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写真人文学: So as not to Familier... ①

2017/6/24

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こんにちは!
最近、更新が少なくすみません。
今回は、写真人文学・第1章「ベンヤミンのアウラ」の内容である、「見慣れたものを見慣れたように見ない」と「アウラの再構成」について、自分の考えを書いてみたいと思います。
 
是非、皆様の見解も教えてくださいね☆
 
 
 











 
 
 


まず最初に考えたいのが、撮影者が人を見ている時に、いったいどういうものを見ているのかということ。
皆さんも考えてみてほしいのですが、初めて会う人を見たときに、この人がどういう人かということを判断するときに最初に何を材料にしますか?
例えば、第一印象だけでだいたいを把握できるとか、パパやママの話を聞いたりとか、あとは前回どういう撮影だったのかという備考に書いてある情報などがありますね。
あくまで私の場合ですが、そういった第一段階での情報を参考にすることもありますが、だいたいは自分から見た視点を一番大切にします。被写体もそうだし、その被写体を取り巻く家族ひとりひとりやその関係や、家族へ向ける表情と私たちに向ける表情の違いとか、何が好きで何が嫌いとか、どういったことで笑うのかとか、最初は観察からはいるかもしれません。
 
写真人文学で、「アウラが消失して得られる新しい価値」は、「外的に固定されていたアウラが消失することで、自分自身の目で判断ができること。」だと私は考えています。
それは、誰かの目で見て決定されているように見える印象を、自分の目で見直すことだと言い換えることができます。
人は皆ちがう人で、皆ちがう人格を持ち、皆ちがう感覚を持ち、皆ちがう人生を生きています。
だから、同じものを見ていても、同じものは感じないかもしれません。
だから、その人を取り巻く他者から見た眼差しは自分のものではないのです。
「アウラを消失させる」には、この自分の眼差しで人を見ることが大切なのです。
誰のものでもない自分の眼差しで、被写体を見て、写真を撮る。
このことが、撮影中にも、モニターでも、自分の子がまるでいつもと違うように見える要素です。お客様にとっては、「見慣れたものを見慣れたように見えない」体験であり、それが「被写体その人」を撮るライフスタジオの魅力であるとも言えます。
 

次に、被写体から離れた話ですが、日常の「当たり前」を見直すことです。
毎日、当たり前のように同じ時間に電車に乗り、同じように出勤し、同じように挨拶をし、同じように準備をし、同じようにお客様を迎えていませんか?
よく考えてみてください。同じ時間に乗る電車ですが、それは昨日と同じ電車ではありませんし、一緒に乗っている人も同じ人ではありません。そして、同じように出勤するスタジオも同僚も、同じように迎えるお客様も、皆同じではありません。
そう考えると、当たり前に行っているのがなぜ当たり前なのか疑問に思えてきませんか?
そう考えると、自分の写真もなぜいつも同じところで撮っているのか理由がいつの間にか根拠が薄くなっていることに気が付きませんか?
そう、よく考えると同じように繰り返される毎日も同じ日なんてなく、昨日と同じように会う人も同じではなく、
自分だって同じではないかもしれないのです。日常は、実は同じものなんてなく、「日常」という言葉の錯覚の中で生きていることに気が付くはずです。
そう、「見慣れたものを見慣れたように見ない」ということは日常を疑うことから始まります。そこから新しい発見あるし、毎日がとてもみずみずしく見えるのです。
そんなこと言ったら、野生の動物のようにいつも敏感に反応し何が起きるかわからない不安の中で生きることになるじゃないかと言いたくなる人がいるかもしれませんね。
「日常」や「安定」や、「ルーティーン」が良くないと言っているわけでありません。
むしろそれは重要なことで、私たちが自ら考え自分の意志で行動し生きていくには、そういった土台が必要です。
だから、忘れがちになっている「当たり前」を見直し、「見慣れたように見ない」ことが大切です。
そうすることによって、自分がなぜこうしているかの理由が分かり、目的に沿った変化をすることができるのです。
写真でいうと、スタジオを様々な角度で撮ってみる。必要な光だけを見てみる。構成要素のひとつに拘ってみる。などがありますが、毎日いつもの自分の写真から何かを変化させてみることから始まると思います。
それは、単純に写真の物質的な要素だけではなく、人と人との関係性もそうです。いつもは見慣れていても気付かなかったものがあるはずです。
私の場合ですが、毎日とは言いませんが変化させることはあります。
・写真では、本当に重要な光を読み、その光を昨日よりも美しく撮ること。前ぼかしを敢えて無くすこと。
・人に関しては、少しの変化を気付くようにすること。できるだけいつもと違うことを話すこと。
まだまだ、私自身投げかけが下手という技術不足がありますが、できるだけこういったことを意識して行動をしています。
写真とは、撮影者の視点に強く依存します。人に関心のない人が人をどんなに美しい光で撮っても魅力を感じない写真になるでしょう。その反対に、自分がその人に関心を持ち、自分の視点でその人の魅力を切り取ることができたら、その写真は自分だけの写真であり自分だけの表現になります。いつも魅力的で新鮮な視点の写真を撮るには、日常的に日常を見慣れないように見ることを自らすることがとっても大切なのです。
 


