PhotogenicShimonoseki

母娘

2015/7/16

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誰よりも自分に似ていて、
 
だから誰よりも分かってほしくて、
 
でも誰よりも許せない部分もあって、
 
それでもやっぱり誰よりもしあわせであってほしい。



 
 
母から娘に対してであっても、娘から母に対してであっても、
そういう想いがどこか、「母と娘」という関係性にはあるような気がします。
 
はじめて母になったその日から、母は母となり、子は子として存在します。
母は、母ではなかったそれまでの人生の長さに、母である人生を積み重ねてゆき、
子は、その積み重ねていく人生と共に成長していきます。
母親という存在の傍で、どれだけ守られ、育まれたか、
直接的な記憶はこどもにとってあまり残っていません。
それどころか、成長するに従って、いつも一緒にいた母と子という関係は、
子という立場からすると、自分は自分として生きていきたいという、
反抗にも似た感情が芽生え始め、次第に距離が遠くなっていくこともあります。
母と娘は鏡のようで、それでも同じではないのだと。
お互いに意地を張って素直になれないことばかりで、
お互いに自立したい気持ちと罪悪感を抱えて
ぎこちない時間を過ごすこともあるかもしれません。
少なからず、わたしはそうでした。
 
時は経ち、距離としても親元を離れ社会人となり、
自分で自分の人生を選択し生きていく中で、
母としての母だけではなく、ひとりの人としての母が見え、
娘は娘としてこれから妻となり母になっていくのだろうという時期が来て、
また改めて母と娘という関係を結び合うのだと、
普段ちいさなこどもたちとママを撮影する時には感じられなかった、
時を経た母娘の関係性をこのふたりの撮影で垣間見たようでした。
 
 
母は母であり、娘は娘であり、鏡のようで、そして人と人である。

 
いつも仕事熱心で責任感が強い、わたしの知っている大内さんも、
お母さんの前では、ただひとりの娘でした。
そして、よく笑い、よく話すユーモア満載のお母さんの存在が、
大内さんという人へ与えた影響が今ここで生きているのだとも実感しました。
今だから話せること、今だから笑えること。
普段、少し恥ずかしくて互いに向き合うこともなかなかすることもない中に、
ちいさなふれあうきっかけを与えること。
それが、この場所では可能となります。
恥ずかしさの中の照れ笑いは、
今までの素直になれなかった時間を含めた、
母娘としての関係があってこそ写し出されるものかもしれません。
 
そして撮影中、大内さんが小さかった頃のたくさんの写真を一緒に見ました。
どれだけ時間が経ったとしてもお母さんは、
大内さんの誕生からはじめて立った日、一緒にどこへ行ったのか、
何をして怒ったのか、たくさんのことを覚えていました。
直接的に覚えていない過去の記憶も、一緒なら間接的に知ることができます。
写真は親子の記憶をつなぎ、たしかにそこにあった事実を現在に伝えます。
生きてきたこと、そして、これからも生きていくこと。
その生命のつながりの先に、いつか大内さんが母になる頃。
与えられた愛を、与えられたように与えていくのだと思います。
 
笑い合うふたりの姿を、いつまでも忘れません。



shimonoseki 
kawano,yoh
 

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