを委ねてしまう。 「神は死んだ」という表現はニーチェのキリスト教に頼るのはやめようというキリスト教批判だった。裏を返せば、神に頼らなくても人間は自らの力で強くなれる。ニーチェが本当に言いたかったことはこの点である。 ●人生に意味はあるのか? 人は人生に意味を求めすぎている。従来のキリスト教的な価値観やプラトンのいうイデアのようなギリシャ哲学の絶対的価値観を批判し、それはすべてまやかしであるとした。 ニーチェの世界への捉え方はつまり、世界や人生に意味などないとするニヒリズム(虚無主義)の立場である。ニヒリズム(虚無主義)とは、①すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。②既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度のことをいう。世界や人生に意味などないということを潔く認めるべきであるとした。ここで注意すべき点は、ニーチェのいうニヒリズムとは、何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)を指すのではなく、すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方、つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)のことを指している。 このように、ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、世の中は永遠に永劫回帰(世界は永遠に同じ事が繰返されているだけ)するという思想を打ち出した。この永劫回帰とは世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。 ニーチェはこのように、弁証法を否定することによって近代化そのもの、社会はよりよくなってゆくものだという西洋的な進歩史観そのものを覆そうとしたのである。すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズムから、運命愛にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んでいる。しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。 ●強く生きようとする意志が大事 全ての人間の行動には力への意志が働いている。全ては力への意志の仕業である。すべては自分が何かを望む気持ちによって生み出された虚構にすぎない。だから、何事も人のせいにはできない。すべて意志の力の仕業であるのだから。大いなる野望を持って生き、その結果は自分のものとして受け入れる。そうすることで強く生きていくことができる。(超人) ●自分を信じ、自分をしっかりと持つこと 誰かの説明に頼るのではなく、自分の目で見て判断できるようになること。自分というものをしっかりと持つことで、物事の本質を見極めることができるようになる。自分に負けなければ人に負けることなどない。その瞬間瞬間の生に喜びを抱いて生きるべきである。そうすればこの終わりなき日常も強く生き抜いていくことができるとした。 ●まとめ 終わりなき日常は永劫回帰であり、それを受け容れるより他ないのである。 人生には絶対的な意味などなく、むしろ日々の生に喜びを覚えるべきである。 ③おわりに 今回ニーチェ哲学を学んでいく中で、理解が難しい部分(永遠回帰、力への意思)もあったが、結局は究極的な人間肯定であり、人生をより主体的に自らが作り出していくものであるとしたニーチェの考え方は、現代を生きる私たちにおいてもとてもしっくりくる考え方であると思った。 哲学とはまさに「自分で考える」作業である。何かを妄信したり、自分自身で「考える」ことをやめたときに、人は本当の意味で自身の人生を生きていると言えるのか。ニーチェ哲学を通してそんな問いを突きつけられた気がする。「思考すること」が生きているというこ |
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「哲学」について 小川仁志 (1970~)
哲学とは、真理の探究。 哲学は、善く生きるために役立つ。 真理を即手に入れるのではなく、自分で考えるというプロセスが大事。なぜか?
考えるというプロセスを通して、私たちは益々より善く生きることができるようになる。 行き当たりばったりに悩むだけの毎日 ↓ じっくりと論理的に考える毎日 物事の本質を突き止め、納得するという習慣 ↓ 悩みがなくなる。全て解決するわけではないが、少なくとも納得はいく。 後は迷わず解決に向けて努力するのみ。 ●哲学の知識を学ぶ理由 人生は選択の連続。その選択のヒントになるのが哲学。 そのヒントを得られるようになるためには、思考を重ねることが大切だが、知らなければずっと気づかない方法もある。だから基本的な考え方は知っておいたほうがいい。新しい手は応用して自分が編み出せばいい。 哲学を学ぶ理由は?? 自分の哲学や思考を深めるため。自分に哲学が必要なのはより善く生きるため。 より善く生きるのは幸せになるため。 |
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