店舗フォトジェニック集Photogenic

儚,

2020/9/13

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Photo&Write by Reiri Kuroki

Coordi by Arisa ito 

 

@Shinyokohama

 

 

 

ライフスタジオがオープンして、14年が経ちます。

私がライフスタジオに入社した2011年頃は、まだハウススタジオというスタイルがあまり多くなく、撮影に来る子どもたちの年齢層も七五三や小学校の入学記念くらいまでが殆どでした。

ご家族からは、大きくなるにつれわざとふざけてみたり恥ずかしさを感じたりするようになっていく子どもたちの様子を見ながら、

「いつまでこうして撮らせてくれるんですかねえ」と、その成長を喜ぶ傍らで、いつか『写真を撮る』ということから離れていってしまうことを寂しく思う、そんな言葉も聞かれます。

『写真館での撮影と言えば記念写真』という、写真の記録性が商業写真の主な需要であった点から見れば、当然のことではあります。しかし、この10年近くの間に『ハーフ成人式』という10歳の節目が一般的な概念として浸透し、世間的にも小学校の卒業記念で袴を着る子が増え、写真や動画を通した自己発信をするような環境がSNSによって拡大していて、そういった変化に伴って『写真を撮る』という機会は格段に増えました。

その流れの中で、商業写真館が撮る写真そのものも変わってきています。客観性を持って、確立した条件で、克明に記録することを意図とした写真から、より主観的だったり、柔軟であったり、表現することを意図とした写真が増えました。

『記録性』は、瞬間を切り取る写真の客観的な性質として失われることのない部分ですが、その記録性に『表現』を意図として伴わせる写真には、撮影者の主観が少なからず反映されます。そして、それが『ひと』の写真である以上、撮影者がその人をどのように見ているか、という観点は、写真を構成する上で最も重要な起点になります。

『ひと』を見るには、表現するには、そこに『関係性』を構築することが必須です。

商業写真館の写真を、記念写真という記録性の性質に振り切って考えるのであれば『お客様とスタッフ』という商業的な関係性のみで成立してきたのかも知れません。しかし、記録性という商業写真館としての基本的な需要を抑えながらも、目の前のその人を表現することを意図する写真を撮ろうとするなら、それだけではどうしても、足りない。

撮影者という存在が干渉する時、被写体である人は決して本来の意味で自然な状態ではありません。撮影者がその人を『お客様』としてだけ見るのであれば表層的な部分しか捉えることはできず、撮影者がその人を『ひと』として見るのであれば、その人らしさを求めて深層的な部分へのアプローチをします。

『撮影者』という干渉者ではなく、『わたし』というひとりの人間として、その人と関わって、その人を見て、その魅力を、美しさを、探して探して探して、表現して、写真にする。

『ひとの写真』は、そういう関係性とプロセスを経て『そのひとの為の写真』になることができると思っています。

 

 

この写真の被写体である彼は、15歳でした。

いわゆる『記念写真』を撮るような年齢を超えていて、多くの15歳の少年がそうであるように彼もまたいわゆる思春期で、決して撮影に対して乗り気であった訳ではありません。2年前に彼の姉を撮影したことがあり、面識はありましたが、それでも会話が弾むような関係性には程遠いところからのスタートでした。

だからこそ、この撮影において、私は撮影前からたくさんの準備をして臨みました。しかし、撮影が始まる時には、敢えて何ひとつとして決めてはいませんでした。

私にとっては、それが彼への誠意でした。撮影に乗り気でない、ということはママさんから聞いていて、そんな被写体に対して、得てして撮影者は一方的になりがちです。しかし、私は彼自身の意思を尊重しながら一緒に撮影空間を作りたいと思っていました。

その日の光、その時そこにいる人たちの温度感、雰囲気、被写体本人がこの空間でどのようにしているか……その瞬間の、その空間の、あらゆる条件が一期一会の組み合わせでそこにあって、写真を構成する要素になります。だから、撮影が始まるまで、「この写真を撮ろう」みたいな具体的な規定路線は作りませんでした。もちろん、撮影者としてリードはしますが、彼という『ひと』を尊重したくて、例えば嫌なことには嫌と言ってもらえるように、それを受け入れられるように、そういう余地を残しておく必要がありました。

