PhotogenicShimonoseki

2017/4/27

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有る程度生きている、という程度を越えていくこと。
 

 
 
惰性で生きているつもりでなくても、時にふと自分自身に対して少し冷静な目を向けてみると、
一体なにに対して今いちばん強く考え生きているのだろうかと思うことがある。
考えていないことはない、けれど、それでもそれは有る程度の意志だけのようにも感じことがある。
 
有る程度のものだけで、ほぼ無意識的にこの世界の中に居座っているようなそんな感覚が、
少しずつこの世界の脅威になっているのではないか、などと感じている最近の状況の中で、
当たり前にただそこに平和という環境があるのではなく、
人間ひとりひとりの理性と意識によってもたらされる状態が平和なのではないかと思うばかりだ。
有る程度生きているということで、満足するのか。
自分の人生がよければそれでいいのか。
それとも、この程度を越えていけるのだろうか。
きっとそこに、平和という未だ曖昧でもある世界への手がかりがあるのかもしれない。
 
性善説だとか性悪説だとか、昔からわたしは理解しきれなかった。
善や悪というどちらかというものではない、
人間そのものの根源がもっとあるのではないかと思いながら色々な考えに触れてきたが、
その本能的なもののひとつに「人間の暴力性」という文献があり興味を持ったことがある。
人間は本能的に暴力的であるのならば、
ただ生きるということは生きる為に戦うという戦争状態であるということの方が自然かもしれない。
だとしたら、人間に与えられた課題は、本能のままに生きるだけではなく、
教育や学習によって後天的に理性的な人としての姿へと成っていきながら、
ひとりひとりが、ただ生きるという生ではなく、なぜ生きるかという問いの中で、
この世界を繋いで行くために智恵や知識を引き継ぐこと、
いかに理性的な関係を築きながら、かつ平和的な世界を持続させられるかという、
人間の本能への克服であり、人間という存在に対する証明なのではないだろうか。
 
 
なんて。
特に一定の思想や宗教を信じている訳でもない身でもありながら、このような話が毎日尽きない。
こんな話に付き合ってくれる、というか、お互いがお互いに考えていることを話し合える人と働いているということはありがたいことでもあり、
しかしながらなんだかんだは実際のところ、ここはここで争いが絶えないものだ。
1対1の関係でも、争いは生じる。
生きる為の戦いというよりは、それぞれに生きてきた中での価値観や行動においての自分自身と相手の差異によって起こる衝突。
それは自分の生き様に対しての否定への対抗となる場合もあり、
「こう思う」「いや、そう思いません」「なんで」「結局どうする」
ざっくり言うとそんなやりとりの中で、どうしても譲れないものや、分かり合えないこともどんどん、どんどん出てくる。
わたし自身、とても感情的な人間だ。
感情に任せての発言や態度で問題を解決できなかったことも多々あった。
「なんですぐに怒るのか」と言われることもありながら「そんな態度なら話にならん」と言い返すしかない繰り返しもあった。
「もういい」と強制終了してしまえばそれだけの話で終わるのだが、
実際にその強制的な納得はずっと尾をひいて納得できないままであり、ある周期が来ればまた争う種となる。
感情が感情として必要な部分はもちろんあるけれど、ただ自分の意見を否定された場合、
感情的な対抗ではなく、違う考えに耳を傾け頷けるようになるには、結局こどもやおとなという線引き関係なく、
絶え間なく日々学びながら理性というものを身につけ、自分自身の幅を広げていくしかないのだと気づく毎日でもある。
ただひとつ分かったのは、何一つ自分を否定されないということほど恐ろしいことはないということ。
否定されることは怖い。
ただし、今の自分が完全であるとも思わない。
自分の意見に全て同意をしてくれる人よりも、意見に対しての意見を言ってくれ、それが時に衝突したとしてもお互い許容しながら、
有る程度を越えていける関係を持つということは、自分が生きるための戦いではなく、共によりよく生きていくための闘争であるようにも感じる。
自分が自分を越えて行くために。
 
 
下関店3年目の写真の主題は「人 Human」だ。
人という存在をもう少し深く観察していきながら、その人自身の真実に近づいていきたいと考えており、まずその先駆けとしてわたしたちの互いの姿を撮影した。
この場所で撮影する写真の条件として美しさの表現や楽しみの空間というものは切り離さず大切にしていきながら、
出会ってきた人の「人」としての存在感をより表現していくために、かわいいだとか、綺麗に見えるとかそういう形容詞だけではない、
究極的な「あなた=わたし 自分という存在」を写し出せたらと思っている。
わたしが見ているあなたは、あなた自身としての「私」であるのか。
真実はどこにあるのか。そんなことを更に1年かけて追求したい。
 
 
よく見える写真でもなく、
よく魅せる写真でもない。
ただ一心に集中して、嘘偽りのない、わたしが見て感じている「手塚瑶」を撮影した。
色々と撮影した中でこの1枚を撮った時に本当に不思議な気持ちになった。
撮れた、としっかり感じた。これがこの人だと確信を持って。
マクロレンズで撮影した近すぎるほどの距離感の中で感じる、不本意そうでもの言いたげな視線。
2年共に過ごしてきた中で、一番あなた自身を感じる姿であり、
もしもあなたが世界からいなくなってもわたしはこの写真1枚があればあなたについて全てを思い出せるほどだと言い切った。

「それくらいの写真だけど、自分ではどう思う?」

そう問いかけると、

「自分でいつも自分を見てる訳じゃないから分からないけど、こんな不服そうな顔をしてるんだと思う」

そう言って笑っていた。
 
この存在感が、わたしを躍起にさせる。
有る程度という程度を、突きつけてくる人。
 
ひとつひとつの存在を響かせていくこと。
かけがえのないものだという意識の中で、
見過ごしてはいけない真実の部分により目を、感性を、向けていきたい。

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