「イメージはあるけどいつもそのイメージ通りに撮れない。」
写真を構成するにあたって、撮影者であれば必ずこのジレンマがあるはずです。
たくさんの写真を見て、たくさんの参考写真を集めて、たくさん構成要素の分析をして、人より朝早く来てクマのぬいぐるみを被写体に見立てて練習をして、努力をいくら重ねても、経験を重ねても、いつもこのジレンマは付きまといます。
なぜならば、被写体は自分とは違う人だし、そのイメージの人とは違う人だからです。
見かけも同じではないし、考えも性格も違うし、動きだって同じにはならない。
「そんなの当たり前だよ」なんて思われるかもしれません。しかし、写真を実際に撮るときに、被写体を当てはめようとしてうまくいかなくて諦めてしまう経験はあるでしょう。
妥協や諦めをすることが、被写体を美しく撮ることではありません。
かといって準備したそのイメージに当てはめることでもありません。
その被写体専用に写真を構成することです。
自分の意志と、実際の被写体との違いを写真で統一することです。
上手くいかない当たり前に慣れないで、かといって当てはめないで、自分で被写体の美しさを規定したなら、準備したイメージとどう融合するのかを考えたうえで、被写体と話すことです。
「私はあなたをこういう風に見ているから、写真でその美しさを残させてくれませんか?」みたいな。
言葉は何だっていいです。その被写体に伝わるならば、その被写体と繋がるならば。
重要なのは、その被写体へ投げかけ同意を得ることだったりします。
そういった点でも撮影者と被写体との関係性づくりが重要ですね。
上手くいかない例のひとつに、被写体が撮影者にまだ違和感を覚えて緊張している時も挙げられますね。それも自分から繋がり伝えることで解消できることだと思います。
それが被写体が言葉の理解できないbabyだったとしても、自分から投げかけ繋がることが重要だと私は思います。繋がり、撮影者が自然な存在になれば、被写体自身がリラックスをして特徴を出してきてくれると思うのです。
 
 

写真を長く撮っていると、美しさって何だろうと思います。
芸能人みたいに、モデルみたいに、誰もが一目で分かる美しさを持っていればいいですが、私自身がそうでないように、だいたいの人が自分ではない外側の基準の美しさに振り回されています。
だから、メディアの決めた美しさと自分自身を比べて勝手に劣等感を覚えてしまうのでしょうか。
美しさの基準が自分自身にあれば、苦しまなくて済むのだろうな、なんて思います。

なら、そう持てばいいだけの話です。そう考えると、この世のだいたいの人が美しいだと気づきます。私自身の話ですが、私が美しいと思うのは表面的なものもそうですが、なによりも内側から滲み出るものに惹かれます。その人がその人らしくいられること、自信がない人が自信を持てるようになること、何も意識しなくても自然な姿でいられること、それがその人が美しく見えることなんだと思います。
だから、被写体それぞれの私が見た美しさを形にすることを大切にします。それはひとぞれぞれ違うので角度や光の当て方にも気を付けますし、なによりもそれが被写体自身にも写真にしたときに伝わるようにしようとしています。
私があなたを美しいと思うこと。
これが必ず写真に反映されます。だから、撮影者の視点で被写体の美しさを探すことが、被写体のアウラを再構成してシャッターを切っていることになり、それが写真へのアウラを再構成することにもなります。
 


長いので、次へ続く…。

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