コーディネーターのありさちゃんも、良い距離感で一緒に撮影を構成してくれました。『15歳の少年の撮影』に対して、撮影前から少々悩んでいる様子はありましたが、

「笑わせようとし過ぎなくて良いよ、普通にコミュニケーションしたら良いよ」としか私は伝えませんでした。そして実際の撮影の場で、良い意味で開き直ったありさちゃんの『普通のコミュニケーション』は、彼女自身の天真爛漫さと相まって、彼の不意を突きました。

不意を突かれると、人は素の反応をしてしまうものです。ありさちゃんは決して取り繕うことなく、等身大の『伊藤ありさ』として、彼に対してオープンでした。コーディネーターとして何かをやらなければならない、と思い込み過ぎると、時に被写体への過干渉に繋がります。彼女は、彼の存在に対してとても素直で、彼女のその素直さは彼の中にすっと受け入れられていました。

ありさちゃんに不意を突かれて思わず笑ってしまった、彼のその笑顔は、2年前の撮影で見た笑顔そのままでした。最初は居心地の悪そうだった彼が、コミュニケーションを介しながらだんだんと、私たちと同じ空間に馴染んでいきます。嫌なことには「それはちょっと…」と自分の意思を伝えてくれるし、ベッドの下に落ちていたおもちゃを見付けて拾ってくれるような、彼の思いやりや配慮を備えた礼儀正しい性格も表れ始め、カメラを見ると泳いでしまう視線が、やがてしっかりとカメラを隔てた私を見据えてくれるようになりました。

2年の間に彼は少し声が低くなり、身長は私を抜き、ふとした拍子に『青年』の気配が見え隠れします。彼自身もまた、自分の変化や成長に少し戸惑いながら適応しようとしている、そんなぎこちなさが感じられて、それが今の彼をよく表していました。

2年前を知っているからこそ感じる男性的な成長と、変わらない彼の真摯な性格、戸惑いやぎこちなさ。それがないまぜになった15歳の、今の彼の姿には、情感溢れる夏の西陽がよく似合いました。強い逆光は、通り過ぎてからでないとわからない『若さ』という鮮烈な眩しさのようで、そんな光の中で少し窮屈そうに身を丸めている姿が、そういう若さをとうに超えてきた私にとっては、本当に儚い美しさに見えました。

少年から青年への、過渡期。この儚さは、きっと本人にはわからない。だから、『わたし』という主観を通して、写真にします。

『わたし』から見た、15歳の『あなた』の美しさ。それは、『あなた』にとっては自己への客観であり、新しい角度から自分を知るということであって欲しい。私はあなたと出会って、表層的なあなたの姿やカタチの記録だけではなく、『あなた』の人生のほんのわずかな瞬間の、戸惑いや葛藤を含んだ変化や成長の過程の儚さを、その瞬間の表情を、本当に美しいと思ったから、こうして写真として表現しました。

 

 

私たちライフスタジオは、『人生の写真館』です。

『子ども記念写真館』であれば、成長記念の節目をひととおり終えれば、記録性の観点から見て『写真を撮る』という必要性が失われ、やがて足が遠のくでしょう。しかし、『人生の写真館』ともなれば、少し話が変わってきます。

人の人生は長く、人は変わります。変わらない魅力も、備えています。その人を取り巻く環境や関係性、様々な経験、心の動き、その人が生きて過ごしてきた時間、それらの全ては常に動き、変化し、積み重なり、複雑に繋がりながら多層的に、その人の人生を織り成していきます。

その中核に、変わらないその人としての魅力や個性があって、その存在の美しさがあります。

『人生の写真館』は、そういう『ひと』の美しさを見付け、表現し、その人自身がまだ知らない自分との出会いに繋がっていくような、そんな場所だと思います。

 

人の人生に寄り添って、その『ひと』の美しさを表現する、写真館。

それは、『記念写真』という記録性の域を超えて、撮影者の数だけ、被写体の数だけの、自由で多彩な美しさに出会える場所。

 

だから私は、ここで写真を撮ることが、とても好きです。

 

 

 

 

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